Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         レガッタの街  
  

1.レガッタの街

 春の間、シャーロック・ホームズはほとんど地下生活を送っていた。
 なんでも大規模な犯罪組織のアジトを突き止めたとかで、何日も何日もベーカー街の下宿に戻らない日が続いた。その間どこに居たかと言うと、イーストエンドの暗くて不潔で不健康な一角だった。とある阿片窟の地下に、潜入していたらしい。ホームズによると、そこは盗品の売買や人殺しの巣窟で、ここを一網打尽にする機会をスコットランド・ヤードと共同で狙っていたのだ。
 医者であり、友人である私としては、コカイン使用癖のあるホームズをそんな所にやるのは、正直言ってぞっとしなかった。阿片窟に潜入する以上、まったく阿片をやらずに済むとは思えないのだ。
 とは言っても、ホームズは子供ではない。彼の仕事に関してとやかく言うつもりもなかったし、私も忙しくしていた。ダートマスの海軍士官学校で軍医をしている友人エミル・クーパー君の招待を受けていたのだ。

 クーパーは、私の学生時代の同級生だった。明るく気持ちの良い性格で、スポーツ万能だった彼とは、非常に親しくしていた。彼も私と同じく外科だったが、やはり私と同じような理由で開業は諦め、軍医になった。私が陸軍だったのに対し、彼は海軍を選んだ。なんでも、彼の曾祖父はトラファルガーの海戦にも参加した海軍士官とかで、そうである以上は海軍しかないと、彼は言った。そもそも、彼は船が好きなのだ。
 私がアフガニスタンに出征した前後、クーパーは第一線の軍医として沢山の軍艦を点々としながら海上で働いていた。そのため私との手紙のやりとりも、頻繁という訳には行かなかった。
 私がロンドンでホームズと共同生活を始めて数年した頃、クーパーがダートマス勤務になった事を知った。当地の海軍士官学校で、医科専攻科が創設され、その主任として赴任したのだ。階級は少佐と言うのだから、出世だ。特に良い家柄と言う訳ではないが、海軍に人脈があるのかも知れないし、第一彼ほどの好人物なら出世するだろう。
 私が彼に招待されたのは、私のアフガニスタンでの実務経験を講義するためだった。クーパーの考えでは軍医はあらゆる状況に対処できる心構えと、技術が必要とされる。だから、海軍だろうが、陸軍だろうが、軍医としての経験は士官候補生達には有益なのだと言う。
 実際、私の講義を聞く士官候補生達は目を輝かせ、質疑応答も非常に活発だったし、実技演習も熱のこもったものになった。
 私のダートマス滞在は二週間だったが、その間は気の合う友人や若い活力に囲まれ、楽しい滞在となった。その間に、クーパーは私にあるオファーをした。非常に魅力的な申し出だったが、私は即答を避けた。彼とはまた夏の始まりに会う約束をしたので、その時に返答しようと言うと、彼はそれを快諾した。

 私がベーカー街に戻ってみると、ハドソン夫人が迎えてホームズも仕事が一段落したらしいと告げた。
 「ホームズ先生ときたら、もう三日もこもっていますのよ。」
 玄関で大家はプリプリしながら言った。私は苦笑した。
「仕事が上手く行かなかったのでしょうか。」
「いいえ。ワトスン先生がホームズ先生を放ってダートマスなんて行かれるからですわ。」
 彼女の怒りの矛先は私にまで及びそうだ。それだけ、ホームズが彼女の手を煩わせたと言う事だろう。そもそもホームズが阿片窟などに居るから、私も一人でダートマスで行ったのであって、ホームズに文句を言われる筋合いはない。
 「まぁ、仕事が終わって暇になると、機嫌が悪くなるのはいつもの事ですよ。」
「また、そんな呑気な事をおっしゃって…」
「ハドソンさん、それより列車に食堂車がなくてはらぺこですよ。サンドイッチかスコーンと、お茶をもらえますか?」
 ハドソン夫人はちょっと肩をすくめると、用意してあるのですぐにお持ちしますと言った。どうして用意してあるのだろうかと不思議だったが、私は十七段の階段を上り始めた。ドアを開けて中に入ると、暖炉に赤々と火が燃えていた。シャーロック・ホームズ君は、暖炉脇のいつもの藤椅子に腰掛け、両手の指を顔の前であわせ、目をつむっている。私は不思議な安堵感ですこし微笑んだ。
 「ただいま、ホームズ。」
私が声を掛けると、彼は目を開き、僅かに顔をこちらに向けた。
「お帰り、ワトスン。君は、九時十分エクセター発の急行に乗るべきだったね。確かに十二時ちょうど発なら、朝はゆっくりしていられるだろけど。」
 私はちょっと間を取ってから、ホームズの足元に視線を移した。絨毯の上に無造作に汽車の時刻表が転がっている。私が帰ってくる汽車の時間を調べたらしい。
「今朝は、送別の朝食会をひらいてもらったからね。」
「朝食の為に汽車を遅らせ、そして今腹ぺこという訳だ。」
 ホームズが言い終わらない内に、ドアがノックされた。開けると銀の盆にハイ・ティーセットを載せたハドソン夫人が入って来て、テーブルに並べて行く。それを眺めながら、ホームズが言った。
「もし君が九時十分の急行に乗っていれば、食堂車が連結されていたはずだ。しかし君は五時になっても帰ってこない。つまり、その次の列車十二時丁度に乗った事になる。これには食堂車がないから、ベーカー街に帰ってきた君は、空腹に違いないと推理して、ハドソンさんに準備をお願いしたのさ。座ったらどうだね、ワトスン。」
 私は笑いながらテーブルについた。ハドソン夫人はやれやれとでも言いたそうな笑いを浮かべて、出ていった。
「お見通しだね、ホームズ。でも、私がロンドンに着いてからどこかに寄るとは考えられないかい?」
 私がスコーンとお茶を口に運び始めながら言うと、ホームズは藤椅子から立ち上がって、テーブルについた。彼の分もあるので、紅茶にミルクを注ぎ始める。
「それはないよ、ワトスン。君は習慣を簡単に崩す男ではないからね。遠方に長期滞在して帰京する場合は、まっすぐにこのベーカー街に戻ってくる。」
「なるほどね。君がトレイン・スポッター(鉄道マニア)だとは思わなかったが、お陰で助かったよ。」
「そいつはどうも。」
ホームズは少し笑った。
「それで、ダートマス滞在はどうだった?まぁ、君の顔を見れば楽しかった事は分かるけど。日に焼けたようだし、頬に擦り傷の痕もあるから…ラグビーでもしたかな。」
「その通りだよ。士官候補生対教官なんて、拷問に等しいね。私に古傷の存在は忘れろなんて言うのだから、クーパーは本当に医者なんだろうかと疑いたくなる。」
「ああ、そうだクーパー君だ。」
ホームズはサンドウィッチに手を伸ばしながら頷いた。
「君をダートマスに呼んだ友達の名前が、なかなか思い出せなかったんだ。そう、クーパー君だ…。」
 どうやらホームズはろくに食事をしていなかったらしく、サンドイッチもスコーンもどんどん口に運んでいく。私は良い事だと思いながら、今度はホームズの首尾を尋ねた。
「君の方はどうだったんだい?イーストエンドの阿片窟潜入捜査は。」
「上々さ。相手が警戒して中々しっぽを出さなかったのだが、粘った甲斐があったよ。お陰で現行犯の一網打尽。ヤードが迷宮入り扱いしていた事件の容疑者も、ついでに網にかかったから、レストレード達はホクホクだろうよ。」
「じゃぁ、今は一段落している訳だね。」
「まぁね。さすがにずっと潜入捜査なんてしていると、疲れがたまって良くない。ちょっとの間は暇でも構わないような気がする。」
 ホームズにしては珍しい事を言う。確かに彼は少し痩せたようだし、顔色もあまり良いとは言えない。
「じゃあホームズ、気分転換に郊外に行かないかい?」
「どこへ?いつ?」
私の提案に、ホームズは紅茶を口に運びながら聞き返した。
「ちょっと先だけど、七月に。ヘンリー・オン・テムズに行こうと思うのだけど、どうだろう。」
「ヘンリー・オン・テムズ?ヘンリー、ヘンリー…なんだか聞いた事があるな。」
「ロイヤル・レガッタの…」
「ああ!思い出した!」
ホームズはちょっと驚いたような顔でカップを置いた。
「ロイヤル・レガッタを開催する町だろう?確か夏に行われるとか…え?」
「そうなんだ。」
 私は身を乗り出して説明した。
「クーパー君が招待してくれたんだ。彼は学生時代ボート部で、ロイヤル・レガッタでも活躍していたのだが、卒業後はスチュワード(運営委員)として、大会に参加している。いつもヘンリーに屋敷を構える恩師の屋敷に滞在しているのだが、今回は私達も招待してくれたという訳だ。」
「私達?」
ホームズが紅茶を飲みながら聴き返した。
「君と私さ。クーパーはぜひとも君にも来て欲しいと言っていたよ。レガッタの当日は高貴な面々やら社交界の華やらが着飾って参加するのだが、どうせ君は興味あるまい。でも、クーパーはスチュワードだから気楽で気持ちの良い観戦席を確保できるから、良い気晴らしになるよ。気候も良いし、ヘンリーは風光明媚な良い所だ。それに良いブリュアリー(醸造所)もあるから、美味いエールにありつける。」
「ふうん。」
ホームズは気の無い様子で生返事をするので、私はたたみかけた。
「それにヘンリーには、古い修道院があってね。十三世紀の創建だが、最近裕福な弁護士がそこを買い取ったらしい。それで大々的な改築をするとかで、修道院が所蔵していた中世の古文書が大量に出たそうだ。どうだい、興味あるかい?」
「エールと古文書ねぇ…」
「まぁ、社交場は性に合わないだろうし、ホームズが仕事で忙しければ別に良いよ。私一人で行くから。クーパーにはもう約束したからね。」
「ワトスンには、七月のヘンリー・オン・テムズは余程魅力的と見える。」
「まぁね。それに、クーパーからのオファーに対する返答もしないといけないから。」
 ホームズはポットを取り上げると、自分と私のカップに二杯目を注ぎながら尋ねた。
「オファーって?」
「私に秋から、ダートマスの海軍士官学校に常駐で勤めないか、って誘ってくれたんだ。」
 ホームズは手元への注意がお留守になったらしい。私のカップに紅茶を注ぐポットが斜めのままで静止し、当然ドボドボと溢れてしまった。ホームズは私の顔を見て口をあんぐり開けているので、私がポットを取り上げてテーブルに置き直した。テーブルクロスはもちろん、ハドソン夫人が烈火の如く怒りそうな有り様になっている。
「ダートマスで常勤だって?!それで君、何て返事をするつもりだい?」
 ホームズはテーブルクロスなんてお構いなしで、聴き返した。
「さぁ。まだ決めていないよ。ヘンリーに行ってから考えようかと。クーパーには、私一人で行くと言っておこうか?」
 するとホームズはやおら立ち上がり、右手を腰に当てて宣言した。
「とんでもない、僕も行かせてもらうとも!そうさ君は知らなかっただろうけど、これでも僕はレガッタには目がないんだ。それに貴重な古文書が焚き付けに使われるのを、阻止しないといけないし、エール作りは化学的興味をそそるものがあるね。」
 ホームズはもう十分飲み食いが終わったらしく、居間をうろうろ歩き始めた。私は紅茶びたしになった残りのスコーンを悲しく眺め、クロスについてハドソン夫人になんと言い訳しようかと考えながら言った。
「でもホームズ。君の仕事がはいったら駄目だね。診療所の方は大丈夫だと思うけど。」
「いいや、七月までにこのロンドンで犯罪を犯す人間は、片っ端から監獄に送ってやる!」
 悲惨なテーブルクロスを見つめる私の気持ちもそっちのけで、ホームズはやる気満々に言い切った。

 ホームズの宣言どおり、ならずものが全員監獄に入ったかどうかは別にして、ホームズは七月までに大小様々の事件を解決してみせた。その間に彼の健康も回復したし、別に郊外で休暇を取る必要もなさそうに思えたが、ホームズはヘンリー・オン・テムズに行く気満々だった。
 かくして私達二人は夏のロンドンを後にして、西へ35マイル。オックスフォードシャー,ヘンリー・オン・テムズに向かったのである。

 ヘンリー・オン・テムズはその名の通り、テムズ川沿いの小さな町だった。鉄道はごく最近ウィンザーから延びたばかりとの事だが、駅舎は中々瀟洒だった。年に一回、王室メンバーを迎えてのイベントが開かれる土地に相応しいと言った所だろうか。
 ホームズと私が駅に降り立つと、プラットホームからエミル・クーパーが駆け寄ってきた。
「ワトスン!良く来たなあ!」
 彼は明るい声で言いながら、私の手を強く握った。クーパーは背の高さは中くらいで、筋肉の引き締まった感じは、スポーツを好む事の現われだろう。輝くような金髪に青い瞳だが、長い間海の上で生活していたせいか顔色はやや日焼けしていた。歯切れ良くハキハキ喋るのは、軍人だからと言うより、彼の生まれつきだろう。
 「やぁ、クーパー。お世話になるよ。紹介しよう、私の友人シャーロック・ホームズ君だ。」
 クーパーはパッと顔を輝かせると、凄い勢いでホームズの手を握り、ぶんぶん振った。
「ようこそ、ホームズさん!御噂はかねがね聞いておりますよ!ワトスン君ときたら、いつもあなたの話ばかりしていたものですから、初めてお会いするとはとても思えません。本当にいらして下さって嬉しいですよ。さあ、馬車が来ていますからどうぞ。荷物をお持ちしましょう。」
 クーパーは楽しく喋りながらどんどん私達を導いて行った。
 一方ホームズは、毒気の抜けたような顔で神妙にクーパーの後に従っていた。実の所、汽車でロンドンを出発したホームズは、獲物に向かって駆け出す猟犬みたいな顔で、何かに挑もうと意気込んでいたのだ。その何かは私には良く分からなかったが、何かしらの戦いに挑もうとするホームズは、クーパーの歓迎に出端をくじかれたらしい。
 駅舎の外で待っていた馬車に乗り込むと、気持ちの良い道を一路宿舎へと向かった。

 まったく、七月らしい気持ちの良い日和だった。空は珍しく晴れ渡っている。馬車はテムズ川沿いを北上していった。ヘンリーの町の建物の多くは川の西側に集中しており、そのまた西の方へは丘が続いていた。川を挟んだ東側ものどかな緑の丘が広がっている。
 「私も毎年ここでレガッタに関わっていますから、町の歴史など少しは身につけましてね。」
 クーパーは馬車に揺られながら説明した。
 「このヘンリー・オン・テムズは十二世紀頃からもう集落が出来ていたそうです。我々が向かっている先の…あの五連の橋は(クーパーは指差した)、ヘンリー橋。もちろん架け替えられていますが、橋はその頃からあるそうです。この辺りのテムズ川は川幅も広いし深さもありますが、流れは穏やかですから。」
 クーパーの言う通り、テムズ川は穏やかに流れていく。この川がさらに下ってロンドン辺りになると、何やらとんでもない事になるのだが、同じ川とはとても思えないほど水は澄み、水鳥がのどかに羽を休めている。
「橋のたもとに、教会が見えますね。」
ホームズが首を伸ばして前方を眺めながら、クーパーに尋ねた。
「ええ、あれがヘンリーで一番古い教会,セント・メアリー教会です。橋と同じぐらいの時期に出来たらしく、橋,教会、そして町が出来たのでしょう。」
「修道院というのは?」
ホームズは町の美しくのどかな様子が気に入ったのか、穏やかな表情になりながら質問を続けた。
「ここからは見えません。丁度…(私達の馬車はヘンリー橋のたもとを通り過ぎようとしていた)この道をずっと西へ進み、すこし丘になった所にあります。明日にでもご案内しましょう。修道院は十三世紀頃に創建されたそうですが、もうほとんど廃院になっています。」
 馬車は川沿いを更に北上して行く。クーパーが川を指差した。
「ヘンリー橋から北側はこのとおり、川幅がほぼ一定で、1マイル強ほど真っ直ぐに流れています。これがボート競走に適しているのです。大会その物が始まったのが1839年ですが、1851年にプリンス・アルバートがパトロンになってから一気に、名が知られるようになりました。昔の競技は一日だけでしたが、今は予選も含めて三日間に渡って開催されます。」
「今回の日程は?」
私が聴き返した。
「来週の週末。丁度一週間だ。ほら、もう競技者たちが練習を始めていますよ。」
 クーパーの言う通り、川には数艘のボートが浮かんでいる。河岸にはいくつものボートハウスが並んでいて、そこでも幾らかのチームが準備に余念がない様だった。
「あのボートハウスのいくつかは常設ですが、多くはこの時期に大会のために設置されます。ああ、クリスだ。」
ク ーパーは眼下に見えるボートハウスに向かって、手を振り出した。すると、ボートハウスの一つでボートの脇に立ってチームメイトと談笑をしていた若者がそれに気付き、こちらに向かって両手を大きく振ってみせた。
「あれがクリス・テイルです。」
クーパーが手を下ろすと、笑いながら説明した。
「我々が向かっているクリケット荘の住人ですよ。」
「クリケット荘というのは面白い名前だね。それに主のベンジャミン・テイル教授というのは、私とは面識がないのだが、クーパー、君の恩師だって?」
 私が尋ねるとクーパーが頷いてみせた。
 「そう。ホームズさん、最近発見されたばかりのミカエルソウというユリ科の植物を知りませんか?これの発見者がテイル教授ですよ。僕の恩師と言っても医学ではなく、小学生時分の生物の先生でした。偉い先生なのですが、大学の派閥争いが嫌いで、研究がてら田舎に引っ込んでいた時期がありました。頑固で偏屈な人物でしてね、暇つぶしに子供たちに教えていたのですが、私達は恐れていましたね。でも面白い人ではあり、僕は進学してからも彼と親交があったのです。
テイル教授がこのヘンリー・オン・テムズに暮らし始めたのは、十五年ほど前です。土地を購入して屋敷を建てたのですが、まぁコオロギが沢山いたからクリケット荘…程度の命名でしょう。家族はベアトリス・テイル夫人と、孫のクリスと、マーガレット。孫の兄妹は普段寄宿舎に入っていますが、クリスはウェスト・アングリア大学のボート選手として、マーガレットは観戦するために戻ってきています。」
「教授の息子はどうしたのですか?」
ホームズは事件でもないのに、めずらしく人の家族構成に興味を持ったらしい。
「亡くなりました。なんでも教授の一人息子エイムズは学問を嫌って、アメリカに渡ったそうです。そこで物凄い金鉱を掘り当て、とんでもない大金持になったとか。妻は早く亡くなっていたので、イギリスに残してきたクリスとマーガレットは教授の元で育ったそうです。アメリカで病死したエイムズの莫大な遺産は、当然兄妹のものですが…ホームズさん、ワトスン、家族の事情に興味はないでしょうが、これからクリケット荘で過ごす以上は、一応知識をつけておいた方が良いですよ。」
クーパーは少し身を乗り出し、声を潜めて続けた。
「亡くなったエイムズの遺言がちょっとひねくれていましてね、年若い子供たちに莫大な遺産は荷が重いとして、その管理を父親 ― つまりテイル教授に一任したのです。どうやら、テイル教授の目の黒い内は、クリスもマーガレットも遺産を自由に使う事が出来ないようなのです。」
「でも、兄妹はまだ学生なんだろう?」
「しかしワトスン、我々だって金のせいで開業を諦めたクチじゃないか。クリスは大学の仲間と事業を立ち上げたいらしいが、その資金のために遺産が必要になる。でも教授はそれを許さない。僕は一昨日クリケット荘に着いたのですが、着いた早々クリスに祖父を説得してくれと頼まれてしまいましたよ。その上、教授からは孫を思い止まらせてくれと言われる始末。」
クーパーは眉を下げて肩をすくめた。御者がちょっと含み笑いをした。クリケット荘の中では、この祖父と孫のぎくしゃくした関係は知れ渡っているらしい。
 テムズ川沿いの道はあいかわらずのどかに北へ向かっている。ホームズも青空を見上げながら少し笑った。
「クリス君はクーパーさん以外に、誰かを味方にはつけられないのですか?たとえばテイル夫人とか。クリス君にとっては祖母だし、教授の妻なのだから説得には適任でしょう。」
「ところがホームズさん、それがそうは行かないのですよ。」
クーパーはまた苦笑した。
「下世話な話で恐縮なのですが、教授夫妻の関係は冷え切っていましてね。それも随分前から。テイル夫人が言うには、今まで家を出て行かなかったのは孫達の為で、今すぐにでも逃げ出したいと言うくらい、教授を嫌っているのです。」
「教授の方も?」
「もちろん。」
 やれやれと、ホームズは呆れ顔を私に向けた。その気持ちを察知したのか、クーパーは悪戯っぽい表情で続けた。
 「その代わり、クリケット荘は居心地の良い所ですよ。まず夫婦の会話がないから静かです。教授はいつも書斎で執筆に忙しいし、夫人は読書と刺繍三昧。素晴らしい図書室もあるし、何と言っても料理人の腕が良い。フランス人だそうですよ。僕が毎年レガッタの期間はクリケット荘に滞在するのは、あの料理のためだと言っても過言ではありませんね。
 寝室もあの手のお屋敷にしては広くて居心地が良いし、庭もひろびろとして静かに過ごすには最適です。イギリスの典型的な家族団欒を求めているなら期待外れですが、優雅でのんびりして、静かな郊外の休日を求めるなら、理想的と言えますね。」
 ホームズも私も可笑しくて笑い出した。ぎくしゃくした家族関係は笑い事ではないが、客人であるクーパーのこの屈託のない様子は、彼の言っている事が嘘ではない事を証明していた。

 馬車が更に北上すると、テムズ川の真ん中に大きな島が見えてきた。クーパーが指差しながら説明した。
「あれが、テンプル・アイランドです。緑の芝生と木々の間に、ちらっと白い建物を見えますか?あれが『テンプル』と呼ばれる洒落た建物で、来週のレガッタ観戦にはあそこに御招待しますよ。高貴な社交場は上流の岸の方ですから、島は気楽な紳士の憩いの場ですよ。あの島のあたりがレガッタのスタート地点になる訳です。」
 私が身を乗り出してみると、島の木々の間に、真っ白な古代建築風の建物が見え隠れしていた。

 → 2.クリケット荘               
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レガッタ:regatta  ボート,ヨットの競技会

ヘンリー・オン・テムズ:Henley-on-Thames テムズ川沿いの町。毎年7月にヘンリー・ロイヤル・レガッタが開催される。
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