Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 8


 1階のホールに降りると、ホプキンズがぼんやりとした顔でベンチに座り込んでいた。私達に気付くと、立ち上がって精一杯の笑顔を作って言った。
「何か収穫がありましたか?」
「あったね。」
「火曜日にポールのレッスンを受けた学生の話を聞きますか?」
「もう、事情聴取されたんだろう?」
「ええ。彼らもポールには殺されるような理由が見当らないし、火曜日のレッスンもいつもと変わりがなかったと言っています。」
「だったら、僕らが改めて話を訊くまでもないな。ホプキンズ君、ちょっと頼みがある。」
ホームズはさっきの折りたたんだ書き付けを、ホプキンズに渡した。
「ベッカー・オペラハウス・オーケストラの、先代コンサートマスターを捜して欲しい。」
「先代のコンサートマスター?」
「そうだ。本人が死んでいたら、その家族を捜すんだ。そして、彼にこの手紙を見せて、答えを聞いて欲しい。」
ホプキンズは気分でも悪いかのような表情になって、ホームズを見つめた。ホームズは右人差し指を前に立て、ささやくように言った。
「ホプキンズ君、きみの複雑な立場は分かっている。依頼人である以上、僕の捜査方針に従ってもらいたいし、捜査結果に一応のめどが立つまで報告は待って欲しい。しかし、君は捜査上の協力者でもある。だからこの役目を引き受けてくれないかな。…でき兼ねるようだったら、断ってくれても構わないよ?」
ホプキンズは、大きく息をつきながら首を振った。
「ポールを殺した犯人を捕まえる為に、僕はホームズ先生に捜査を依頼したんです。先生のおっしゃる通りにします。工事中の部屋で寝たり、家政婦を地下室に閉じ込めたりもしてみせますよ。」
 ホプキンズは私に向かって笑いかけ、勢い良く体の向きを変えて校舎から出て行った。
「答えを聞いたら次にどうするかを、指示していないよ。」
私が言うと、ホームズは微笑みながら帽子を被った。
「次にどこへ行くべきか、彼には分かっているさ。ワトスン、君もだろう?」
「犯人の事かい?さあ、どうかな。」
「分かっているはずさ。僕ら二人は、さっき図書館で掴んだんだ。」
「私はただ、連想しただけだよ。」
「僕もだ。でも二人の連想した人物は同一のはずだ。さっきも言ったろう?今回の捜査は動機を突き止める事なんだ。レナム君はおよそ人に殺されるような理由は見当らない男だったし、この殺人の状況からして、犯人は音楽関係者であることは確実だ。だとすれば、僕らが連想した人物を犯人と仮定したうえでアプローチしても、まず間違いないよ。」
「仮定ね。仮定で逮捕はできないだろう?」
「材料がない訳でもない。」
 私の背後にやったホームズの視線を追ってみると、さっきの若い図書館員があたふたと走ってくるのが見えた。
「ホームズさん!シャーロック・ホームズさん!」
図書館員はホームズの元に駆け寄ると、小さなメモ用紙を突き出し、肩で息をしながら言った。
「貸し出し履歴の件なんですが、少なくともここ10年は無い事が分かりました。それよりもですね、もう一冊ある事が分かったんです!」
「もう一冊!どこに?」
ホームズは図書館員が差し出した紙をひったくるように取り、勢い込んで訊ねた。
 「大英図書館です。私は知らなかったのですが、先輩の館員が教えてくれたんです。20年ほどまえに、大英図書館で希少本の写本を大々的に作ったんだそうです。その時、王立音楽院図書館が所蔵していた本の何冊かも、数年単位で大英図書館に貸与され、『クレモナ弦楽器製作工房総覧』もその中に入っていたんです。」
私はホームズに渡されたメモを読み上げた。
「1874年3月15日から1876年12月15日まで。翻訳写本製作の為に大英図書館へ長期貸し出し。担当Q.タレイス…」
「しめたぞ、英語だ。ありがとう、ブラウンさん。さあ行こうワトスン、大英図書館だ。」
「ああ、うん。ホームズ、Qが頭文字って、どんなファースト・ネームだい?」

 考えてみれば、土曜日である。ベッカー・オペラハウスは、教師をしている楽団員のために土曜日を練習日にあてていたし、王立音楽院図書館は昼までの開館だった。さすがに大英図書館は閉まっていたが、意外にも職員は総出だった。古文書研究関係でホームズの知り合いである職員が、棚卸しなのだと説明した。休日返上での棚卸し作業にうんざりしていた彼は、喜んで私達に協力してくれた。がらんとした巨大な円形屋根のある閲覧室に、私達二人を待たせ、彼は書庫へと探検しに行った。ここではいつもの事だが、本を1冊借り出すのに数十分から一時間は平気でかかる。今回の場合、閲覧者は私達だけであり、写しが取られた時期が分かっている希少本という事もあって、10分で本が出てきた。
 職員が抱えてきたのは、大きさこそオリジナルに近いものの、表紙は白っぽい布張りになっていた。冒頭にはオリジナルの形態について詳しく記述されており、簡単な図も添えられていた。
 「大きさや革表紙に関しては、王立音楽院の情報と一致するね。」
私が言うと、ホームズは右頬で笑い、
「もう少し詳しい情報があるよ。」
と、一個所を指差した。
「総革張り。1748年ミラノ発行。ベルトあり。鋲による固定…鋲だ!」
「そうだ、ワトスン。これによると、鋲は8個所に打ってある。」
「そのなかの一つが落ちたのか。」
「150年も経てば、その位は傷む事もあるだろう。」
「つまり、やはりレナム君は殺された現場にこの本を持って行ったんだ。」
「間違いなく、会う予定だった男に見せるためにね。」
「それが原因になって殺されたと?」
「僕はそう思っている。だから犯人はその本を持ち去ったのだ。」
「その詳しい理由が、この写本に書かれているのか…」
 私は、パラパラとページを繰ってみた。文章はすべて英語で、紙の片面のみに几帳面にタイプされていた。図版はまとめて巻末に載っている。ともあれ、膨大な情報量である事は確かだった。私がそれを言うと、ホームズは私の手帳を指差した。
「でも、どの欄を見るべきかは分かっているだろう?」
「アマティかい?」
「その通り。この『クレモナ弦楽器製作工房総覧』は、楽器工房ごとに章が区切られている。まず、アマティ工房…ここだ。英語訳でよかったよ。君、イタリア語は?」
「挨拶で会話終了だね。」
「僕もだ。しかし、レナム君は王立音楽院出身で、イタリアオペラを得意とするオペラハウスに10年勤め、しかも研究熱心だった。彼の部屋に使い古したドイツ語とイタリア語の辞書があったのに気付いたかい?言語は違うが、僕らも彼のたどった道を行こうじゃないか。目指すは、我らが『ロッソ』だ!」
 ホームズは目を輝かせ、うきうきした声で言ったが、それからが大変だった。まるでイタリア語の単語をそのまま英語にしたような、奇怪な文章の羅列なのである。要するに悪文であった。たびたび行方不明になる主語を捜して、ホームズと私は活字の上を右往左往した。しかも小見出しや段落は極端に省かれ、読み飛ばしが効かない。翻訳の悪さにホームズはしきりと不満を漏らした。私は研究や出版ではなく、保存を目的とした翻訳写本なのだから仕方が無いと言ってみたものの、割り切った所で私達の作業が楽になる訳でもない。ホームズと私は額をつき合わせて、アマティ工房における弦楽器製作に関する記述を、同じような速さで読み、時々口に出してみたりして、1時間ほど追い続けた。
 三代目アマティ,ニコロは楽器製作者としてだけではなく、指導者としても有能だったらしい事が分かってきた。彼自身の作品の事に記述が及んだのは、彼の項の最後に近かった。いよいよだぞと、私達は目頭をこすり、姿勢を直した。二人は暫らく黙ったまま活字を追い、あるページをめくろうとした時である。私が息を飲むのと、ホームズが仰け反って大声をあげたのは同時だった。
 「ローズ(バラ)だ!ロッソは、レッド(赤)じゃない。ローズなんだ!」
「危うく読み飛ばす所だったね。あの黒いヴァイオリンの名前を『赤』だと思っていたけど…」
「訳すとしたら、『バラ』が正しいようだね。ふむ、そんなに悪い翻訳でもなさそうだぞ。見たまえ。製作1650年頃。色の濃い…着色に特徴あり。装飾なし。サウンド・ポスト脇に、塗料もしくははニスと思われるしみがあり、この形がバラの花に見える事から、『ローズ』と称す。これだ!」
「『ロッソ』という名前の由来だろう?」
「そして、レナム君殺害の動機だ。」
「何だって?」
「さあ、行こうワトスン。本を持って。」
「駄目だよホームズ。『希少本につき館内閲覧のみ,持ち出し厳禁』と書いてある。」
「だったら、早くそこを書き写して!」
 ホームズは帽子と手袋を素早く着けると、出口に向かって大股で歩き始めた。

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