Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

9.凶器

 この時点で、随分遅い時刻になっていた。テイル夫人は聴取の後直ぐに自室に引き取ったし、マーガレットもクーパーが処方した薬を飲んで休んだと言う。
 クリスは執事とともに、エリス巡査の要請により銃器室について調べていた。実の所銃器についてはクリスも執事も管理に関わっておらず、何か無くなっている物があるかどうかは分からない。時間も遅いので、明日にでもテイル教授の書類を調べて確認しようという運びになった。
 さすがのクリスも、ぐったり疲れてしまった様子だった。
「でも、レガッタには出ますよ。」
クリスは自室に引き取る前に私に言った。
「ここで僕が抜けたら、チームに迷惑がかかるし。ウェスト・アングリアが二位に入ると賭けた人にも、申し訳ありませんからね。」
 二つ目の理由はともかくとして、チームプレイを大事にするボートで、リーダーのクリスが抜けると大打撃なのは、確かな事だ。私は階段の下から、クリスが自室へ引き取るのを見つめながら、出場できると良いな、などと考えていた。
「逮捕されなければね。」
 突然、背後でホームズの声がした。人の心を読んで、意地悪な事を言う。
「ワトスン、もう寝ようよ。今日は長い一日だったからね。汽車でロンドンを立ったのがはるか昔のような気がする。」
 一階の玄関ホールで、ホームズは首を回しながら眠そうな顔で言った。現場記録係がやっと仕事を終えた所で、ブラッドストリート警部は夜番の巡査を残してひとまず引き揚げる事にした。
「ホームズさん、ワトスン先生。我々は明朝また来ますので。現場前の巡査には、ホームズさんなら入れても構わないと言っておきましたから、見たければいつでもどうぞ。」
 そう言って上着を羽織った警部は、クリケット荘から出て行こうとする。一緒に、監察医も引き揚げる所だった。それを見送ったクーパーが、私に話し掛けてきた。
 「やれやれ、ワトスン。面倒な事に巻き込んで、済まない。」
クーパーが溜息交じりに話し掛けてくると、
「じゃ、お休み。」
と言ってホームズはさっさと階段を上がって行ってしまった。
 「ホームズさんは、やっぱり休暇より事件が好きみたいだね。君が書いているようにさ。」
クーパーはホールで階段の手すりに背中をもたせ掛けながら、眉を下げて笑った。
「そのようだね。クーパー、きみ大丈夫かい?」
 私が尋ねるとクーパーは、ああと答えて、少し額を抑えた。よく日に焼けた顔はいつもにこやかで屈託が無いように見えるが、今夜ばかりはさすがに疲労困憊という感じだった。
「テイル教授は…」
彼は溜息交じりに小さな声で言った。
「確かに家族に愛されてはいなかったが、少なくとも僕には良くしてくれた。」
 私が頷くと、クーパーはやはり眉を下げて続けた。
「クリスやマーガレットの事だって、愛していたし心配もしていたんだ。だからこそ、事業の資金や結婚相手の事で仲たがいもした訳で…。悪い人では決してないし、良い人だったはずだよ。」
 私はもう一度頷くと、クーパーの肩を叩いた。
「そうだね。気持ちは察するよ。週末のレガッタまで、君はここにとどまるんだろうけど、あまり思い詰めないようにね。そうだ、私は医者だから何か軽いものを処方しようか?」
「ワトスン…」
 クーパーはクスクス笑い出した。私も笑って、彼と一緒に階段を上り始めた。
「さぁ、今日は大変な一日だったから。もう休もうよ。明日になったら、監察医による検死結果も出るだろうし、ホームズや警部が何らかの筋道をつけるだろうさ。」
 クーパーは私の提案に同意し、二人はおやすみと言ってそれぞれの寝室に入った。

 私は自分の寝室には入ったものの、事件のせいで気分が昂ぶっているのか、すぐには眠れそうに無かった。とりあえず靴と上着だけ脱ぐと、ガウンを羽織ってしばらくベッドの上にぼんやりと座っていた。
 ろうそくの炎がゆらめくのを眺めていると、テイル教授の死に際のあの姿が目に浮かんできた。以前、アフガニスタンの戦場で何度か経験しているあの感覚だ。自分の腕の中で人体が命を手放すあの一瞬 ― 荘厳で、胸の潰れるような、厳然たる ― 死が生み出される瞬間だ。
 弱々しい教授の手が私の腕を掴み、血の気の無い唇が、必死に捕らえるべき音を探している。それがやっと私の耳に届いた ―
 『クーパー!』

 「ワトスン!」
 私は呼ぶ声で我に返った。
「ワトスン!」
 もう一度声がした。誰かがドアを小さく叩き、囁くような声が外から聞こえてくる。
「クーパー?」
 私は聞き返しながらドアを開けた。すると、暗い廊下にクーパーが立っていた。私の部屋の明かりでぼんやりと照らし出されたクーパーは、目を大きく見開き、真っ青な顔をしている。まるで幽霊を見たような、という表現がしっくりきそうだ。シャツはカラーを外し、ボタンもいくつか空けてもう寝間着を着ようと言う体制だった事を物語っていた。
 「どうしたんだい?」
 私は驚いて尋ねた。するとクーパーは、
「一緒に来てくれ。」
と、少し声を震わせながら私の腕を取り、廊下に連れ出した。私は咄嗟に燭台を掴むと、彼と一緒に部屋を出た。クーパーは隣りの彼自身の寝室に私を連れていった。
 彼の寝室に入ると、一見別にどうと言う事はない。私と同じように靴と上着が脱ぎ捨てられ、ナイトシャツがガウンと一緒に椅子に引っ掛けられている。ベッドサイド・テーブルには燭台があってろうそくの灯りが一つともっていた。
「部屋に入って、軽くブランデーを飲んで(サイドテーブルには空になったグラスがあった)、さぁもう寝ようと思って、靴と上着を脱いで、シャツをと思って、部屋を横切った時に気付いたんだ。あれを見てくれ。」
 クーパーはいつもの爽やかな調子とは全然違う、抑揚の無い早口で説明しながら、ベッドの足元を指差した。暗くて良く見えないので、私は燭台を持ったままベッドの足元にしゃがんだ。そこには、白い布がクシャクシャになって落ちていた。まず私がギョッとしたのは、明らかに赤々とした染みが認められた事だった。私は燭台の角度を変えて布の塊を別の角度から覗き込むと、一目で分かった ― 真っ赤な血にまみれた、大きなナイフが包まれていたのだ。
 「分かるかい、ワトスン。これは…教授を刺したナイフなのでは…?」
 クーパーが上ずりそうになる声を抑えながら言った。私は黙って立ち上がった。すると突然、開いたままだったドアの向うから冷ややかな声が上がった。
「やっぱりね。」
 クーパーと私は飛び上がるほどびっくりして振り返った。ホームズが燭台を手に部屋に入ってきたのだ。
「ホームズ、これは一体…」
 私の問いかけには答えず、ホームズは燭台を置いた。三つの灯りで部屋が明るくなる。私がさがると、ホームズがかわりにベッドの足元にしゃがんだ。彼はポケットからハンカチを取り出すと、そっと絨毯の上から血染めの布にくるまれた血まみれのナイフを取り上げた。直ぐには立ち上がらず、しばらくは絨毯を注視していたが、やがて立ち上がってクーパーに向き直った。
「これは、クーパー先生がここに置いたのですか?」
「とんでもない!」
 さすがのクーパーも目をむいている。声は勤めて冷静になろうと、押し殺したような調子だった。
「そうでしょうね。」
 ホームズは素っ気無く言うと、ちょっと天井を見てからクーパーに再度尋ねた。
「事件が起ってから、何回この部屋に戻りましたか?」
「今が最初…いや違う。二回目です。一回目は書斎で倒れている教授を発見した時、道具を取りにこの部屋に駆けつけましたから。」
「その時、これはここにありましたか?」
「覚えていませんよ。」
クーパーが首を振った。
「あの時は一刻を争っていたのですから。部屋に駆け込んで道具の入った鞄を掴むと、一目散に書斎へ走りました。ここにこんな物が落ちていていたかどうかなんて、覚えていません。」
「一目散に出ていったと言う事は、この寝室には鍵をかけていなかったのですね?」
「そうです。」
「それから、この部屋に戻ったのは…」
「寝ようと引き取ってきた、ついさっきです。教授が亡くなってからは、ずっと下に居て居間や警部と話しをした食堂、それから監察医との打ち合わせは現場の書斎でしていましたから、ここには戻らなかったのです。」
「なるほど。」
 ホームズはしばらく手に持った手がかりを眺めていたが、やがて顔を上げて、彼を注視しているクーパーと私に言った。
「とりあえず、これは僕があずかります。明日の朝、ブラッドストリート警部に渡すとして。今日はもう遅いから、休むとしましょう。」
 ホームズは自分が持ってきた燭台を取り上げて、さっさと部屋を出て行こうとする。その背中にクーパーが呼びかけた。
「ホームズさん、僕は第一容疑者でしょうか?」
 廊下に出ていたホームズは振り返ったが、その表情は暗くて読み取れない。そして低い声で言った。
「残念ながら、そうです。では、お休みなさい。」
 ホームズはさっさと自分の寝室へと歩き始めた。クーパーと私は顔を見合わせた。
「クーパー。大丈夫だよ。」
私は真っ直ぐにクーパーを見つめながら断言した。
「ホームズはあんな事言っているけど、私には分かっている。君が殺人犯だなんて事、あるもんか!」
 クーパーは少し呆気に取られたようは顔だったが、私はホームズを追ってクーパーの寝室を出ていった。

 「ホームズ!」
 私はノックもせずにホームズの寝室に乗り込んだ。
「ワトスン、いい加減寝たらどうだい?」
 ホームズは椅子に腰掛けて、血染めの布とナイフを熱心に観察している。部屋にはガス燈のみならず、ろうそくの火もいくつか点っており、随分明るかった。
「きみ、まさかクーパーを本気で疑っているのではないだろうね?」
私が勢い込んで尋ねると、ホームズは天眼鏡に手を伸ばしながら、
「ああ、ウィッティントンの猫なら高く売れたよ。」
と、トンチンカンな返事をする。私はホームズの手から天眼鏡をむんずと取り上げた。
「ホームズ!答えてくれたら、寝てやる。クーパーを疑っているのかい?」
 ホームズは血染めの布とナイフを膝の上に置くと、私の顔をしばらく見詰めた。そしてすこしゆっくりと口を開いた。
「答えは、イエスだ。」
「的外れだ。クーパーは人を殺すような男ではないよ。」
「それはワトスン、君の感想であり、希望だろう?」
レガッタが行われる町に休暇にやってきたはずのホームズは、灰色の目つきも鋭い名探偵の顔に戻っていた。私は痛い所を衝かれたが、引き下がる訳には行かない。
「ホームズ、君がいかなる人も除外しない事は分かっている。でも、クーパーには動機がないよ。現に教授が亡くなった事を悲しんでいるし、それに彼は左利きだ。」
「君は健忘症じゃないだろう、ワトスン。教授の喉を斬ったのが右手であって、クーパー君の右手にはそれが出来ないとは、断言できない。動機だって捕まってみたら長々と説明するのかも知れない。何と言っても、クーパー君はアリバイの点で不利だ。」
「アリバイ?」
「そうさ、ワトスン。お茶の後、彼は自室で仮眠を取っていたが、それを証明する人が居ない。あの四人の客はどうだと思う?教授との書斎での会見の後は、バッキンガムとジリングが居間で新聞を読んでいたし、ペリーとハーディは図書室で話をしていた。このお互いに庇う義理のない四人が、それぞれに相手のアリバイを証明しているのに対し、クーパー君にはそれがない。テイル夫人と、マーガレット嬢もアリバイが証明できていないがね。」
「教授を殺しておいて、その凶器を自分の部屋に置き、わざわざ私にそれを見せるなんて、そんな馬鹿な事があるもんか。」
 ホームズは眉を寄せると、膝の上の物をテーブルに置き、立ち上がった。
「きみ、さっき『答えたら寝てやる』といっただろう?僕は『イエス』と答えたんだ。早く出ていって、ベッドに入りたまえ。」
「私は友達に殺人の疑いをかけられて、平気で居るような男じゃない。」
「犯人と断言はしていないだろう。容疑者の一人だと言っているだけだ。」
 私にはどうしても納得できなかった。感情的だと言われても仕方がないが、私は食い下がった。
「クーパーは君や私に悪いと思っているのだよ?休暇に来たのに、殺人事件に巻き込んでしまったってね。その上自分の恩師が殺され、寝室には凶器が置かれる。更に君はあの態度だ。優しくしろとは言わないけど、多少の配慮があったって良さそうなものじゃないか。」
「僕は殺人事件の捜査中だよ、ワトスン。その手の配慮は必要ないね。誰かを特別扱いするだなんて、不都合この上ない。」
「関係者の中で、クーパーは私を介しての友人なのに、他と同列に扱って殺人の嫌疑をかけるのが、ホームズにとっては好都合だと?」
 私は言ってからしまったと思ったが、もう遅い。ホームズはじっと私をみつめていたが、やがて無表情なまま言った。
 「クーパー君が殺人犯だとして、好都合と言える事が一つある。」
「なに?」
「彼が犯人なら、ワトスンのダートマス赴任の話が立ち消えになる。それじゃあお休み、ドクター。良い夢を!」
 ホームズは言いながら私の体をくるりと回すとドアを開けて、ドンと廊下に放り出し、凄い勢いでドアを閉めてしまった。
 私の手にはホームズの天眼鏡が残っていた。


 → 10.テムズ川

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主な登場人物

 シャーロック・ホームズ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 探偵

 ドクター・ワトスン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 医者,ホームズの友人

 クーパー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ワトスンの旧友,海軍軍医

 テイル教授 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クーパーの恩師,クリケット荘の主

 テイル夫人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ テイル教授の妻

 クリス・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫

 マーガレット・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫,クリスの妹

 エバンス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クリスの友人,マーガレットの恋人

 バッキンガム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ブリュアリーの営業担当者

 ペリー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 不動産業者

 ジリング・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新聞の副編集長

 ハーディ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古文書学者

 ブラッドストリート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スコットランド・ヤードの警部

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