Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 10

 「ホームズさん…」
チェンバースは呆れたように、その赤味がかった金髪の頭を振った。
 「ずいぶん唐突ではありませんか?」
 「いいえ、分かっています。あなたは火曜日の午後、王立音楽院学生オーケストラの練習が終わった後、レナム君に夜8時,2階の応接スペースに来るように言われたのです。」
「見てきたようにおっしゃいますな。」
「見なくても分かる事です。あなたは既にその時、ある危機感を持っていた。夜、人気の無い所で、他でもない初代コンサートマスターの孫である、ポール・レナム君に呼び出される…あなたは、ナイフを携帯して約束の時間に約束の場所に向かった。」
 チェンバースの顔は青ざめ、唇を固く結んだままホームズを睨むように見据えた。ホームズは構わずに続けた。
 「そこでレナム君は、『クレモナ弦楽器製作工房総覧』という本を示して、今オペラハウスが所蔵している『ロッソ』が贋物である事を説明し、その理由をあなたに尋ねたのです。他でもないすり替えの犯人であるあなたは、秘密を知ったレナム君を即座に刺し殺しました。そして本と脱いだ靴を手に持つと、通用口からリージェント・パーク方面へ逃走したのです。
 『ロッソ』は間違い無く贋物です。あなたが処分した『クレモナ弦楽器製作工房総覧』は、オリジナルこそ一冊限りの希少本ですが、実は写しが大英図書館に所蔵されていたのです。この写本よると、本物の『ロッソ』には、サウンド・ポスト脇にバラの形をしたしみがあるはずです。しかし、あの『ロッソ』にはそれがありません。僕はさっき、あなた自ら手渡してくれたあのヴァイオリンのf字孔から中をよくよく観察しましたが、サウンド・ポストの脇にバラは咲いていませんでしたよ。」
 チェンバースは、大きく息を吸い込むと、低い声でゆっくりとつぶやいた。
 「もし、『ロッソ』が贋物だとして…『ロッソ』が贋物だから、私を殺人容疑で逮捕すると?」
 「動機だけでは逮捕できませんな。ところで…この暖炉ですが。」
ホームズは横を向くと、マントルピースの上をコツコツと叩いた。
 「ここ一週間ほど、暖かい日が続きましたね。ロンドンのどの家でも居間の暖炉に火を入れたとは思えません。チェンバースさん、あなたは火曜日の夜、殺人現場からこの家に戻ると、秘密を暴露するであろう『クレモナ弦楽器製作工房総覧』と、着ていた衣服をこの暖炉で燃やしましたね?レナム君は頚動脈を切られて死んでいる。あなたの服や靴には返り血がついていたはずだ。燃やさない訳には行きません。そしてその後、今の今までこの暖炉に火は入らなかった。スコットランド・ヤードの警官たちは、きっとウールや革や紙の燃え残りを採取するでしょう。あれで存外しぶとく燃え残ったりするものですよ。特に靴はね。僕の見た所、あなたは燃やし方が甘かったようだ。なぜ服や靴を燃やしたのか、適当な理由が説明できますか?それに、この鉛の鋲は…」
言いながらホームズはしゃがみこむと、暖炉の燃えかすの中から、黒い小さな丸いものを拾い上げた。
「これは、『クレモナ弦楽器製作工房総覧』の革ベルトを留めていた鋲の一つですね。殺人現場に一つ、ここにもう一つ…残り六つの鋲も、そしてベルトの部品も、おそらくこの暖炉の中から発見されるでしょう。」
 ホームズが言い終わらない内に、チェンバースは深い溜息をつくと、手近にあった椅子を引き寄せ、ゆっくりと座った。そして俯くと、右手の指先を額にやった。どうやら、観念したという意思表示らしい。
 「僕が知りたいのはですね。」
ホームズが声の調子を少し落として、続けた。
「有名なアマティの名器『ロッソ』が、いつすり替えられ、本物は今どこにあるのかという事です。」
 「『ロッソ』は…」
 驚くほど静かな、しかも冷静な口調で、チェンバースが話し始めた。
 「本当に素晴らしいヴァイオリンでした。甘く、力強く、朗らかで、そして気品がありました。あの高貴な音を最後に聞いたのは、もう12年も前の事です。」
「レナム君が入団する前ですね?」
 「そうです。当時私は、コンサートマスターに就任したばかりで…そして身を持ち崩してひどく金に困っていました。ええ、ホームズさんのおっしゃる通りです。私は『ロッソ』のすり替えを、密売人から持ち掛けられたのです。」
 「贋物という、いかがわしさの割には悪くないヴァイオリンでしたよ。僕もワトスンに感想を聞かれて、『素晴らしい』と表現しましたから。ただ、ニコロ・アマティの最高傑作に数え上げるには、多少もの足りなさを感じましたがね。」
 「一応アマティなのです。マエストロの作品ではなく、工房で大量に作られたものの一つで、『ロッソ』より80年は若いでしょう。それに手を加え、色もサインも、細部にいたるまで『ロッソ』と同じに作り替えたのです。音の違いは…そう、微妙ですが確かにありました。だから、すり替えの初期段階では、音出しの時に本物と贋物を交互に弾き、毎日少しずつその割合を変えて行きました。」
「ずいぶん手の込んだすり替えですな。」
 「結果…だれも、すり替えには気付きませんでした。『ロッソ』は密かに大陸で売られ、私は金を手に入れました。『ロッソ』がどこへ行ったのか、私には知らされませんでした。」
 ここまで言うと、チェンバースはもう一度大きく溜息をついた。ホームズも無念そうに息をつくと、質問を続けた。
「あなたは火曜日以前に、レナム君が『ロッソ』の秘密を知っているのではないかという、恐れを抱いていましたね?そうでなければ、火曜の夜にナイフを用意するはずがない。それはいつからです?」
「先月、音出しの時に彼が『ロッソ』を見せてくれと言いました。それ自体は日常的な事です。しかし、ひとしきり『ロッソ』を観察したレナム君が、少し不思議そうな顔をした時、私は彼のおじいさんが初代のコンサートマスターである事を思い出したのです。」
やにわに、チェンバースは右手を握り締めると挑むような目を上げ、半ば腰を浮かせた。
「サウンド・ポスト脇のしみなんて、全く知らなかったんです。オーナーも、私も、贋作作家も、密売人も、元の持ち主さえも知らなかったんです。だから贋作に再現しなかった。誰も、誰も…気にも留めなかった…。あの日レナム君に、あのしみに大きな意味があると言われるまで全く…!」
「1748年の資料に書かれている事実まで突きつけられ、あなたは窮した。恐れが現実の物になったその時、レナム君を殺して口を封じると言う行動に出た。」
チェンバースはまた俯き、体を椅子に沈めた。
「『ロッソ』すり替えの事実が白日の下に晒されれば、私は破滅です…」
「レナム君が、わざわざ人気の無い時間と場所を指定した意味を、考えなかったのですか?」
 やり切れない気持ちになってつい口を出した私に、ホームズが細かく頷いてみせた。
「ワトスンの言う通りですよ、チェンバースさん。レナム君が最初に相談しようとしたのは、親友の警察官でしたが、タイミングを逃して出来なかった。そこでレナム君は考えた。月曜日の『カバレリア・ルスティカーナ』の練習の間も、その夜もね。そして警察に通報したり、オーナーに贋作の事実を伝える前に、あなたと二人きりで会って、話す事を選んだのです。オペラハウスのためにもならない無残なスキャンダルが広まる前に、何か良い案を導き出せないかとね。いや、まだすり替えをしたのは、あなたではないかもしれないと、どこかで思っていたのかも。それに彼は、友人を立ち会わせる事も出来たのに、それをしなかった。レナム君は、あなたが暴力をふるうとは、これっぽっちも思わなかった。それにチェンバースさん、レナム君が贋作の事であなたを恐喝するような男でない事は、知っていたはずでしょう?」
 「でも私には…」
チェンバースは、唇を震わせ、顔を両手で覆いながらうめいた。
「私には、あれしか出来なかった。後悔と、恐ろしさで、何も分からなかったのです!もう夢中で、夢中で…彼を刺していたんです。」
 その時、突然大きな音がしてドアが開いたかと思うと、若い男が室内に突進して来た。そして恐ろしい勢いで、両手でチェンバースの喉元につかみ掛かったのである。
 「ホプキンズ!」
 叫んだのはホームズなのか、それとも私なのか判然としないし、二人同時だったのかもしれない。とにかく絨毯の上でチェンバースに圧し掛かり、首を締め上げようとするホプキンズを、私達は二人がかりでひきはがした。チェンバースは顔を真っ赤にして倒れ込んだまま、苦しそうにせき込んだ。ホプキンズはなおも私達の腕を振り払って、チェンバースに襲い掛かろうとする。ホームズがホプキンズの首に手を回し、私が振り上げられようとする右腕と肩をやっとの事で押え込んだ。若者は、恐ろしい形相で叫んでいた。
「畜生!殺してやる、殺してやる!地獄に叩き落としてやる!」

 これは後で分かった事なのだが、ホプキンズは存外簡単に先代コンサートマスターを見つけ出していた。病気をして早い内にオペラハウスを退職したその男は、長い療養生活の後、ロンドンでヴァイオリンの教師をしていたのである。
 彼にホームズの手紙を見せると、先任のハロルド・レナム氏から『ロッソ』の名前の由来について教えられたと答えた。代々コンサートマスターだけが知っている秘密にしようと、レナム氏が悪戯っぽく言った事を彼は思い出した。しかし、病気で急に退職したため、後任のチェンバースにはその事を話す機会がなく、それっきり今日まで忘れていたらしい。
 ポール・レナムが、彼以外にも『ロッソ』の名前の由来を知っている人物が居ると分かっていたら、彼の運命も変っていたのかもしれない。

 先代コンサートマスターの話を聞いたホプキンズが、チェンバースを疑い始めたのは自然の流れだったし、現にホームズも同じような思考順序だった。ホプキンズはチェンバースの下宿に駆けつけ、ドアの外でチェンバースの告白を耳にしたのである。
 チェンバースは、ホームズに呼び寄せられたフォークナー警部に連行された。彼らを乗せた馬車が見えなくなると、それまでホームズと私に取り押さえられていたホプキンズは、ばったり倒れてしまった。彼を介抱して下宿へ送る頃には、夜になっていた。ホプキンズを自室のベッドに寝かせて軽い鎮静剤を打つと、静かに寝息を立て始めたので、騒ぎを聞きつけて顔を出したステイトンに後を頼んだ。
 「ええ、任せてください。今夜はこの部屋で最後の仕上げをしますよ。」
 ステイトンがサンドイッチの載った皿と、論文を持ち込みながら笑顔で請合うので、私たちは彼らの下宿を辞し、ストランドのレストランで夕食をとることにした。

 「それにしても…」
 ホームズは食事を終え、コーヒーを前にして紙巻煙草に火をつけながら言った。
「あれには驚いたな。ほら、あのホプキンズには。」
「そうだな。普段明るくて朗らかな彼だけに、あの恐ろしい形相は意外だった。」
「しかも『殺してやる』って、本気で言ってたよ。君と二人がかりで止めていなけりゃ、本当にチェンバースを殺していたかもしれない。」
 ホームズはゆっくりと煙を吐きながら、憂鬱そうに続けた。
「ねえ、君。人間の理性なんて当てにならんものだね。いつもは正義感が強く、理性的で、復讐なんて愚かだと分かっているはずなのに、結局激情にかられるとああなってしまう。僕の手法に心酔して、僕を目標とする将来有望なホプキンズ警部としては、あるまじきことじゃないかな。」
「手厳しいね、ホームズ。余程大事な人を失えば、その仇を殺してやりたいと思うのは、人情だよ。」
 私の反論に、ホームズは呆れたように顔を上げた。
「おやおや、温厚で紳士的でしかも人道主義の医者たる君が、そんな事をいうものかね。」
「医者も人間だからね。」
「じゃあ、きみは誰かを殺してやりたいほど憎んだことがあるとでも?」
「あるよ。」
「へぇ!それは驚いた。それでどうしたんだい?その仇は。ワトスン、君が絞め殺してやったのかい?」
「その必要はなかったよ。私の友人と相打ちで死んでいたからね。」
 煙草の灰を落とそうとするホームズの手が止まった。ポカンとして視線を私の鼻先に浮かせる。私は構わずに続けた。
「ところがその友人の方は、いけしゃあしゃあと生きていたのさ。私には死んだと思い込ませておいてね。今ではそいつの方を殺してやりたいね。」
 ホームズは、ばつが悪そうに膝にこぼれた灰を手で払い落とした。
「君も相当、しつこいな。」
「そうさ。殺されたくなかったら、ここの払いは君がするんだな。」
 私はそう言い捨てると、コーヒーを飲み干して立ち上がり、コートを取って出口へ向かい始めた。
 背後で、ホームズの深いため息が聞こえた。

 後日談。
 スタンリー・ホプキンズ警部は、スコットランド・ヤードから減俸と謹慎を命ぜられた。謹慎期間、彼はサウザンプトンにあるクリス・ステイトン氏の実家に招かれたそうである。暖かい気候と、ステイトン一家の和やかな雰囲気と、氏の母親であるステイトン夫人の手料理でホプキンズもすっかり元気を取り戻し、仕事に復帰した頃には朗らで活き活きとした彼に戻っていた。

                            マリルボンの音楽家 完
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あとがき

 グラナダでは見る事が出来なかった、「若いホプキンズ」が書きたくて作ったのが、本作品です。
 ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」,森雅裕の「モーツァルトは子守唄を歌わない」に、大きな影響を受けている事がよく分かると思います。

 最後まで読んでくださった皆さんに、お礼を申し上げます。
 特に、連載中に素的なイラストを下さった、フォックスさんに感謝を。  16th April 2004

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