Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

14.たねあかし

 ブラッドストリートの伝言では、ジェイムズ・エバンスは午前中からヘンリー・オン・テムズから姿を消していたが、午後に戻ってきてホテルに入った所で警察に身柄を拘束された。彼はまったく抵抗する様子もなく、素直に応じたらしい。逮捕状はまだ出ていないが、時間の問題との事だった。なぜなら、エバンスが午前中姿を消していたのは、血で汚れた上着を始末しに行っていたからであり、その場所も素直に供述したからだ。
 マーガレットのショックはいかばかりかと心配になったが、状況説明はクーパーが買って出た。クリスは動揺激しいウェスト・アングリア大学のチームを落ち着かせるために、彼らの宿泊先で夕食を取っていたし、テイル未亡人は状況を把握していないので、適任ではない。クーパーは幼い頃からマーガレットを知っているからと言って、クリケット荘のフランス人料理人,パトリスが作ってくれた美味しい夕食を自分とマーガレットの分、用意させて三階の彼女の部屋で食べながら、ゆっくりと事情を説明した。それを終えて階下に戻ってきたクーパーによると、マーガレットは一筋の涙こそこぼしたものの、おちついて事態を受け止めているとの事だった。
 私とホームズもクリケット荘での夕食となった。評判に違わずパトリスの料理は美味かったが、ホームズと私は何となく気まずい雰囲気で、もくもくと口を動かしていた。

 夜八時過ぎになって、ブラッドストリート警部がクリケット荘にやって来た。捜査の続きは明日に持ち越されたらしい。ほぼ同時に、クリスも戻ってきたので彼ら二人と、クーパー、そして私が居間に集まって、ホームズの種明かしを拝聴する事になった。居間にはブランデーとベルギーチョコレート、そして煙草が用意された。
 ホームズは椅子に座り、脚を長々と投げ出すと、ブランデーを口に含み、パイプをふかしながら説明を始めた。
 「僕がこのテイル教授殺害事件の現場に出くわした時、まず現状から把握したのは、教授の顔見知りによる犯行だと言う事だ。しかも、クリケット荘内に居た人物による犯行だとね。教授は書斎に入ってきた犯人から逃げもしなかったし、椅子から立つ事もなかった。犯人に背後に回られても動じていない。しかも多数の人間が屋内に居るのに犯行を誰にも気付かれずに遂行するのは、外部からの侵入者には無理だ。
 そこで、僕は容疑者を絞る事が出来た。まず使用人達にはこれと言った動機が見当らない。テイル夫妻は愛想こそ悪いが、この家は勤め口としては悪くないようだからね。昨日僕らがここに来た時、使用人達の楽し気な様子からそれは簡単に推測できた。
 と、なると家族か客人が犯人と考えられる。テイル夫人,クリス,マーガレットには動機がある。教授の死で利益を得るからね。一方の客達はどうか。クーパー君、バッキンガム、ジリング、ペリー、ハーディの五人だ。クーパー君はダートマス勤務の軍医だが、テイル教授のかつての教え子だった。それでレガッタの季節になると毎年クリケット荘に滞在する。交流は親密だが、かと言って教授の死で得る利益は無いと言って良いだろう。僕はこの時点でクーパー君を容疑者から除外した。」
 まったく、ホームズの意地悪も困ったものだ。彼は昨晩から散々クーパーも容疑者の一人だとか、アリバイがないとか、右手はあるなどと言って、私をやきもきさせていたのだ。私のそんな気持ちを知ってか知らずか、ホームズはすました顔で続けた。

 「バッキンガム、ジリング、ペリー、ハーディの四人はヘンリー・オン・テムズ在住の人物で、全員がマーガレットへの求婚者だった。独断で孫娘の結婚相手を決めるというテイル教授のご機嫌を取り結ぼうと、普段からよくクリケット荘を訪れていた事は、昨日クリスから聞いている。だからこの四人も、教授が書斎でお茶を飲み終わると、ポットとカップを廊下に出しておくという習慣を、知ることが出来ただろう。
 殺害三日前に教授が発送した四通の『体裁が同じ手紙』の存在と、教授の机上に残されたメモから、僕はこの四人が晩餐の前に教授に呼び出されて、一人一人書斎に入った事を衝きとめた。確認してみるとその通りで、まず五時にペリー,十五分にバッキンガム,三十分にジリング,六時にハーディが書斎に入り、全員同じように『教授から、マーガレット嬢との結婚を断られた』と証言した。しかし、この時点で一人だけ他と違う人が居る。どう違うか分かるかい?」
 ホームズの問い掛けに、時計の文字盤を見ていたブラッドストリートが答えた。
「あてがわれた時間だ。ジリングだけは、次の順番の人までに三十分空けてある。ペリーやバッキンガムの倍だ。」
「その通り。もうこの時点で、僕はジリングが気になっていた。教授はジリングとは余計に話したかったんだ。それから、ジリングの証言も他の三人とは違った。三人は、結婚拒否の理由を具体的には教授から聞いていない。
 しかし、ジリングだけは『肝心のミス・テイルがお嫌とか。』と言っている。これは妙な話だ。マーガレットには確かに他に愛する男が居るが、彼女は祖父の意向に逆らう娘ではないし、自分から求婚者についての意見を述べるという事をしていない。つまり、この証言はジリングの捏造だと考えてよいだろう。つまり、ジリングには他の三人にはない、『重大な欠点』があるんだ。会見の時間を三十分取るほどのね。この話は、また後でしよう。
 同時に、僕はハーディを容疑者から除外した。彼は教授に呼び出された順番が最後なので、ハーディが教授を殺したとなれば話は簡単だが、そうすると返り血の問題が浮かぶ。座っている教授の背後に回って首を掻き切ったとなると、袖と体の前に返り血がつく。袖は捲れば良い。シャツにつかないようにするには、上着を前と後ろ逆に着れば、防ぐ事が出来る。しかし、どうしても上着には血が相当つくだろう。ハーディは六時に書斎に入り、数分で書斎を出て、図書室に戻った。その時はもうペリーが来ていたから、この仲の悪い二人は図らずも互いのアリバイを証明する事になったし、ハーディに血のついた上着なり、他の覆いなりを始末する時間が無かった事を証明している。この時点で、同時にペリーも容疑者から外れた。
 では、家族のテイル夫人,マーガレット,クリスと、客のバッキンガム、ジリングが残る。僕はジリングが気にはなっていたが、夕べのある出来事が、ジリングこそ犯人だと核心するきっかけとなった。」
「ある出来事?」
 クリスが身を乗り出して聞き返した。ホームズはクーパーに向き直った。
「ゆうべ、大方の捜査員が引き揚げ、僕らも寝室に引き取る事になった時、何者かによって置かれた凶器のナイフが、クーパー君の部屋から発見された。これは何を示唆しているだろうか?勿論、犯人がクーパー君に罪を着せるために置いたのだ。では、なぜ動機の見当たらないクーパー君の部屋なのか?それは、犯人がテイル教授のダイイング・メッセージを知っていたからだ。」
「ダイイング・メッセージですって?!」
 クリスがびっくりして声を上げた。
 「そう。テイル教授は死ぬ間際、ワトスンの腕を取り、必死に言葉を伝えようとした。傍に居た僕にも聞こえたが、教授はこう言い残して事切れた。『クーパー!』、とね。」
 クーパーはおどろいて顔色を真っ青にしている。ホームズは少し微笑んでから続けた。
 「教授が死に際に『クーパー』と言い残した事を知っていた犯人は、これ幸いと凶器をクーパー君の部屋に置き、クーパー君への疑いを強めようとした。では、誰が教授のダイイング・メッセージを知っていたのか?まず、直接聴いたワトスンと僕。そして、ワトスンから教えられたブラッドストリート警部。警部、夕べ誰かにこの件を話しましたか?」
 ホームズに尋ねられると、ブラッドストリートは即座に答えた。
 「いや、誰にも話していません。」
「ふむ。僕とワトスンも他の人には言っていない。教授が正に息絶えようとしていたあの時、クリスが書斎に居たが、駆け込もうとしたマーガレットを連れ出し、宥めていたから、教授の言葉は聴いていない。クーパー君は自室に道具を取りに行き、書斎に駆け戻った時にはもう教授は事切れていた。
 では、犯人はどうやって教授のメッセージを知ったのか?今なら分かるんじゃないかな。ジリングが教授の最後の言葉を知るチャンスはただ一度だった。思い出してみたまえ、夕べの食堂での事情聴取を。最初にテイル夫人、次にマーガレット、クリス、バッキンガムの順番で供述を取っている。そしてバッキンガムは終わるとすぐに玄関から飛び出して行ったのを、僕らは窓から確認している。次の順番のジリングを居間から呼んでくる前に、警部は食堂の前に控えていた巡査のジョンソンに、銃器室の備品についてエリス巡査に調べろと伝えるように命じた。つまり、この瞬間食堂の扉の前は無人になっていたんだ。まだ聴取が終わっていないペリーとハーディは、二人とも二階の図書室で、また言い争いに近い状態にあったし、クーパー君は二階の現場で監察医に事件の経緯を説明していた。
 ジリングはあの時食堂の扉の前で、中に居た僕とワトスン、ブラッドストリート警部の会話を聞くことが出来たんだ。あの時の会話の内容こそ、教授が残した『クーパー』というダイイング・メッセージだった―。」
「ああ!」
 ブラッドストリートが声を上げた。
「そうだ!確かにあの時、バッキンガムの態度が怪しいとか、クリスのアリバイがどうとか言う話の後に、その話になりましたよ!」
「その通り。やがてジョンソン巡査が戻ってくる気配がしたので、ジリングは素早く居間に戻り、改めて何食わぬ顔をして食堂に入り、聴取を受けたんだ。
 聴取を終えたジリングは、クーパー君に罪を着せるべく、まずクリケット荘から出て庭に置いてあった凶器を拾い上げ、そっとクリケット荘内に戻るとクーパー君の部屋に置いた。クーパー君の部屋を見分けるのは簡単さ。ジリングはクーパー君と同じ、レガッタのスチュワード仲間だからクーパー君の持ち物が判別できた。そして彼は改めてクリケット荘を後にした ―。」
 「ちょっと待ってください、ホームズさん。」
 クリスが少し手を挙げた。
「凶器が庭に『置いてあった』というのは、どういうことですか?それに、ジリングはいつ祖父を殺し、エバンスはどう関係するのですか?」
 ホームズは少し微笑み、ブランデーを一口飲んでから、少し姿勢を直してまた説明し始めた。

 「それでは、事件の核心部分を説明しよう。犯人はジリングではないかという予測を立てて事件を詳細に観察すれば、さほど難しいことじゃない。
 まず、ジリングは犯行の二日前に教授からの手紙を受け取り、五時半に書斎に来るようにと指示された。そこでジリングは指示されたとおりにクリケット荘を訪れていた。しかし教授の殺害を計画していたジリングは、共犯者もクリケット荘に侵入させていた。それこそ正にエバンスだ。ジリングはエバンスにこう命じたんだ。マーガレットを利用して六時ごろまでにクリケット荘の銃器室に入り込め、とね。
 なぜ、エバンスはジリングの共犯にならなければいけなかったのか?それはレガッタと密接な関係がある。このヘンリー・ロイヤル・レガッタで、選手とスチュワードとして面識のあったエバンスとジリングは、実は共謀してレガッタのイカサマをしていたんだ。」
「イカサマだって?!」
 思わず、クリスが大きな声で叫んだ。
 「信じたくないだろうが、実はそうなんだ。警部、エバンスはその辺りを供述したかい?」
すると、ブラッドストリート警部は深く頷いた。
「ええ。エバンスはイカサマ試合を行ってウェスト・アングリアを敗退させ、相手校に大金を賭けたジリングに儲けさせるという不正行為を、ここ数年ずっと繰り返していたそうです。」
「そんな馬鹿な…!」
クリスは容易には信じられないでいる。しかしブラッドストリートが続けた。
 「本当なんだよ、クリス。エバンス自身が証言しているのだから。彼は昨シーズンまではずっと、二人漕ぎだっただろう?」
「ええ、あまり強くなくて勝ったり、負けたり…それで今シーズンから四人漕ぎに…まさか…!」
「そのまさかだ。エバンスは二人漕ぎ時代にイカサマを繰り返し、ジリングと儲けを分けていたんだ。そのことをジリングに暴露されたら、エバンスはおしまいだ。大学は退学、友人も、恋人も失うことになる。エバンスはジリングの指示に従うしかなかった。」
「ありがとう、警部。」
 ホームズが説明を引き継いで続けた。

 「ジリングに命令されたエバンスは、恋人のマーガレットの手引きで五時半過ぎに銃器室に潜んだ。不審に思ったマーガレットはその場で理由をエバンスに尋ねたが、エバンスは答えない。それで思わずマーガレットは『どういう事なの、ジェイムズ。』と声を上げてしまった。それを隣りの居間にいたペリーとバッキンガムが聞いたが、マーガレットに好意を持ち求婚までした二人はそれを黙っていた。
 さて、エバンスが銃器室に潜む少しまえ、五時半にジリングはテイル教授の書斎に入った。わざわざ三十分の余裕を持たせていた教授は、ジリングと非常に重大な話をした。その内容こそ、ジリングが教授を殺す動機だったんだ。
 とりあえず六時少しまえに会談を終えたジリングは、居間に降りてきた。するとそこにはバッキンガムしか居なかった。ペリーは二階の図書室に行ったからだ。ハーディもすぐに教授との会談を終えて、図書室に戻るだろう。ジリングにはそれが分かっていた。偶然にも、あの日クリケット荘へ向かう道すがら、ジリングはハーディを馬車に乗せた。クリケット荘に向かう間に、ハーディは図書室で調べ物をしたいとか、べつに取り留めも無い話をしたのだろう。だからハーディは図書室に居る。ペリーがその図書室に入るのはジリング自身が見ている。図書室内の二人が、修道院の売買について議論するであろう事は、明白だ。 ジリングにとって、教授を殺すチャンス到来だった。だが、バッキンガムが居間にいるのでは具合が悪い。
 ところが、ここで幸運が訪れた。バッキンガムが七時ごろには戻るからと言い残して、クリケット荘から出て行ったんだ。六時にブラクスピアーズ・ブリュアリーで、金貸しと話す約束をしていたからね。バッキンガムは教授が殺されたと知った時、クリケット荘を離れた事実を不利な材料と判断して、隠す事にした。そこで、ジリングに『六時から七時まで、ずっと一緒に居間にいた』と証言してくれと、頼んだ。即ち、バッキンガムがジリングのアリバイを証言する事になるのだから、ジリングは快諾した。
 結局、金貸しの存在が明るみに出た事によって、バッキンガムの『居間にいた』というアリバイは崩れたが、同時にジリングのアリバイを証明する人間も退場してしまった事になる。
 バッキンガムがクリケット荘から出て行くと、ジリングはまず上着を脱ぎ、手に持って居間から出て、そっと二階に上がった。扉の閉まった図書室の中から、議論するハーディとペリーの声が漏れ聞こえただろう。ジリングは鍵のかかっていなかった教授の書斎に入った。相手はジリングだ。教授は驚く事もなく、席からも立たなかった。二人はまた、さっきの重大な事について話し始めた。やがて教授は、机上のメモを見ながら話し始めた。その時、ジリングは前と後ろを逆に上着を着ると、教授の手元を一緒に見るようなそぶりをしながら、教授の背後に回った。そして持っていたナイフを取り出し、レガッタで鍛えられた握力を以って、一気に教授の喉を掻き切った ―。
 喉を選んだのは立ち位置の関係もあるが、教授に叫び声を上げられるのを防ぐためでもある。教授は苦しみ、机上に突っ伏した。ジリングは上着を脱ぎ、そして白いハンカチで手を拭うと、血をつけないように用心深くティーカップとポットの載った盆と、教授の机上にあった書斎の鍵を取った。喉の傷が致命傷になる事を核心していたジリングは、教授の死を見届けないまま書斎を出て、そして鍵を掛けた。鍵を掛けたのは、アリバイ工作をする前に誰かに教授を発見されないようにするためだ。
 誰にも見られずに一階に降りたジリングは、そのまま銃器室に直行した。そこにはエバンスが待っていた。エバンスは驚いただろう。まさかジリングが殺人をするとまでは、思っていなかっただろうから。ジリングはエバンスに上着とハンカチで包んだナイフ、鍵、ティーセットの盆を渡した。そしてパーティを控えて正装していたエバンスの上着を取り上げ、自分の上着を彼に押し付けた。そして上着と鍵と、ナイフの始末を命じたんだ。
 恐らく、エバンスはナイフの始末までは流石に出来ないと、断ったんだろう。ジリングはエバンスを脅しただろうが、エバンスは殺人の容疑までは御免だと拒否した。時間を浪費する訳には行かないジリングは妥協した。ナイフは後で回収するとして、銃器室の東側の窓から地面に隠した。クーパー君の部屋に置かれたナイフに、僅かながら土がついていたのは、そのせいだ。そして次の行動の指示をして、エバンスを銃器室に残したまま、ジリングは居間に戻った。そしてフランス窓の脇の水場で手を洗い、何食わぬ顔でソファで新聞でも読んでいた。そしてしばらくして、恐らくバッキンガムが戻ってきたのだろう。
 みんな、思い出してみたまえ。僕、ワトスン、クリスが散歩から戻ってきたのは七時少しまえ。すぐにホワイト・タイに着替えて、クーパー君、ハーディ、ペリーも加わり、ビリヤードをしようと言う事になった。ビリヤードの時は何人か上着を脱ぐが、ジリングだけは最初から上着を脱いでいただろう?血のついた上着はエバンスと交換している。それでも、体の大きなジリングには、エバンスの上着を着る事が出来なかったのだ。彼はその後も、一度も上着を着ていない。食堂で警部から事情聴取をされた時もね。手に持っていて、椅子に座ると膝においていたはずだ。
 さて、話を戻そう。八人の男は玉突き部屋で『カット・スロート』を始めた。この時の展開を思い出して欲しい。ジリングが早々に脱落してしまったのを見て、クリスが驚きの声をあげた。
『どうしたんです、ジリングさん!いつものあの腕前なら、最後まで残ると思ったのに。』
するとジリングは、
『ペリーさんのブレイクショットでまず一つポケットされ、もう一つは自分で落としてしまったんだ。手元が狂ったんだよ。』と、答えた。
 顔つきこそいまいましそうだったが、実はわざとだったんだ。ジリングはアリバイ工作の為に、早くプレイを終えたかったので、わざと自分の持ち玉をポケットさせ、ゲームから離脱した。」

 「でも、ジリングは二階には行っていませんよ。玉突き部屋に居た全員が証人だ。」
クリスが言葉を挟むと、ホームズは右手を少しあげて彼を制した。
「もちろん、ジリング自身が工作をした訳じゃない。彼は合図を出したんだ。ジリングはプレイを抜けると、ドアを開けて廊下を挟んだ向かい側の居間に入った。そしてドアを開けたまま、プレイしていたハーディに大きな声で尋ねた。
『ハーディ、ブランデーを飲むかい?』
 ハーディは断ったので、そのままジリングは自分の分だけ注いで、居間を出て、玉突き部屋に戻りドアをそっと閉めた。
 実は、『ブランデーを飲むかい?』と大きな声で尋ねた事が、隣りの銃器室に潜んでいたエバンスへの合図だったんだ。『オール・クリアーだ』という意味のね。エバンスはこの合図を確認すると、さっきジリングが持ってきたティーセットの盆を持ち、そっと銃器室から出た。そして二階にあがると、ジリングに言われた通り、書斎の前の廊下に盆を置いた。そしてエバンスはすぐに銃器室に戻り、ジリングの血染めの上着と鍵を持って窓から出ると、クリケット荘を後にした。おそらく、七時半より少し前だろう。
 居間に煙草を取りに行ったペリーが、銃器室で物音がしたのを聞いているが、それはエバンスが窓を閉めたか何かの音だろう。
 かくして、執事は七時半に書斎の前の廊下にティーセットが置いてあるのを発見する事になる。
 この時、エバンスは一つだけ忘れ物をした。それは、銃器室のドアに鍵を掛ける事だった。この事にはジリングも気が回らなかったんだろう。だから書斎のドアを破る時、クリスは難なく銃器室に飛び込めた。お茶の時は掛かっていた銃器室の鍵が、この時は開いていた ―。この事は僕の注意を引く事になった。
 その後は、ご存知の通り。ドアを破って書斎に入ると、教授は虫の息だった。ジリングの犯行は中途半端だったが、発見が遅すぎた。教授は直ぐに事切れてしまった。
 犯人のジリングは警部からの事情聴取を終えると、さっきの説明のとおり凶器をクーパー君の部屋に置き、クリケット荘を後にした。そして、自宅に戻る前にある所に寄っている。電報局だ。今朝、川岸でジリングに会った時、彼は『新聞記者のパスに関する事は昨日電報で打ってある』と言っていたね。あの時僕は、もしかしたらジリングは夜クリケット荘を後にしてから、打ったのではないかと思った。もちろん、電報局に行った本当の目的は、新聞記者のパスのためなんかじゃない。彼は大至急、ロンドンのある所へ電報を打たなければならなかった。そう、ロンドンのサヴィル・ロウへね。」
 ホームズは言葉を切って私達を見回した。クーパーとクリス、そして私は一瞬考えたが、同時に叫んだ。
「仕立て屋!」
「その通り。」
ホームズは灰色の瞳を輝かせて続けた。
「ジリングは大急ぎで自分の体に合う、正装用の上着を調達しなければならなかった。レガッタのスチュワードである以上、高貴な筋の方も出席するようなパーティに出なければならない。どうしても上着は必要だったんだ。」
「ホームズさんから電報で指示を受けて、調べてみました。」
ブラッドストリートが割って入った。
「電報局の通信記録を調べると、確かに夕べジリングがやってきて、ロンドンの新聞記者協会と、サヴィル・ロウの仕立て屋に電報を打っていたのです。レガッタのシーズンは電報局が夜中の十二時まで開いている事を利用したんですね。
 更に本庁の人間に仕立て屋を調べさせると、確かにジリング行き付けの店は、正装用の上着の注文を受けていました。大急ぎでです。」
「それが確認できたら、即刻ジリングとエバンスの身柄を確保するようにと、アドバイスしたのだが。ブラッドストリート君、なんだか大騒ぎになってしまったね。」
「いや、お恥ずかしい。」
ブラッドストリートは相変わらず良く通る声で、気恥ずかしそうに言った。
「ホテルに戻ってきたエバンスは、素直に警察署への同行に従ったのですが、ジリングはそうは行きませんでした。ヘンリー・オン・テムズ・テレグラフの編集部へ行ってみると彼は外出した、と言うのです。電車の時間を調べていたらしいので、駅に直行しました。すると丁度駅で汽車を待っているジリングを発見したのです。すぐに同行を求めると、なんと懐に拳銃を持っていて、二発も発射したのです。傍に居た巡査二人が、軽い怪我をしました。
 それからジリングは逃走し、テムズ川に出たのですが、ここで警官が発砲。腕や肩に命中しましたが、それでもジリングは逃走を続け、しまいには停泊していたランチを乗っ取りました。でも重傷でしたからね。すぐに猛スピードのまま操舵不能に陥り、ホームズさんとワトスンさんがエールを味わっていたパブのテラスに激突したと言う訳です。」
「まったく、大体の仕事は片付けたから、ゆっくり楽しもうと思っていたのに、台無しだよ。さてと。全部説明したと思うけど…まだ何かあるかい?」
 ホームズが肩の荷が下りたような顔で、パイプに新しい煙草を詰め込みながら言うので、私が尋ねた。

 「動機の点がまだだな。テイル教授は、ジリングがレガッタにおけるイカサマを行っていると知ったが為に、ジリングに殺されたのかい?」
「そう。不正額は大規模だったとすると、テイル教授に暴露されたらジリングはおしまいだ。」
「でも、ジリングは教授を計画的に殺したんだろう?共犯者を銃器室に潜ませるぐらいだからね。つまり、ジリングは不正をテイル教授に把握されている事を、夕べより前に把握していた事になるよ。」
「その通り。テイル教授は夕べ、三十分の時間を取って、初めてジリングにその事を告げようとしていたのだが、ジリングは事前に把握していた。
 さぁ、もう一度執事の証言を思い出してみたまえ。客を晩餐に招待する三日前、教授は手紙を出している。
『四通には通常サイズの封筒でしたが、もう一通だけは論文を送る時などに用いる、大きくて厚みのある封筒でした。他の四通とは別物…という感じでした。』
 この五通目の手紙が問題なのだよ。僕は今日の昼間、郵便局で一芝居打って、この手紙の行方を調べたんだ。なに、難しい事じゃなかった。郵便局員はテイル教授が持ち込んだ手紙の事を覚えていたからね。大きな封筒の一通は、ヘンリー・オン・テムズ・テレグラフの編集長宛てだったんだ。新聞社への郵便物は多いから、教授が郵便局に持ち込んだ後は集配係には回さず、直接新聞社に届けられた。局員が覚えていたのも当然さ。
 かくして、教授の大きな封筒は編集部に配達されたが、生憎編集長は休暇中だ。ジリング自身が、夕べ言ったようね。そう、副編集長であるジリングが編集長代行としてその封筒を開封したんだよ。それはジリングがギャンブルで不正を働いているという情報を書き連ねた、編集長への密告状だったに違いない。おそらく、ジリングはそれを焼き捨てて始末しただろう。
 編集長への密告は失敗に終わったが、ジリングとしてはテイル教授を生かしておく訳には行かなかった。六時半からの書斎での会見で、教授はジリングに『編集長にはもう情報が行っている。明日にでも警察に出頭しろ』とでも、言ったかもしれない。でも、ジリングは編集長への情報提供を阻んだ。だから、教授を殺し、エバンスにそれを手伝わせたんだ。」
「教授はなぜ、ジリングの不正を知ったんだ?それにホームズ、きみはどうしてそれに気付いたんだい?」
 私の質問にホームズは嬉しそうに微笑むと、長く煙を吐き出して、少し肩をすくめた。
「さぁ、それは教授が殺され、編集長への手紙が焼き捨てられた今となっては、分からないな。ただ推測するに、教授はマーガレットへの求婚者の身辺を調べていたんだろう。ジリングは地方新聞の副編集長で、あの若さの割りには金を持っていた。昨日も聞いたけど、誰もがそれを親戚の遺産だと思っていたが、教授はジリングの身辺調査でそんな遺産を残すような親戚なんて居ない事に不審を感じたんだろう。
 それに教授は、ここ数年のレガッタのオッズを調べていた節もある。ワトスン、ちょっとメモ帳を貸してくれたまえ。」
 私がメモ帳をホームズに手渡すと、彼はそれをパラパラとめくって、一個所で手を止めた。
「ここだ。これは夕べ、殺されたテイル教授の机上にあったメモの一部を書き写したものだ。『eight, last C3.5:O2.7』,『2past C4:O2』…これは『八人漕ぎ,去年,ケンブリッジ3.5倍,オックスフォード2.7倍』,『二年前,ケンブリッジ4倍,オックスフォード2倍』と読める。どうやらジリングの不正は、エバンスを介したウェスト・アングリアにとどまらないようだね。それから、『four, last WA2.5:other7』、『2past WA8:other3.5』とあるのは、『四人漕ぎ,去年,ウェスト・アングリア2.5倍,その他7倍』,『2年前ウェスト・アングリア8倍,その他3.5倍』と、読める。
 僕はこのメモを教授の机の上に発見したので、これはレガッタの賭けに何か関連しているな、と察知する事が出来たんだ。」
「なるほどね…」
 図らずも、クーパーとクリス、ブラッドストリート、そして私は一斉に溜息をつきながら言った。その反応に、ホームズは益々満足そうな無邪気な表情になって、煙を吐き出した。
「ジリングの敗因は、エバンスという共犯者を使って、色々と小細工をし過ぎた事だ。中でも一番の失敗は、クーパー君に罪を着せようとして、ナイフを部屋に置いた事だな。あれは僕に、ジリングこそ犯人だと核心させたからね。」
「そうだ!」
 突然、ブラッドストリートが大きな声で叫んだので、私達はびっくりして彼の方に向き直った。警部は目を丸くして、例によって歯切れ良く言った。
「まだ一つだけ、不明なことがありますよ、ホームズさん!教授のダイイング・メッセージは一体なんだったんです?どうして死に際に『クーパー』なんて言ったんですか?!」
「ああ、それね…」
ホームズはパイプの吸い口を噛みながら、眉を下げて力無く笑った。
「僕には何となく分かるような気がするね。ほら、教授が気に掛けていた事を思い出してごらんよ…」
 私達は顔を見合わせた。私がクリスと目があった時、
「あっ…」
と、二人とも声を上げた。そうだ、教授が心に掛けていた事。それは孫たちの事だ。ブラッドストリートも、私とクリスの反応を見て気付いたらしい。
「ああ…」
 私達は全員、クーパーの方に視線を集めた。教授は、今回帰郷したマーガレットに、「お前の事で心を決めた」と告げている。それは結婚相手の事だろう。しかし、四人の求婚者に関しては、全員を拒否している。つまり、クーパーは…
「そういう事かぁ…」
私達が異口同音に気の抜けた声で言うので、クーパーは目を丸くして、きょとんとしている。
「えっ?何?僕にはさっぱり分からない。ワトスン、どういう事だい?」
「さぁねぇ…どうしようかな。」
私は本気で当惑しているクーパーが気の毒ではあったが、どうも今すぐ教えてやる気になれない。
「本人が気付くまで、放っておいたらどうだい?ワトスン。」
 ホームズもパイプからバクバクと煙を上げながら言うので、クリスもブラッドストリートも、苦笑混じりに頷いた。
「そうだね。良く考えなよ、クーパー。さぁ、事件は解決かな。警部は明日も仕事があるでしょうけど、今晩はこのメンバーで楽しく過ごすとしようよ。ビリヤードでもどうです?…そうだな。『ターゲット・プール』でも。カット・スロートはもうたくさんだろう。」
 私が提案すると、一同は賛同して玉突き部屋へ移動となった。クーパーだけは、いつまでも納得の行かない中途半端な顔つきだった。


 → 15.レガッタの日

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主な登場人物

 シャーロック・ホームズ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 探偵

 ドクター・ワトスン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 医者,ホームズの友人

 クーパー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ワトスンの旧友,海軍軍医

 テイル教授 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クーパーの恩師,クリケット荘の主

 テイル夫人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ テイル教授の妻

 クリス・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫

 マーガレット・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫,クリスの妹

 エバンス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クリスの友人,マーガレットの恋人

 バッキンガム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ブリュアリーの営業担当者

 ペリー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 不動産業者

 ジリング・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新聞の副編集長

 ハーディ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古文書学者

 ブラッドストリート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スコットランド・ヤードの警部

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