Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 3

 ホームズの言うとおり、翌朝になるといつもの調子が戻ってきた。つまり、ホームズはろくに朝食も摂らず、張り切ってやる気一杯で、当然のように私の言うことには耳も貸さなかった。そのため、二人でロード街にあるホプキンズの下宿の、しかも彼のドアの前で、私は再度ホームズに要請することになった。
 「やはり、早すぎるよホームズ。多分まだ睡眠薬が切れていないはずだ。あと2時間、いや1時間でも寝させておいてやらないか?」
「ワトスン、調子がおかしいのは君のほうだ。殺人事件だぞ。時間を無駄にしている暇はないのだよ。」
ホームズはステッキでドアを無遠慮に叩いたが、反応がない。
「やはり寝ているんだよ。目覚ましをかけていないはずだからね。」
すると、隣の部屋のドアが開き、左手にサンドイッチを持った青年が顔を出した。
「ホプキンズ君にご用ですか?多分まだ寝ていますよ。踏み込まない限り、起きないと思いますがね。」
「失礼。」
ホームズが素早くそちらに振り向いた。
「僕はシャーロック・ホームズ。こちらはパートナーのドクター・ワトスン。あなたはドクター・ステイトンですね?」
ステイトン青年は、ぱっと顔を赤らめて陽気な声を上げた。
「ああ、あなた方があの有名な!レナム君の事件の調査ですか?」
「そうです。ステイトンさん、もしよろしければ少しお話を伺いたいのですが?」
「ええ、よろしいですとも!どうぞお入り下さい。散らかっていますが…」
 私達がステイトンの部屋に入ると、彼は手に持っていたサンドイッチを口に押し込み、身振りだけで椅子を勧めた。
「論文の提出日はいつですか?今日の午後?それとも明日ですか?」
ホームズが椅子に座りながら言うと、ステイトンは目を丸くして驚いた。しかし口にはまだサンドイッチが入っているので、声を出すのには少し時間がかかった。
「凄い!まさに本で読んだ通りですね。ええ、論文の提出日は明日です。聞き慣れた台詞だとは思いますが…どうしてお分かりになったんですか?」
「ホプキンズ君の話によると、あなたは月曜日の昼間に在宅しておられたし、今日も出掛ける様子はない。となると、医者であっても開業医や病院勤務ではない。屑入れには反故にしたフールスカップが何枚か押し込まれているし、床には消化器官に関する英語とドイツ語の文献が山積みになっていますから、研究者で臨床実験は終了し、現在は論文執筆中という訳です。月曜から火曜にかけての夜中に起きていた事もそれを示唆していますね。ああ、ホプキンズ君に訪問者からのメッセージを伝えたでしょう?更に、文献はいずれも閉じられ、言語別、出版社別に置かれているし、机上のフールスカップの8割がたは、きちんと揃えられて表紙も準備されているから、論文は完成まじかという事になります。ついでに言えば、軍艦シンシア・ウォルトンの写真が壁に飾ってある事や、ヒューイット商会の箱がいくつか見られる事から推測するに、おそらくサウザンプトン出身でいらっしゃる。ご実家は開業医でしょうな。」
「感激だなあ。あのホームズさんが、目の前で推理を披露して下さるなんて。家族や友達に自慢して回りますよ。」
ステイトンの屈託のない賞賛にホームズはそっけなく振る舞ったが、その瞳には喜びの色が見て取れた。
 「ええ、確かに僕はサウザンプトンの開業医の子です。大学を出た後も専門の消化器系…私は胃ですがね。これの研究を続けているんです。論文は明日の12時が提出期限でして、秋の学会で発表予定なんです。」
 クリス・ステイトンは、せいぜい30歳程度の若い医者だった。血色の良い長い顔でニコニコと愛想が良く、小さな瞳に眼鏡をかけている。髪は明るい茶色で勝手な方向に渦を巻いており、全体の印象としてはコリー犬に似ていた。
 「レナム君の事件は新聞で読みましたよ。ホプキンズ君は方々を駆けずり回っていたのですかね。全然姿を見ませんでしたから、夕べ熟睡状態で帰って来たのには驚きましたよ。御者と二人がかりでベットに寝かせて、鍵をかけてからドアの下から鍵を滑り込ませておきました。あの様子だとどこかで睡眠薬を飲んだのかと思いましたが、もしかしてワトスン先生が?」
私が頷くと、やおらホームズが口を開いた。
 「月曜日の昼間に、レナム君に会いましたか?」
ステイトンは少し顔を引き締めて答えた。
「ええ、会いました。ホプキンズ君を訪ねて来たらしく、隣りのドアを何度か叩いていました。」
「何時でしたか?」
「午後2時半頃でしたね。」
「レナム君には初めて会ったのですか?」
「いいえ。以前にもレナム君がホプキンズ君を訪ねてきた時に、紹介してもらいましたから、顔見知りでしたよ。僕がドアを開けてホプキンズ君は不在だと言うと、レナム君は何やら思案顔でした。」
「悩んでいるような?」
「悩んでいる…いや、そういう感じではないのですが。ちょっと考え込むような顔でしたね。」
「伝言を頼まれましたか?」
「ええ。すぐに何でもないような顔になって、ホプキンズ君に火曜日の夕飯を一緒にフッカー亭で食べようと伝えてくれと、頼まれました。」
「それで、レナム君はすぐに帰ったのですか?」
「ええ。お仕事ですかと尋ねると、オーケストラの練習だと言っていました。」
「楽器は持っていましたか?」
 矢継ぎ早に発せられるホームズの質問に即座に答えていたステイトンだが、ここに来て少し考え込んだ。そしてゆっくり、眼鏡を鼻の上に押し上げ直した。
「いいえ。ホルンは持っていませんでした。そのかわり大きな本を持っていました。」
「大きな本?確かですか?」
「ええ。包み紙で覆っていましたが、あれは確かに本ですよ。かなり分厚くて立派な表紙の本でしたね。」
「その他に、何かお気づきの点は?」
「ありません。」
ホームズは右手親指の爪を唇に押し付けて考えていたが、やがて立ち上がった。
「ありがとうございます。ステイトンさん。参考になりましたよ。」
「そうであれば嬉しいですね。」
ステイトンはドアを開けながら、少し窺うような表情で訊いた。
「あの、ホームズさん。これからやっぱりホプキンズ君を起こすのですか?」
ホームズはステイトンと私を交互にみやると、小さく溜息をついた。
「まあ、ホプキンズ君はもう少し寝さしてやりましょう。ステイトンさん、申し訳ないが1時間半後にホプキンズ君を起こしてくれませんか?12時にレナム君の下宿で会おうと伝言して下さい。」
「ええ、分かりました。レナム君の下宿はご存知ですか?」
「彼の職場で聞きますよ。」
ステイトンの笑顔に送られて、私達はロード街を後にした。

 「やれやれ。医者が二人して睨むものだから、僕も降参せざるを得ないよ。きみ、レナム君が持っていた本を何だと思う?」
馬車でベッカー・オペラハウスに向かう道すがら、ホームズが言った。
「楽譜じゃないかな。楽譜は普通の本より大きいし、オーケストラの練習だと言っていたのだろう。」
「でも、かなり分厚いと言っていた。たしかに大きな交響曲やオペラのスコアなら厚みもあるだろうがね、ホルンのパート譜にそんな厚みがあるとは思えないな。それに立派な表紙というのは実用的ではない。この点は練習の曲が何であるかで、はっきりするだろう。」
「その本が重要に思えるのかい?」
「そうだね、ワトスン。別に重要ではないかも知れない。ホプキンズ君も言っていただろう。レナム君が殺される動機が分からないと。でも、確かにレナム君は何かの目的で会見した相手に故意に殺されたんだ。僕らはその動機から犯人を追求せねばならない以上、どんな些細な事にも目を光らせるべきだよ。」
そう言ったっきり、ホームズはオペラハウスに着くまで外の景色を眺めるでもなく、黙りこくっていた。


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