Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 9

「キャブ!ゴズウェル通り145だ!」
グレイト・ラッセル街に出てみると、ホームズがもう馬車をつかまえ、行き先を告げていた。私が席に収まると、
「君、おじいさんは居たかね?」
と、いつものやり方が始まった。
 「そりゃ、生物学的には誰にだって居るだろう。…ああ、居たよ。母方の祖父は私が生れる前に死んだが、父方の祖父とは一緒に住んでいた。死んだのは私が14,5の頃だったかな。」
「そのおじいさんと、君との間に何か秘密はなかったかい?」
「秘密?」
「おじいさんが孫息子だけにそっと教えてくれるような、他愛も無い秘密さ。」
「ああなるほど。そうだね…うん、あった。小さな書斎があって、古ぼけた中世の鉄兜を飾っていたのだが、祖父はその中に、キャンディやチョコレート,ビスケット…たまにブランディやら何やらを隠していたんだ。『お父さんや、お母さんには内緒だぞ。特におばあちゃんにはな。』とか言いながら、よく二人で変な時間にこっそり食べたよ。」
 「ふむ、僕も同じようなものだな。僕の祖父は家の裏の木で、何年もリスの餌付けをしていたんだ。どうして家族に隠していたのかは分からないけど、とにかく僕にだけはその秘密を教えてくれた。もっとも、マイクロフトはああいう男だから、すぐに嗅ぎ付けたがね。」
「ホームズ、君の悪い癖だと思うのだが…」
「物事を順序立てて説明しろと言うのかね?よし、説明しよう。」
 馬車は、私達を乗せてゴズウェル通りへと向かっていた。太陽は僅かに傾き、その光線の威力を弱めつつある。しかし気温はあまり下がらず、夕方の風が爽やかに感じられた。ホームズはその風にむかって少し視線を浮かせたが、やがてステッキの頭に手を置いて説明し始めた。
 「ハロルド・レナム氏は、『ロッソ』の名前の由来を知っていたんだ。これは叙述的な説明なのだよ、ワトスン。思い出してみたまえ、ポール・レナム君の祖父,ハロルド・レナムの職業を。」
「ベッカー・オペラハウス・オーケストラの初代コンサートマスターだ。つまり…」
「そう、オペラハウス創立者エルンスト・ベッカーが、購入したばかりの『ロッソ』を、最初に世話した人物だよ。彼は毎日『ロッソ』を扱っているうちに、購入者も、元の所有者であるイタリア人貴族も、それに世間一般も知らなかった『ロッソ』の名前の由来に気付いたんだ。即ち、サウンド・ポスト脇にある、塗料かニスによるバラの形をしたしみを発見したんだ。」
「さっきから気になっているのだが、サウンド・ポストって何だい?」
「ヴァイオリンの部品さ。ヴァイオリンのほぼ中央で表板と裏板をつなぐように立っている、小さな松材なのだが、外からはまったく見えない。しかし、その楽器の音を決定付ける、重要な部品だ。」
「外からは見えない?バラのしみは、その脇なんだろう?」
「片方のf字孔から光を入れ、もう片方から角度をつけて覗き込めば見える。」
 その瞬間、私は数時間前に見たホームズの姿を鮮やかに思い出し、ドン・ジョヴァンニのアリアのメロディがよみがえった。それを察したホームズが悪戯っぽく微笑んだ。
 「そう、彼には見えたんだよ。ハロルド・レナムは思った。『そうか、黒っぽいこのヴァイオリンが『ロッソ』というのは、このバラのしみがあるからか。面白い事を知ったぞ。よし、自分だけの秘密にしておこう。いや、可愛い孫息子のポールにだけは教えてやるか』とね。」
「なるほど。『おじいさんが孫息子だけに、そっと教えてくれるような他愛も無い秘密』という訳か。」
 「さて、十数年後。ポール・レナム君はホルン奏者として、ベッカー・オペラハウス・オーケストラに入団した。彼はまじめに勤め、金管楽器の主任になるまでになった。即ち、つい最近の事だが…ある日、レナム君は有名な名器『ロッソ』を見せてもらう事にした。」
「音出しの時だね?」
「そうだ。彼はホルン吹きだが、ヴァイオリン奏者だった祖父に音階の弾き方ぐらいは、教わっていたかもしれないね。とにかく、レナム君は『ロッソ』を手に取った。そして、子供の頃に祖父に教わった秘密を、確認してみた…」
「f字孔を覗き込んだんだ。」
「しかし、あるはずのバラのしみがない。つまり、今日きみが見た、そして僕が弾いたあの『ロッソ』は、エルンスト・ベッカーが購入し、ハロルド・レナムが弾いた『ロッソ』とは異なる楽器なんだ。」
「贋物にすりかわったという事かい?」
「そう、まさに贋物だ。レナム君もそれに気付いた。しかし、彼は祖父からしみの話を聞いただけだ。これでは証拠にならない。そこで彼は証拠探しを始めた。そして『クレモナ弦楽器製作工房総覧』にたどり着いた。オリジナルの発行年を書き留めているかい?」
「1748年ミラノだ。」
 「『ロッソ』が作られて100年もしない内に書かれたこの本は、『ロッソ』の名前の由来を記載した殆ど唯一の書籍と思われるし、この本自体が大変な希少本だ。とにかくレナム君はこの本で『ロッソ』が贋物である事が証明できると考え、まず警察官である親友,スタンリー・ホプキンズ君に相談しようとした。しかしホプキンズ君は不在で相談できないまま、火曜日の夜、『ロッソ』に最も頻繁に接している人物と会った。そしてその人物に『クレモナ弦楽器製作工房総覧』の『アマティ,ロッソ』の個所を示し、今オペラハウスが所蔵している『ロッソ』が贋物である事情を訊いたんだ。あの鋲は、このやり取り中に落ちたんだろう。ところが、大当たりだったんだ。その男こそ『ロッソ』すり替えの犯人であり、彼は秘密を知ったレナム君を刺し殺した。」
 「ちょっと待てよ、ホームズ。鋲は分かった。もう一つの遺留品は?あの薄汚れた小さな紙切れのようなものは…」
「剥落した革表紙だよ。」
「剥落した?」
「革は、環境さえ良ければ保存状態良好に保てるが、その逆も然りだ。もし『クレモナ弦楽器製作工房総覧』の保存状態が悪かったとしたらどうだろう。乾燥すると革に亀裂が入り、湿気が加わるとその亀裂が膨張する。乾燥と膨張を繰り返すと、しまいには手で擦っただけで、革の表面が薄く、小さく剥離してしまうんだ。ひどく古い革表紙の本を何気なく触わって、手が汚れた経験があるだろう?あれだよ。それから、ステイトン君の証言を思い出してみたまえ、ワトスン。月曜日にホプキンズ君を訪ねてきたレナム君の持ち物について…」
「そうだ、『包み紙で覆っていましたが、あれは確かに本ですよ。』と言っていた。…包み紙か。」
「その通り。レナム君は、本がこれ以上傷まないように、紙で包んで持ち運んだんだ。もっとも、その努力も無駄に終わったがね。」
「本は、今…」
「きっと、殺されているさ。レナム君と同じようにね。」
 ホームズは憂鬱そうに顔をしかめた。それと同時に馬車が止まった。目的のゴズウェル通りに着いたのである。馬車を降りる前にホームズは手帳に何事か書きつけ、
「メッセンジャーにたのむ。」
と、金と一緒に御者に渡した。快諾の声と共に去って行く馬車を見送りながら、私はホームズに尋ねた。
「今度はなんだい?」
「スコットランド・ヤードさ。」
「フォークナー警部を呼んだのか。」
「証拠もありそうだからね。そういう時期だよ。」
 ホームズは145のドア・ノッカーに手を掛けようとするので、それを引き止めた。
「待った、ホームズ。ホプキンズ君は?彼に捜させている先代のコンサートマスターに渡す手紙には、何と書いてあるんだい?」
「僕はあの時、漠然と『ロッソ』には秘密があると感じていた。具体的には分からなかったけどね。だからハロルド・レナム氏と同じように、先代のコンサートマスターも、何か秘密を知っているのではないかと仮定したんだ。」
「先代のコンサートマスター本人か、その家族がだね?」
「そうだ。もし秘密があるとしたら、それを確認すれば良い訳だ。しかし、僕らはあの本の写本を見る事によって秘密を知ったし、実物の『ロッソ』も確認済みだ。つまり、報告なしでも、犯人を問い詰める事が出来るという訳さ。」
「ホプキンズ君を待たないのかい?」
「彼は居ない方が良いよ。」
 ホームズの表情が少し硬くなった。私は暫しの間その顔を見ながら、確かにホームズの言う通りだと思い、厳かに頷く事で同意を示した。

 ノッカーを鳴らすと、出てきた老婆にホームズが言った。
「チェンバースさんはご在宅ですか?」
「チェンバースさん?ええ、おられますよ、ええ…」
彼女はのそのそと歩いて案内しようとしたが、
「失礼。」
と、ホームズは彼女を追い越して階段を上がり始めた。
「何階です?」
「はあ、2階ですよ。」
 案内する手間が省けたとでも思ったのか、老婆は呑気に答えた。2階の部屋をノックすると、返事を待たずにホームズはドアを開けていた。帰宅したばかりなのか、手袋を脱ぎかけたベッカー・オペラハウス・オーケストラのコンサートマスターが、驚いた表情で私達を迎えた。
「これは…ホームズさんにワトスン先生。いや、どうも驚きましたね。どうなさったのですか?」
「チェンバースさん、どうぞ手袋はそのままに。すぐに出掛ける事になりますから。スコットランド・ヤードにね。」
「…何ですって?」
チェンバースは僅かに頬を紅潮させた。
「きちんとご説明します。失礼しますよ。ワトスン、君も来たまえ。」
ホームズは、ずかずかと部屋に入ると暖炉の前で振り向いて、チェンバースを正面から見据えた。
「あなたは、火曜日の夜8時過ぎ、ポール・レナム君を殺しましたね?」

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サウンド・ポスト →

f 字孔の中に影のように見えているのが、
サウンド・ポスト( Sound Post )。
日本語では魂柱(こんちゅう)。
この写真はチェロのもの。ヴァイオリンも同じ構造

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