Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

13.再びテムズ川

 馬車はまたテムズ川に戻ってきた。さっきは下流のテンプル・アイランド付近に行ったのだが、今度は上流のヘンリー橋に向かった。昨日、クリケット荘へ向かう道すがら眺めた五連の美しい橋だ。そのたもとには、小さいながらも古めかしいセント・メアリー教会が夏の光をいっぱいに受けて立っている。
 橋を挟んだ教会の向かい側に、こざっぱりしたパブが営業していた。この季節は客も多いらしく、昼から開いている。ホームズは川へ張り出した木製のテラス席に陣取った。
 テラス席には家族連れや、友人同士のグループがそれぞれのテーブルにつき、陽光の元の食事と飲み物を楽しんでいた。テラスの半分ぐらいは川の上で、柵の間から子供がパン屑を川に投げ入れ、水鳥達と戯れている。
 ホームズは席に就くとフィシュ・アンド・チップスと、プティング、そしてブラクスピアーズ・ブリュアリーの、ヘンリー・ゴールドを注文した。
 ホームズは遅れ馳せながら、風光明媚なこの町の夏を楽しんでいるようだった。料理が来るまでの間、子供たちと一緒になってパン屑を鳥にやったり、テラスで手足をのばしたりして、顔を輝かせている。私が思うに、それは事件を解決したという事だ。
 私は素晴らしい天気にも、爽やかな空気と風景にも心が浮かなかった。レガッタの練習は、本番コースとなる下流側は混み合っているらしい。仕方なく数艘のボートは、橋より更に上流側で練習をしている。クリスがいるだろうかと目を凝らしたが、彼のチームはやはり下流側で練習しているようだ。
 料理と飲み物が運ばれてきたので手を上げて合図すると、ホームズは足取り軽く戻ってきた。
「子供っていうのは、ちょっとした探偵だね。鋭い観察眼を持っているんだよ。あそこの男の子は、十匹はいるカモの一羽一羽を見分けている。名前までつけてね。あの子ならきっと、宝石を飲み込ませたガチョウを間違えたりしないだろうさ。」
 そう言うと、運ばれてきたエールを手に取り、かんぱい!などと素っ頓狂な声をあげて食事に取り掛かった。ホームズは朝食を食べなかったせいか、昨日のお茶の時のように良く食べる。そして良く喋る。その内容たるや、古文書に巣食う虫の話とか、高貴な身分のくせにエールの利き酒が上手い王子の話とか、恋人からの手紙を見るや聖職者になる志を捨てた現金な青年の話やら、ともかく私の聴きたい話ではなかった。
 当然、ホームズの話は私の右耳から入って、左耳に抜け、テムズ川の下流へと流れていく。そのうち、ホームズが話を中断して私の肩をゆすった。
 「ねぇ、ワトスン。きみ、聴いているのかい?」
「聴いてないよ。」
 私は手にしていたエールのコップをテーブルに置くと、改めてホームズに真面目な口調で言った。
 「きみの魂胆は分かっているよ、ホームズ。私にこういわせたいんだろう?『一体どうなっているんだい、ホームズ。僕にはさっぱり分からない。分かるように説明してくれよ。』さあ、言ったよ。説明してもらおうか。」
「さっきも言ったけど、推理なんて必要としない単純な事件なんだけどなぁ…」
 そんな憎まれ口をききつつ、ホームズの表情は嬉々として輝いている。要するに私に事件の全容をゆっくり話したくて、この川べりのパブまで来たのだ。ホームズは時計を取り出すと、時刻を確認した。
「三時半。うん、そろそろ良いだろう。説明してあげるよ。」

 「ではまず、ワトスン。君が一番気にしている、マーガレット・テイル嬢についての話からはじめよう。」
 私が厳かに頷くので、ホームズは川辺の爽やかな空気を吸い込み、話し始めた。
 「マーガレットの立場をまず整理しよう。彼女は莫大な親の遺産の相続人であり、祖父のテイル教授が死ねばそれを自由に出来る。彼女にはジェイムズ・エバンスという恋人が居る。これは兄クリスの大学の友人で、ボートの選手なので現在このヘンリー・オン・テムズに滞在中だ。彼女は、祖父が結婚相手について『心を決めた』事までは知っていたが、その詳細までは知らなかった。結局、テイル教授は四人の求婚者全員を拒んだのだがね。でも、そのことをマーガレットは知らずじまいだろう。
 そうすると、彼女には教授の死によっていくらかの利益がもたらされる。一つは莫大な遺産。そして、恋人と結婚する自由。こうやって挙げてみると、いかにもマーガレットは怪しい。
 しかも、ブラッドストリートや、僕の質問に対して嘘をついている。昨日の午後、彼女の本当の行動はこうだ。ピアノの練習をしていると、五時過ぎにペリーがやってきて挨拶した。求婚者である客が煩わしいマーガレットは、ひとまず三階の自室に引き取った。しかし、五時半過ぎ。彼女は一階の銃器室に入った。鍵は彼女自身が前もって台所のキー・ボックスから合鍵を失敬していたんだろう。合鍵は書斎の鍵のためではなく、銃器室を開けるためだったのさ。
 そして銃器室に入ったマーガレットは、西側に面した窓から、ある人物を中に入れた。それが会話の相手だ。そしてその相手と会話をしているうちに、思わず大きな声を上げた。『ジェイムズ、どういうことなの ― 』ワトスン、ジェイムズとは?」
「…恋人のジェイムズ・エバンスだ。」
私が低い声で答えると、ホームズが頷いた。
「そのとおり。思い出してくれ。昨日、僕ら二人は、お茶の後庭に出て、それから川へ散歩に出かけた。丁度練習が終わったクリスに会ったが、彼はこれから四人漕ぎの練習が始まると言っていたね。すなわち、エバンスが出場する優勝候補の競技だ。僕ら三人は散歩で川を離れてしまったが、ブックメーカーのブラウンはその練習を見ていた。ところが、優勝候補のはずのウェスト・アングリア大学チームの四人漕ぎは、まったく駄目な様子だ。メンバーさえ定まっていないと、ブラウンは言っている。つまり…」
「エバンスは練習に参加していなかったんだ。」
「その通り。彼はクリケット荘へ行っていたのだから。リーダーの居なくなった四人漕ぎがさっぱり上手く行かないのは、当たり前さ。恐らく、マーガレットはエバンスに頼まれて合鍵を入手し、彼を窓から銃器室に入れた。でも、マーガレットはなぜ恋人がそんな事をするのかが分からない。だから彼に問い詰めた。でも、まともには答えてくれないので、思わず『ジェイムズ、どういうことなの ― 』と声を上げ、それを隣室のペリーとバッキンガムに聞かれたんだ。
 その後、すぐに声が聞こえなくなったとペリーは言っているから、彼女はそっと自室に戻ったんだろう。そして部屋に入るところを、テイル夫人の部屋に鎮痛剤を届けに言った女中に見られている。それが五時四十五分だ。」
「その時、合鍵はどうしたんだい?」
「良い質問だね、ワトスン。多分、彼女が持って寝室に行ったと思うよ。その話は後だ。今はエバンスに注目しよう。彼はそのまま銃器室に留まったと思われる。しかも、七時過ぎ…そう、もしかしたら七時半近くまでクリケット荘に居たかもしれない。」
「どうして分かるんだい?」
「彼が各大学のレガッタ・チーム合同のパーティに遅刻したからさ。それは、さっきワトスンがクーパー君と一緒にブラウンと喋っている間に、僕が土手下でウェスト・アングリアの学生たちから聞き出した情報だ。みんな揃って、エバンスは八時少し前に遅刻してホテルのパーティ会場に来たと言っている。クリケット荘から、街のホテルまでは少し距離があるが、エバンスがどこかに自転車か何かを用意しておけば、七時半には出発すれば、八時ごろには着けるだろう。
 僕は学生たちに、パーティに来たエバンスに、変わった様子は無かったかと尋ねると、練習に来なかったことや、遅刻自体には誰も不審を抱いていなかった。みんなエバンスが、クリケット荘に居るクリスの妹マーガレットと恋仲である事を知っていたから。ライバルチームの手前、彼の練習怠慢については黙っていたがね。ただ、数人の学生はあることに気付いた。」
「ある事…?」
「さっき、ヒントを言っただろう?」
 私はホームズの問いかけに、少し首をひねった。ブラクスピアーズ・ブリュアリーから、修道院へ向かう道すがらホームズが馬車の中で挙げたヒント ―。
 ブックメーカー・ブラウンの証言。そして、夕べ開かれたレガッタ・チーム合同パーティのある出席者の行動と、そして ―
 「彼の上着?!」
「そうだ。遅刻してきたエバンスの上着だ。どういうことかというと、エバンスは上着を着ていなかったんだ。レガッタ・チームのパーティとはいえ、OBや家族たち、女性たちも居る。だからみんなそれなりの正装をしていたはずで、当然だれもが上着を着ている。まぁ、夏だから手に持っているかもしれない。でも、エバンスは最初から上着を持っていなかったんだ。彼が上着を着ることも出来なければ、手に持つ事も出来なかった ― その事から想像できる事は?」
私は渋々答えた。
「テイル教授の首を掻き切ったとき時に、返り血がついていた…」
「良いね、ワトスン。僕と同じ思考回路だ。僕も同じ事を考えて、さっきブラッドストリートにエバンスの身柄を確保することを薦めておいた。」
「でもホームズ、エバンスは確かに怪しいが、逮捕するのは無理だよ。」
 私が身を乗り出して言うと、ホームズは軽く笑った。
 「そりゃそうさ。ただ、逃げられちゃ困る。とりあえず、任意同行の事情聴取ぐらいだろうな。マーガレットは祖父が殺害された日に、エバンスが銃器室に潜んでいたことを知っていたが、恋人の為に黙っている。一方、ペリーとバッキンガムは、マーガレットを庇うためにやはり銃器室に誰かが居たことを黙っていた。ペリーは、ビリヤード中にも居間に行って、物音で銃器室にまだ誰かが居たことにも気付いたが、やはり黙っていた。彼はそれをマーガレットだと思い込んだようだが、実はエバンスだったのだろう。
 とにかく、マーガレットはエバンスが祖父殺害に関わっているという確信から、『どうしましょう』とか、『おじい様が…』とか、『私のせいで』とか、『私が悪いんだわ』と、一見混乱したがゆえの言葉を発した。でも、彼女には恋人が何かしたのではないかという確信があったんだ。混乱じゃない。確信だ。
 そして、マーガレットは気分を悪くして、クーパー君の処方した薬で落ち着き、とりあえずブラッドストリートと僕らの事情聴取に応じた。そして自室に引き取った。さて、ここで合鍵が問題になる。なくなった合鍵の所在を知っているのはマーガレットのみ。さて、結局合鍵はどこから発見された?」
 私はホームズが満面の笑みでよこした質問に、額を押さえながら答えた。
 「クリケット荘の西端。植え込みの中だ。…そして、マーガレットの部屋の窓のすぐ下でもある。」
「あたり。つまり、彼女はゆうべ自室に引き取ると、おもな警官たちやブラッドストリートが引き上げ、僕らも寝室で休んでから、そっと自分の部屋の窓から合鍵を投げ落としたんだ。」
 ホームズはそういって、私の顔をじっと見つめ、ニコニコしている。しかし私は笑う気分になれなかった。
 「それで…ホームズ。君の推理だと、教授の喉を掻き切ったのは銃器室に潜んでいたエバンスだと言うのかい?つまり、銃器室のエバンスは六時過ぎにハーディが書斎から出ると、二階上がって鍵の開いていた書斎に入り、教授の喉を掻き切った。そして教授が息絶えるのを見届けずに机上から教授の鍵を取ると書斎を出て、扉に鍵をかけてからまた銃器室から外へ出たと?」
「まぁ、そう考えるのは可能だけどね。確かに彼は教授が死ねば得るものがある。恋人との結婚と、彼女についてくる莫大な遺産だ。」
 ホームズは一旦言葉を切ると、ウェイターにエールをもう一杯ずつ追加注文した。それから紙巻に火をつけると、また私に向き直った。
 「でも、色々な問題点が残る。僕は現場の状況から、教授は顔見知りに殺されたと推理したよね?でも、エバンスは教授との面識はなかった。それから、エバンスの犯行時刻だ。ハーディが教授との会見を終えて書斎を出たのが六時過ぎ。それからハーディとペリーは図書室にこもって議論。バッキンガムは借金取りに会うためにこっそりブリュアリーに出かけ、バッキンガムの為に偽のアリバイを証言したジリングはリビングに居たはずだ。つまりエバンスは六時過ぎにはもう、犯行可能だったんだよ。でも、エバンスがホテルでのパーティに出るために銃器室を後にしたのが、さっきも説明したように七時半ごろだとすると、なぜそんな時間まで銃器室でぐずぐずしていたのか?」
「犯行時刻を誤魔化したんじゃないのかい?廊下に七時から七時半の間におかれた、ティーカップとポットのことがあるだろう?」
「つまり、ワトスンの説はこうかい?エバンスはハーディが図書室に戻るとすぐに書斎に入り、教授を殺害した。でも、犯行時刻を誤魔化すために現場に留まり、七時過ぎになってティーカップとポットを廊下に出してから、クリケット荘を後にした ― でも、それじゃぁ全然アリバイ作りにはならないよ。彼のアリバイを証言してくれる人は居ないのだから。それに、マーガレットの恋人であっても、飲み終わったらすぐに食器を廊下に出すだなんて教授の習慣を、エバンスが知っていたとは思えない。マーガレットが教えたなら可能だが、それではあまりにもマーガレットに深入りさせすぎだ。
 つまりね、ワトスン。エバンスは確かにこの犯罪に関わっているんだよ。でも、実際に手を下した殺人の犯人ではないんだ。共犯者なんだよ。」
「誰だい、その共犯者は?」
 私は運ばれてきたエールに手も付けずに、ホームズに聞き返した。ホームズはニッコリと微笑んだ。
「では、ヒントをもう一つあげるよ。共犯者は、テイル教授のダイイング・メッセージを知っていた人物だ。」
「教授の死に際の言葉を…?!でも、あれを聴いたのはホームズ、君と私だけだ。」
「そうさ。」
ホームズは嬉しそうに言うと、悠々とエールのお代わりを手に取り、また時計を見た。
 「さっき、メッセージをブラッドストリート君に送ってから…もう良い時間だな。そろそろ警部が僕のアドバイスに従って、その殺人犯の身柄を拘束している頃だよ。マーロウでは脱走犯が出たらしいが、今回はこのシャーロック・ホームズの的確なアドバイスのお陰で、静かに、大袈裟な騒ぎも立ち回りも無く粛々と犯人が逮捕されているだろうよ。まぁ、そういう乱暴な仕事は警察に任せておいて、僕らは素敵なパブのテラス席で美味しい空気と、美しい川の風景、素晴らしいエールを楽しもうじゃないか。」
 ホームズが楽しげにエールのコップを口元に運んだその時、突然背後でけたたましい笛の音が、ピィーッ!と高く鳴り響いた。
 ホームズがエールを派手に噴き出し、私が驚いて振り返ると、制服を着た警官が何人もパブに駆け込んできた。そして一際よく通る声を発しながら、ブラッドストリート警部がテラスに駆け出してきたのだ。

 「全員、テラスから待避してください!川から離れて!」
 突然の警官隊突入に、テラスや建物の中にいた客達は仰天した。そしてテラスで楽しんでいた客達は大慌てで建物に入り、建物からさらに通りに出るよう、警官たちが大声で指示している。
「ブラッドストリート君!これは一体何事だね?!」
ホームズがテラスに躍り出た警部に怒鳴ると、警部も負けずに怒鳴った。
「あいつですよ!身柄を確保しようとしたら、拳銃なんて持っていたんです。警官二人を撃って逃走!さっき上流でランチ(小型汽船)を乗っ取って逃走して…来たぞー!!」
 ブラッドストリートが部下を率いてパブのテラスから川の方へ駆け寄った。ホームズと私もそれに加わる。ブラッドストリートが指差した方角 ― テムズ川の上流の方から、小さいながらも速度の速いランチがこちらに向かってくる。追っ手なのか、随分後方から警察のものらしきランチが追ってくるが、到底及びそうない。上流側で練習していたボートは何事かと驚き、危険を避けるために一斉に対岸側に漕ぎ寄せた。
「何やっているんだ、早く出せ!」
 ブラッドストリートはテラスの柵から身を乗り出してヘンリー橋のたもとに向かって怒鳴った。橋のたもとには、どこから調達したのかやはりランチが停泊していて警官が乗り込んでいるが、エンジンが掛からないらしく右往左往している。
「こっちに真っ直ぐに向かってくるぞ!」
 警部と一緒に身を乗り出していたホームズが怒鳴った。彼の言う通り逃走してきたらしきランチは、真っ直ぐにこのテラスに向かって来ているではないか。それも猛スピードだ。
「操舵不能なんですよ!ヤツは警官が発射した銃弾を三発も受けているんですから…!全員待避―っ!!」
 一際大きな声でブラッドストリートが叫んだ。まさにランチはスピードも落とさないまま、私達の居るテラスに突っ込んでくる。わぁっ、と警官たちが退いたその時、私の耳に女の叫び声が聞こえた。
「チャールズ!駄目よ、戻りなさい!!」
 パブの店内に待避していた親子連れの内、さっき水鳥と戯れていた小さな男の子がテラスに飛び出したのだ。迫り来るランチを近くで見ようと、柵に向かって駆けて行く。ホームズが私の腕を掴んでいたが、私はそれを振り払うなり柵に向かって突進し、手を伸ばして男の子の腕を思いっきり引っ張った。
 男の子の叫び声と同時に、ランチの舳先が柵を破り、テラスに激突した。メリメリっと物が潰れる音が上がり、続いてドンっ!と低く響く。足元が大きく揺さ振られ、私は男の子に覆い被さるようにして伏せた。
 激突したランチと、テラスや柵の破片が撥ね上げられ、頭上にバラバラと降ってくる。
「逃すな!」
 次に聞こえたのはホームズの声だ。私が体を起こすと、下から男の子が泣き声を上げながら飛び出し、店内で半狂乱になっている母親の方へ駆け出した。
 振り返ると、私が倒れていた数フィート先でランチがテラスにめり込んで止まっている。が、エンジンは動いているらしく、まだガタガタと振動していた。
「ホームズさん!」
 再び駆け出したブラッドストリートが叫んだ。ホームズがいち早くランチに乗り移り、逃走しようとしていた男を操縦席から引きずり出そうと格闘しているのが見える。しかし警部と共に警官達も加勢しようとランチに乗り移ろうとした時、まだ止まっていないエンジンが仇となった。ランチがギイっと音を立てて、テラスから離れたのだ。
「しまった!」
 ランチに乗り移り損ねたブラッドストリートが叫ぶのと、損傷したランチが大きく傾くのは同時だった。丁度ホームズが勢い良く操縦席からぐったりしている男を引きずり出したタイミングで、船上の二人はそのまま船の傾きとともに滑るように川へ落ちてしまったのだ。
「 ― ジリング!」
 私は破壊されたテラスの突端に立ち、ランチから水面に落ちて行くその男の姿を確かに見た。背の高い、がっちりした体つきの、そして若白髪の男 ―!二人分の水柱と水音が、大きく上がった。
 次の瞬間、私は咄嗟に川へ飛び込んでいた。どう見てもジリングには意識が無い。私は水面にぐったりとしているジリングの元まで泳ぎ着くと、彼の体を上向かせた。息はある。右腕と肩口が真っ赤になっていた。私は続いて飛び込んできた警官たちと共にジリングを岸まで運び、大声で指示した。
「乾いた毛布と布だ!それから、火を焚いて!」

 警官たちは迅速に動いてくれた。すぐに乾いた毛布とたき火でジリングの体が温められ、乾いた布を裂いてとりあえずの止血をする。水を吐かせると、どうやら呼吸が楽になったようだ。その頃にはランチのエンジンも止められ、辺りが落ち着いてきた。
 やがて、ブラッドストリートが手配していた護送車と、外科医が到着した。私が医者に状況を説明すると、あとは彼らに任せる事になった。ブラッドストリートはジリングと共に護送車で警察署に向かう。
 私は川岸で護送車を見送り、やっと一息ついた。全身ずぶ濡れになり、髪もぐしゃぐしゃになっている。やれやれ、と思って改めてテムズ川の方を見遣ると、思いもよらぬ光景が目に飛び込んできた。
 川の中ほどに四人漕ぎのボートが来ていて、乗っていたクリスとクーパーがオールを持っている。二人は噴き出しそうな表情でこちらに向かってボートを漕ぎ出した。クリスも、クーパーも下流で練習なり仕事なりしていたはずだが、加勢に来てくれたのだろうか。
 良く見ると、ボートの舳先に何かがしがみ付いている。私は濡れた顔を一度手で拭って、よく目を凝らした。それは、ホームズだった。しかも、仏頂面をして、上半身だけ水面から出し、両手でボートにしがみ付いているホームズなのだ。
 私が呆気に取られていると、やがてボートは岸に乗り上げ、ホームズも立ちあがって私の方に近付いてきた。
「やぁ、ワトスン君。ご活躍だね。」
ホームズは不機嫌な声で私を睨みながら言った。
「勇敢な君は殺人犯を助けるために川に飛び込み、見事に救出してみせたと言う訳だ。お陰で僕は川の真ん中で待ちぼうけさ。騒ぎを聞きつけて駆けつけたクリス君と、クーパー君が来てくれなかったら、今ごろ僕はオフィーリアよろしく流されていたね。掃き溜めのようなロンドンまで流されていたら、乙女からドブネズミへ華麗なる変身だ。さぞや面白かっただろうなぁ。」
「きみ、泳ぎの名人じゃないか。」
私はムッとしながら言い返した。するとホームズは目をむいてまた口を開け、何事か言おうとしたが、「まぁまぁ」と割って入ったクリスとクーパーになだめられた。
「ホームズさん、落ち着いて。相手が何者でも、命が危機に瀕している方を先に助けるのが、医者の習性なのですから…」
「そうですよ、ホームズさん。まずはクリケット荘に帰って、着替えましょう。いくら夏だと言っても風邪を引きますよ。それから、温かいお茶でも飲みましょうよ。」
 結局、その場はクリスの提案に従う事になり、私とホームズはテムズ川の水を全身からしたたらせながら河畔を後にして、クリケット荘に向かった。
 騒ぎの収まった川辺には、また水鳥が戻ってきていた。



 → 14.たねあかし
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主な登場人物

 シャーロック・ホームズ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 探偵

 ドクター・ワトスン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 医者,ホームズの友人

 クーパー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ワトスンの旧友,海軍軍医

 テイル教授 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クーパーの恩師,クリケット荘の主

 テイル夫人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ テイル教授の妻

 クリス・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫

 マーガレット・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫,クリスの妹

 エバンス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クリスの友人,マーガレットの恋人

 バッキンガム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ブリュアリーの営業担当者

 ペリー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 不動産業者

 ジリング・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新聞の副編集長

 ハーディ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古文書学者

 ブラッドストリート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スコットランド・ヤードの警部

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