Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 2

 幸い、ホプキンズは食欲だけは残っていたようである。多くはないものの、一応シチューとパンを食べ、食後のスコッチを出したころには、少し頬に赤みが戻ってきた。ホームズはホプキンズとは別の意味で元気になりつつあり、食事も私がうるさく言わないで済む程度口にした。
 「さて…」
ハドスン夫人が食器を下げると、ホームズはホプキンズからの聴取を再開した。
「死体の状況だがね。君が水曜日の朝駆けつけたときはどんなだった?」
 ホプキンズはスコッチには手をつけずに話し始めた。
「場所は、王立音楽院校舎2階奥の接客スペースです。死体は、廊下に向かってうつ伏せに倒れていました。凶器はナイフです。まあ、そこら辺に売っているようなありふれたものです。」
「ナイフがそこに?」
「ええ、死体のそばに落ちていました。左の頚動脈を切ったらしく、ひどい出血でした。被害者は…その…両手で傷口を押さえたまま倒れていました。即死ではなかったのでしょう。被害者の帽子、手袋、それから楽器と楽譜などの荷物は、4階にある教師達の部屋に置いてありました。同じ部屋を使っていた教師によると、ポールは火曜日の夕方、レッスンを終えて部屋に戻ってくると、用事があるからといってそこに居残ったそうです。同僚達は別に気にもせず、彼を残して退校して行きました。最後にポールが生きて目撃されたのは、最後の同僚教師が出て行った、5時半頃です。夜の9時ごろ、宿直の職員が見回りをしていますが、その時4階の部屋にはあかりもなく、人もいなかったそうです。その職員は2階にも、特に変わった様子はなかったと証言しています。その後、彼も宿直室で仮眠を取り、翌朝死体が発見されるまで、出入りした人間は確認されていません。」
「足跡は?」
「ありましたが。場所が場所ですので・・・ただ、特徴的な血染めの足跡はありました。」
「犯行時についたものだね。」
「ええ。一つは被害者本人のものです。応接スペースにつま先を向けた足跡があり、それがいくらか乱れて…倒れたようです。」
「頚動脈を切られた時は、廊下を背にして立ち、刺されると苦しみながら…廊下の方に向き、倒れたわけだ。」
「もう一つは、犯人のものと思しきものです。大きさはまあ普通の成人男子と言ったところです。ホームズ先生の手法に倣ってよく観察してみましたが、残念ながらこれといった特徴はありませんでした。つま先が角ばって幅広く、かかともやや角ばっている…最近の流行ですね。僕も同じような靴です。」
私がホプキンズの靴を見ると、たしかに彼が言ったような形をしているし、かく言う私と、それから足元に目を落としたホームズも、似たり寄ったりだった。私はメモを取りながら、苦笑いした。
「まあ、仕方がないよ。そう都合よく犯人が分かるような足跡があるものではないからね。」
「…自殺は?」
唐突にホームズがつぶやいたが、言った後でその言葉を否定するように頭を振った。
「それは…ありませんね。」
ホプキンズも小さな声で言い、先を続けた。
「検視法廷は今朝開かれました。死因は頚動脈切断による出血多量。死亡推定時刻は火曜日の夜8時から4時間以内。被害者には特に人に恨まれるようなことは無く、なぜ殺されたのかは現時点では不明。
 ポールはベッカー・オペラハウス・オーケストラの団員および、王立音楽院講師として日常を送っていました。火曜日は朝から生徒にレッスンをつけるために音楽院に居ました。特に変わった様子も無かったそうです。それから午後1時過ぎ、音楽院オーケストラの練習に加わりました。これは演奏者としてです。4時からは、補講を希望する学生に1時間レッスンをしています。いずれも特に変わった様子はありませんでした。それから、4階の教員室に入ったわけです。教員室ではお茶を飲んだり、本を読んだりしていたそうです。それから彼一人が残り…数時間後に殺害されました。」
「ホプキンズ君、きみが最後にレナム君に会ったのはいつのことかね?」
「先々週の日曜日に、僕がポールの家で食事を。」
「その時、彼に何か変わった様子は?」
「いいえ、全然。いつもと変わりませんでした。」
「前に会ってから1週間で、レナム君はきみを訪ねてきたわけだ。この間隔はどうかね。」
「短いですね。」
「つまりこうなる。」
ホームズは、左手の人差し指を唇に当てた。
「その1週間のあいだにレナム君は、どうしてもホプキンズ君に会いたい事情が出来た。レナム君が訪ねて来たのは月曜日の昼間。そんな時間に刑事のきみが在宅しているはずが無いことくらい、彼は知っていたはずだ。それでも訪ねて来た。僅かな可能性に賭けたのだろう。用件は、もちろん夕食の誘いではなかった。しかし、伝言はしなかった。電報も打っていない。つまり、ホプキンズ君に直接話したかったという事だ。しかし、会う約束の当日、彼は殺された。彼の死のきっかけは…」
血の気を取り戻したはずのホプキンズの顔が、みるみる内に青ざめていった。彼は言葉を失い、唇を噛んだ。ホームズは、すばやく声を落とし、静かに付け加えた。
「もちろん、これから調べる事だ。君が責任を感じる事じゃない。」
 私は、再度ハドスン夫人を呼び、熱いレモネードを造ってくれるよう、頼んだ。それから黙ってしまったホプキンズと、ホームズを交互に見やり、口を開いた。
「遺体はどうしたね?」
「司法解剖のあと、埋葬されました。」
ホプキンズは視線を落としたまま答えた。
「今日の午後…さっきです。故郷の墓地に。僕も葬儀に参列しました。土に埋められるポールの棺を見ながら、必死に考えました。一体、誰が?どうして?どうかなってしまいそうな気持ちのまま、ロンドン行きの汽車に乗り…やはり考え続けました。とにかく犯人を捕まえるには、冷静になる事です。状況はさほど難しくはありません。ポールは、おそらく音楽院内で誰かと会うつもりだったのでしょう。その会見を終えた後、僕と食事をする予定で。それは人に聞かれててはまずい内容の会見だったので、人気のない夜の学校を選んだ。では、学校関係者か?断定はできません。音楽関係か?可能性大です。音楽院は音楽院所属でなくても、音楽関係の人間が頻繁に出入りします。しかし、決定的な証拠はありません。では動機は?さっき申し上げたような仮説を立てると、犯人にはポールを殺さねばならない、何らかの動機があったのです。でもどうして?」
ホプキンズは、鋭い視線をホームズに向けた。
「どうして、ポールが殺されねばなりませんか?」
ホームズは長いため息と共に煙を吐き出した。
「動機の事を考えると、スタンリー・ホプキンズ君は被害者の友人であるがゆえに、必要な冷静さを欠いてしまう。だから、駅からまっすぐにベーカー街へ向かい、僕に相談することにしたという訳か。」
「仰るとおりです。」
「よろしい。」
ホームズはパイプを放り出した。
「この件について、捜査してみよう。殺人は3日も前だ。現場や遺体は保存されていないから、その線からの捜査はスコットランド・ヤードに任せるとして、我々はその…動機。動機から探ることにしよう。それにはレナム君の関係者に話を聞く必要があるな。ホプキンズ君、レナム君が最後に帰郷したのは?」
「去年のクリスマスです。僕と一緒に。」
「特に変わったことは?」
「いいえ、別に。」
「よろしい。では、ロンドンにおける関係者から当たって間違いはなさそうだな。明日の朝、レナム君の職場関係から話を聞こうじゃないか。明日の朝…8時、ロード街へ行くよ。そっちの方がベッカー・オペラハウスに近いからね。」
「よろしくお願いします。」
部屋を辞そうと立ち上がったホプキンズに、私はハドスン夫人が造って持ってきたレモネードを差し出した。
「これを飲んでから行きたまえ。外は冷えているからね。」
「恐れ入ります。」
ホプキンズは素直にこの忠告を聞き入れ、コップの中身を飲み干してから、部屋を出て行った。

 通りの馬車までホプキンズを見送って、私が居間に戻ってみると、ホームズは窓から夜の闇に去ってゆく馬車を眺めていた。そしてドアを閉めた私に、勢い良く振り返った。
「一服盛ったな?ドクター。」
「軽い睡眠薬だよ。ロード街に着く前に効き始めるだろうから、御者にはたっぷり握らせておいた。」
「ふん。君も油断ならないな。」
「今の彼には、栄養摂取と睡眠が必要だよ、ホームズ。」
「僕には、事件が必要だ。…さあ、ワトスン。始まり始まりだ…いや、しかし今日の所は、やるべき事はない。さっさと寝るとしようじゃないか。」
私は彼に同意すると、グラスに残ったスコッチを飲み干し、寝室に引き取る前にホームズへ一声掛けた。
「…大丈夫かい?」
「ああ、もちろん。」
ホームズは真っ直ぐに寝室に向かおうとして、ドアの手前で足を止め、私を見やった。
「何が?」
「ほら。君、いつもの調子が出ていないよ。最近、体調が良いとも言いかねたしね。ちょっと的外れな説を持ち出してみたり…少し落ち着かないみたいだ。それに身内を殺された依頼人への配慮も不足していやしないかい?もっとも、今回は依頼人がホプキンズ君だという事もあるけれど。」
冗談か皮肉で返すかと思ったら、意外にも真剣な表情と答えが返ってきた。
「君の言うとおりさ、ワトスン。さっきも君がしきりと僕を睨むのはわかっていた。確かに最近手持ち無沙汰だったから、調子が出ないというのも一理ある。それから、今回の依頼人の事もだ。依頼人で、殺人被害者の親友で、しかも捜査官なんて複雑な人は、稀だからね。僕も持て余したというところさ。でも、大丈夫だよワトスン。明日の朝になったら、いつものように君と二人でおおいに嗅ぎ回ってやるさ。おやすみ。」
勢い良く閉められたドアの向こうから、頓狂な声がもれ聞こえた。
「ああ、三人か…!」

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