Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

2.クリケット荘

 馬車は川沿いの道から左に入って、小さな緑の丘を登り始めた。するとその頂上に、大きな門扉が見えた。これを過ぎるとほどなく美しい芝生の庭が広がり、奥に大きく比較的新しい屋敷が見えてきた。車寄せに、執事が出迎えているのが見える。
「さあ、クリケット荘に着きましたよ。」
 勢い良く言ったクーパーに続いて、ホームズと私も馬車を降りると、玄関に通された。内装も新しく、床がピカピカしている。執事はすぐにお茶にすると言った。
 執事に案内されて、二階の寝室に入ると、ホームズの部屋も私の部屋も、日当たりの良いすがすがしい部屋だった。正面の窓から緑の庭が見渡せる。その向うには、テムズ川の水面がキラキラと輝いており、窓のすぐ外でひばりが鳴いていた。
「なるほど、クーパー君がきみを招待したくなるのも分かるな。」
 窓越しにとなりの部屋の方から、ホームズの声がする。身を乗り出してみると、彼も私と同じように庭をながめている所だった。
「そうでしょう?」
 今度は反対側の部屋の窓から、クーパーの声がした。私達三人の客室が並んでいたのだ。クーパーは嬉しそうに言った。
「ダートマスも温かくて良いのですが、夏のヘンリー・オン・テムズは住みたくなるような所ですよ。」

 クリケット荘は主の家族関係はともかくとして、メイドも従僕も執事も気持ちの良い人間ばかりだった。私達は運ばれてきた水で顔をぬぐうと、一階の居間でお茶と言う事になった。
 クーパーがホームズと私を連れて一階に降りると、居間に案内しようとドアに手をかけたが、鍵が掛かっているらしく開かない。
「おっと…」
彼は振り返りながら苦笑した。
「また間違えた。毎年の事なんだけど、銃器室のドアと、居間のドアを間違えるんだよ。階段に近い方を、何となく開けてしまう癖が、問題なんだな。」
 改めて、私達が隣りのドアから居間に入ると、ソファから若い女性が立ちあがり、丁寧に挨拶をした。
 「ようこそいらっしゃいました、ホームズさんに、ワトスン先生。御噂はかねがねお聞きしております。私、マーガレット・テイルです。さぁ、どうぞ御座りになってください。」
 白いドレスにこげ茶の髪と瞳が良く映える、明るい顔つきをした女性だった。まだ女学校に通っているとかで子供っぽさが抜けきらないが、はきはきと喋り、しっかりとした印象を与える。
 彼女の言う通り私達が腰掛けると、どたどたと若い男が駆け込んできた。
「やぁ、マーガレット!お茶には間に合ったかい?」
「まぁ、クリス!お客様なのに、騒々しくしないでちょうだい。」
妹が咎めるように言うと、兄クリス・テイルはホームズと私をみやって、ぱっと破顔した。
「ああ、先ほどはどうも!クリス・テイルです。シャーロック・ホームズさんに、ジョン・ワトスン先生ですね?クーパー先生からお話は伺っていますよ。ようこそ、クリケット荘へいらして下さいました!」
 彼は朗らかに自己紹介しながら、順々に握手をする。顔立ちは妹とそっくりで、黒々とした豊かな髪と、黒い瞳が印象的で、肩の張ったいかにもボート選手という逞しい体つきをしていた。
「あっ、ホームズさんはこういう時に僕について、色々言い当てて下さるのですよね?」
ホームズは若者の明るさに苦笑しながら答えた。
「それはもちろん、あなたの手を見ればボート選手である事は分かりますが、それはもうクーパー君から聴いていますし、さっき川でお会いしましたからね。ウェスト・アングリア大学の学生さんである事も情報取得済みです。」
「なぁんだ、つまらないな。色々驚かせて頂こうと思ったのに。」
「クリス、失礼よ。」
マーガレットがカップを渡しながら、また兄を咎めた。
「すみません、ホームズさん。兄はこのとおり遠慮と言うものを知らない全くの子供なんですのよ。」
「どうぞ、お気になさらずにミス・テイル。今回は休暇でこちらにお邪魔しましたので、仕事の一環である人間観察はお休みです。」
 ホームズはいつにない穏やかな調子で言うと、お茶を楽しみ始めた。

 しばらくはクリスが大学で専攻している経済学について、大陸との貿易を中心に持論を展開していた。すると、やがて階上から重々しい足音がしたかと思うと、居間のドアが開いてフロックコートをきっちり着込んだ大柄な老人が入ってきた。クーパーが素早く立ちあがり、老人に言った。
 「テイル教授、お先にお茶をいただいていましたよ。ご紹介します。こちらが、僕の友人ドクター・ワトスンに、シャーロック・ホームズさんです。」
ホームズと私が立ちあがり、白髪に灰色の瞳、赤ら顔に大きな鷲鼻のテイル教授と握手した。
「話は聞いておりますぞ。」
教授は重々しく言った。
「どうぞ、この屋敷では自由にして下さい。家の人間はおつきあいできませんが、クーパー君によれば構わないのが一番の歓迎だとか。」
 返答に困るこの言葉に、ホームズも笑い出した。
「お心遣い、痛み入ります。どうぞお構いなくと言いたい所ですが、一つお願いがあるのです。」
「なんだね。」
「教授の、ミカエルソウに関する論文を拝見したいのです。学会の冊子によると果実に毒があるとか。僕は毒草に興味がありましてね。」
「ははぁ、ホームズさんは有名な探偵でしたな。よろしい、図書室に私の論文をまとめた本がありますから、どうぞ自由に読みなさい。」
 テイル教授はにこりともしないが、ホームズの申し出は嬉しかったらしい。
「私は書き物で忙しいので、失礼しますぞ。今夜は近所の人間も招待しての晩餐ですので、その時に。クリス、お前の空想話は程々にな。」
 テイル教授は孫に一言釘をさすと、また重々しい足取りで居間から出ていった。
「空想だなんて。祖父は経済世界の激変が分かっていないのですよ。この期を逃したら、巨大な市場をみすみす誰かに取られてしまう。」
クリスは不満そうに言った。
「クリス、やめましょうよそんな話。もっと楽しい話をしません?ホームズさん、ワトスン先生、クリスはボート・チームのキャプテンですのよ。」

 マーガレットが気を利かせて話を変えようとした時、再びドアが開いて、今度は初老の夫人が入ってきた。私達はまたあわてて立ち上がる。明らかに、テイル教授が出ていったのを見計らって入って来たのだ。また、クーパーが紹介した。
「テイル夫人、ご紹介します。友人のドクター・ワトスンに、シャーロック・ホームズさんです。」
 夫人は膝を折り曲げると、無表情な顔つきで会釈をした。健康そうに見えるが、頬がこけて厳しい印象を与える。髪はだいぶ灰色になっているが、瞳の黒さは孫達と共通していた。
「ようこそいらっしゃいました。」
夫人は、ひどくゆっくりとした、低い口調で言った。
「クーパー先生からもうお聞きだと思いますが、我が家はけっして家庭的な温かさのある宅ではございません。」
「まぁ、おばあさま!」
 マーガレットは表情を曇らせて一言はさんだが、夫人はそれを無視して続けた。
「それでも、クーパー先生は毎年お運び下さいますし、お友達を誘うくらいですから、休暇を過ごす悪い所ではないと思われますので。どうぞごゆっくりして行って下さいませ。」
 そう言い残すと、テイル夫人はまた居間から出て行ってしまった。ホームズと私はいささか呆然としてしまったが、クリスが茶化すように発した声に我を取り戻して椅子に戻った。
 「うちの人間は変っていますでしょう?あの祖父母夫婦は変人の最たるものですよ。僕らの父が家を嫌ってアメリカに行きたくなるのも、納得できますよ。」
「クリスったら。お客様に失礼じゃない。」
「失礼なのは、おじい様とおばあ様さ。ねぇ、ホームズさん。ああいう変った老人というのは、あなたの知的好奇心を刺激しませんか?」
「どうでしょうね。」
 ホームズは普段はあまり食べない甘いケーキに手を伸ばしながら、答えた。
「僕は変った人間に興味がある訳では在りませんよ。僕の興味は常に犯罪とそこに連なる人間です。犯罪の周辺にうごめく人間には、変った人が多いと言うのは事実ですがね。」
「じゃぁ、変った人間である祖父母は犯罪に関係する確率が、高いとも言えますか?」
「統計学的に証明されるほど、犯罪の件数は多くありませんよ。あの悪徳の都でもね。それに、テイル夫妻はこんな気持ちの良い郊外で、静かに暮らす老夫婦だ。犯罪と関わりがあるとは思えませんね。」
「でも、祖父なんかは特に、あまり人に好かれないタイプでして。」
マーガレットは兄の軽率なお喋りを止める気力のなくなったのか、呆れ顔をクーパーに向けている。クリスの物言いは、学生にありがちな罪のない物で、ホームズはもちろん私も真には受けないし、旧知のクーパーは慣れっこのようだった。
 珍しく甘い物を口にしたホームズが、意外にも満足そうな表情でいるので、よほどこのケーキが美味しいのだろう。私もイチゴのタルトに手を伸ばしながら、マーガレットに尋ねた。
「さきほど、テイル教授は今夜晩餐会があるとおっしゃっていましたね。クーパー君が言っていたのですが、クリケット荘の料理人は腕が良いとか。」
「ええ、そうですのよ!」
マーガレットは救われたように、表情を明るくした。
「我が家の自慢をするのは、はしたないとは思いますが。でもパトリスのお料理は本当に美味しいんですの。寮の食事と来たら、お決まりの…お分かりでしょう?ですからこの家に帰ってくると、心底ほっとしますわ。」
すると、またクリスが口を出した。
 「ええ、それは保証しますね。料理があまりにも旨いので、祖父母があんなでも客は喜んで晩餐に駆けつけるんですよ。」
「今夜いらっしゃる近所の方と言うのは?」
 私が尋ねると、今度はクーパーが指折り数えながら答えた。
 「確か四人ですよ。ブラクスピアーズ・ブリュアリー営業主任のロナルド・バッキンガムさん。不動産業者のヴァンス・ペリーさん。古文書学者のマイケル・ハーディさん。それから地元新聞の副編集長アルフレッド・ジリングさん。ジリングさんはケンブリッジのボート・チーム出身で、今回のスチュワードでもある。」
「いずれもここ数年付き合いのある人ばかりですよ。」
クリスがまた口を挟んだ。
「しかも、旨い物には目がない。更に言うと、全員独身です。」
 「ホームズさん。」
 マーガレットが突然大きな声を出して立ち上がった。
「ケーキはお気に召しまして?私、キッチンからもうすこし余計に取って参りますわ。」
 いらいらしたような口調ながら、辛うじて淑やかな立ち居振舞いを保ちつつ、マーガレットは居間から出て行った。
 「クリス、妹さんをいじめるもんじゃないよ。」
 クーパーが咎めるように言った。兄の方はどこ吹く風という表情だ。
「一応、客人がどういう面々かは知っておいた方がホームズさんも、ワトスン先生も良いじゃありませんか?この四人は、マーガレットへの求婚者なのですよ。」
 おやおやと思って私がホームズの方を見遣ると、彼は皿に残ったブルーベリータルトとラズベリータルトを見比べて本気で考えているらしかった。クリスが続ける。
 「ご存知とは思いますが、僕とマーガレットには親がアメリカでこしらえた莫大な遺産がありましてね。どうせ四人ともそれ目当てでしょうよ。」
「クリス、マーガレットは素晴らしいお嬢さんだよ。」
「それは分かっていますよ、クーパー先生。でも、マーガレットが愛しているのはエバンスですからね。」
「エバンスとは?」
私がクリスに聴き返した。
「ジェームズ・エバンス。僕の友人です。レガッタのチームメイトでもありますから、今はホテルに居ますよ。エバンスとマーガレットは結婚したがっていますがね、祖父は会った事もないし大反対です。僕の大学の友人なんてろくでなしだと思っている。マーガレットは祖父に逆らうような子じゃありませんから、祖父がこの人と結婚しろと言えば従うでしょうけど、僕はあの四人のどれも気に入らないな。」
「クリス、君がマーガレットの手助けになってやれば良いじゃないか。」
 クーパーが苦笑しながら言うと、クリスは肩をすくめた。
「そりゃぁエバンスは良い奴だから、僕だってマーガレットと結婚できれば良いと思いますよ。でも、あの祖父が僕の進言なんて聞きいれるとは、とても思えません。その点マーガレットは良く分かっていて、僕に説得なんて頼みません。祖母には相談したそうですけど。」
「テイル夫人は説得を引き受けたのですか?」
 私が尋ねると、クリスはまさかという風に首を振った。
「祖母は心情的にはマーガレットの味方だと思いますが、祖父とは口も利きたくないでしょうから。力になるかどうかは何とも。」
 クーパーとクリス、そして私がそんな会話をしている間も、ホームズはブルーベリーとラズベリーを真剣な眼差しで睨んでいた。どちらを食べればどのような結果になるのか、真剣に考えているのだろう。しかし、このホームズの問題は簡単に解決された。マーガレットが銀の盆にケーキとスコーンを持ち、ポットを抱えたメイドを連れて戻ってきたのだ。
 「パトリスはお菓子も余計に作ってくれましてよ。あら、ホームズさん。どちらのタルトもまだ沢山ありますから、どうぞ両方お召し上がりになって下さいませ。」



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