Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

12.修道院

 ヘンリー・オン・テムズの中心街から、西側の丘を少し登った辺りに広大な敷地を有していたこの修道院は、随分前に閉鎖されたらしい。修道士たちはすっかり引き払っており、一人だけ住み込みの寺男が、庭仕事の手を止めて私達を案内してくれた。
 無口で無愛想な男だが、広い庭を建物に向かって歩く道すがら、ホームズの巧みな誘導によってポツリポツリと話し始めた。この修道院はもう百年近く廃屋同然で、修道院としての機能は失われていたらしい。その広大な敷地と緑豊かな一角は、ヘンリー・オン・テムズの住人達から「フライアー(托鉢僧)・パーク」と呼ばれていた。敷地の一角にある修道女のための学校だけが、細細と活動を続けていと言う事だ。
 マイケル・ハーディはこのヘンリー・オン・テムズ在住の古文書学者で、以前からこの修道院に所蔵されている古文書に強い興味を持っていた。修道院から修道僧が居なくなると、彼は修道会の許可を取って残されていた古文書の研究に没頭し始めた。
 何せ、随分長い間放置されていた修道院だ。どこにどんな古文書が残されているかも定かではない。ハーディは古文書の解読,研究を進めながら、まだ残されている文書の捜索もすすめたいと思っているらしい。
 しかし、数ヶ月前に状況が変った。修道会がこのフライアー・パークをとある弁護士に売却したのだ。この取り引きの仲介をしたのが、町の不動産屋ヴァンス・ペリーという訳である。
 寺男の口調から察するに、どうもペリーには良い感情を持っていないらしい。修道院に愛着のある寺男にとって、強引に商談を進めようとするペリーのやり口が気に入らないのだ。せめて、ハーディの古文書研究にもう少し協力して欲しいと言うのが希望らしい。もちろんハーディは、フライアー・パークが人手に渡る前に、時間をかけて建物の捜索を大々的に敢行して、古文書全てを保全したいのだ。
 ペリーは一刻も早く商談を纏め上げたい一心で、ハーディにフライアー・パークの敷地に入るな、などと文句をつけている。幸い、弁護士が現在大きな仕事を抱えていて、フライアー・パークの商談を進める状況にないため、ハーディは古文書の捜索を続行できるというのが、現状だ。
 寺男からそんな話を聞きつつ、一番大きな建物に案内された。長い間機能していなかったにしては、ひどく荒れてはいないのは、寺男とハーディが手入れをしているからだろう。修道女達も時々様子を味に来ているようだ。寺男は入り口から廊下の先を指差すと、奥の食堂にハーディが居ると教えてくれた。彼はそれ以上同道せず、また庭仕事に戻って行った。

 ホームズと私は七月だというのに、ひんやりとした長い廊下を歩き、天井の高い大きな食堂に入った。天井窓がついていて、明るい日の光が差し込んでいる。煤けてはいるが、壁面に色とりどりの草花が描かれているのが分かった。
 ハーディは、食堂の一角に机を寄せ、古文書をいっぱいに広げて作業中だった。
「今日は、ハーディさん。」
 ホームズが入り口から声をかけると、高い天井に声が美しく響いた。顔を上げたハーディはずれた眼鏡を直すと、入って来たのが私達二人である事を認識したらしく、昨日と同じく気の無い様子ながら立ち上がった。
「今日は、ホームズさん。ワトスンさん。古文書見学ですか?」
ハーディもホームズが古文書に興味がある事を知っているらしい。ホームズは一瞬だけ俯いて笑うと、すぐに自分の本題を切り出した。
「本当は僕も古文書に没頭してみたいのですが、殺人事件が起こってはそうも行きません。今日は仕事でお尋ねしたんですよ、ハーディさん。」
「そうですか。」
 ハーディは眼鏡の下で警戒するような表情を見せたが、すぐに腰掛けながら言った。
「私にお聞きになりたい事があるんですね。ああ、どうぞ。お座り下さい。」
 ハーディの勧めた椅子は普段本や、文書が山積みにでもなっているのだろう、座面が薄汚れているが、頓着している場合ではない。ホームズは腰掛けると、ハーディに尋ねた。
「昨晩とお尋ねする事が重複するのは、お許し下さい。昨日、あなたは思っていたよりも早くクリケット荘に到着しましたね。」
「途中でジリング君の馬車に乗せてもらいましたから。」
「クリケット荘に着くと、直ぐに二階の図書室に入り、ドアを閉めた。六時に書斎に入り、テイル教授と会話するまでは、出ていませんね?」
「ええ。」
「誰かに会いましたか?」
「いいえ。図書室には誰も来ませんでした。」
「教授との会見を終えたのは、六時少し過ぎ。また図書室に戻ろうとすると、ペリーさんが来ていた。」
「ええ。」
「それから、ずっとペリーさんと話していて、一階に降りてビリヤードを始めるまで、一緒に居ましたね?」
「居たい相手じゃありませんがね。」
「なるほど。では、ビリヤードの時ですが、晩餐が始まるまで玉突き部屋に居ましたね?」
「ホームズさんもワトスン先生も一緒だったじゃありませんか。」
「途中で、居間からジリング君にブランデーを飲まないかと聴かれた時も?」
「ええ、私は玉突き部屋に居ました。ジリング君は廊下越しに居間から呼びかけたんですから。」
「ジリング君は、すぐに玉突き部屋に戻りましたか?」
「ええ、戻りましたよ。ドアを閉める時に気をつけるように言いましたから。乱暴に閉めると、玉に影響する。」
「なるほどね。」
 ホームズは細かく頷いて、黙ってしまった。ハーディは怪訝な様子でホームズを見ていたが、やがて古文書の一つを手に取った。
「あの、もうお話する事が無いのなら、仕事に戻りたいのですが。なにせ、この修道院が売り飛ばされるのは時間の問題でしてね。」
 ホームズは相変わらず黙って考えている様子なので、私が代わりに口を開いた。
「この修道院を買い取るのは、さる弁護士さんと聴きましたが、彼は古文書の保全について何か言っていないのですか?」
「私だってその弁護士と話したいのです。ところがペリーときたら、ちっとも弁護士の連絡先を私に教えてくれやしない。余計な仕事は面倒だからしたくないというところでしょう。」
 眼鏡の下で、ハーディの表情が苦々しく曇った。

 ホームズと私が食堂のあった建物から出ると、修道院の広々とした庭は緑に溢れ、鳥たちが軽やかに鳴いていた。次は不動産屋だとホームズが言うので、二人して馬車を待たせてある門に向かおうとしたが、その当人が向うから近付いてくるのが見えた。
 庭のど真ん中で、不動産屋のヴァンス・ペリーは帽子を脱いで挨拶してみせた。
「今日は、ホームズさん、ワトスン先生。ハーディから私の悪口を聞いてきたところですか?」
 正直な男だ。禿げ上がった頭に帽子を戻すと、爽やかな陽光の元、この中年の男は皮肉な表情をしてみせた。ホームズが笑って答えた。
「どうやら、そうではないと言っても、無駄のようですね。」
「ええ、無駄ですよ。昨日も散々説明してやりましたが、どうもハーディは自分の立場が分かっていない。彼はこの修道院とは元々関係ない男なんですよ。古文書の捜索と研究なんて、別に修道会から依頼されている訳でもないのに、偉そうな口をきいて私を馬鹿扱いする。まったく良い迷惑ですよ。あんな分からず屋の言う事を、いちいちお客さんに聞かせる訳にも行かないのに、ハーディにとってはそれも研究の妨害だとか。商談が成立して、この敷地を完全にお客さんに渡すまでの間、こうして敷地に入れてやっているだけでも、有り難いと思って欲しいのですがね。」
 不動産業を生業としているペリーにとっては、確かに彼の言う事は理に適っているのだろう。ともあれ、ペリーとハーディが、昨日の夕方六時過ぎから、ビリヤードが始まる七時ごろまで、図書室で激論を交わしていたのは容易に想像できるし、お互いに偽のアリバイを証言してやるほどの好意など、かけらも持ちあわせていないのは確かだ。
 古文書研究にも熱心なホームズは、ペリーに好意は抱いていないだろうなとおもいつつ見遣ると、意外にも穏やかな顔付きで、微笑んでさえいた。
「まぁ、僕も古文書には興味がありまして、ハーディさんには同情しますがね。ペリーさんもお仕事ですから。これからあなたの所に行こうとしていた所ですよ、ペリーさん。ちょっとお話をお伺いしたいのですが。なに、お手間は取らせません。夕べお聞きした話の確認ですから。」
 ホームズの愛想の良い物言いに少し拍子抜けしたのか、ペリーは眉を下げて頷いた。
「何です。私がお話できる事は夕べ全てしましたが。」
「あなたは昨日、五時過ぎにクリケット荘に駆け込み、まずミス・テイルに挨拶をして、すぐに二階の書斎に入り、テイル教授と会見した。」
「ええ、そうです。」
「数分で会見が終わると、一階の居間で新聞を読んでいた―。僕が確認したいのは、その新聞を読んでいた間の事です。詳しく話して下さいませんか?まず降りてきた時に、他に、だれか居間にいましたか?」
 ペリーはちょっと眉をよせて、記憶をたどっていたようだが、別に迷う事もなく答えた。
「ええ、二階の書斎から降りてくると、居間ではバッキンガムとジリングが煙草を吸うか、新聞を読むかなにかしていました。私が居間に入ると、すぐにバッキンガムが出て行きました。二階に行ったんでしょうね。」
「それが、五時十五分。」
ホームズが言葉を挟むと、ペリーは肩をすくめた。
「私は時計を見て確認した訳じゃありませんけど。しばらくしてバッキンガムが戻ってきました。ああ、何だか落ち着かない様子で、すこしブランデーを口にしていましたね。」
おそらく、それは教授からマーガレットとの結婚を拒否されて、動転していたからだろう。ペリーは続けた。
「それからまたしばらくして、今度はジリングが二階にあがりました。」
「五時半。」
「たぶんね(ペリーは苦笑した)。それから…バッキンガムと私は二人とも居間でずっと新聞やら、雑誌やらを眺めていました。…共通の話題が無いんでね。それから ― これは時計を見たのだが、六時ごろに私は居間を出て二階に向かいました。丁度戻ってきたジリングと廊下ですれ違い、彼は居間に入りました。私は二階の図書室に入りましたが、ハーディの姿がないので、しばらく待っていると、そのうち彼が戻ってきたので、七時ごろまでずっと彼と話していました。」
 ホームズが突然、機械仕掛けのような動きで右手をあげた。そして人差し指を立ててみせ、鋭く言った。
「ジリングさんが居間を出てから、あなたはバッキンガム君と二人きりで居間にいた。それから、あなたが再びに二階に上がった六時までの三十分間に、何か変った事はありませんでしたか?」
「いや、別に。」
「嘘ですね。」
 ホームズが鷹のように鋭い眼差してペリーを見つめた。軍人のような顔つきのペリーも負けじと眼を開いて対抗している。陽光に照らされてなのか、興奮してなのか、少し顔色が上気してきた。
「嘘とは、どういう意味です?ホームズさん。」
「何か不審な事が起ったはずです。」
「私もバッキンガムもずっと居間にいましたよ。嘘だとおっしゃるなら、彼に訊いてみるがいい。」
「不審なのは、ペリーさんでも、バッキンガムさんでもない。隣りの銃器室だ。」
 ギャアッ、と大きな声を上げて、灰色の鳥が庭の生い茂る木々の間から飛び立った。ペリーの顔色がさっと青ざめたのは、ホームズの『銃器室』という言葉と、不気味な鳥の声が同時にあがった瞬間だ。
「図星ですね。」
 ホームズが目を細めた。ペリーは口をつぐんだまま睨むようにホームズを見ている。ホームズが続けた。
「いやなに、ちょっと鎌をかけたんですよ。ペリーさん、あなたは夕べ食堂で僕らや警部に事情を聞かれた時、一瞬だけ答えに躊躇したのを覚えていますか?ビリヤードの『カット・スロート』をしていた時、早く持ち玉を落とされたあなたは、居間に置き忘れた煙草を取りに行った。その時、何か変った事に気付かなかったかと尋ねると、あなたはしばらく言葉に詰まり、それから『何も無かった』と答えました。
 僕は直感的に、ペリーさんが何かを隠していると確信しました。隠すとしたら、なにを隠すのか?自分に不利な事か?それとも、誰かを庇っているのか ― ここがポイントです。ペリーさんが誰かを庇うとしたら、誰でしょう?ハーディ君はもちろん、バッキンガム君も、ジリング君も、あなたが庇ってやるような理由はないし、むしろ恋敵だ。クリスや、クーパーは庇うほどの交流がない。そう、あなたが庇うただ一人の人物、それはマーガレット・テイル嬢ただ一人だ。」
 ああ、やっぱり ―
 私は内心叫んでいた。ホームズはやはりマーガレットを疑っているのだ。そしてそれは確信的でさえある。私の心の動きを読んだのか、それとも無意識なのか、ホームズは片手を私の肩に掛けて続けた。
「ペリーさん。ミス・テイルの為を思うなら、本当の事をお話下さい。あなたが話さなくても、僕はミス・テイルが夕べの事情聴取でいくつかの嘘をついている事に気付いています。それから、目撃者も居る。」
 ペリーの右頬がピクっと痙攣した、ホームズは静かに頷いて続けた。
「第一にテイル夫人は晩餐の時間までずっと自室に居ましたが、頭痛がするといって女中に鎮痛剤を持ってこさせています。女中は五時四十五分に三階の夫人の部屋に鎮痛剤を置き、また出て行く時にミス・テイルの部屋のドアが閉まるのを見ている。つまり誰かが『入った』と言う事は、誰かが『出ていた』ということだ。この誰かは間違いなくミス・テイルでしょう。第二に、ペリーさんは五時過ぎにピアノを弾いていたミス・テイルに挨拶をして、彼女は自室に引き取った事を知っている。第三に、夕べ教授が発見された時、閉まっているはずの銃器室の鍵が、開いていた。これらを総合すると…」
「分かりました、お話しますよ。」
 ペリーが低い声でホームズを遮った。私の肩を掴んだホームズの手が、僅かに強くなった。
 ペリーは青空を見上げると、ふうっと溜息をついた。さっき飛び立った鳥が木から木へと飛び回っている。
「ホームズさん、まず言っておきますがミス・テイルは教授を殺すような女性では、決してありませんよ。それだけは断言しておきます。私が隠していたのは、ミス・テイルの声です。」
「声?」ホームズが穏やかに聴き返した。
「ええ。先ほども説明しましたが、昨日の五時半から六時ごろにかけての三十分ほど、私とバッキンガムが二人きりで一階の居間にいました。共通の話題もないし、バッキンガムはすっかり意気消沈した様子なので、二人ともまったく口を利かず、部屋は静かでした。
 二人きりになって間もなく、どこからか低い声で話す声が聞こえたのです。私は最初気にしませんでしたが、そのうちバッキンガムも声に気付いたらしく辺りを見回し始めました。
 私もバッキンガムもそれについて何も言いませんでしたが、やがてやや大きな声がしたのです。それは確かに、ミス・テイルの声でした。彼女は誰かと声を潜めて話している内に、思わず大きな声を上げてしまったような感じでした。すぐに相手がミス・テイルを制したらしく、また声は低くなり、やがて聞こえなくなりました。ほんの十分くらいの間の出来事です。」
「バッキンガム君の反応は?」
ホームズが尋ねると、ペリーは溜息交じりに答えた。
「彼は身を強ばらせて声に耳を傾けていましたが、声が聞こえなくなると、黙ってまた新聞紙面をぼんやり眺めていましたよ。結局私とは、一言も会話せず。」
「それで、そのミス・テイルの声は、何と言っていたのですか?」
核心に迫るホームズに、ペリーは一瞬の躊躇をしたが、すぐに思い直して答えた。
「『ジェイムズ、どういうことなの ― 』」
 私とホームズは顔を見合わせた。まさに、私が恐れていた事態だ。ホームズはなるほど、と言って頷いた。ペリーが続けた。
「ホームズさんのおっしゃる通り、私は一度自室に引き取ったミス・テイルの声がした時点で、おかしいなと思いましたよ。
 それから、夕べの食堂での質問で、ホームズさんはビリヤードの時、居間に行った私に何か気付かなかったかと尋ねました。実は、居間に忘れてきた煙草を取った私は、やはり銃器室で物音がするのを聴いたのです。今度は声ではなく、人が歩くような、窓をしめるような、とにかくそういう物音です。私はまた、ミス・テイルだろうかとぼんやり思いました。ですから、教授が発見されたあと、警部やあなたに尋ねられても、ミス・テイルが疑われてはいけないと思い、黙っていることに決めたのです。だから、一瞬答えに詰まったのでしょう。」
「あなたは、ミス・テイルを守ろうとした。」
穏やかに言うホームズに、ペリーは肩をすくめてみせた。
「彼女はあの声がした時、密かに誰かと会っていた。恐らく居間のとなりの銃器室でね。そしてビリヤード中も銃器室に居た。私は状況から判断して、ミス・テイルはこの事件に何らかの形で関与しているのではないかと、恐れた。でもホームズさん。さっきも言いましたが、ミス・テイルは教授を愛していましたよ。祖父を殺すだなんて事は、絶対に有り得ません。」
「ワトスン君もそう思っているようです。」
 ホームズは掛けていた手で私の肩をポンと叩くと、ちょっと帽子を上げてみせた。
「ペリーさん、よくお話して下さいました。本当に助かりましたよ。僕らは仕事がありますので、これにて失礼します。」
 ホームズはスタスタと門に向かって歩き出した。ペリーは、重大な事を告白した割りには、ホームズの淡白な態度に拍子抜けしたらしく、あわてて呼びかけた。
「ホームズさん、あなたは…」
 しかし次の言葉が出てこない。ホームズは振り返らずにステッキだけを振ってみせた。やや呆然として、ペリーは私に助けを求める。私は仕方なく肩をすくめた。
「さっきからあの調子なんですよ。ホームズは事件の核心に近付けば近付くほど、私達には隠すんです。では、失礼。」
 私もホームズを追って歩き出そうとすると、だいぶ先を歩いていたホームズが突然踵を返し、猛然と駆け戻ってきた。その闘牛のような勢いにペリーが思わず身構える。ホームズは体を前のめりにして、ペリーに尋ねた。
「もう一つ確認です。夕べ、ブラッドストリート警部が一人一人を食堂に呼んで事情聴取をしていた時、あなたはやっぱりハーディさんと二階の図書室にいましたね?」
「えっ?ああ…はぁ…そうですが…」
軍人の如きペリーも、気の抜けた答えしか出来なかったが、ホームズは瞬間的に満足そうな笑みをうかべると、
「そうでしょうね。それでは、失礼。」
と、また門に向かってスタスタと歩き出してしまった。私もしばし呆然として、彼の背中を追って走り出すまでに、少々時間がかかった。

 私がホームズに続いて修道院前に待たせておいた馬車に乗り込むと、ホームズが開口一番こう言った。
「さぁ、ワトスン。しばらく黙っていてくれたまえよ。君の美点を活かすんだ。なに、たいした推理も必要としない単純な事件さ。ただ、情報の整理が必要なんだ。電報局へ行ってくれ!」
 ホームズに指示された馬車は、修道院の丘を下り、またテムズ川西岸のヘンリー・オン・テムズ中心街へ向かった。道すがら、ホームズはステッキの頭に重ねた手に、顎を乗せるいつもの姿勢で、深く考えを回らしているようだった。私は黙って隣りに座っていたが、やはりホームズがマーガレットの行動をどう思っているのかが気になった。
 彼女は、ブラッドストリート警部の質問に対して、真実を語ってはいなかったのだ。彼女は昨日、ピアノを練習した後、五時過ぎにペリーと挨拶をしてから二階の部屋に引き取り、晩餐の時間まで出なかったし、誰にも会わなかったといったが、それは真実ではない。ペリーの証言によると五時半から六時までの間に、銃器室で誰かと会い、話していたのだ。昨日のあの天気の良さからして、居間の西側の窓は開いていた。そして、銃器室の西側の窓も開いていたのだ。だからこそ、彼女の声が漏れた。
 そして、マーガレットと会っていた人物の名は、『ジェイムズ』 ― 私の脳裏に、昨日のお茶の時間、私がクリスと交わした会話がよみがえった。

『エバンスとは?』
『ジェームズ・エバンス。僕の友人です。レガッタのチームメイトでもありますから、今はホテルに居ますよ。エバンスとマーガレットは結婚したがっていますがね、祖父は大反対です。』 ―

 ガタン、と車輪が石畳に引っ掛かるように止まった。私が顔を上げると、馬車は町の中心街,電報局の前に到着している。ホームズは素早く飛び降りると、振り向きざまに私に囁いた。
「ここで待ってて。」
 それから彼は早足で電報局に入って行った。言われた通りに私が馬車で待っていると、十分ほどしてからホームズが出てきた。ほぼ同時に数人のメッセンジャー・ボーイも飛び出して行く。電報もあるのだろうが、どうやらこの少年達にも用があったのだろう。と、言う事はこの町にいる人間への連絡が多数あるという事だ。ホームズはそのまま隣の郵便局に入ると、十分ばかりして出てきた。
 ホームズは馬車に戻ると、気楽そうな笑顔で言った。
「さて、ワトスン。しばし僕らの当初の目的を果たそうじゃないか。」
「当初の目的?」
「休暇さ。美しいテムズ川河畔に戻って、パブのテラス席で爽やかな青空の下、旨いエールを味わおうよ。」


 → 13.再びテムズ川
ホームズ・パスティーシュ
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主な登場人物

 シャーロック・ホームズ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 探偵

 ドクター・ワトスン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 医者,ホームズの友人

 クーパー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ワトスンの旧友,海軍軍医

 テイル教授 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クーパーの恩師,クリケット荘の主

 テイル夫人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ テイル教授の妻

 クリス・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫

 マーガレット・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫,クリスの妹

 エバンス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クリスの友人,マーガレットの恋人

 バッキンガム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ブリュアリーの営業担当者

 ペリー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 不動産業者

 ジリング・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新聞の副編集長

 ハーディ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古文書学者

 ブラッドストリート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スコットランド・ヤードの警部

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