Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 6

 レナムの下宿は、マリルボンの南端に位置しており、周りは音楽関係の住人が多いとの事だった。ハーレイ街から一本路地に入ったレナムの下宿の前で馬車を止めると、玄関の前にホプキンズが立っていた。
 「こんにちは。ホームズ先生、ドクター・ワトスン。今朝は失礼しました。さっき、ステイトン君に起こされるまで、まったく目が覚めなかったものですから。」
「よく眠れたようだね。朝食は食べたかい?」
 私が言うと、ホプキンズは少し笑った。夕べよりは健康を回復しているように見える。
「ええ、出掛けにステイトン君がサンドイッチを出してくれましたので。」
「先に入っていて良かったのに。」
ホームズがホプキンズに目で玄関を開けるように促しながら言った。
「そうですね。」
 ホプキンズは小さな声で答えると、ドアを開けて私たちを下宿に導き入れた。レナムの部屋は3階だった。玄関は開いていたが、レナムの部屋は施錠されている。ホプキンズはポケットから鍵を取り出しながら説明した。
 「僕らはお互いの部屋の鍵を持っていました。これがそうです。昨日までは警察によって封鎖されていたのですが、今朝解除されました。大家さんが片付けて欲しいって言いましてね。身内といえば僕だけですから、早いうちにどうにかしませんとね。」
 ホームズはスタスタを部屋の中に進んだ。私たちの下宿よりも、こじんまりとした部屋だった。学生向きの部屋なのかもしれない。小さな寝室にはベッドと衣装箪笥などがきっちりと納まっており、あまりものが無い。居間の書き物机と食卓は兼用らしく、綺麗に重ねられた食器と楽譜や本、外国語の辞書が数冊載っていた。書棚には使い古した楽譜が詰まっている。椅子と楽譜立てが窓を背にして置いてあり、故人がここで楽器を吹いていたことを物語っていた。ホームズは部屋の中を一通り見回すと、机の上の本をひとつひとつ調べ始めた。
 気がつくと、ホプキンズが部屋のドアの前に立ったままだった。その目の悲しさを見て、私にも身に覚えがあることを思い出した。
「警察は、この部屋から何か押収したのかね?…ああ、君は休暇中か。」
ホームズが大量の本をさばきながらホプキンズに言うと、若者はやっと部屋の中に入ってきた。
「担当になったフォークナー警部から話を聞いています。」
「ふむ。スコットランド・ヤードの連中も、親友を殺された休暇中の警部には同情的なわけだ。」
「おかげさまで。励ましてくれる人も居ます。」
「それで?」
「この部屋の物は全て調べられたそうですが、犯人に結びつかず、押収品はないそうです。見ての通りです。ポールの身の回りのものは、学生の頃と大差ありません。」
 ホプキンズは、小さな棚から楓材らしき小箱を取り上げ、蓋を開けた。中には、金属製の小さな漏斗のようなものが四つ入っていた。
「マウスピースです。ポールはいつもホルンを一つしか所有していませんでしたが、この吹き口の部分は子供の頃から使っていたものを大事に保管していました。」
マウスピースをじっと見つめるホプキンズに、私は何と声を掛ければ良いのか分からなかった。そういえば私もこんな時、どんな言葉を掛けられたのか覚えていない。私はただ、ホプキンズの肩を叩く位しかできなかった。
 「違うな!」
ホームズが大声で言うと、ホプキンズは箱の蓋を閉めて顔を上げた。
「何がです?」
「本だよ、ホプキンズ君。月曜日の昼間、きみを訪ねてきたレナム君は、大きな本を抱えていたんだ。それが何の本だかを突き止めねばならんのだが。きみ、心当たりはあるかい?」
「ありませんね。ポールはよく本を読んでいましたが、僕に見せようとしたことなんて一度もありません。僕は音楽については門外漢ですからね。」
「この部屋にある本は、どれもステイトン君の言っていた物とは違うようだ。『17世紀フランドルのポリフォニー音楽』,『シンフォニーの成立』,『楽器学入門』…いずれも面白そうだが、かなり分厚くて立派な表紙の本ではない。どこだ?被害者が月曜日に持っていた本は?」
ホームズは本の一つを立て、その上に右手と顎を乗せて少し考えた。
「いや、彼の所有物ではないか。たとえばこれだ。本の見返しにラベルが貼ってある。『王立音楽院図書館』」
「図書館の本か。」
 私が言うと、ホームズはラベルのある本を全て選び出し、私の前に積み重ねた。
「本のタイトルを控えておいてくれ、ワトスン。それから、王立音楽院に行こう。図書館の本を返却しようじゃないか。」

 私達三人はそれぞれ本を抱え、てくてく歩いて王立音楽院へ向かった。馬車を使うほどの距離ではなかたからである。事件が起きたのは本館の2階だったが、まず別館1階の図書館受付に向かった。
 机に本をドサドサ置くと、若い図書館員が驚いて顔を上げた。
「本を返却しに来たんです。この間死んだ、レナム君の本なのですが、ここで良いですか?」
ホプキンズが言うと、丸顔の図書館員は何度も頷いた。
「ええ、ここで良いんですよ。レナムさんの本ですね…」
そう言いながら、彼は大きな帳面を開いた。
「レナムさんは勉強熱心でしたからね。よく図書館を利用してくれましたよ。」
 図書館員は積み上げられた本を一つ一つ手に取りながら、タイトルと番号を確認し、返却の印を帳面につけて行く。ホームズは私の肩越しにそれを覗き込みながら、図書館員に尋ねた。
「レナム君は常連でしたか?」
「ええ、しょっちゅう。あなた方、警察の人?」
「友達です。」
ホプキンズが言うと、図書館員はまた頷いて作業を続けた。
「じゅう…さん冊…ですね。はい、確かに受け取りました。ご苦労様です。」
ホームズが何か言おうと口を開けかけたが、帳面の次のページを見た図書館員が先に言った。
「あの、もう1冊ありませんか?」
「もう1冊?」
聞き返したのはホプキンズだった。
「ええ、未返却の本が1冊ありますよ。これです。先週の火曜日に貸し出した本です。『クレモナ弦楽器製作工房総覧』返却期限は来週の月曜日ですが…」
図書館員が指し示した帳面の個所にホームズが見入った。彼は鼻から大きく息を吸い込むと、興奮を押し隠すように声を低くして図書館員に尋ねた。
「この本について、詳しく分かりますか?内容や形態について。」
「ちょっとお待ち下さい。」
 図書館員は立ち上がり、隣りの部屋に入って行った。私は帳面にあった本のタイトルを手帳に写した。ホームズの大きな灰色の目が好奇心で輝かせ、唇の端を僅かに震わせる、何かを掴んだ時によくする表情だ。
 そこへ、図書館員が手に小さなカードを持って戻ってきた。
「これが詳細です。希少本ですよ。タイトルは英語訳ですが、中身はイタリア語です。1748年ミラノ発行。大きさは縦17インチ,横12インチ,厚さ4.5インチ。革表装で、ベルトの止め具あり。内容は分かりませんが、まあタイトルの通りでしょうね。注意書きがありますよ『現存数希少につき、取扱い注意』。今、どこに?」
「我々も探しているんですよ。」
 ホームズがカードを手にとって見ながら言うと、図書館員は顔をしかめた。
「困りましたね。高価な希少本を紛失したりしたら、大変ですよ。シャーロック・ホームズさんにでも頼みますかね。」
「そのご本人ですよ。」
ホプキンズが言い添えると、図書館員はホームズと私を交互に見て口がふさがらなくなった。 ホームズがカードを返しながら早口に言った。
「ブラウンさん、この本の貸し出し履歴を調べてくれませんか。僕らは本館の殺人現場に居ますから。」
「かなり時間がかかりますが…」
「では、報告はベーカー街221Bへ。」
「あの、どうして私の名前を?」
ホームズはもう、背中を向けて歩き始めていた。仕方なく私が説明した。
「そこの黒板にある、受付当番表ですよ。」

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