Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

10.テムズ川

 翌朝、私は寝過ごした。目が冴えてしまって中々寝付けなかったせいだ。食堂に降りて朝食を摂っていると、ブラッドストリート警部が入ってきた。
「おはようございます、先生。」
 彼は相変わらず綺麗な声で挨拶すると、朝食がまだだったらしく自分の分のパンと卵を確保して、私の隣りに腰掛けた。
「ここの料理人の腕の良さは評判ですからね。確かに…旨いですね。夕べの晩餐を食べ損ねたのは、残念でした。」
 私は苦笑した。もう随分明るくなっている。窓から見ると、警官たちが庭を捜索しており、馬丁と庭師が案内をしているらしかった。私は紅茶を口に運びながら警部に尋ねた。
「捜査に何か進展があったかい。」
「犯人逮捕への進展はまだありませんが、おかしな事がありましたよ。合鍵が出てきたんです。」
「合鍵が?」
聞き返すと、警部は頷いて口の中の物を飲み込んだ。
「ついさっき、家の西側の植え込みから発見されました。執事の言うように、大きな輪っかにこの家の全ての合鍵をつなげた束で、確認させてみるとすべての合鍵が揃っていました。」
「どうして植え込みになんて落ちていたんだろう。」
「さぁ…」
 ブラッドストリート警部はマッシュポテトをてんこ盛りにしながら、口ごもった。
「犯人が逃亡中に投げ入れたか…。この場合、犯人が犯行後に家から出た事を示唆しますね。つまり、あの四人の客が問題になりそうです。もっとも、クーパー先生も朝からレガッタ会場に出掛けていますし、クリスだって庭の捜索をするに当って一度出てきましたから、容疑者には変りありませんよ。」
「なるほどね。」
 私がホームズは、と尋ねようとしたら、当人が食堂に入って来た。背後にクリスと執事を従え、精気に溢れた顔つきをしている。手には何やら茶色い紙袋を携えていた。
「おはよう、警部にワトスン。二人とも出足が遅いな。僕はもう今朝から色々な情報を入手しているよ。」
つまり、朝食なぞ取っていないと言う事だろう。ホームズはそんな私の感想なぞ知らぬ顔で続けた。
「クリス君と執事に調べてもらって、やっと銃器室の銃器リストを見つけたんだ。照合して調べてみたが、結果はどうだったと思う?」
 ホームズは嬉しそうに尋ねるが、私もブラッドストリート警部も半ば呆然としてクリスに助けを求めた。すると、クリスは困ったように肩をすくめた。
「別に、何もありませんよ。銃器室から無くなった物なんて、一つもありません。僕が夕べ持ち出したウィンチェスター以外はね。」
「つまり、何かを持ち出すため以外に、誰かが銃器室のドアの鍵を開けたということだよ!これは多分に興味深いね。…ああ、お二人ともありがとう。助かりましたよ。」
 一人で上機嫌に喋るホームズに、クリスも執事もやや気圧されていたようだが、どうやら無罪放免となって安心したらしい。
 クリスは、川へ練習に出掛ける準備をしに行った。教授の遺体は町の警察署に持っていかれて解剖待ちだし、葬儀の準備も明日にならないと手がつけられないだろう。担当弁護士はロンドンなので、これも直ぐには来れそうにない。

 「さてと…」
 ホームズはクリスと執事が出ていくと、手に持っていた紙袋を警部の前に置き、椅子に腰かけた。そして紙巻を取り出すと、一本口にくわえて火をつける。変にニコニコしながら深く吸い込み、長く煙を吐き出た。そしておもむろに、紙袋を前にしてフォークを持ったまま動きを停止している警部に言った。
「さぁ、警部。凶器を発見したよ。」
 ブラッドストリートは驚いてフォークを持つ手がゆるみ、テーブルに落とした。ホームズは相変わらずニコニコしながら、我々の食事のとなりで煙草をバクバクふかしている。警部は道具を置くと、ポケットから手袋を取り出してはめ、用心深く袋の中身を取り出した。出てきたのは、爽やかな朝食の席にまことに相応しいかな、血まみれの大きなナイフと、大きな血の染みがついた白い布だった。
 ブラッドストリート警部は目を丸くしたが、声は出さずにしばらくナイフと布を観察していた。
「これを、どこで発見したのですか?やはり植え込みですか?」
観察の末の警部の質問に、ホームズはニヤリと笑った。
「鋭いね、警部。確かに、この布についている極少量の土は庭土に見えるし、ナイフの刃には糊化した血液と一緒に、少し芝の葉がついている。」
 私は夕べ光線が足りなかったせいか、それとも他に気を取られたせいか気付かなかったが、ホームズの言う通りのものが付着していた。ホームズが私に向かって手を差し出してみせるので、思わず手に持っていたスプーンを掴ませてしまったが、ホームズはそれを即座にテーブルに置いて尚も手を出しているので、やっと気がついた。私はポケットから夕べホームズから没収してしまっていた天眼鏡を取り出し、手渡した。
 ホームズは天眼鏡をかざして、土や芝の様子を見ながら言った。
「この付着物から、恐らくこれらは凶器として使用された後、庭にあったと考えられる。しかし警部、これが発見されたのは、夕べなんだ。しかもクーパー君の寝室に置いてあった。土や芝はいくらか払ったような痕もあるので、庭にあったものをクーパー君の部屋に移動したんだ。」
「寝室に置いてあった?」
警部は眉を寄せて聞き返した。
「つまり、ホームズさんはクーパー先生を容疑者から外したのですか?真犯人が先生に罪を着せるために置いたと?」
「クーパー君はこれを発見するなり、すぐにワトスンに知らせたんだ。隠す気もなかったようだし、普通の犯人がわざわざ自分の部屋に凶器を置いて、人に見せるとは、思えないね。ただ…」
ホームズは少し肩をすくめると、私を一瞬見遣って続けた。
「クーパー君が犯人だとしたら、この凶器に関する一連の出来事も、彼のでっち上げと考えられなくはない。」
「教授のダイイング・メッセージもありますしね…」
ブラッドストリート警部はそう呟いて、またしげしげと凶器を観察した。
「とにかく、これは検査に回しますね。今日の午後解剖が行われますから、傷口と刃の照合も出来るでしょう。」
「それから、銃器室の東側の窓と、その下の地面を入念に調べたまえ。」
「銃器室の東側?合鍵が見つかった植え込みとはまったく逆側ですよ。」
 ブラッドストリートは凶器と布を袋に戻しながら聴き返したが、ホームズは悪戯っ子のような笑みを浮かべて何も言わないので、諦めたらしい。警部は紅茶を飲み干して立ち上がった。
「分かりました。部下に指示しましょう。ああ、テイル夫人が女中に鎮痛剤を持ってこさせたと証言したでしょう?裏が取れましたよ。ただ、女中が気になることを言っていました。夫人の部屋に鎮痛剤を届けたのは五時四十五分ごろだったが、その時マーガレットの部屋のドアが閉まるのを見たそうです。」
「閉まるのを?」
私が聞き返した。
「ええ。つまり誰かがマーガレットの部屋に入ったという事だと思いますが。マーガレット本人かもしれないし、他の誰かかも知れない。」
 ホームズを見ると、彼は灰色の瞳を輝かせて一瞬右頬を上げたが、何も言わなかった。ブラッドストリートは続けて、これから庭の捜索の様子を見てから、警察署で監察医に会うつもりだと言った。
 私の食事も終了したところだった。ホームズは勢い良く立ち上がると、紙巻の吸い差しをかなり距離のある暖炉に手首を上手く使って放り込んだ。
「さぁ、ワトスン。出掛けよう。君も真犯人には興味津々だろうから、僕に腹は立っても一緒に来るだろう?」
 ブラッドストリート警部がまた目を丸くした。

 ホームズと私が外に出てみると、昨日と同じようによく晴れていた。暑くなるだろう。
 庭の捜索をしていた巡査の一人に尋ねると、合鍵が発見された植え込みの所に案内してくれた。
 それはクリケット荘の西側だった。植え込みは家の壁から二フィートほど外側に並んでおり、一番近い窓の部屋は、玄関脇にある執事の控え室だった。
「こう踏み荒されちゃ困るな。」
 ホームズは舌打ちしながら植え込みの周りを観察した。すると、案内してくれた巡査が笑いながら言った。
「そうおっしゃるだろうと言う事で、この辺りは一旦シートを敷いて捜索したんです。でも、これと言った足跡や人の痕跡は見られませんでした。」
なるほど、と言ってホームズは控え室の窓を調べた。その窓は嵌め殺しになっており、内からも外からも開く事が出来ない。
「足跡がないのに、この植え込みに合鍵が落ちていた…」
 ホームズは右手の人差し指を唇にあてて考えている。私はそこから五ヤードほど東に玄関があるのを見て言った。
「犯人は、玄関を出て門へ向かう途中に、この植え込みに合鍵を投げ込んだのでは?」
ホームズが首を振って何事か言おうとした時、突然上から声が聞こえた。
「ホームズさん、ワトスン先生!お出かけですか?」
植え込みの斜め上の二階の窓から、クリスが顔を出している。白い競技用の服のボタンを留めている所だった。
「僕はこれから川まで行くのですが、馬車で行くのなら乗せていってくれませんか?」
「いいとも、クリス君。急いで降りてきたまえ。」
 ホームズが下から答えると、クリスは手を上げて室内に戻った。すると、開いた窓から小間使いらしき声が小さく漏れ聞こえた。
「クリス様、大声を出さないで下さいまし。隣りでマーガレット様がお休みなんですよ。」
 クリスが顔を出した部屋の西隣がマーガレットの寝室なのだろう。閉まった窓をカーテンが覆っていた。

 クリスと共にホームズと私が馬車に乗り込むと、川に向かった。その途中、クリスは昨日の昼ほどの軽さはないものの、さほど沈んだような様子もなく色々喋った。
 クリスが言う事によると、マーガレットはショックで寝込んでしまったようだ。食事も喉を通らないし、起き上がると目眩がすると言う。クーパーが神経を鎮める薬を処方して、それで寝ているらしい。一方、クリスにとっては祖母の、テイル夫人は対照的だった。自分の夫が斬り殺されたにも関わらず、いつもと変らない様子だと言うのだ。いつもと同じ時刻に起きて、いつもと同じ時刻に朝食を摂る。朝食の時刻は夫である教授と会わないように、わざわざずらしていたそうだが、教授が死んだ今朝も同じ時刻に食べたと言うのだ。余程太い神経の持ち主なのか、それほど夫を憎んでいたと言う事か。
 クリスの話を聞く限りでは、どうやら彼は教授のダイイング・メッセージや、凶器の発見については知らないらしい。ただ、合鍵については朝一番に発見されたので知っていた。
「つまり、こういう事でしょうかね、ホームズさん。」
クリスは少し身を乗り出して尋ねた。
「犯人は台所のキー・ボックスにあった合鍵の束を盗み出し、祖父を殺した。そして鍵を閉め、合鍵の束を植え込みに隠した…。ああ、でも書斎にあったはずの祖父の鍵も行方不明なのですよね。どういうことでしょう?」
「さあ。」
 ホームズは短く答えた。クリスはもっと聞きたそうだったが、彼自身の気分が乗らないのか、それっきり黙ってしまった。

 テムズ川に着くと、もう沢山の競技用ボートが浮かんでいた。四人漕ぎ,八人漕ぎ,そして二人漕ぎなど、掛け声をかけたり、競技者のバランスの見直しをしたりしている。
 クリスは馬車から下りると、すぐに土手を下ってウェスト・アングリア大学のボートハウスに向かった。やってきたクリスに、チームメイトたちが集まってくるのが見える。彼らもクリケット荘の事件を知っているのだろう。
 ホームズは辺りを見回してスチュワード(レガッタの運営委員)らしき男をつかまえた。西岸の観客席設置について相談していたスチュワードに、同じくスチュワードのクーパーとジリングは来ていないかと尋ねると、彼はもう少し上流寄りの土手で、頭を突きあわせている男の集団を指差した。
 私達がそちらの方に向かっていくと、相談は終わったらしく会話の輪が解け、その内に居たクーパーの金髪が見えた。一緒に居たジリングと共に、私達に気付いて手を振った。
「おはよう、ワトスン、ホームズさん。捜査ですか?」
クーパーが元の輝くような表情を取り戻して、笑いながら私達を握手をした。
「まぁ、そんなところです。おはようございます、ジリングさん。」
 ホームズがクーパーの傍に居たジリングに言うと、こちらもにこやかに手を差し出した。夕べのホワイト・タイではなく、麻のジャケットに洒落たスカーフをあしらっている。髪こそ若白髪だが、こうしてみると歳相応の若々しい男だ。私やホームズと同じくらいの年齢だろう。
「おはようございます、ホームズさん、ワトスン先生。」
「レガッタの準備ですね。」
私が言うと、スチュワードの二人は頷いた。
「そろそろ、会場設営の段階に入るのでね。ほら、あの川の真ん中にある島が、テンプル・アイランド。レガッタの当日は、お二人をあそこに招待しますよ。」
と、クーパーがテムズ川の中にある小さな島を指差した。
 島の大部分には木々が生い茂っているが、下流側の三分の一くらいは青々とした芝が美しく、木々を背にして白い建物が建っているのが見えた。実に落ち着いた雰囲気を漂わせているこの建物が、テンプルとよばれるもので、白い壁の三層構造になっていた。正面に突き出した階段を上がると、テラスとフランス窓がある。一番上には丸い小さなドームを冠した列柱が輪を描き、中央には何かギリシャ彫刻のようなものが立っていた。
「エトルリア様式ですか。」
 ホームズが遠目にテンプルを見つめながら尋ねた。すると、ジリングが感心したように応じた。
「この距離でよくお分かりになりますね。ええ、小さいですけど確かにエトルリア様式なんです。室内装飾を見るともっと良く分かりますよ。」
「レガッタの日が楽しみですよ。その前に、お二人に昨晩の事件についていくつか確認したい事があるのですが。」
 ホームズがそう言うと、スチュワードの二人は揃って顔を引き締めた。
「まず、クーパー先生。ミス・テイルについてお聴きしたいのです。」
「マーガレット嬢のことを?」
クーパーは予想外の事を質問されてびっくりしている。ホームズは神妙な顔つきで続けた。
「ええ、そうです。ミス・テイルの様子はどうですか?つまり、テイル教授が殺害されてから、随分具合が悪かったようですが。」
「ああ、そう言う事ですか。随分取り乱していましたよ。夕べ、書斎で警部さんと話していた時、クリスに呼ばれたでしょう?あの時のマーガレットはすっかり取り乱して、泣いたり、喚いたり、変な事を口走ったりで、もう大変な有り様で。とりあえず鎮静剤と温かい飲み物で落ち着かせました。落ち着いた頃に事情聴取で食堂に呼ばれたので、クリスに付き添わせたんです。」
「確かに、聴取の間は落ち着いていたね。」
私が相づちを打つと、ホームズが鋭く言葉を挟んだ。
「変な事を口走ったとは、何と言っていたのです?」
「ええ?」
クーパーはびっくりして聴き返した。ジリングも怪訝そうにホームズを見ている。
「大事なことなんです、クーパー先生。取り乱したマーガレットは、何と言っていましたか?」
「さぁ、別にこれと言って意味を成しているとは思えませんが…。『どうしましょう』とか、『おじい様が…』とか、『私のせいで』とか、『私が悪いんだわ』…とか、まぁ突然祖父をあんなふうに殺害されれば若い女性はそんな事も言いますよ。」
「なるほど。」
 ホームズは右手の拳を唇につけて一瞬考えているような顔になったが、また急に機械のように顔の向きを変えて、ジリングに尋ねた。
「ジリングさん、昨日は六時半に教授と会見したあと、一階の居間で新聞を読んだり、煙草を吸ったりしていたとおっしゃいましたよね。」
「ええ。」
「バッキンガム君と一緒に?」
「ええ、一緒でしたよ。」
「何か話しましたか?」
「さぁ、別にこれと言って…。彼とは特に親しい訳でもありませんし。まぁ、新聞記事の事とか、今年のエールの出来とか、レガッタの話くらいはしましたけど。」
「お二人とも、居間を出なかった?」
 ジリングはホームズのしつこい質問に、少し嫌な顔をした。明らかに居間を出て教授を殺したんじゃないかと、聴かれているような感じがするからだろう。副編集長は肩をすくめて答えた。
「ええ、私もバッキンガム君も居間を出ませんでした。まだ晩餐まで一時間ほどはあるから、ビリヤードをしようとなるまで、新聞を隅々までチェックしていましたよ。私は新聞の編集者という商売柄、記事はかなり丁寧に読み込む性質でしてね。バッキンガム君は新聞以外にも、何か雑誌みたいな物にも、目を通していたかもしれない。とにかく、二人ともずっと居間にいましたよ。」
「そうですか。」
 ホームズは満足そうにそういうと、にっこりと笑った。
「お話を聴けて助かりました。お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした。どうぞ、お二人ともお仕事に戻ってください。」
 ホームズがそういうので、二人のスチュワードは顔を見合わせたが、すぐにジリングが言った。
 「では、私は電報を打ちに行くよ、クーパー。皇太子ご夫妻の到着時間の問い合わせと、補修テントの追加分の件、二本だね?」
 ジリングはクーパーに言いながら土手を少し歩き始めている。ぐずぐずしていると、またホームズに難癖つけられそうで、嫌なのだろう。頷いていたクーパーが何かを思い出したようにジリングに呼びかけた。
 「それから、新聞記者用のパスの件も!」
するとジリングは振り向きざまに答えた。
「ああ、その件はもう昨日打ってあるから。じゃあ、また。電報局の用が済んだら、編集部に戻るので、用があったらそっちに頼むよ。まったく、編集長が休暇中だなんて、迷惑千万!ホームズさん、ワトスン先生、御機嫌よう。」

 「世の中っていうのはそういうものかねぇ。」
 ジリングが去っていくのを見送ったクーパーがため息をつきながら言った。何艘ものボートが練習を開始している川を見やっている。
「夕べ僕らの滞在する家で主人が何者かに殺され、一夜明けると週末のレガッタの準備にいそしんでいる。僕とジリングの事だよ。僕らは生きているし、レガッタのスチュワードなのだから当たり前だけど、なんだか変な気分がするよ。」
「分かるよ。」
 私は眉を下げて同意した。そしてホームズの方を振り向くと、忽然と姿が消えている。驚いて見回すと、ボートハウスの方に駆け下りていていた。目を丸くした私とクーパーの視線の先で、ホームズはボートハウスの内の、さっきクリスが降りていった物のところまで走っていく。クリスはもう川の中に居るらしいが、ホームズは別の学生をつかまえて、なにやら会話をしているようだった。
 「驚いたなぁ、いつもあんな風に急に動き出したりするのかい?」
 クーパーが尋ねるので、仕方なく私はそうだと答えた。
 「事件がなくて暇になると、何日も寝室に籠もってカタツムリのように動きが鈍くなるくせに、いざ事件となるとまるで猫か狐のように動きが俊敏になる。頭の回転もむやみに速いから、つい今さっき話していた相手のことなんて、すぐに忘れてしまうんだよ。」
クーパーはそれは凄いと言って笑い出したが、すぐに私の背後に来た人に気付いた。
 「やぁ、ブラウン。今年も会ったね。元気にしていたか?稼げそうかい?」
 私が振り返ると、そこには随分と背の低いハンチングを被った老人が日に焼けた顔に、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。
 「やぁ、クーパー先生。去年のレガッタ以来ですね。ええ、おかげさまで元気ですよ。先生のおっしゃるとおり酒を控えましてね。今年は皇太子殿下のお出ましですから、いっそう稼げそうですよ。」
と、しわがれた声で言いながら帽子を脱ぐと、ちょこんとお辞儀をして見せた。
 「ワトスン、彼はブラウン。レガッタ公認のブックメーカー(賭け屋)だ。レガッタの賭け屋は主催者側の許可なしには営業できないからね。ブラウンはもう随分長い間営業している。ブラウン、こちらはドクター・ワトスン。僕の友達だ。賭けについては、中々のつわものだよ。」
「どうも、先生。今年のレガッタにお賭けになるなら、どうぞ当店にお願いします。丁度この辺りに店構えしますからね。」
「どうだ、ブラウン。今年の人気は。八人漕ぎの人気はやはりケンブリッジとオックスフォードに二分されているのかい?」
 クーパーが尋ねると、賭け屋のブラウンは悪戯っぽくニヤりと笑い、少しだけ声を潜めて言った。
「ええ、もちろんそうですがね。今年はどうやらケンブリッジ優勢ですよ。何でもオックスフォードの一年生から抜擢された選手が、二人もラテン語の試験にパスしなかったとかで…」
「おやおや。四人漕ぎはどうだい?」
 クーパーが更にそう尋ねるので、私は笑いながら口を出した。
 「それなら、もう賭けるチームは決まっているんだ。ウェスト・アングリア大学にね。優勝候補だろう?」
するとブラウンはヒュウっと口笛を鳴らした。
 「ははぁ、ワトスン先生も中々の情報通ですね。でもここだけの話…クーパー先生のお友達だから特別にお教えしますけどね、ウェスト・アングリアは駄目ですよ。」
「どうして?」
私とクーパーは驚いて同時に聞き返した。四人漕ぎはウェスト・アングリアが優勝候補だというのは、クリスが自信たっぷりに言っていたのだ。ブラウンは更に声を潜めた。
 「確かに、前評判ではウェスト・アングリアが絶対的優勢だったんです。でも、私は三日前からヘンリー入りして練習の様子を見ていたのですが、どうやらウェスト・アングリアは最終調整に失敗したみたいなんですわ。昨日の四人漕ぎの練習なんて酷かった!まだ漕ぎ手の位置の相談なんてしているんですよ?そんなのとっくに固定されているべきなのに。ここで見ていてもあそこの四人漕ぎは川に出る前に一騒ぎ、川に出ても調子は悪いし、すぐに配置を変えてもう一度漕いでみても駄目。こんなレガッタ直前になってそんな有様じゃ、優勝なんてまず無理ですね。」
 そんなものだろうかと、私とクーパーは顔を見合わせた。するとブラウンは、
「おっと、こんな話あまり他にしない方が良いですよ。今のとこはまだウェスト・アングリアが一番人気ですからね。」
「でも、だからってどこを一番にするべきかが困るじゃないか。」
クーパーが言うと、ブラウンはごもっともと応じた。
「だからこうやって、練習の様子を朝から見に来ているんですよ。…なんだかなぁ…ウェスト・アングリアはまだボートハウスでゴチャゴチャやっていますね。さっさと川に出ればよいのに。さっきから口うるさそうな変な紳士が来て、何か口出ししているみたいですよ。ああ言う手合いは困るんですよね。」
 賭け屋の言うゴチャゴチャの原因の一つたる変な紳士 ― わが友人ホームズは、やがて学生たちとの会話が終わったらしく、ステッキの先を軽やかに振りながら土手をこちらに向かって登ってきた。
 それを見たブラウンは、
「やれやれ、やっと練習が始まる。そんじゃ先生方。レガッタ当日にお会いしましょう。」
と言って、ホームズとはすれ違いに川の方に降りていった。またチーム観察に精を出すのだろう。
 土手を登りきったホームズは、なにやら嬉しそうにニコニコしながら、私とクーパーの顔を順々に見回した。
 「なんだい、二人とも。期待していたお菓子をおじさんに食べられてしまった子供みたいな顔して。」
「いや、賭けの当てが外れそうでね。」
私が答えると、ホームズは肩をすくめた。
「やれやれ、君たちは事件捜査より、賭け事かい。困ったものだね。さぁワトスン。仕事に戻ろう。馬車が待っているはずだから、ブリュアリーに向かうよ。」
彼は足を止めずに歩き続けながら、息もつかずに言った。するとクーパーは、
 「僕はまだここで会場設営の打ち合わせがありますから。」
といって、川辺に残った。では、また夕食の時にでもと私がクーパーに言い残している間に、ホームズはもう上に待たせてあった馬車に乗り込んでいた。


 → 11.ブリュアリー
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主な登場人物

 シャーロック・ホームズ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 探偵

 ドクター・ワトスン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 医者,ホームズの友人

 クーパー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ワトスンの旧友,海軍軍医

 テイル教授 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クーパーの恩師,クリケット荘の主

 テイル夫人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ テイル教授の妻

 クリス・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫

 マーガレット・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫,クリスの妹

 エバンス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クリスの友人,マーガレットの恋人

 バッキンガム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ブリュアリーの営業担当者

 ペリー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 不動産業者

 ジリング・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新聞の副編集長

 ハーディ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古文書学者

 ブラッドストリート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スコットランド・ヤードの警部

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