Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 5

  チェンバースは微笑むと、後ろ手にドアを閉めた。彼は40代半ばとおぼしき背の高い男で、おとなしそうな印象の顔つきをしていた。
「あなたは、ポール・レナム君と親交がありましたか?」
「ええ、ありました。私はコンサートマスターという役職柄、全てのメンバーとのコミュニケーションを心がけていますが、その中でもレナム君とは親しい方でしたね。よく話をしたり、食事に行ったりしましたから。それに私も王立音楽院の講師をしているので、そっちでの交流もありました。」
「月曜日の練習の時は話をしましたか?」
「さあ。」
チェンバースは少し視線を浮かせて考えた。
「挨拶ぐらいはしたでしょうが、特に話した覚えはありませんね。ただ、私がレナム君に会ったのは、月曜日が最後ではありませんよ。」
「ほほう。」
ホームズの目が光った。
「いつお会いになったのですか?」
「火曜日です。1時から王立音楽院の学生オーケストラの練習がありましたから。彼はホルンの補助に入っていましたし、私はオーケストラ指導担当教官ですから。」
「曲目は?」
「チャイコフスキーの交響曲5番です。」
「なるほど。ホルンを酷使する曲ですな。学生だけでは辛いと言う事で、レナム君も加わったのですね。」
「そうです。」
「火曜日は何か話しましたか?」
「そうですね、練習の前に少し話しました。演奏のテンポについて、何人かの生徒や講師と相談しましたから。」
「他には?何か話したり、気付いたりした事はありませんか?」
「いや、特にありません。」
「レナム君の持ち物に気付きませんでしたか?」
「持ち物?」
チェンバースも、ネーリと同じように不思議そうな顔をした。
「ホルンを持っていたと思いますが。」
「ホルン以外に。何か…」
言いながらホームズは両手で空中に大きな四角形を描いてみせた。
「楽譜…ですか?」
チェンバースはホームズを窺うように見ながら言った。
「多分、楽譜は持っていましたよ。」
「スコアを?」
「いいえ。レナム君が持っていたのはホルンのパート譜ですよ。あの時、スコアを持っていたのは私だけでしょう。みんなで相談した時も、私のスコアを見ながらでしたから。火曜日は、指揮の先生は来ていませんでしたし。」
「そうですか。」
 ホームズはまた、こぶしを顎にぶつけて考え始めた。ホームズとチェンバースの会話中、二人を交互に見ていたベッカーが、思い出したように早口で言った。
「どうぞホームズさん、お手に取って見て下さい。アマティの『ロッソ』です。」
チェンバースが差し出す名器を見て、ホームズは思考を停止した。
 彼はヴァイオリンを両手で受け取ると、いきなり鼻を近づけて臭いを嗅ぎ始めたので、ベッカーとチェンバースが驚いた。次にホームズは細い指で縁をなぞりながら、表面,裏面,側面を丹念に観察した。そして斜めに持ち上げて双方のf字孔を覗き込み、ネック側とテイル側から目を細め、長い間眺めていた。やがて彼は小さく溜息をつくと、ロッソを私に差し出した。私は慌てて手帳とペンをポケットにしまうと、慎重に名器を受け取った。普段ホームズが弾いているヴァイオリンより、心持ち軽い感じがした。ロッソとはイタリア語で赤という意味だが、その楽器の色は深いこげ茶色で、むしろコントラバスによくあるような黒に近かった。私がその印象をベッカーに言うと、彼は頷いた。
 「そうなんですよ。普通ヴァイオリンはもっと明るい色なのですが、この『ロッソ』は珍しく黒に近いんです。祖父がこれを手に入れた時、私はまだ幼かったのですが、やはり色が黒い事が印象的でしたね。ええ、ドクターのおっしゃる様にロッソとは赤という意味です。これが作られたのは17世紀前半のクレモナで、作者はニコロ・アマティ。初代アンドレ・アマティの孫で、ヴァイオリン職人の師匠としても有名です。残っている作品は多くありませんが、この『ロッソ』は超一級品として昔から有名です。かなり以前からこれは『ロッソ』と呼ばれていたそうです。黒いのにロッソとは不思議な名前ですが、祖父も前の所有者だったイタリア貴族にその辺を尋ねましたが、やはり知らなかったそうです。」
 チェンバースが人の良さそうな顔に微笑を浮かべながら、ホームズに弓を差し出した。
「どうぞ、お弾きになってみてください。ホームズさんはヴァイオリンの名手だと、聞き及んでおりますよ。」
 ホームズは神妙な表情で弓を受け取った。
「そうなんですよ、ホームズ君のヴァイオリンの腕前は大した物です。彼の自作曲の出来も、それはそれは素晴らしいのですよ。」
私は少々意地悪く言い添えながら、ヴァイオリンを渡した。するとベッカーが大げさな陽気さで追い討ちをかけた。
「お持ちのヴァイオリンはストラディバリだそうですね?」
 ホームズは心底迷惑そうに私を見やり、黙ってヴァイオリンを構えると簡単に調弦をした。そしてしばしの沈黙の後、弓を弦の上に走らせた。普段自信家で人を見下す傾向にあるホームズだが、さすがに本職のヴァイオリニストの前で自作の曲はおろか、ヴァイオリンの曲を弾くのも気が引けたらしい。「ドン・ジョヴァンニ」のアリアのメロディを奏ではじめた(注)。伸びのある、大きな音がする。
 ホームズはひとしきり弾き終わり弓を下ろすと、ベッカーとチェンバースは溜め息の後に拍手と賛辞を贈った。
「すばらしい。ホームズさん、探偵をおやめになっても演奏家で食べていけますよ。」
「まったくです。我がオーケストラの一員にお迎えしたいですよ。」
「でも、僕は…」
ホームズは無表情に言いながら、ヴァイオリンをチェンバースの手に戻した。
「ホルン吹きではありませんからな。ベッカーさん、レナム君の下宿の住所を教えていただけませんか?それから、話を伺ったお二人と、あなたの住所も教えていただけますと、これからの捜査の上でも役に立つかと思うのですが。」

 オペラハウスのドアマンが馬車を呼びに走ると、ホームズはさっきの事を根に持っているらしく、子供のように拗ねた表情で言った。
「君が僕の仕事を本に書くようになってから、捜査がしやすくなったことは認めるよ。名乗るだけで捜査に協力してもらえるという点ではね。」
「そりゃどうも。」
 軽い応答に向かってホームズは忌々しそうに何事か言おうとしたが、私はそれを遮った。
「君がヴァイオリンの名手であることは事実だし、作曲能力の高さも君自身が認めているんだろう?それにあの55ギニで購入したヴァイオリンが、ストラディバリだと言ったのも君自身だ。私は見聞きした事をそのまま書いただけさ。そうしないと何を言われるか分からないからね。」
 馬車が来たので、ベッカーに教えられたレナムの下宿の住所を御者に言って乗り込んだ。二人並んで座席に納まると、私はホームズに有名なヴァイオリンに対する感想を求めた。
「ああ、そうね。素晴らしい楽器だよ。」
ホームズは素っ気無く、そう答えただけだった。
「そんな事より、もっと重要な事が分かったよ。」
ホームズが私の胸ポケットを指差すので、私は手帳を取り出して繰ってみた。
「3人から話を聞いて分かった事は…。まず、レナムは人に殺されるような理由がみあたらない、実に良い男だった。」
「その通りだ。」
「経済的にも困るような事は思い当たらない。」
「それから?」
「練習の曲目。月曜日は『カヴァレリア・ルスティカーナ』、火曜日はチャイコフスキーの『交響曲第5番』。」
「そこだよ。」
「本の話かい?」
 「そう。『カヴァレリア・ルスティカーナ』というオペラは最近の作品なんだが、ちょっとした特徴があるんだ。短いんだよ。上演時間はせいぜい1時間位だろう。普通のオペラの半分か、それ以下さ。たとえスコアだとしても、ステイトン君が言っていたような分厚い本にはならないよ。ホルンのパート譜ならなおさらだ。彼が普段使っている楽譜ではない、何か特別な本なんだよ。特別だからこそ、わざわざホプキンズ君に見せようとしたんだ。しかし、見せることが出来ないまま、レナム君は殺された。今回、僕達の捜査方針は現場と殺害状況ではなく、動機の発見である以上、何としてもレナム君が月曜日に持っていた本を突き止めねばならない。彼の部屋か、音楽院の講師の部屋か…いずれかにあるだろうがね。」
 ホームズは言いながら、私の手帳をのぞきこんでニヤリと笑った。『カヴァレリア・ルスティカーナ』の綴りを確かめたらしいが、どうやら合格のようだ。
「イタリア語だからね。」
私が言うと、ホームズは鼻で笑った。
 「ロッソ。赤か…」

(注)モーツァルト作曲 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」第一幕よりドンナ・アンナのアリア
 「私の誇りを奪い、父をも奪った悪者よ」



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