Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         フィールズ校の初夏 
  

フィールズ校の初夏 1

 シャーロック・ホームズ君によると、兄のマイクロフト・ホームズ氏には軌道があると言う。しかし最近、その軌道に支線が出来たらしい。本線は自宅と役所,およびディオゲネス・グラブを結ぶ線,そして支線が、我がベーカー街221Bへと敷かれたのである。
 支線の運行は不定期だが、廃線になる気配は一向に無い。弟ホームズは、兄の訪問について話題にもしたくないくらい迷惑がっているが、マイクロフトはベーカー街訪問を楽しみにしているようだった。
 ハドソン夫人やビリー少年によると、どうやらマイクロフトの訪問は私が在宅の時に限るらしい。つまり、マイクロフトは弟の顔を見る口実に、私を利用しているのだろう。
「あら、逆じゃございません?」
 ハドソン夫人はそう言って笑った。ともあれ、私にとってもマイクロフトの訪問は楽しい出来事で、大歓迎である。

 その日も、午後のお茶の時間にマイクロフトはやって来た。いつものとおり、アザラシのような手で私と握手すると、我々の居間を見回した。そして化学実験道具が満載されたテーブルの向こうに弟の姿を発見すると、嬉しそうに私の方に振り返った。
 「あんな所に隠れて。私に会うのが嫌なら、いっその事散歩にでも行けばよいのに、ひにくれたもんでしょう?シャーロック!元気だったか?」
「そんな大きな声を出さなくても、聞こえてますよ。」
 ホームズは不機嫌そうに答えた。わざとマイクロフトとは目を合わさず、フラスコの中身を測っている。今日の実験は、何やら緑色の鉱物や植物を粉末にしたり、液体にしたりと忙しい。マイクロフトの言う通り、ホームズは兄の訪問を迷惑がる割には逃げ出すような事はなかった。自分の居ないところで、私に何を話されるか気が気ではないのだろう。
 マイクロフトはまた私の方を見て、肩をすくめた。
「あれだ。私が大学の寄宿舎に入った頃の話だがね、ワトスン君。休みに実家に帰ると、シャーロックは何を拗ねているのか、わざと忙しそうに振舞って、ろくに挨拶もしない。未だに直っていないようだな。」
私は笑い出した。
「でも、ホームズも寄宿舎に入っていたのでは?」
すると、マイクロフトは勧められた椅子に座り、ニヤリと笑った。
「私がケンブリッジに行ったのは十九の時で、シャーロックは十二歳。まだ実家から学校に通っていたのだよ。ホームズ家の倣いとしては、私のように七歳から寄宿学校に入るはずだが、シャーロックの場合は母親と祖母が大反対してね。パブリック・スクールに通い始めるまでは、家にいさせてやれと言って、きかない。父も祖父も呆れ顔だったが、女達の強情さには匙をなげてしまった。」
「可愛がっていたんですね…。」
 私がわざとゆっくりと言うと、実験台の前のホームズは立ち上がると寝室に引っ込み、資料を探す振りをしはじめた。それを横目で見ながら、マイクロフトも頷いた。
「そりゃもう、可愛がるどころか!あれは溺愛の見本だよ、ワトスン君。母と祖母は言うに及ばず、結局父と祖父もシャーロックを甘やかし、好き放題させておったな。あれはご存知の通りの性格だろう?他の子供にはない才能なんぞちらつかせては、親たちを喜ばせ、悦に入っている。自分が家族に大事にされているのは、その才能のためであって、そこに愛情というものが存在することなど、意に介していなかった。」
「しかし、マイクロフト。あなたもその溺愛の片棒担ぎだったのでは?」
 私が意地悪く言うと、マイクロフトは決まり悪そうに肩をすくめた。
「それに関しては、少々言いたい事もあるが、信じてもらえそうも無いので止そう。」
 マイクロフトはそう言ってとぼけて見せた。

 ハドソン夫人がお茶を持ってくると、マイクロフトは私と一緒にテーブルについたが、ホームズは相変わらず不機嫌そうに実験台に張り付いている。私が紅茶をそっと差し出すと、少しだけ頷いて啜り始めた。
 弟が嫌がるのは分かっているが、マイクロフトはホームズが子供の頃の話を続けた。
「どんなに母や祖母が可愛がっても、さすがに十三になればシャーロックもパブリック・スクールの寄宿舎にやらねばならない。母たちにとっては、正に『泣く泣く』といった感じだった。」
「パブリック・スクールはどこへ行ったのですか?」
私が尋ねると、マイクロフトは心底驚いたようだった。
「なんだ、シャーロック!お前、親友のワトスン君にそんな事も話していないのか?」
「ワトスンが訊かないからですよ。」
仏頂面で言い返す弟の様子に、マイクロフトはほとほと呆れたようだった。
「まったく。家族総動員の甘やかしの結果がこれというわけだよ、ワトスン君。」
「いえ、良いんですよ。私も訊かなかったし…」
 私が苦笑すると、マイクロフトは小さくため息をついて、サンドイッチに手を伸ばした。
 「パブリック・スクールは、ドルスターのフィールズ校だ。」
「名門ですね。」
「しかも古い。ホームズ家の男子は全員、フィールズ校に行く事になっとる。実家にも近いしな。私がフィールズ校からケンブリッジに進んだ翌年に、シャーロックが入った。そうだ ― 」
 マイクロフトは、口の中の物を飲み込むと、紅茶を一杯啜った。そして目を悪戯っぽく輝かせて、身を乗り出した。この小僧ッ子のような表情は、弟シャーロックと良く似ている。
「シャーロックが入学した年に、このフィールズ校でちょっとした出来事があった。今日は、その話をワトスン君にして差し上げよう。」
 私は頷きながら、ホームズの方をちらりと見やった。ホームズは我関せずという表情で、試験紙と見本台帳を見比べている。マイクロフトは椅子に深く腰掛けなおすと、物語りを始めた。

 「私がケンブリッジのクィーンズカレッジに入った翌年、初夏の試験シーズンになると、私には二週間ほど早く休暇が出来た。懇意にしていた教授が、パリの学会に出かけてしまったからだ。私は特に親しい友人が居たわけでもなく、やる事もないので早々に実家に帰った。春の庭仕事を手伝うのも、悪くないだろう。
 しかし、実家に帰るとすぐに、どこから嗅ぎつけたのか私に電報が来た。前の年まで世話になっていた、フィールズ校の恩師ポール・キング先生からだった。キング先生はフィールズ校に長年勤める歴史の先生で、先生仲間からも信任が厚く、優しい性格だったので、学生にも人気があった。
 私も随分と良くしてもらい、キング先生の自宅にもよく遊びに行っていた。今回も、休暇なら自宅に遊びに来いと言う。しかも、電報には相談したい事もあると、添えられていた。
 両親や祖父母も、私のドルスター行きを強く勧めた。要するに、可愛いシャーロックが学校でどう過ごしているのか、見て来いという訳だ。
 私はせいぜい数日程度の滞在と考えて、ドルスターに向かった。駅にはキング先生が自ら迎えに来てくれた。ホームに小柄ながらがっしりとした体つきの先生の姿を見つけると、私は素早く駆け寄った。
 『キング先生、お久しぶりです。このたびはお招き、ありがとうございます。』
すると、キング先生もにこやかに笑いながら握手し、私を馬車に導いた。先生はにこやかではあっても、少々心に引っかかる事があることは、その表情を見れば分かった。それを馬車の中で指摘すると、キング先生は深く頷いた。
『さすがだな、ホームズ君。君の観察眼は相変わらずだよ。実は相談にのってもらいたくて、電報を打ったんだ。最近、学校でちょっとした事件があってね。』
『もしや、弟が何か…?』
私が聞き返すと、先生は慌てて首を振った。
『いやいや、君の弟 ― シャーロックと言ったね。彼は問題ないよ。きわめて優秀で、生活態度にも問題のない生徒だ。まぁ、やや友達作りが下手なようだがね。確かに、同じ寮室で起こっていることだから、全く無関係とは言えないが。とにかくホームズ君、事情を説明するので、きみの意見を聞きたい。』

 私がキング先生の自宅に到着すると、フィールズ校の化学,物理学教官の、コーク先生も来ていた。私が卒業する二年程前に赴任した若い先生で、シャーロックを含む低学年の生活世話係でもあり、学生達の寮に一緒に住んでいる。
 キング家の居間でお茶をいただきながら、まずキング先生が説明を始めた。

 フィールズ校で事件が起きたのは春の事で、もうそれに関しては終わった事になっていた。しかし先週、ある事がきっかけになって、キング先生は事件について詳細に再調査する決心をしたのだ。そのきっかけは、コーク先生が落とし穴に落ちた事である。

 『落とし穴ですか…?』
私が聞き返すと、若いコーク先生は真面目な顔をして頷いて見せた。
『東棟の一階に、理化学関係の資料備品室があるだろう。ある日、備品の整理をしていたら、一つの床板が突然はずれ、ドーン…!』
『あっ…』
私はきっと、間抜けな顔をしていただろう。キング先生はもちろん、その理由が分かっていた。そう、理化学資料備品室の落とし穴というのは、他でもない。この私が14歳の時に仲間と共に仕掛けた力作だったのだ。
 東棟の地形は北側に崖が迫り、地下に物置がある。しかし湿気がひどくて物の保管には向かないので、長い間まったく使われていなかった。外側からの入り口もレンガで塞がれている。私はその「人知れない地下物置」に目をつけ、素晴らしい落とし穴を作った。初めて先生を落としたあの日の喜びは、何時までたっても色あせない。
 もちろん、私を頭目とする悪ガキどもがキング先生に大目玉を食らい、その落とし穴は塞がれてしまった。しかし、寄宿舎に閉じ込められた少年達は、生活に刺激を与えるためなら何でもする。以来、生徒達はせっせと学校内の各所に落とし穴を仕掛け、喜々として先生や職員を落とし、大目玉を食らい、掃除当番を課され、そして穴を塞がれる。その繰り返しだ。
 私は学年を経るに従って、このスリリングな陰謀からは身を引いたが、低学年の生徒が守るべき伝統として、落とし穴作戦はフィールズ校に連綿と受け継がれていたのだ。
今回の話の場合面白いのは、コーク先生が落ちたのが、由緒正しき『落とし穴第一号窟』だった事だ。

『君が作ったあの栄えある第一号窟だが、無論長い間塞がれていたし、生徒達もあの穴を復活させようとした事はなかった。そもそも、多くの学生は場所も知らなかっただろうし、地下室の存在も知らなかったろう。コーク先生でさえ、落ちて初めて、落とし穴の存在を知ったのだから。』
 キング先生は真面目な顔でそう言った。

 とにかく、コーク先生は落ちたのである。どうやら先生を落とそうと意図的に落とし穴を仕掛けたのではなく、穴を塞いでいた板に傷みかずれが生じて、運悪く落ちたようだ。
 赴任して三年目、コーク先生もいつもの落とし穴かと思って、特に驚かなかった。東棟の地下室に尻から落ちて、腰も脚も無事らしい事が分かると、どうやって出ようかとあたりを見回した。そこは北側のジメジメとした地下倉庫であり、存在さえ知られない地下室だ。置いてあるものも、古い看板だの門扉だの、敷石などだった。しかし、コーク先生は意外なものを見つけた。ライル・ヘンダーソンの、幾何学のレポートである。


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