Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 4

 ベッカー・オペラハウスは、ユーストンに程近い小規模なオペラハウスで、ホームズと私も何度か訪れた事がある。生糸貿易で財を成したエルンスト・ベッカー氏が創設した。モーツァルトやロッシーニの上演には定評があり、オーケストラはオペラ以外の曲目も頻繁に演奏した。
 応接間で私達を迎えたモリス・ベッカー氏は、三代目のオーナー兼支配人である。背が低くてでっぷりと太り、神経質そうな甲高い声で早口に喋った。
 「これまでも何度か我がオペラハウスにいらして下ったそうで。ええ、確か暮れにお見かけしましたよ。ホームズさんは音楽にも造詣が深くていらっしゃいますから、当方も励みになります。来月は新しい作品を用意しておりましてね。『カヴァレリア・ルスティカーナ』ですよ。おや、ご存知でしたか。ああ、ホームズさんはドイツ物がお好みでしたね。挑戦してみたいのですが、なにせ小さな劇場ですから。いやしかしオーケストラ公演では、ブラームスを予定しております。ええ、5番です。私が言うのもおこがましいのですが、中々の仕上りですよ。はあ、オペラに関してはイタリアもお好きで?それは嬉しいですね。ぜひともお二人揃っていらして下さい。ええ、もちろん貴賓席をご用意しますよ。」
 「しかし、ホルン奏者が一人欠けましたな。」
ホームズが殺人事件の話を持ち出すと、ベッカーは顔を曇らせた。
「まったくとんでもない話です。当オーケストラにとっては、重大な損失なんですよ。レナム君は入団して10年くらいだと思いますが、実に優秀なホルン奏者でしてね。耳も良かったのでオーケストラには欠かせない存在でした。秋には金管の主任になる予定だったのです。最年少でね。人間的にもすばらしい男でしたよ。真面目で、礼儀正しく、謙虚で、思いやりがあって、責任感も強くて。それに勉強家でした。うちのオーケストラと、音楽院の講師で忙しくしていましたが、その合間をぬって、オーケストレーションや楽器学の本をよく読んでいました。」
「本を?」
「ええ。演奏家というのはとかく演奏ばかりに気を取られて、ちっともモノを知らないという傾向になりがちですが、彼には音楽を全体的、理論的に見て研究する所がありましたよ。よく、音楽院の図書館から本を借りてきて熱心に読んでいましたよ。」
「なるほど。」
 ホームズは一瞬私を見て、質問を続けた。
「では、レナム君が殺されるような理由に心当たりは?」
「とんでもない!全然ありませんよ。あんな気持ちの良い青年が殺されるだなんて、何かの間違いですよ。」
「人の恨みをかうような所もなく?」
「ええ、ありませんね。」
「経済的にはどうです?」
「うちの給料の話をなさっているのですね?こう言ってはなんですが、この規模にしては良い給料を出していますよ。それにレナム君は王立音楽院の講師もしていましたから、金に困るような事はないでしょう。うちの団員には、音楽院の講師を務めてる者も多いのですよ。」
ホームズは少し黙って、質問を変えた。
「月曜日に練習がありましたか?」
「ええ、ありました。」
ベッカーはポケットから手帳を取り出した。
「そうです、3時半からここで。3時間ほど。」
「曲目は?」
「さっき申し上げた、『カヴァレリア・ルスティカーナ』です。」
「レナム君も参加していましたか?」
「ええ、恐らく…確かな事がお知りになりたければ、オーケストラの連中にお聞きになるのが良いでしょう。今日もこれから練習ですので、何人かはもう来ていますよ。」
「呼んで頂けますか。できれば、レナム君の事を良く知っている人2,3人の話を聞きたいのですが。」
「では、ホルンのネーリさんを呼びましょう。彼はいつも早いのですよ。」
 ベッカーがボーイをに言いつけると、ホームズは掛けてあった肖像画の一つに目を留めた。
「あれは、初代支配人のエルンスト・ベッカー氏ですね?」
「ええ、私の祖父です。」
「確か、美術品や楽器収集にも熱心でいらした。」
「そうです。ああ!ヴァイオリンの話ですね!」
ベッカーが嬉しそうに言うと、ホームズは珍しく恥かしそうに顔を赤くした。ベッカーは得意になってホームズの顔を窺った。
 「ええ、確かに祖父は収集家でしてね。ホームズさんがおっしゃっているのは、アマティの『ロッソ』の事ですね。我がオペラハウス所有の自慢の一品ですよ。よろしいですとも、お目にかけましょう。」
 イタリアの貴族が所有していたヴァイオリンの名器アマティ作『ロッソ』を、エルンスト・ベッカー氏が大金をつぎ込んで購入したというのは有名な話である。以来このベッカー・オペラハウスが所有してきた有名なヴァイオリンに、ホームズが強い関心も持つのは無理からぬ事であった。彼自身ヴァイオリンを巧みに弾くし、所有するヴァイオリンはストラディバリの本物だと、豪語している程である。
 ドアがノックされ、60歳くらいの大柄な男が入ってきた。
「ああ、こちらネーリさん。ホルン奏者で、現在金管の主任をしております。こちらはシャーロック・ホームズさんと、ドクター・ワトスン。レナム君の事件について捜査をされていて、お聞きになりたい事があるそうです。」
ベッカーが言うと、ネーリは不機嫌そうに顔を曇らせた。
「もう警察にあれやこれやと質問されましたがね。」
「我々はレナム君のごく親しい人物に依頼されていまして、警察とは別で独自の捜査をしているのです。」
 ホームズはネーリの頑固そうな面構えに、イタリア人の職人気質のようなものを見出したのか、嬉しそうに言った。
「ホルン奏者という事は、レナム君と全く同業ですな。どうでしょう、彼が殺されるような理由に心あたりがありますか?」
「ありませんな。」
ネーリはホームズが言い終わる前に否定した。
「まっとうな青年でしたよ。ホルンの演奏者としても良かったし、何よりも真面目だった。」
「あなたは今、金管の主任という事ですが?」
「今はです。今年の秋には引退する予定だったのですよ。後任はレナム君に決まっていたが、こうなってはもう…」
白髪の老人は悲痛な表情で頭を振った。
「私は引退を延期せざるを得ません。新しく入れるホルン奏者が使い物にになって、誰かを金管の主任に据えるまでには、1年はかかるでしょう。王立音楽院の生徒も、何人か引き受けねばならんでしょうな。私は引退後に、女房とワイト島に越すのを楽しみにしていたのに、まったく…」
ベッカーは同感だというふうに頷いてみせた。ホームズが質問を続けた。
「月曜日の3時から行われた練習ですがね。ネーリさんも出席しましたか?」
「もちろん。」
「レナム君はどうです?」
「彼が練習を休んだ事はありませんよ。殺されるまではね。遅刻をした事もなしです。」
「その時、レナム君に普段と違う所はありませんでしたか?」
ネーリはこぶしを顎に当てて暫らく考えたが、首を振った。
「いや、ありませんな。いつもの彼でしたよ。彼自身の演奏は完璧で、他の楽器の音も、歌手の声もしっかりと聞く…理想的なオーケストラのホルン吹きでした。」
「レナム君の持ち物で何かお気づきになりませんでしたか?」
「持ち物?」
「ええ。ホルン以外に何か…大きな物で。」
「さて。」
ネーリは質問の意図を測り兼ねたようだった。
「レナム君はホルンを持ち歩く事もあれば、鍵つきの収納庫に入れておく事もあったし。楽譜や本を沢山抱えている事もよくあったが…月曜日にどうだったかは、はっきりとは覚えておりませんな。」
「そうですか。いや、もう結構です。ネーリさん、ありがとうございます。」
 質問が終わり、出て行こうとするネーリにベッカーが言った。
「ネーリさん、チェンバース君に、ロッソを持ってここに来てくれるように言って下さい。」
ホルン奏者は頷きながら出ていった。ホームズはネーリがさっきしたように、こぶしを顎に何度か当て、それから額を叩いて考え込み始めた。
 私は有名なヴァイオリンについてベッカーに尋ねた。
「『ロッソ』は普段、その音色を聞く事は出来ないのですか?」
「一般のお客さんはそうですね。通常オペラ公演の時は使いません。オーケストラ公演の時、協奏曲か何かで有名なソリストが演奏する場合のみ、貸与という形で使われるので、そうめったに聞く事は出来ません。」
「一般の聴衆以外は?」
ベッカーはにやりと笑って、右手の人差し指を天井に向けた。
「ワトスン先生とホームズさんのように、特別なお客様になら。それから我がオペラハウスの楽団員は、日常的に聞く事が出来ます。」
「日常的に?」
「楽器というのは不思議なもので、音を出さないで放っておくと駄目になってしまうのですよ。特に木製の楽器はね。音を吸い込む事によって良好な状態を保つのでしょうな。元々音を出す道具ですから、当然でしょう。ロッソのような名器ともなるとなおさらです。かと言って酷使すればそれはそれで傷んでしまいます。ですから毎日だいたい20分程度、演奏するようにしているのです。湿気に気を遣うので、気候によっては演奏しない日もありますが。そういう訳で、楽団員は日常的にロッソの音を聞いているのですよ。」
「その、毎日20分程度の演奏は誰が?」
ホームズが不意に首を捻じ曲げて聞いてきた。自慢の名器の話題となると殺人事件は雲散霧消するのか、ベッカーは嬉しそうな顔で答えた。
「代々、コンサートマスターの仕事になっています。」
「コンサートマスター以外の人間は、触われないのですか?」
「いやいや、楽団員なら家族のようなものですし、楽器の扱いに慣れていますから。毎日の音出しの時に頼めば、触わらせてもらえますよ。特に弦楽器の人間なら一度はヴァイオリンをやっていますから、時々弾いていると思います。もちろん必ずコンサートマスターが一緒ですがね。」
「そのコンサートマスターが…チェンバースさん?」
 ノックされたドアに向かってホームズが高い声で呼びかけると、赤味がかった金髪の男か少し驚いたような表情で現れた。手にはヴァイオリンと弓を携えている。
「はい、そうです。」
「どうぞお入り下さい。僕はシャーロック・ホームズ。こちらはパートナーのドクター・ワトスン。レナム君の事件について調査中です。いくつか質問をさせて頂きたいのですが。」


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