Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 7

 王立音楽院の本館は大きくはないものの、その威厳を示すには十分の風格を持っていた。本館のみならず建物の中や外では、おのおの楽器を手にした学生達が練習に精を出している。しかし、2階だけは警察に立ち入りを制限されており、人の姿は少なかった。ホプキンズは、1階に残った。この事件の担当を外された上で休暇を取っているので、同僚と顔を合わせるのは気が引けたのであろう。
 ホームズと私が2階へ上がると、廊下に顔見知りの巡査が立っていた。
「ああ、ホームズ先生にワトスン先生。事件の調査ですか?今ちょうど、フォークナー警部が来ています。警部!シャーロック・ホームズ先生と、ドクター・ワトスンがいらっしゃいました!」
巡査が廊下の奥に向かって呼びかけると、背が高く体つきのがっちりした男がこちらに振り返り、近付いてくる。
「初めまして。スコットランド・ヤードのフォークナー警部です。先生方のお噂は聞き及んでおりますよ。」
大きな右手を差し出したフォークナーは、抑揚の少ない声で言った。握手をしながら、彼が愛想を振り撒くタイプではないものの、好感の持てる人物である事が分かった。
 「現場の封鎖を解除する所です。どうぞ、こちらに。」
フォークナーは私達を現場に案内した。
「事件から4日経っていますから、あいにく現場は片付けられておりまして、先生が興味を持たれるようなものは何も残っていません。血痕も洗い落としてしまいましたから。」
フォークナー警部の視線の先には、廊下と階段の間にある小さなスペースに、簡素なテーブルと椅子が置かれ、制服を着た警官たちが「立ち入り禁止」の札付きのロープを片付けていた。
「足跡に関しては、犯人を特定するに至るものはなかったとか?」
ホームズが尋ねると、警部が頷いた。
「こういう場所ですから、足跡はありとあらゆるものがありましてね。血染めのものもありましたが、特定できたのは被害者の足跡のみ。犯人は途中で靴を脱いで現場を立ち去っていますね。犯行は火曜日の夜ですから、人目にもつかなかったのでしょう。リージェント・パーク方面に逃走したとすれば尚更です。」
 「犯人はどうやって建物内に出入りしたのでしょう?」
「火曜日の日中に入れば造作もありません。こういう所ですので、音楽関係の不特定多数が入れますから。ここには夜、宿直の職員が居るのですが、裏の通用口の鍵を閉めるのは夜の9時なんです。これは20年勤めている宿直の習慣でして、これまで不都合はなかったとか。犯行時刻は8時から4時間以内。もし殺人が8時から9時までの間に行われたとすれば、この通用口から出れば良い訳です。」
「犯人が通用口の施錠時刻を、知っていたと言う事になりますな。」
「この音楽院に出入りする人は大抵知っていますよ。」
「職員が夜に見回りをした時、2階にも異常はなかったと聞いていますが。」
「そこですよ。お粗末な話でしてね。」
フォークナーは初めて笑ってみせた。
「確かに職員は9時過ぎに見回りをしています。しかし、彼はこの現場とは反対側の階段から上がってきて、ランプで廊下を照らした程度にしか見ていません。もしここに死体が転がっていたとしても、目に入らなかったのでしょう。あの距離では照らせませんからね。正に犯人が被害者を刺しているその時でもない限り。」
「殺人は簡単だったと言う訳だ。」
ホームズは、テーブルと椅子の周りをぐるりと歩くと、鼻を鳴らしながら言った。
 「夜、ここでレナム君は誰かと会った。その誰かに刃物で刺されて殺された。ただそれだけだ。」
「ホームズさん、動機は何でしょう?」
「我々もそれを調べています。遺留品に関してはどうです?4階の教師の部屋にはレナム君の荷物が残されていたのでしょう?」
「ええ、ありました。」
フォークナーは手帳を取り出して読み上げた。
「被害者の帽子と手袋,ホルン,鞄。鞄の中身は、筆記用具と楽譜。」
「その楽譜は何です?」
「ええと。交響曲5番。チャ…」
「チャイコフスキー。」
「そうです。」
「その日のオーケストラ練習の曲ですな。他には?」
「何も。」
「何も?」
「ええ、何も。部屋にあった物品の全てを調べましたが、所有者が確認できました。」
「ないか…」
ホームズはもう一度テーブルと椅子に向き直ると、その灰色の目を左右に動かして何か頭の中で整理しているようだった。
 「現場の遺留品ですがね。」
フォークナーが続けた。
「まず凶器です。コッツ社製のナイフで、50年間モデルチェンジしていないというロングセラーだそうで、どこの金物屋にも当たり前に置いてあります。この線からたどるのは難しいでしょうな。最近購入されたらしく、古い刃こぼれはありません。犯人は手袋をしていたようで、指紋は検出できませんでした。握りと傷口から言って、右利きの男性。人並みの腕力といった感じで、背は極端に低くはないという程度しか分かりません。どれをとっても、どこにでも居そうな「普通の人」が犯人像という訳です。」
「凶器については、ヤードの捜査に抜かりないでしょうからね。」
ホームズが素っ気無く言うと、
「しかし、これに関してはいかがでしょう。ご意見をお聞かせ願えませんか?」
フォークナーはポケットから二つの封筒を取り出して一つをホームズに渡した。ホームズが中身を左の手のひらにあけた。
「鋲か。見たまえ、ワトスン。」
差し出された手を見ると、そこには黒ずんだ小さな丸い物体があった。
「そう、鋲だね。根元が欠けている。随分古そうだが。」
「うん、鉛で出来ている。かなり摩滅しているから、数十年か百年はゆうに経っているはずだ。」
「どうして、そんなものがここに?」
フォークナーがあまり表情を変えずに質問すると、ホームズは手袋を外して鋲を目の高さに持ち上げた。
「この血痕は、どちら側についていたのですか?」
「落ちていた鋲の、上側です。」
「鋲がここに落ちた後、レナム君が刺され、血がついた訳だ。」
「それから、これはどうでしょう。一体なんなのか、皆目見当もつきません。」
 二つ目の封筒の中身は、更に奇妙だった。面積にして半インチ四方もないような、不規則な形の、薄い紙切れのようなものが2枚、ホームズの手のひらに現れた。色は黒ずんだ茶色だが、小さく赤黒いしみがついている。警部が説明した。
「材質もよく分からないのですが。この薄さですから、一見紙のようですがね。それにしても、こんなに小さいのがよく分かりません。これも上側に血痕がついています。」
「この二つだけですか?」
「いいえ、こんなような物が何枚も落ちていました。他のは材質の鑑定のために本庁にありますよ。」
「でしょうね。ああ警部、ありがとう。」
 ホームズは封筒を警部に返すと、椅子に座って手帳の紙を一枚破り取り、何事か書き付け始めた。私は前から気になっていた事を、フォークナー警部に尋ねた。
「ホプキンズ君の事はご存知ですか?」
「ええ、もちろん。彼が休暇を取って犯人を捜している事も知っていますよ。ここだけの話、いくらか情報も提供してやりましたから。ホームズ先生も、ホプキンズの依頼でき来ているのでしょう?」
「彼は、どうなるでしょうか。担当を外された警官が、休暇を取って捜査をするというのは、規則違反なのでは?」
「ヤードにその辺りの明確な規則はないとは思いますが、上から見れば不適切な行動ですね。」
「処罰されますかね。」
「恐らく、何らかの処罰はあるでしょう。軽ければ謹慎か、減俸か。」
「悪ければ?」
「懲戒免職ですな。」
「結果次第という事ですね。」
「そうです。」
 私がホームズの方に振り向くと、彼は書き終えた紙を折りたたみながら、私を一瞥して、分かっていると言いたげな顔をした。
「さあ行こう、ワトスン。警部、またいずれ。」
ホームズはさっさと階段を降り始めた。警部が少しだけ笑いながら言った。
「あれは、犯人がわかっている時のホームズさんですか?」
「ええ、恐らく分かっていますね。」

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