Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

3.招待客

 お茶が終わると、クリスはボートハウスに道具を取りに戻り、マーガレットはピアノの練習をすると言って引っ込んだ。クーパーは夕べスチュワード仲間と遅くまで飲んでいたので、少し昼寝をすると言うので、ホームズと私は庭の散策をする事にした。
 母屋のテラスからは、日が陰り始めて今度はオレンジ色にテムズ川の水面が輝いているのが見えた。フランス窓の脇には小さな水場があった。青々とした芝生は、なだらかに丘をなしており、庭を縁取る木々の間に小さな東屋が見え隠れしていた。
 ホームズと私はぶらぶらと芝生の上を歩き回った。日は傾いているが、まだ冷える事もなく、心地よい風が通り過ぎて行く。クリケット荘の厩の方では、馬丁が鼻歌交じりに馬の世話をしているのが見えた。二人が東屋までたどり着くと、母屋の方から幽かにピアノの音が漏れてきた。マーガレットが弾いているのだろう。
「何て曲だろう。聴いた事がないな。」
 私が言うと、ホームズはちょっとピアノの音の方に耳を傾けた。余り上手な演奏ではなく、つっかえたり、止まったり、変な音がしたり、途中で止まってはいちいち最初に戻ったりと、どうやらマーガレットはピアノが得意ではないらしい。
「シューベルトの『ミュージカル・モーメント』だよ。彼女にはちょっと荷が重いな。」
 ホームズは少し笑いながら東屋のベンチに腰掛け、紙巻を私に差し出した。続いてマッチの火を差し出すので、私は煙草の先に火をつけて、大きく吸い込んだ。
 「なんだか、同じ煙草でもロンドンで吸うのとはまた味が一味違うな。」
私が言うと、
「銘柄を変えたんだ。」
と、ホームズは憎たらしい返事を返す。私は軽く流して、あらためて庭を眺めた。
 「確かに、クーパーの言う通りだ。妙な家族だが、居心地の悪い家じゃない。」
 私が言うと、ホームズも頷いた。
「そうだね。あの馬丁の陽気な様子でも分かるが、使用人達が楽し気というのは、良い事だ。あの老夫婦は無愛想だが、あれやこれやとうるさい人間ではないんだろう。僕らにも幸いだから、のんびりさせてもらおうよ。それにあのケーキの味でも分かるが、たしかにここの料理人は腕が良さそうだ。」
 「おや、もうご賞味されましたか。」
 背後で突然男の声がしたので私達が振り返ると、丁度門から徒歩で入ってきたらしい男が東屋の傍に立っていた。ホワイト・タイを着込み、薄い上着を手に持っている。ちょっと帽子を取って挨拶すると、燃えるような赤毛だった。
 「はじめまして。私はロナルド・バッキンガム。晩餐会に招待されたのですが、気持ちの良い夕暮れなので歩いてきたのです。ちょっと早く着き過ぎましたかね。クーパー君がレガッタに招待したお友達がいらっしゃると聴いていますが…」
 そう言いながら、バッキンガムは東屋に入ってきた。背が小さくあまり姿の良い印象は受けないが、赤毛に良く映える溌剌とした三十歳前ぐらいの顔つきで、まず美男子の部類に入るだろう。
「ええ、そうですよ。彼はドクター・ワトスン。僕はシャーロック・ホームズです。あなたは、ブラクスピアーズ・ブリュアリーの方ですね。」
 バッキンガムはにこっと微笑んだ。顔は『あの有名な探偵か』と言っていたが、口には出さない。
 「休暇をすごしにいらしたのでしょう?レガッタの季節のヘンリーは本当に良い所ですからね。私どものブリュアリーでは書き入れ時ですから、大忙しですよ。今日の晩餐を逃してなる物かと、夕べはだいぶ残業しました。」
「エールですか。評判のエールだそうですね。ぜひ味わってみたい物です。」
 私が言うと、バッキンガムはまたにこっと微笑んだ。どうも若い感じがして、二十代半ばかもしれない。
「では、どうぞいつでもブリュアリーにいらして下さい。私がご案内しますよ。」
「それはありがたい。なぁ、ホームズ行ってみようよ。」
 私が言うと、ホームズは眉を下げてちょっと微笑み、小さく頷いた。
 私達三人はしばらく黙って煙草をふかしていたが、その間も拙いピアノは四苦八苦し続けている。失敗する度にバッキンガムは小さく微笑んだ。クリスは求婚者たちは金目当てだなどと言っていたが、バッキンガムを見る限りはそうではないかもしれない。
 突然、外の道からけたたましい馬車の音が響いたかと思うと、凄い勢いで男が手綱を取る馬車が母屋めがけて駆け込んできた。馬丁があわてて飛び出してきて、車止めに突っ込んできた馬の轡を取る。手綱を取っていた男は勢い良く御者台から降りると、その勢いのまま玄関へ入って行った。
 ホームズと私がいささか呆れてこの光景を見ていると、バッキンガムが説明した。
「あれが、ヴァンス・ペリー。この町の不動産売買を牛耳る男です。商売上は中々のやり手ですが、かなり阿漕という評判ですね。テイル教授にお孫さんとの結婚を申し込んだとか、まったく図々しい男で…。」
 バッキンガムにしてみればペリーは恋敵だ。それを誉めるような言葉が出ないのはある意味当然だろう。何時の間にか、ピアノの音が消えている。バッキンガムは立ち上がった。
 「私はもう行きますよ、ホームズさん,ドクター。きっとペリーがお嬢さんを困らせているでしょうから。」
 そういって、バッキンガムは東屋から出て、芝生の上を小走りに母屋へ向かった。彼の赤毛が最後まで目に付いていた。
 「晩餐まではまだだいぶあるのになぁ。」
 私が時計を取り出して見た。まだ五時を少し過ぎた頃だ。晩餐は八時過ぎに始まるというのにと言うと、ホームズは立ち上がった。
「どうも早めに来るのが慣例みたいだよ、ワトスン。」
 また外の道から、馬車の駆ける音が響いてきた。今度は二頭立ての馬車が男を二人乗せてやってきた。やはり二人ともホワイト・タイを着込んでいる。道の脇にホームズが歩いてきたのに気付いたのか、手綱を取っていた男は馬を止めた。
 「おや、今日は。もしや、シャーロック・ホームズさんではありませんか?」
 彼は帽子をちょっと上げて言った。三十代前半と思しき顔つきの割に、若白髪の目立つ男は続けた。
「私はアルフレッド・ジリング。ヘンリー・オン・テムズ・テレグラフの副編集長をしています。ああ、そちらはドクター・ワトスンでは?私がお二人の来訪を知っているのに、別に不思議はありませんよ。医者のクーパー君とはレガッタのスチュワード仲間でして、昨日彼から聴いたのです。ああ、やっぱり。今日ロンドンからいらしたのですか。おっと失礼、ご紹介が遅れました。マイケル・ハーディ君です。彼がとことこ歩いているのを見つけたので、乗せてきたんですよ。」
 駆け寄ってきた馬丁に手綱を渡し、ジリングは御者台から軽やかに降りてきた。地面に立つと、見上げるような大男だ。レガッタ・チームでは重心が高くて大変だろう。ただ漕ぎ手としての力はありそうだ。
 一方、手を貸した方が良いのではないかと心配になるくらい、不器用な動きでやっと馬車から下りてきたのは、対照的に小柄な男だった。最後にピョンと地面に降りると、その拍子に帽子が落ち、見事な栗色ながら勝手な方向に渦の巻いた髪があらわれた。忌々しそうに帽子を拾い上げた手の先がインクで汚れている。鼻の上でちょっと斜めになった眼鏡をかけており、その下の瞳が用心深く私とホームズを見遣った。そして「どうも」とだけ言って、ハーディはスタスタと母屋へ向かって行った。
 「やれやれ。」
 ジリングは苦笑して溜息をつくと、ホームズと私に言った。
「不愛想な男でしょう?老けて見えますけど、あれでも年は私と大して変わらないんです。ミス・テイルに結婚を申し込んだのは良いですけど、テイル教授の許可が欲しかったら、まずあの無礼なほどの無愛想をどうにかした方が良いですね。では、失礼。また後程。」
 ジリングもまた、私達を置いて母屋へ向かった。私は思わずもう一度時計を確認してしまった。
「別に時計が遅れている訳ではないよ、ワトスン。晩餐会が始まる前に少しでもミス・テイルのご機嫌を取り結んでおこうという魂胆なんだろうさ。もっとも、あの副編集長はハーディを強敵とは思っていない様だがね。」
 ホームズはまたぶらぶらと歩き始めた。そのまま門を出て行こうとする。
「ワトスン、ちょっと川まで行ってみないか?ケーキの食べ過ぎだ。晩餐までに少し腹ごなしをしないと。」
 そういって、ホームズはさっさと道を下って行った。

 馬車道は迂回しており、徒歩で丘を越えるとテムズ川は存外クリケット荘のすぐそばを流れていた。
 この辺りがレガッタのスタート地点らしい。すぐ北側は川が緩やかに右へ曲がっている。上流を見遣ると、確かに気持ちよいほど真っ直ぐに流れていた。私とホームズが降りてきた河岸から、少しだけ上流にテンプル・アイランドが見える。
 対岸が競技当日に貴賓席になるのか、縄で区画されていた。我々のいる町側の河岸には、小さなボートハウスが立ち並び、今日の練習を終えた選手達が、ボートを引き込んだり、片づけをしているようだった。日が長いので、まだまだ練習を続けようとするボートも、いくつか見受けられる。川をボートで占領されたため、隅っこにかたまった水鳥たちが心底迷惑そうに見えた。
 「ホームズさん!ワトスン先生!」
 クリス・テイルの声がした。彼はボートハウスからあがってきた所らしく、大きな荷物を肩に担いでいる。クリスは土手をゆっくりと登ってきた。正面に夕日の光を受けてまぶしそうな顔をしている。
 「お散歩ですか?惜しかったですね、もう少し早くいらっしゃれば、僕の八人漕ぎの最後の練習が見られたのに。うちの大学チームは、これから四人漕ぎの練習です。優勝候補ですよ。賭けるなら我がウェスト・アングリア大学チームをお勧めしますね。」
 土手を登りきったクリスにそう言われて、私達はあらためて川面に視線をやった。日が沈むぎりぎりまで練習をするのか、まだ随分沢山のボートが浮かんでいる。クリケット荘に向かう途中でクリスが手を振っていた辺りのボートハウスが、ウェスト・アングリア大学のものなのだろう。クリスの言う通り、四人漕ぎ用の小振りのボートが引き出される所だった。
 「君が出る八人漕ぎは、どうなんだい?」
 私が尋ねると、クリスは肩をすくめた。
「生憎、優勝に賭けるのはお勧めできません。もう五,六年もケンブリッジとオックスフォードだけで優勝を分け合っていますから。上手くすれば二位ぐらいには入るかもしれませんが。
 さっき、エバンスの話をしましたでしょう?本当はエバンスも八人漕ぎに入れたかったのですが、四人漕ぎの方が優勝の芽があるって言うので、早い内に四人漕ぎに専念させる事にしたのです。エバンスは前評判通りの優勝を勝ち取って、マーガレットの笑顔が見たい…と、言った所でしょうかね。」
 クリスは屈託無く言った。どうやら、ホームズと私を遠慮無く話せる相手だと認識しているらしい。彼は歩き出した私達にゆっくり歩く私達に歩調を合わせながら続けた。
 「レガッタが終わったら、エバンスは祖父にマーガレットとの結婚を許可してくれる様、談判しに行く覚悟なんです。その前に祖父が決めてしまわなきゃ良いですけどね。何せ対抗馬は四人も居る。」
「さっき、お庭で会いましたよ。」
 私が言うと、クリスはびっくりして時計を見た。
「もう来たんですか?まったく、今日はマーガレットが居る事を知っていますからね。どうにかして点数稼ぎをするつもりですよ。どうせマーガレットは寝室に隠れるでしょうけど。」
「君は、あの四人のどれも気に入らないと言っていたね。」
 ホームズはステッキの先をぶらぶらさせながら言った。
「エバンスは僕の友達ですからね。そりゃ、エバンスはまだ学生だし、僕と一緒に事業を起こそうと計画しているだけですから、不利でしょうけど。マーガレットとは愛し合っています。
 ペリーさんはこの町では顔の利く不動産屋で金持ちですが、妹とは歳が離れ過ぎている。ハーディさんは立派な学者さんだそうですが地味で大人しくて、無愛想で…。新聞社のジリングさんは、レガッタでお世話になっているのでちょっと知っていますが、何となく軽薄な感じで好きになれません。まぁ地方新聞の副編集長さんにしては裕福な人ではありますがね。親戚の遺産が手に入ったそうですよ。」
 良く喋るクリスに『軽薄』と言われるのでは、あの大柄な副編集長の立つ瀬が無い。私は可笑しくなって笑いながら聞き返した。
 「もう一人はどうだい?ブリュアリーの営業担当とか…」
「ええと、何て言いましたっけ。公爵みたいな、いかつい名前の…そうだ、バッキンガムさんだ。彼は誠実そうだし、マーガレットに心底恋しているようですが、ちょっと悪い話を聞きましてね。なんでもエールの営業活動中に、性質の悪い横流し業者に騙されて、負債を個人で背負ったらしいのです。要するに金に困っているのですよ。まぁ、金という点じゃ他の四人も欲しくてたまらないでしょうが。何せ父がアメリカで死んだ時に残した遺産と来たら、まるまる新聞報道されるほどの騒ぎでしたからね。」
 「君はどうなんだい?」
「僕のなんです?」
 ホームズの問いにキョトンとしてクリスが聴き返した。
「結婚の申し込みだよ。君も父上の莫大な財産の相続人だ。うちの娘と結婚してくれという申し入れもあると思うが。」
「あはは。僕は独身主義者ですよ。」
ホームズはそれはそれは、と眉を下げた。
「賢明だね。」
 散歩で時間潰しと腹ごなしをする私達に付合うのか、クリスも馬車道を行く迂回路をゆっくり歩きながら続けた。
 「問題は、祖父があの四人の内の誰をマーガレットの婿に指名するつもりかですよ。僕ら兄妹が学校の寄宿舎に居る間も、あの四人はよくクリケット荘に招かれているとか。祖父はそうやって品定めをしているんですよ。今夜はそう言う意味では、大きな勝負の日になるんじゃありませんか?まぁ、四人がどう努力してもマーガレットが祖父に『あの人が良い』なんて言うはずはありませんがね。エバンスは晩餐に招かれていないのだから。」

 お茶で美味しい菓子を食べたので、晩餐までに腹ごなしをする必要あった。クリスは良い散歩道だと言って、私達を川のもうすこし下流まで案内すると、ヘンリー・オン・テムズの西側へ回り、ぐるりと町を囲むように進んだ。途中で西側に鬱蒼と木の生い茂った一角があったが、それが修道院の敷地だと言う。そこから町の中心地に抜けると、タウン・ホールや商店、事務所、郵便局、電報局などが並んでいた。
 中心街から東に戻ると、ヘンリー橋のたもとに戻る。ここから、私達三人はまた川岸を北上し、のんびりとクリケット荘へ戻った。一時間半ほどの長い散歩道だったが、だいたいクリスが友人と立ち上げたいと言う事業についてしゃべっていた。
 ホームズはクリスの話には興味はなさそうだったが、この町の佇まいには興味をひかれたようだった。

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