Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

4.カット・スロート

 私達がクリケット荘に戻ると、やっと晩餐の一時間半前だった。居間には客人の何人かが手持ち無沙汰という風情で座り、煙草をふかしたり新聞を見ていたりする。マーガレットの姿はなかった。クリスのいうように、四人の客を避けて寝室に居るのだろう。
 私とホームズも何となく彼らに付合うように、さっさとホワイト・タイに着替えた。私は下に降りる前に、クーパーの部屋を訪れてみた。入室を促す声がするので入ってみると、彼は鏡の前でネクタイを締めようとしていた。
 「やぁ、ワトスン。散歩はどうだった?」
「中々快適だったよ。君は良く眠れたかい?」
「それがどうもね。最初はこう言っては何だが…あまり上手くないピアノの音で眠れず、それが止んだかと思うと気の早い客がドスドスやってきて、どうも下が騒がしい。あまり眠れなかったな。君やホームズさんと一緒に散歩に行けば良かった。」
 そう言いながら、クーパーはネクタイを結ぶのに悪戦苦闘していた。外科医としての腕も良いし器用なはずだが、学生の頃から自分でタイを結ぶのが苦手なのだ。
 彼の言い訳によると、自分は左利きなのにタイの結び方を教える人が余さず右利きだった為、結局分からなかったと言う。先だってダートマスに滞在している間、士官候補生達がからかい半分に、未だにクーパーは自分で上手くタイが結べないと聴いていたので、私は確認しに来たのだ。
 「クーパー、君は相変わらずだなあ。」
 私が笑って言うと、鏡を凝視しながら、タイをああでもない、こうでもないといじっているクーパーはちょっと嫌な顔をした。
「船に乗っている間はホワイト・タイなんて着なかったから。ねえ、ワトスン。見ているんだったら助けてくれよ。」
 私は意地悪を終了して、こちらを向いて手を後ろに回したクーパーのタイを結び始めた。
 「ところでワトスン…」
クーパーが声を落とした。
「きみ、例の件、考えてくれたかい?」
「ああ…」
 私はクーパーのタイを結ぶと、ちょっと左右のバランスを調整しながら答えた。
「いま、考えている所だ。ヘンリーに居る間に答えを出そうと思うのだけど、待ってもらえるかい?」
「そりゃもちろん!」
クーパーは明るく笑って手を振った。
「ぜんぜん構わないよ。秋までに返答してもらえれば良いんだから。でも、君にダートマスに来て欲しいって気持ちには、変り無いから。」
「分かったよ。ゆっくり考える。さぁ、晩餐まで…まだ一時間以上あるけど、こんな格好で寝室に居る事も無いだろう。」
 私は小さな声で言うと、足音を忍ばせてクーパーの寝室のドアを開けた。すると、すぐ目の前の廊下にはに、紙巻煙草をくわえたホームズが突っ立ってギョっとした顔をしている。
 「やぁ、ホームズ。用意は出来たようだね。」
 ホームズにしては随分と間の抜けた事だが、これが休暇中という事なのだろう。

 私達三人が一階に降りると、四人の客人たちやクリスもわらわらと集まってきた。いずれも手持ち無沙汰そうだが、四人は恋敵とあって会話も進まない。
 不動産屋のペリーは、さっき遠目で見ただけだったが、確かにクリスの言う通り他の三人や、私達よりもだいぶ年上だった。立派な髭をたくわえ、頭は禿げ上がっている。眼光鋭く、郊外の不動産屋というよりは陸軍士官みたいな顔つきと立ち居振舞いだった。
 テイル教授は晩餐ギリギリまで、書斎にこもっているのが常だと言う。男が八人でぼんやりしていても仕方が無いと、クリスがビリヤードをしようと提案した。一同それは良いとなり、ジリングなどはいつの間にか上着を脱いでやる気一杯だ。私達は玉突き部屋へ移動した。
 クリケット荘の住人は多くないはずだが、不相応に玉突き部屋には台が二つもあった。四人の客人たちは、慣れた様子でキューや玉を用意しているので、どうやらこの屋敷に来る度にビリヤードをしているらしい。執事がシェリー酒とグラスを運んで来た。
 「アメリカから来た新しいルールで、カット・スロートというのがあるんですよ。ご存知ですか?」
 クリスが上着を脱ぎながら言うと、クーパーが聴き返した。
「カット・スロート(喉切り)?」
「ええ。三人以上からなんですけど…八人か。二組に分れましょう。」
 何となく立っていた位置で分れたので、クリスとバッキンガム、ホームズと私が一つの台に、もう一つの台ではクーパーとペリー、ジリング、ハーディがプレイする。クリスがメモ用紙を裂いて、一から九までの番号を振り、それを二組作った。
 「まずこの籤を一人二枚引いて、自分の持ち玉を決めます。ただし、これは他の人には秘密です。ボールは…四人だから十五個使いましょう。ルールは大雑把に言えば自分のボールは残し、相手のボールをポケットに入れて行きます。最後まで持ち玉が残っていた人が勝ち。各人の持ち玉は本人しか知りませんので、キューさばきもさる事ながら、腹の探り合いが重要な訳です。」
 すると、籤を引きながらブリュアリーの営業担当のバッキンガムが笑った。
「そうなるとホームズさんが断然有利ではありませんか?推理のプロだ。」
「僕が興味を持つのは、犯罪心理学ですよ。」
 ホームズは素っ気無く言うと、自分の引いた籤をポケットに押し込み、キューの先にチョークをつけ始めた。クリスが台の中央に十五個のボールをセットすると、もう一言説明した。
「ブレイクショットで持ち玉がポケットに落ちたら、それはポケットされたままですから、諦めて下さい。それから…」
 クリスはボールセットの枠を外すと、手玉を置いてニヤリと笑った。
「プレイヤー同士が組んだり、裏切ったりするのもありです。目的は自分の玉を守る事ですから。どうやら、この辺りがこのゲームの名前の由来みたいですよ。」
「カット・スロート…喉切りか。」
 クーパーがちょっと肩をすくめた。

 コイン・トスをして順番を決めると、いよいよプレイ開始となった。ブレイクショットの音が部屋にこだます。最初は各人がそれぞれ単独で作戦を実行した。
 クーパー達の台は、まず編集者のジリングが脱落してしまった。クリスがとなりのテーブルから驚きの声をあげた。
「どうしたんです、ジリングさん!いつものあの腕前なら、最後まで残ると思ったのに。」
ジリングはいまいましそうに答えた。
「ペリーさんのブレイクショットでまず一つポケットされ、もう一つは自分で落としてしまったんだ。手元が狂ったんだよ。」
 気の毒なジリングが脱落すると、意外にも古文書学者のハーディが優勢だった。彼は腕も良いが、あまり感情が顔に出ないのが良かったらしい。不動産業者のペリーは、玉が転がる度に顔が赤くなったり青くなったり、白くなったりするので、しばらくすると、彼の持ち玉がばれてしまったらしい。瞬く間に集中砲火を浴びて、ハーディとクーパーにポケットされてしまった。早々に脱落してしまった人たちは、廊下を挟んだ隣の居間にブランデーを取りに行ったり、煙草をふかしたりして、残りのゲームが見物している。
 一方、私達の台は ―
「ワトスンを味方につけた方が良いですよ。ビリヤードに関しては悪魔のように強い。」
 ホームズが言った通りだった。クリスもバッキンガムも悪くない腕をしているが、一方的に私に持ち玉を落とされて行ってしまう。
「ワトスンはトリック・ショットの名手でしてね。医者なんて辞めても、あれで食べて行けます。」
ホームズは苦々しく言いながら続けた。
「ほら、ああやって十一番に狙いを定めているようですが ― このとおり外したように見せて、実はクッションボールで ― 六番を落とした。あれが最初からの獲物なんですよ。 ワトスン!それは僕の玉じゃないか!」
 クリスとバッキンガムがゲラゲラ笑い出した。実の所、ホームズはビリヤードが苦手だった。彼はもっぱら実践的な格闘や、チェスのような頭脳ゲームに強い。
 不動産屋のペリーが煙草をふかしながら、こちらの台を見遣った。
「こうなったらホームズさん、友情はうっちゃってクリス君、バッキンガム君と組みますか。」
「良いですねぇ、そうしたら最後に僕はホームズさんを見事裏切って、喉を掻き切りますよ。」
 クリスが笑いながら言うと、バッキンガムが視線を低くしてキューの角度を考えながら応じた。
「どうも勝負事となると、みんな本性むき出しで困りますね。これで金でも賭けていたら、もっと酷い事になる。」
するとクーパーが応じた
「そうなったら、ハーディ君とワトスンの大儲けだ。あ、八番…。」
 気の毒ながら彼の持ち玉は私にポケットされてしまった。

 結局ペリーとクーパーも成すすべなく、ハーディにしてやられてしまった。一方私達の台では残ったクリスとバッキンガムが共同戦線を敷いて私に対抗したが、時既に遅しである。カット・スロートがひと勝負終わった頃に、晩餐会の時間となった。

 広々としてモダンな食堂には、テイル夫人とマーガレットが既に席に着いていた。客のバッキンガム,ペリー,ジリング,ハーディは食堂に入るとそれぞれ女性達 ― とりわけマーガレットに丁寧に挨拶の言葉を述べているらしい。
 クーパー,ホームズ,私はのんびりと歩いて最後に食堂に入ろうとしていた。
 「旦那様。」
 階上で執事の声がした。私が玄関ホールから見上げてみると、執事がテイル教授の書斎らしき部屋の前に立って、ドアをノックしていた。
「旦那様、お食事の用意が出来ました。皆さんお揃いです。」
反応がない。
「旦那様?」
 執事が何度かノックを繰り返したが、やはり反応がない。それに気付いたクーパーとホームズも私と一緒に、ホールから二階を見上げた。
「旦那様?旦那様、どうかなさいましたか?開けて下さい!」
執事がノブを回したが開かないらしい。
「どうした?」
クーパーが階上に向かって呼びかけると、執事は不安げな表情で答えた。
「旦那様が中にいらっしゃるはずなのですが、返事がないのです。」
 私達三人は階段を駆け上がった。クーパーがドアをノックする。
「教授!テイル教授!開けて下さい、クーパーです!」
やはり反応がない。クーパーが執事の方に振り返った。
「合鍵は?」
「ございますが…」
「取ってきてくれ。」
 執事は慌てて駆け出した。ホームズがドアに耳をつけて、厳しく言った。
「鍵を待っている場合じゃないぞ。うめき声が聞こえる。ドアを破ろう。」
 ただならぬ気配を感じた私達は、勢いをつけると何度かドアに体当たりを繰返した。しかし、ドアは中々開かない。食堂に居た人々も驚いて、ホールに出てきた。すると執事があたふたと走ってきて叫んだ。
「か、鍵がないんです!合鍵がなくなっています!」
 新しいドアと鍵の取り合わせらしく、中々開きそうにない。ホームズが階下の人間に向かって怒鳴った。
「銃は?!ライフルだ!」
「ウィンチェスターを!」
 クリスがそう応じると銃器室へ駆け込んだ。そうしている間にも、私とクーパー、ホームズは何とかドアを破ろうと奮闘した。やがてクリスがライフルを掴んで駆けつけた。一緒に掴んできた弾を一つ手早く装填すると、
「下がって!」
叫ぶなり、クリスはウィンチェスター・ライフルをドアノブに向かって発射した。強力なライフル独特の派手な銃声が屋敷内にこだます。一発でドアノブが吹っ飛んだ。
 書斎に飛び込むと、まず目に飛び込んだのは机の足元に倒れているテイル教授の姿だった。ドアに向かって這いずったらしく、絨毯に血の跡が残っている。
「教授!」
 まずクーパーと私がうつ伏せの教授の体を上向かせた。喉の辺りが真っ赤になっている。幽かに息があり、風が漏れるようなヒューヒューという音を立て、目はうつろに私とクーパーの間をさ迷っている。
「頼む!」
クーパーが教授を私の腕に預け、道具を取りに駆け出した。
「教授!しっかりして下さい!大丈夫ですよ!」
 私は何とか血を止めようと、ありったけの布で裂傷部をふさいだ。脈を取るが、あるかないかという危険な状態だ。
「おじい様、おじい様、どうしたの?!」
マーガレットの叫び声がした。彼女は階段を駆け上がって書斎に入ろうとする。
「とめて!」
ホームズがクリスに向かって素早く言った。クリスは言われるまでもなく走って来たマーガレットを抱きとめると、廊下に連れ出す。
 私は絶望感に苛まれた。この出血では助かりそうにない。私は教授の耳元で励ました。
「教授、大丈夫ですよ。もう血は止まっています、しっかりして下さい!」
 ホームズも跪いて教授を覗き込む。教授はもう視力を失っているのか、うつろな目には光りが消えようとしていた。彼は血まみれの右手を上げると、私の二の腕を弱々しく掴み、何か言いたそうに唇を動かした。
「何です、何ですか、教授!何を言いたいのですか?!」
 私は教授の口元に耳を近づけ、彼の言葉を捕らえようとした。しかし、息が漏れて教授の意思は中々言葉にならない。やっとのことで、教授の唇から微かな声が私の耳に届いた。
「クーパー…!」
 私の二の腕を掴んでいた教授の手から、力が抜けた。瞳にはもう光がない。ホームズが静かに溜息をつきながら立ち上がり、時計を確認する。
「どいて!」
 鞄を抱えたクーパーが書斎に戻ってきた。教授の頭を絨毯に置き、瞼を閉じている私の顔を、クーパーがまっすぐに見詰めた。私はクーパーに向かって首を振ってみせた。
 「カット・スロート…」
 ホームズが、ぽつりと呟いた。


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