Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ


  マリルボンの音楽家
  

マリルボンの音楽家 1

 春も半ばを過ぎて、しばらく居間の暖炉に火を入れない日続いた頃の事である。私が外出先からベーカー街の我が家に戻ってみると、居間はひどい煙で充満しており、まるで火事のような有様だった。
「少し換気をしたらどうだ?」
私は思わず眉を寄せて言った。すると煙の向こうに座っているらしきシャーロック・ホームズの、ガラガラ声が返ってきた。
「暇なんだよ、ワトスン。」
「そりゃ結構。暇つぶしに立ち上がって窓を開けたまえ。」
「暇だから、実験してみたんだ。人間、どのくらいの煙草の煙に耐えられるのか…」
私は適当に部屋を突っ切り、窓を開け放った。外の空気が室内に流れ込み、空気が入れ替わろうとするころ、やっとホームズの姿が見えてきた。彼はいつもの椅子に胡坐をかき、一番大きなパイプをくわえ、呆れたことに煙草の缶を小脇に抱えていた。
「やれやれ。」
ホームズはぼんやりと言った。
 いつもの彼なら何事か私に皮肉か嫌味を言うのだろうが、最近の彼は今ひとつ元気がなかった。
「このあいだのマリルボンの事件。続報はあったかい?」
私は試しにこのベーカー街の近所で、最近起きた殺人事件の話を持ち出してみた。
「いや。」
ホームズは投げやりな視線を、テーブルの上の夕刊にやった。
「新展開なし。望み薄だな。」
彼はつまらなそうにつぶやき、またパイプをバクバク吸っては、もうもうと煙をあげた。
 確かに、ここ最近のホームズは暇だった。彼を興奮させるような事件が持ち込まれないのである。ロンドンにとっては平和で結構なことだが、ホームズにとっては退屈で、彼に言わせると「何の価値もない」毎日の連続である。
 そういう時は決まってコカインに手を出すのがこの同居人の悪癖だったが、私とハドスン夫人の共同戦線により、それはしばらく中断していた。つまりホームズには、二重に辛い禁断症状と戦う日々と言う訳で、ニコチンへの依存度は急激に高まっていた。
 そう思うと、自然と私の口元に笑みが上った。ホームズはそれが不快らしい。
「さっさと着替えてきたらどうだい、ワトスン。窓を閉めて。」
「分かったよ。きみもその缶を置いて。そろそろ夕食だろう。…おや?」
私は窓を閉じ、ブラインドを引こうとして思わず手を止めた。
「怪しい人体実験はやめだな、ホームズ。良い暇つぶしがやってくるぞ。」
「サンタクロースか?」
「ホプキンズ君だ。」
ホームズは首を捻じ曲げて、一瞬私を見やり、それからノロノロと煙草の缶を絨毯の上に置いた。しかし、その瞳が幾らか輝き始めたのは隠せなかった。
「若きホプキンズ警部にしては、重い足取りだな。余程の難事件と見えた…」
階段を上がってくるホプキンズの足音を聞きながらの、ホームズの解説が終わるころ、足音の主がドアをノックした。
 入室を促すホームズの声に、ドアは重々しく開いた。ホプキンズを迎え入れようと、窓からドアへ向かった私は、入ってきた青年の姿に思わず息をのんだ。
「ホプキンズ君、具合でも悪いのかい?」
「いいえ、ドクター。」
答えた青年の顔色は青ざめ、目ばかりが炯炯と光り、大きなくまがその周りを縁取っていた。いつものしゃれたツィードのスーツは着ているが、歩き方に精気がなく、まるで重い足枷でもはめているかのようだ。彼は搾り出すような声で言った。
「具合が悪い訳ではありません。こんばんは、ドクター・ワトスン。ホームズ先生…お食事時にお邪魔して申し訳ございません。」
 普段は元気で、溌剌として、輝いている若者が、どうしてこうも沈み込んでいるのか理解できなかったが、私はとにかく彼に椅子を勧めた。
「具合が悪い訳でもないのに、どうしたね、その有様は。」
対照的に、今度はホームズの方が元気になってきた。
「マリルボンの殺人事件です。」
「ほう!いよいよ来たか。僕に相談したくなるような、興味深く難解な事態となったわけだね?君のような優秀な警官も捜査に手を焼くような…」
「僕は捜査に参加していません。」
「捜査をしていない?」
ホームズは背筋を伸ばし、チラリと私の方を見やった。さっきまでの暇人は何処へやら、不謹慎にも口元に笑みが浮かんでいる。ホームズは軽く咳払いをすると、ホプキンズの顔に見入りながら、質問を続けた。
「捜査に参加していないスコットランド・ヤードの警部が、なぜ僕のところに?それともワトスンの患者かね?」
「ホームズ先生の依頼人です。」
「なるほどね。」
ホームズは座りなおすと、手のひらをこすり合わせて言った。
「よろしい。依頼内容を聞くとしよう。ワトスン、夕飯は後だ。ハドスンさんに紅茶を持ってきてもらってくれないか。」

 ホプキンズは熱い紅茶をすすり、一息つくと絨毯の上を凝視しながら話し始めた。
「一昨日の朝です。ヤードに出勤するや否や、事件という事で現場に向かいました。場所はマリルボン。王立音楽院校内です。校舎の2階は事務室が並んでいるのですが、その一番奥に来客用の簡単なテーブルと、椅子があります。その脇に男の死体があるのを、雑役夫が見つけたというのが第一報でした。既に何人かの警官が現場を固めており、僕が陣頭指揮を取る形で捜査が始まりました。被害者の身元はすぐに分かりました。同校のホルン講師で、名前はポール・レナム。身元が判明すると、僕は捜査担当からはずされました。」
「どうして?」
天井を見ながら話を聴いていたホームズは、ゆっくりと視線をホプキンズに戻しながら尋ねた。
「それは…被害者が、僕の身内だったからです。」
ホプキンズはティー・カップを置こうとしたが、その手は酷く震え、カチャカチャと音を立てた。私は見るに見かねてホプキンズの手からカップを取り、皿に戻すと、もう一杯彼にすすめた。
「なるほどね。」
ホームズは、そんなホプキンズの憔悴した様子には関心もない様子で、先を促した。
「身内が被害者となると、そりゃ捜査からはずされるのが当然だ。少し回りくどくなるが、まずはホプキンズ君。その被害者…ポール・レナム氏と、君の関係について説明してくれないか。」
「はい。」
ホプキンズはもう紅茶を飲む気も失せたらしく、両手をひざの上で硬く握り締めて話し始めた。
 「僕の実家の近所に、ポールの家はありました。彼は僕より2歳年上です。彼は母親を早く亡くしました。そこで、幼いポールに同情した僕の両親が、何かにつけ彼の面倒を見るようになり、僕らは自然と一緒に育つことになりました。僕には女の姉妹しかいませんでしたから、ポールはちょうど兄のようなものでした。同じ学校に入り、休日は一緒にサッカーやサイクリングに興じたものです。十代になるころには、お互いを兄弟であり、無二の親友であると認識していたと思います。
 ただ、互いの特技は違いました。僕はいくつになっても…そう、冒険好きと言いますか。そういう性質なので、学校を出ると刑事を志しました。ポールのほうは、彼の祖父の影響でしょう。音楽にその才能が花開きました。子供のころはトランペットを習っていましたが、音楽学校に上がるころにホルンに転向したのです。」
「その、レナム君の祖父だが、もしかしてどこかのオペラ劇場でコンサートマスターをしていなかったかい?」
ホームズの問いに、ホプキンズはやっと僅かな笑顔を浮かべた。
「さすがですね、先生。ええ、ポールの祖父ハロルド・レナム氏は昔ベッカー・オペラハウス・オーケストラの初代コンサートマスターだったそうです。ポールにプロとして音楽の道を勧めたのも、このお爺さんでした。そこで、学校を出たばかりの僕と、音楽院に合格したポールは、一緒にロンドンに出てきました。ポールは貧乏学生ですし、僕は駆け出しの巡査でしたから、共同で部屋を借りました。余裕が出来たら、それぞれの生活に合った住まいに移ろうという話でした。でもこの共同生活は快適で…結局、12年近く続きました。」
「12年?」
私はメモを取る手を止めて聞き返した。
「そんなに長く続いた共同生活を、どうして解消したのだい?結婚かなにか?」
「いえ。大家が下宿屋をたたむと言い出したんです。遺産が手に入ったので、田舎にひっこむとかで…ロンドンの下宿はさっさと人手に渡り、後は婦人服店になるというのです。それで、ポールと僕は已む無く引越すことになりました。それが3年前の事です。」
ホームズが先を促した。
「引越し先は?君は確か…」
「ロード街です。ポールは、ホルンの練習がしやすいよう、王立音楽院の近くに移りました。そのころには僕は警部補になっていました。ポールはおじいさんと同じくベッカー・オペラハウス・オーケストラのメンバーになりましたし、教師としてもの収入もあったので、お互いなんとかやっていけるようになりました。」
「それで、二人の交流は?別居したとなると、疎遠になったのでは?」
ホプキンズは眉をさげて、力なく笑った。
「いやまあ、確かに会うことは格段に減りました。しかし、週末ごとに一緒に食事をしたり、お互いの下宿に泊まったりという感じでしたから、疎遠になったとは言えないでしょう。」
「なるほど。それで、最近は?」
ホプキンズは、もとの沈み込んだ暗い顔にもどった。
「相変わらずでした。僕はこの通り不規則な仕事でしたが、電報のやりとりをしては、一緒に飲んだり食べたりしていました。それで、このあいだの月曜日も…」
「今日は何曜日だ?ワトスン。」
「金曜。」
「ホプキンズ君、続けて。」
「月曜日の昼すぎ、ポールは僕の下宿を訪ねてきたそうです。」
「君は不在だった?」
「ええ。僕はまだ勤務中でしたから。それで、隣室のステイトン君が…彼は、最近越してきた若い医者なのですが…ステイトン君が訪ねてきたポールに、僕の不在を伝えると、ポールはメッセージを残していきました。」
「メモで?」
「いいえ、口頭で。火曜日の夕食をフッカー亭で一緒に食べようという、メッセージでした。僕は月曜の夜中…もう火曜日でしたね。帰宅したときに、ステイトン君にそれを聞いたのです。」
そう言ったっきり、ホプキンズは黙り込んでしまった。その表情を見ればおおよそ検討がつくが、訊かない訳にも行かない。ホームズが視線を投げてよこすので、私が先を促すことになった。
「…それで、君は火曜の夜に、その料理屋へ行った?」
「はい。夕食を一緒にとる時は、二人とも仕事が終われば店に行くという感じで、特に時刻は決めていませんでした。僕は定時で終わったので、夕方5時半にはフッカー亭に行きましたが…結局、ポールは来ませんでした。」
ホプキンズはここで大きなため息をついた。
「何か用事が出来たのだろうと思いました。ポールが来なかった事はありませんが、僕は何度か仕事で彼との約束をすっぽかしたことがありますし。あの日は、別に気にもせず閉店と同時に帰宅し、寝てしまいました。そして、翌朝…翌朝が、その…一昨日です。」
ホームズが、大きく煙を吐きながら後を続けた。
「殺人現場に行ってみると、死体があり、それがポール・レナム氏だったと。」
応える代わりに、ホプキンズはがっくりと肩を落とし、両膝に肘をつくと頭を抱えてしまった。
 気の毒に、この若い刑事はいつものように仕事として死体を見に行ったのである。そこであった死体が自分に近しい人間だったとは、そのショックは察するに難くない。この憔悴振りからみて、睡眠も食事もろくに摂っていないようである。私は部屋を出て、ハドスン夫人に何か温かい簡単な食事を出してくれるよう頼んだ。そして居間に戻ったところで、あいかわらずパイプをふかしていたホームズが口を開いた。
 「それで?ホプキンズ君。きみは捜査担当から外され、どうしたのかね。」
ホプキンズは、気を取り直したように顔を上げ、グイと背中を伸ばした。
「休暇を取りました。ご想像がつくとは思いますが、僕は居ても立ってもいられなかったのです。ポールを殺した奴をつきとめてやりたい、その一心でした。色々調べて回ったのですが…手詰まりになり、ホームズ先生にご相談する事にしたのです。」
「なるほどね。それで、死体の状況は?」
「いや、その前に。」
ホームズの質問に対するホプキンズの返答を、私が遮った。
「食事にしよう。いいや、ホームズ。これは捜査上必要なことだよ。このままだとホプキンズ君は疲労で倒れてしまう。つまり、君の捜査にも支障をきたす訳だ。それを回避するためには、まず簡単な食事を取るべきだね。ちょうど今…」
ドアがノックされた。私が開くと、ハドスン夫人が大きな盆にポットと食器、温めたパンを載せてやって来た。
「野菜と鶏肉のホワイトシチューですよ。」
彼女にそうニッコリと言われては、ホームズも返す言葉がないらしく、パイプを放り出した。
「まあいい。ホプキンズ君、医者もああ言うことだし、すこし腹ごしらえをしよう。続きはその後でまた聞くよ。」


 → マリルボンの音楽家 2

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