Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

11.ブリュアリー

  それにしても、昨日といい今日といい、本当に素晴らしい日和だ。空は青く晴れ渡り、白い雲がポカリポカリと浮かんでいる。空の青とテムズ川の銀色に輝く水面、そしてヘンリーの町を取り巻く緑の丘が、レガッタ開催と、一年でもっとも美しい時期を祝福しているようだ。
 幌が跳ね上げられた馬車に乗り込むと、そんな私の感想はよそにホームズは全く事件に没頭しているらしい。御者にブラクスピアーズ・ブリュアリーへと行き先を告げると、ステッキの頭に両手を置き、その上に顎を乗せた姿勢で、しばらくはまっすぐ前を見詰めていた。
 私は彼の推理に区切りがつくまで黙っているのが習慣なので、さて賭けをどうしようかなどと考えていた。そうしていると、突然ホームズが言った。
 「それで、四人漕ぎに問題でも?」
えっ、と私がホームズに振り返り、しばらく彼の顔を見つめていたが、どうやらさっきの賭け屋の話をしているらしい。
 「ああ。昨日クリスが四人漕ぎはウェスト・アングリア大学が優勝候補だと言っていただろう?でも、さっき土手で会った賭け屋の観察によると、どうもそうとはいえないらしい。」
私はホームズに、賭け屋のブラウンが観察した結果からウェスト・アングリアに賭けることは勧められないという話を、そのまましてやった。
 「ふうん。でもきみ、賭け屋だって商売だからね。きみやクーパー君に、損をさせてやろうとしているなんて事はないかね。」
「それは無いんじゃないかな。スチュワードのクーパーに悪くするとは思えないからね。それよりホームズ、きみの方は何か収穫があったのかい?学生たちに何か聞いてきたんだろう?」
「まぁね。でもまだ決定的な証言じゃない。」
「何を尋ねたんだい?」
「夕べ、学生たちがどう過ごしたかだよ。」
「でも、クリスは僕らと一緒にクリケット荘に居たじゃないか。」
「そうだよ。」
ホームズは困惑する私に、しれっとした顔を向けた。
「クリスじゃなくて、他の学生たちさ。夕べは他の各大学のレガッタ・チーム合同で、パーティだったらしい。街に大きなホテルがあって、夕べはそこを借り切って大きなパーティを開いていたんだ。OBや見物に来ている家族も一緒にね。」
「でも、クリスは出席しなかった。」
「彼はここが地元だからね。実家で過ごすために欠席したのさ。」
「ホームズ、クリスもOBであるクーパーやジリングも出席しなかったパーティと、今回の殺人とがどう関係するんだい?」
「うん、まぁね。上着だよ。 ― ブラウンと言ったいかい?」
 急にホームズが鋭く私に聞き返した。私は訳が分からなくて、しばらくじっとホームズの顔を見つめていたが、やがてホームズの言葉の前半と後半は別の話題であることに気づいた。そして後半はさっきの賭け屋のことらしい。話題が飛ぶのはホームズの癖だが、どうもこの殺人が起きてから更に重症になったようだ。
 「そうだよ。賭け屋の名前はブラウン。レガッタの運営委員に認可されていて、毎年出店しているらしい。」
「君やクーパー君に嘘を言っているという事はないね?」
「多分ね。」
「よし、いいぞ。分かってきたぞ…」
 ホームズは何度も一人で頷くと、また顎を手の上に乗せて考え込んでしまった。結局、彼が学生たちに何を聞きだし、何が分かったのかは、私には分からずじまいだった。

 ブラクスピアーズ・ブリュアリーは、ヘンリー・オン・テムズの中心街から、少し北に進んだ辺りのニュー・ストリート沿いにある、エールの醸造所である。ホームズと私がブリュアリーに到着すると、出荷の時間だったらしく、沢山の馬車で工場の前はごったがえしていた。
 営業担当のバッキンガムは、丁度荷物の前で数量を点検しているところだった。流石に忙しそうで、話を聞きだすのは気が引ける。するとバッキンガムは、もうすぐ荷捌きが終わるから、しばらく小使いの少年にブリュアリーの案内を託した。
 少年は地元の子で夏期休暇にはここで稼いでいると言う。なかなかしっかりした調子で、私たちに ブリュアリーの案内をしてくれた。
 彼の説明によると、このブラクスピアーズ・ブリュアリーは、ロバート・ブラクスピアーズによって1779年に創業された。もう創業百年以上ということになる。常時四,五種類のエールを製造しており、アルコール度数はおおよそ3.8から5%程度。まさにその土地という事で、レガッタ・ゴールドという少し度数の低めのエールが人気ということだ。今は夏を迎えて益々工場は忙しく、さらにレガッタ会場で販売されるエールもある。
 少年は工場内に私たちを案内すると、一番人気のレガッタ・ゴールドを試飲させてくれた。なるほど、夏の野外で飲むには丁度良いような、軽くて爽やかな味わいがする。ホームズは普段それほどエールを飲む方ではなかったが、これは気に入ったようだった。一通り工場の説明を終わった少年に、ホームズが尋ねた。
 「ここでは何年くらい働いているんだい?」
「もう五年ほどです。夏の休み時期になると、使い走りが何人も必要になるので、僕ら子供たちを使ってくれるんです。」
「バッキンガムさんとは前からの知り合い?」
「はい。僕がここのお世話になる前から、バッキンガムさんはお勤めでしたから。」
「どんな人だい?」
「ええ。良い人ですよ。僕ら子供たちにも親切ですし…」
 少年がここまで言うと、肩越しに私たちの背後を見て黙ってしまった。振り向いてみると、フロックコートをきっちりと着込んだ初老の紳士が立っていた。
 「ジャック、ひとっぱしり郵便局まで行って荷物を取ってきてくれ。ここはもういいぞ。」
 紳士が腹から響くような低い声で言うと、少年は私たちにちょこんと頭を下げて、走り出そうとする。私はコインを二つほどポケットから出すと、少年に投げ渡した。上手に受け取った彼は、にっこりと笑ってもう一度礼をすると、工場から走って出て行った。
 やってきた紳士は、年のころは五十歳くらいの、中肉中背の男で、顔の下半分がやけに長いような感じがする。
 「あなたがた、借金取りかい?困るんですよ、こんな所まで来てもらっちゃあ…」
彼は何か勘違いしているようだ。ホームズは笑って否定した。
「いえ、ぼくらはバッキンガム君の友達です。」
「友達?ロンドンから来た借金取りじゃなくて?」
紳士はまだいぶかしんでいる。
「ええ、友人で管財人です。バッキンガム君の収支関係のお手伝いをしているんですよ。」
「へぇ。じゃあ、早くバッキンガム君の借金をどうにかしてくださいよ。」
 初老の紳士が名乗ることには、チャールズ・ブラクスピアーズと言い、このブリュアリーの社長だった。創業者から数えて三代目だと言う。この男は私たちを借金取りと間違えて迷惑そうな顔をした割に、実は話好きらしく、私たちにさらにエールを薦めながら勝手に喋り始めた。
 「バッキンガム君はねぇ…今でもあそこで出荷の仕事をしていますが。営業担当としては優秀ですよ。真面目だし、よく働くし。しかし人を簡単に信用してしまう。今回の莫大な借金だって、変な横流し業者に騙されて、この工場の損害を背負った結果ですからね。私としては解雇したって構わないのだが、あのとおり真面目で良く働く男だから、つい情が出てね。」
「さっきも仰っていましたが、借金取りがここにまで来るのですか?」
ホームズが尋ねると、ブラクスピアーズはそうなのだと大げさに頷いた。
 「困ったものですよ。バッキンガム君の借金を会社がどうにかしろとか言いましてね、昨日も押しかけてきましたよ。会社に損害を与えたくないから、バッキンガム君が個人で債務を負ったのに、これじゃ意味ありませんよ。まぁ、昨日はバッキンガム君が戻ってきて、借金取りどもと話してどうにか帰ってもらいましたけどね。」
あっと思ったのは、ホームズも私も同時だった。
 「昨日、借金取りが来たのはいつですか?」
「夕方ですよ。」
ホームズの問いにブラクスピアーズはすぐに答えた。
「工場の職人は五時で帰るのですが、その後に事務所へ押しかけてきてね。バッキンガム君を出せって言うんですよ。でも彼は昨日早退していましたから、困りましたよ。金貸しの言う事には、バッキンガム君とは六時頃に事務所で会う約束をしていたとか。じゃぁ、なんでバッキンガム君は早退なんてしちゃったんだと思ったら、六時を大分過ぎた頃に正装して戻ってきましたよ。大汗なんてかいて…。あれはどこかのパーティか何かに出かけて、金貸しとの約束はすっかり忘れていたんですなぁ。」
 ホームズは一瞬だけ私を見やると、またブラクスピアーズに向き直った。
 「バッキンガム君がここに戻ってきて、それからどのくらいまで金貸しと話していましたか?」
「そうですなぁ、二十分くらいかな。いい加減私も帰ろうとしていたので、彼と金貸しが話している応接間の様子を見に行ったら、ちょうど話が終わって金貸しが帰るところでしたから。バッキンガムはどうにか返済時期を遅らせてもらうことが出来たようで、私にしきりと謝っていました。」
「それから、バッキンガム君はどうしたんです?」
「また出て行きましたよ。乗ってきた馬車で。その後、クリケット荘に行ったらしいですな。夕べ、クリケット荘の主人が殺されたそうじゃありませんか。もう私はうちの従業員が借金にまみれな上に、殺人いまで関与したんじゃないかと気が気じゃありません。」
 ブラクスピアーズのいう事はもっともだ。ホームズは手にしていた試飲用のコップをブラクスピアーズに返すと、礼を言って工場から出て行こうとする。外では、バッキンガムが荷さばき作業を終了したところだった。
 ホームズは外に飛び出すと、近づいてきたバッキンガムに早口で言った。
 「どうも、バッキンガムさん。あの少年と社長にお話も聞けたし、美味しいエールも飲ませてもらいました。今日は約束があるので、これにて失礼!」
 呆然としているバッキンガムは、私に物問いた気な顔をしているが、ホームズはもう馬車に突進してしまっているので、私も彼に帽子を上げて会釈をする程度のことしか出来なかった。

 馬車に乗り込んだホームズは行き先を修道院へと告げた。私は馬車から振り返ってみた。工場の門の辺りで、バッキンガムがポツンと突っ立っているのが見える。表情までは見えなかったが、彼の不安な気持ちがその立ち姿からも伝わってくるようだ。
 私はホームズに尋ねた。
 「ホームズ、バッキンガムを警察に拘束させなくて大丈夫かい?逃げやしないだろうか。」
「逃げないよ。」
ホームズは私と同じように後ろを見ながらつぶやくように答えた。
「でも、彼は明らかに嘘を言っていたじゃないか。昨日の五時十五分にクリケット荘の書斎でテイル教授と会見したあと、ビリヤードが始まるまで居間で新聞を読んだり、煙草を吸っていたりしただなんて。本当はブリュアリーに戻っていたんだよ。」
「そうだね。…つまり、ジリングに偽証を依頼したんだ。ビリヤードが始まるまでは、二人ともずっと居間に居たと証言してくれとね。バッキンガムのアリバイは、金貸しと会っていた六時過ぎから二十分ほどで曖昧だ。つまりアリバイが虫食い状態というわけだ。」
アリバイが崩れたとなると、バッキンガムの立場は非常に微妙と言う事になる。

 では、バッキンガムがテイル教授殺害の犯人だとして、動機は?

 私は考え込んでしまった。教授を殺したとすると、教授自身の遺産はテイル夫人と、二人の孫が相続する。そして、教授の死んだ息子の残した莫大な財産も、孫二人が自由に出来る訳だが、バッキンガムには何の利益もない。
 テイル教授は四人の求婚者全員に、マーガレットとの結婚の申し出を断っているのだから、今の所彼女の結婚相手は保留だ。第一教授が死んだ今、マーガレットが愛する男 ― クリスの友人エバンスとの結婚が現実味を帯びてきた事になる。バッキンガムが教授を殺しても、利益を得るのは、クリスとマーガレット、そしてエバンス ―

 「そうだよ、ワトスン。動機が問題だ。」
ホームズが私の思考を読んだらしく、こちらの顔をじっと見詰めたまま言った。
「クリスにはアリバイがある。でも、マーガレットには無い。そして、さっきクーパー君が言っていただろう?マーガレットが『私のせい』と口走っている。」
「でも、ホームズ…」
私はマーガレットを疑い始めた自分に対しても、反論した。
「あまりにも突拍子もないよ。マーガレットが、あのお嬢さんがテイル教授を殺すだなんて。私にはまったく想像できない。」
「ワトスン、夕べもそうだったが『犯人であってほしくない』という希望が、推理を阻害してようだね。」
「それは分かっているよ。でも、マーガレットが確信的に教授を殺したのだとしたら、あの取り乱した様子や、今日も朝から寝込んでしまっている事の説明がつかない。かえって、いつもと変らないテイル夫人や、日常生活に戻ろうとしているクリスの方が怪しいじゃないか。」
「マーガレットが自ら手を下して教授を殺したとは言っていないよ。」
「何だって?」
「ヒントは二つ。」
 ホームズは悪戯っぽく灰色の瞳を輝かせながら、指を二本立ててみせた。
「ブックメーカー・ブラウンの証言。そして、夕べ開かれたレガッタ・チーム合同パーティのある出席者の行動と、彼の上着。」
 後者については、私は何の情報も持ちあわせていない。ホームズがさっき学生達から聞き出していたはずだ。それを言おうとした時、馬車が止まった。次の目的地、修道院に到着したのだ。


 → 12.修道院
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主な登場人物

 シャーロック・ホームズ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 探偵

 ドクター・ワトスン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 医者,ホームズの友人

 クーパー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ワトスンの旧友,海軍軍医

 テイル教授 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クーパーの恩師,クリケット荘の主

 テイル夫人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ テイル教授の妻

 クリス・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫

 マーガレット・テイル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 教授の孫,クリスの妹

 エバンス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クリスの友人,マーガレットの恋人

 バッキンガム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ブリュアリーの営業担当者

 ペリー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 不動産業者

 ジリング・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新聞の副編集長

 ハーディ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古文書学者

 ブラッドストリート ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スコットランド・ヤードの警部

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