Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

15.レガッタの日

 重傷だったジリングも翌日には随分回復したので、警察による取り調べが行われた。共犯のエバンスもすべてを供述していたし、こうなってしまってはジリングも全てを話さざるを得なかった。彼の供述はホームズの説明のとおりだったし、エバンスの証言で沼地から血糊のべっとりついたジリングの上着と、そのポケットの中からテイル教授の書斎の鍵が出てきた。
 二人とも週末までには送検された。ブラッドストリート警部は、一言だけエバンスからマーガレットからの伝言を持ってきた。
「ただ、『すまない ― 』とだけ。」
 クーパーによると、それを聞いたマーガレットは静かにそれを受け止めていたそうだ。ブラッドストリートはヘンリー・オン・テムズからロンドンに立つ際、駅まで見送りに行ったホームズと私に言った。
「ミス・テイルにとっては今回の事はショックだったでしょうが、ただ一つだけ良かったのはスポーツの精神を金のために汚し、恋人を利用した男の本性を知り、別れる事が出来た事じゃないですかね。それに、クーパー先生はすごくお似合いだと思います。」
 駅員が笛を鳴らし、汽車の出発を告げた。ブラッドストリートはタラップに上がると、振り返った。
「それじゃ、ホームズさん、ワトスン先生。今回は本当にありがとうございました。またロンドンでお会いしましょう。レガッタを楽しんで下さいね。…いい加減仲直りしたらどうです?」
 警部の良く通る声が汽笛でかき消され、汽車がゆっくりホームを離れ始めた。

 ブラッドストリートはあんな風に言ったが、べつにホームズと私が喧嘩をしている訳ではない。ただ、何となく緊張感漂う雰囲気だったのは事実だ。ホームズが早い内からクーパーを容疑者から外していたのに、しつこく『容疑者だ』と言って私やクーパーを心配させ続けた事に、私は正直言って腹を立てていた。
 一方ホームズは、あの時私が川に落ちたホームズには見向きもしなかった事を、しつこく根に持っていたし、私がダートマス赴任についての答えを、はっきりさせない事に関しても、苛立ちを覚えているらしい。
 それでも、私達はクリケット荘での休暇を楽しんでいた。葬儀が終わった後、テイル未亡人は何事もなかったように、毎日読書と刺繍に明け暮れ、あまり姿も見掛けなかった。クリスはエバンスの逮捕でガタガタになってしまったボート・チームを、数日で立て直そうと毎日川で奮闘していた。クーパーもスチュワードとしてジリングの仕事も兼務したので忙しく、私も彼やクリスの手伝いをするために川で随分長い時間を過ごした。マーガレットは葬儀までは随分沈んでいたが、やがてレガッタが迫るといくらか明るさを取り戻した。そして私やクーパーに誘われて、女中と一緒にクリス達の練習を見に来たりした。
 ホームズはレガッタ当日になるまで、あまり川には寄り付かなかった。彼はもっぱら修道院,フライアー・パークに入り浸って、ハーディと古文書研究に没頭していたのだ。ペリーは迷惑そうだったが、頑固で屁理屈屋の古文書学者二人を前にして、匙を投げてしまった。バッキンガムは繁忙期のブリュアリーで相変わらず仕事に掛かりっきりで、借金の返済を目指していた。

 レガッタは週末に開かれた。一日目、二日目は予選が行われ、ウェスト・アングリア大学は四人漕ぎと八人漕ぎで決勝進出を決めた。スチュワード側は、エバンスの行為と逮捕を重大視したが、裁判がまだなので大学の処分は保留した。クリスたち学生の熱意や、クーパーの助言が功を奏したのだ。
 ボート部のリーダーであるクリスは、当初八人漕ぎのみだったが、エバンスの穴を埋めるために四人漕ぎにも出場した。体力面を心配されたが、そこはチームメイト達が良くフォローしたのだろう。
 レガッタの最終日にはロンドンから皇太子ご夫妻がいらした。そして高貴な身分の紳士淑女が着飾って集まり、テムズ川河畔は一大社交場と化した。他にもロンドンや近隣の町からレガッタ見物に人々が押し寄せ、大変な騒ぎだ。ブラクスピアーズ・ブリュアリーのエールが飛ぶように売れただろう。
 空は青く晴れ渡り、雲一つない。オールが撥ね上げる水飛沫が、陽光にキラキラと輝き、銀色の水面に青空が映った。テムズ川には一マイル強のボート・コースが区画され、その両側にはレガッタ見物の大小さまざまなボートが陣取っている。水上からも岸からも、レースが始まるたびに大きな歓声が上がった。
 クーパーはマーガレットとホームズ、私をテンプル・アイランドの席に招待してくれた。ボートに乗って島に渡ると、白いテンプルと呼ばれる建物のフランス窓が開け放たれ、テラスには沢山の露天テーブルが並んでいる。更にテントも張られ、紳士淑女がのんびりとレガッタ観戦をしていた。社交場やら、大混雑地域となった河岸とは大違いの、和やかで落ち着いた観戦ができる。
 クーパーのスチュワードとしての仕事は主に開催当日までの準備作業で、レガッタ本番になると随分暇らしい。彼はエトルリア様式の装飾の美しいテンプルに、食事の席を予約してくれた。クリケット荘の料理人パトリスが乗り込んだらしく、島での昼食はとても行き届いたものになった。
 昼食が終わる頃に四人漕ぎの決勝が始まった。私達はテラスから身を乗り出して、クリスの首尾を見守った。ウェスト・アングリア大学はスタートから積極的に飛ばし、瞬く間にほかのチームとの差を大きくしてゆく。彼らのボートはどんどん上流に向かって進み、テラスからはゴールの様子が見えなかった。しかし上がった歓声や、大学カラーのすみれ色の旗が大いに打ち振られている所を見ると、クリス達が勝ったようだ。正式な結果はそのうちこの島にも伝わるだろうが、マーガレットは待ちきれないらしい。
「ねえ、上流に行って見てきません?クリスやチームの皆さんにお祝いを言いたいですもの!」
そう言って岸に戻る事を提案したが、ホームズはあまり乗り気ではないようだ。そこで私が言った。
「じゃぁ、クーパー君といらしたらいかがですか?私とホームズはここで待っていますよ。」
「クーパー先生、いかが?」
 マーガレットが振り返って微笑みながら尋ねると、クーパーは快く引き受け、腕を差し出した。マーガレットがその腕を取ると、二人はテラスから降りて船着き場に向かった。
 私とホームズは、テンプルのテラスから遠ざかって行く二人の背中を眺めていた。二人は楽しくお喋りをしているようで、渡し舟に乗ると岸には寄らずにそのまま上流の方へ向かった。
 私とホームズは、テラスの柵によりかかって、ぼんやりと川を眺めていた。さすがに今日は、猛スピードのランチが突っ込んでくるような事はないだろう。川の上を渡ってくる爽やかな風にあたりながらポケットを探っていると、ホームズが横から紙巻を差し出した。受け取ると続いてマッチの火が差し出される。川風をよけながら煙草に火を移すと、やはり紙巻をふかしているホームズと目があった。彼は面倒臭そうに口を開いた。
「それでワトスン、きみはクーパー君に教授のダイイング・メッセージの意味を教えてやったのかい?」
「いや。」
遠くにマーガレットのパラソルが、クルクルしているのを見遣りながら答えた。
「まだ言ってない。言う必要もなさそうだからね。」
「クーパー君とマーガレットは上手く行きそうだ、ということかい?」
「たぶんね。まぁ、今すぐにどうという話じゃないさ。マーガレットは学校に、クーパーはダートマスに、それぞれ戻ってからお互いが懐かしくなるだろう。それから改めて前進ってところじゃないかな。」
「そんなものかね。」
ホームズは気の乗らない表情で、大きく煙を吐いた。
「ねぇ、ホームズ。」
私は帽子を取ると、髪に風を入れた。
「きみは知らないだろうけど、実は今回の事はきみに感謝しているんだ。」
「感謝?」
ホームズはキョトンとして聞き返した。
「そうさ。ありがとう。クーパーの容疑を晴らしてくれて。その点は感謝しているよ。まぁ、きみが多少クーパーに意地悪をした事は貸しにしておいてやるがね。」
「ああ、うん。」
 ホームズは生返事をしたあと、勢い良く吸い込んだせいか、ゲホゲホとむせ出した。私はまた川の方に視線を戻して、咳をしているホームズを放置しておいた。この島に集っていた紳士の中には、この数日で私と知り合いになった顔も見える。そんな連中と会釈などしているうちに、ホームズは落ち着いたようで、また口を開いた。
「まぁ…その、なんだ。ワトスン、きみダートマス赴任の話は、どうするか決めたのかい?」
「まだ。」
「あぁ…そう。」
 ホームズは次の紙巻を探そうとやたらとポケットを探ったが、切らしてしまったらしい。
「煙草がない。岸に戻るよ。」
「紙巻なら私が持っているよ。」
 私が引き止める前に、ホームズはスタスタとテラスの階段を降りてしまっている。仕方がないので、ついでに岸に行く用を頼んでやる事にした。
「それじゃぁ、ホームズ。ブックメーカーのブラウンの所に寄ってくれないか?四人漕ぎのウェスト・アングリアにしっかり賭けてあるんだ、かなり勝ったと思うよ。」
「分かった。」
ホームズは頷くと、船着き場の方へ二,三歩あるき出したが、すぐに振り返って呼びかけた。
「ワトスン。」
 私がなに、と返事をすると、ホームズが何か言おうとした。しかし八人漕ぎのスタートの合図で観衆がドッと沸くのと同時になり、声が聞き取れない。しかし口の動きがこう言っていた。
『行かないでくれ ― 』
 私が聞き返す間もなく、彼は小走りに船着き場へと向かってしまった。
テラスに残された私は、うんざりした気分で風に吹かれていた。

 ホームズはどこへ逃げたのやら、岸に行ったきり戻ってこなかった。私はテンプル・アイランドで、知り合いになったスチュワードや、レガッタのOBなどと過ごし、葉巻やブランデーを楽しんでいた。
 ずいぶん経ってから、クーパーが一人で戻ってきた。なんでもゴール地点に行くと、ウェスト・アングリア大学は快進撃でおおいに盛り上がっていたらしい。まず四人漕ぎで優勝し、八人漕ぎでも見事二位に食い込んだのだ。エバンスの逮捕と言うトラブルを、クリス以下学生達が全員で克服したと言う訳だ。マーガレットは兄の大活躍に大喜びだった。ついでに、幼友達とも再会して、岸の方で楽しくやっているらしい。クーパーは皇太子殿下が引き揚げたら、改めて彼女を迎えに行くと言い残して、ひとまずテンプル・アイランドに戻ってきた。
 「やぁ、ワトスン。ホームズさんは?」
「さぁ。どこかに逃げたよ。」
「また川に落ちているんじゃないか?」
「落ちても大丈夫だろう。泳げるし、今日ほど沢山のボートが川に出ている日はない。」
なるほど、とクーパーは笑って、テラス席の私の隣りに座った。彼は煙草に火をつけると、大きく吸い込んでから深呼吸した。
「ああ、今年のレガッタも終りか。毎年思うのだけど、寂しいな。」
「今年は特に大変だったね。」
私が彼の労をねぎらうと、クーパーは眉を下げて微笑んだ。
「そうだね。ワトスン、きみが来てくれて本当に良かった。」
「礼はホームズに言えよ。彼が解決したんだ。」
「それは勿論だけど、ワトスンが居てくれただけでも、僕にとっては心強かったよ。ありがとう。」
「こちらこそ、ありがとう。招待してくれて。素敵な休暇になったよ。」
 クーパーが右手を差し出すので、私はそれを握り返した。クーパーの手は、いかにもレガッタ選手らしい、力強い手だった。
 「僕は後片付けがあるから、あさって引き揚げるけど、ワトスンとホームズさんはどうする?」
「私達は明日の午後の汽車でロンドンに戻るよ。」
「そうか。警部さんに会ったら、よろしくと伝えてくれ。」
「わかった。それで…クーパー。」
私は少し声を改めて切り出した。
「秋からダートマスに来て欲しいっていう話だけど…」
「分かっているよ。断るんだろう?」
 驚いた私を、クーパーがニコニコしながら見つめている。私は決まりの悪い気分で頷いた。
「実は、そうなんだ。せっかくの良い話なのに…済まない。」
「良いんだよ、ワトスン。謝る事なんて無い。ホームズさんときみを見れば、ホームズさんとロンドンで生活するのが、どんなに楽しくて充実して、魅力的かは分かるからね。いっそのこと、僕がロンドンに行きたいくらいさ。」
私は笑い出した。
「よせよ、クーパー。ホームズとルームシェアするっていうのは、退屈はしないが強制的に突飛な目に遭うのが確実なんだから。」
「それでもワトスンがロンドンを選んだって言う事は、ホームズさんに行くなと言われたかな?」
クーパーにはすべてお見通しらしい。でも、それは私の決断の理由ではなかった。
「まぁね。言われたらしいけど。」
「らしい?」
「らしい。でも、ホームズの希望なんて知った事じゃないね。私自身が、今の生活を気に入っている。それだけさ。またダートマスに遊びに行っても良いかい?もちろん臨時講義だっていつでもするから。」
「もちろん!大歓迎さ。ホームズさんといっしょにいつでも来てくれ。大歓迎するよ。」

 ― そしていつか、マーガレットと一緒に迎えてくれると良いな。
 私はそんな言葉を、心の中で呟いていた。


                             レガッタの街 完




あとがき

 「レガッタの街」を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。随分、長丁場になりましたが、お楽しみいただけたでしょうか?

 私がヘンリー・オン・テムズを訪れたのは、ある年の二月でした。こんな寒い時期に行ったという事は、当然お目当てはレガッタではありません。作中にも登場した修道院 ― フライアー・パークこそ私の目的地でした。
 19世紀末に裕福な弁護士が購入したフライアー・パークは、20世紀後半にまた売りに出され、ジョージ・ハリスンが購入しました。丁度ビートルズが解散しようとしていた時期です。ジョージはお城の如き住居を、優美な外見はそのままに住みやすく直し、個人宅にあるものとしては異例なほど立派なレコーディング・スタジオを完備しました。
 そして、自ら「庭師」を自認していたジョージは広大な庭の手入れに熱中しました。フライアー・パークは素晴らしいスタジオと広大な庭に囲まれ、多くの友人たちの憩いの場としても親しまれました。ビートルズのドキュメンタリー「ビートルズ・アンソロジー」には、ポール,リンゴ,ジョージがお茶を飲みながら屋外で楽しく話したり、歌ったりするシーンがありますが、そのロケ地となった美しい庭園もまた、このフライアー・パークです。
 フライアー・パークはロックスターの住居であり、同時にヘンリー・オン・テムズという街にとっても、誇りなのでしょう。この小説の冒頭に街のホーム・ページを紹介しましたが、ここでも紹介されています。

 フライアー・パークのあった街が、夏のレガッタシーズンにはロイヤル・レガッタの舞台ともなると、当然小説に書きたくなりました。かくして、今回のホームズ作品となったわけです。
 推理小説としてはあまり本格的なものは書けないのですが、レガッタとエール、フライアー・パーク,ホームズとワトスン,友人,訪問者,事件の舞台と家族たち …そんな沢山の要素を詰め込んで作品にするのは、とても楽しい作業でした。テムズ川河畔の風景と、ボートで旅に出る三人の男を描いた小説Three men in a boat (Jerome K. Jerome)にも、大きな影響を受けました。
 ウェスト・アングリアという大学の名前は、モンティ・パイソンに度々登場するものです。ウィンチェスターというライフルは、スティーブ・マックィーンのテレビドラマWanted: Dead or Aliveに登場します。バッキンガムという名前は、三銃士でも有名な公爵ではなく、ロッカーのリンゼイ・バッキンガムから拝借しました。それから、ペリーはエアロスミスのジョー・ペリー,ジリングはテリー・ギリアム,クーパーはパーッカショニストのレイ・クーパー,ハーディはネルソン提督最後の言葉からそれぞれ取っています。

 最後に、いまいちど読んでくださった皆様にお礼を申し上げます。感想などお寄せくださると幸いです。
 それから特に、ホームズの次回作を心待ちにしていたという、嬉しいメッセージをメールで下さった方に感謝を。

 次作はまたちょっと息抜き的なものが書きたいですね。              
                            3rd November 2005

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