Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
息抜き的作品
          姿なき依頼人   
  

姿なき依頼人 2

 私たちがイル・フトゥーロに到着すると、顔なじみのウェイターが迎えた。
「いらっしゃいませ、シニョール・エ・ドッドール。昼間にいらっしゃるとは、おめずらしい。朝摘みの野菜がありますよ」
「やぁ、リカルド。今日は食事じゃないんだ。人を探しに来たんだがね。」
ホームズが言うと、椅子を引く手を止めて、リカルドが目を丸くした。
「人ですか?なんです、殺人事件ですか?宝石泥棒ですか?それとも…」
「いや、それはまだ分からないんだけど…」
 ホームズが困って言いよどむと、給仕の少年が厨房から走り出てきた。
「Signore Holmes,buon giorno. Il messagio e questo.」
少年は、そう言いながら二つ折りにした紙をホームズに差し出した。
「僕に?」
 ホームズが受け取りながら尋ねると、少年は頷き、ちょこんと礼をして恥かしそうに厨房へ駆け戻った。すると、リカルドが大きな声を上げた。
「ああ、さっきの紳士ですね?朝食と昼食をいっぺんに取るから、パンとサラダと、スープと、仔鹿の香草焼きと、ついでにドルチェまで平らげていった人、あの子が給仕してましたよ。あの様子じゃ、チップをたっぷり貰っただろうな。あっ、あの人が人殺しですか?泥棒?それともスパイですか?!」
 リカルドが喋っている間、メッセージに目を通したホームズは、小さく溜息をついて帽子を取ると、リカルドに渡しながら言った。
「違うよ。依頼人さ。ここで待たせてもらうよ、リカルド。コーヒー二つ。」
「はい、かしこまりました。…シニョール、どうしました?その頭。もしかして、凶悪犯と決闘して…」
 ホームズは黙って席に腰を下ろした。そして私にメッセージの紙を投げてよこす。リカルドは興味津々という顔のまま、コーヒーを取りに、厨房へ向かった。
 私はホームズの向かいに座ると、メッセージを読み上げた。
「『ホームズさま。小生、香草焼きを食している最中にひらめきました。バジルです。あのバジルがこの事件の鍵に違いありません。少々足をのばして、調査してまいりますので、イタリア・レストランにてお待ち下さい。ジョウゼフ・ビル』…なんだい、これ。」
「読んだ通りさ。僕らの依頼人は、探偵を置き去りにして、さっさと捜査を開始してしまったらしい。」
「後を追わないのかい?」
「ワトスン、これまでの行動で明らかなように、こちらが右往左往すると、ことごとく依頼人とはすれ違う。こうなったら、ここに居座るまでさ。」
「それもそうだ。」
リカルドが、コーヒーを持って戻ってきた。私達の前にコーヒーを置く彼に、ホームズが尋ねた。
「リカルド、一つ教えてくれないかな。僕にメッセージを残した紳士が食べた香草焼きだが、どんな調理法かね。」
「おや、シニョール。料理に興味がおありですか。良い事ですね。イギリス人は、もっと食に興味を持つべきです。…ええ、詳しくお知りになりたければ、コックのジュゼッペを呼びますよ。」
「簡単で良いよ。」
「はい。まずですね、森に行って狩りをします。」
「簡単に。」
リカルドは暫らく天井の方を眺めていたが、口の中でぶつぶつ言ってから、もう一度ホームズに向き直った。
「焼いて皿に載せます。」
 この後、いくらかホームズとリカルドの間に会話が交わされたのだが、割愛する。とにかく、仔鹿の肉を少し叩き、 塩胡椒をして少し赤ワインを降りかけ、卵を塗り、刻んだバジルとパセリを混ぜたパン粉で包んで、多めの油でじっくり焼く。仕上げに、ペーストにしたバジルと、オリーブオイルのソースをかける。これが、ジョウゼフ・ビル氏が食した料理の簡単な作り方だった。
 「さて、ワトスン。きみはどう推理するかね?」
リカルドを厨房へ追い返すと、ホームズが私に尋ねた。
「仔鹿の香草焼きの味をかい?美味そうだと思うけど…」
「まったく君ときたら、食べる事しか頭にないのだから。違うよ、この依頼人が持ち込んできた事件についてさ!」
「さぁ…バジルが鍵だとか何とか…」
「いかにも、バジルさ!」
ホームズは身を乗り出して、少し瞳をクルクルさせると、例によって推理をめぐらしているようだった。
「いいかい、ワトスン。バジルというのは、非常に興味深い植物だよ。シソ科で熱帯原産だ。香りが強いから、香草として、食用として用いられるのは勿論だが、医療用にも用いられるのだよ。神経の緊張をほぐすとかで、頭痛に効くんだ。まぁ、この分野はまだまだ発展途上だがね。それから、解熱作用もあるし、もっとも頻繁に用いられるのは、咳を鎮める用途だ。気道を広げ、呼吸を楽にするんだ。さぁ、ワトスン。君はここから何を推理する?」
今日のホームズは、どうも噛み付き気味である。依頼が舞い込んだのに、内容が分からないばかりか、依頼人にも会えていないのだから、無理もない。
 私はコーヒーを口に運び、少し考えてから答えた。
「そうだな。ホームズ、君のその知識からすると、何か医療行為がこの依頼に関わっていると言いたそうだね。」
「その通り。これはもしかして、医者が犯罪に手を染めると…という恐ろしい犯罪に違いないよ。」
「効用を聞く限り、過剰摂取が悪影響を及ぼすとも思えないが…」
ホームズはカップを口の前で止めて、私をじっと見つめている。仕方なく、私は付け加えた。
「…気道を広げたって過呼吸にはならないと思うし…」
「ワトスン、この世にはね、未だに科学者達が発見に至っていない毒薬や、様々な成分が存在しているのだよ。」
「今は、バジルの話だろう?」
 私は段々可笑しくなってきた。私が笑うとホームズの苛立ちを増幅するばかりなので懸命に堪えはするが、どうにも彼の言う事は大袈裟でいけない。
「結構。では君の言う『バジルの話』をしようじゃないか。もう一度訊くが、君の意見は?」
「ホームズ。私の推理能力の悲しさは、君もよく知っているだろう。君こそ、どう考えているのか、私は知りたくてうずうずしているのだがね。」
 ホームズの頬に少し赤味がさすと、嬉しい気持ちになっているのが窺えたが、彼はそれを目つきで制し、おもむろに口を開こうとした。
「想像力だよ、ワトスン…」
 ホームズが私の名前を言い終わらない内に、突然イタリア・レストランの入り口が乱暴に開いたかと思うと、イタチのような顔をした男が、これまたイタチのように音もなく、素早く駆け込んできた。
「お昼の営業はおしまいですよ…」
のんびりとカウンターの向うから言うリカルドを無視して、スコットランド・ヤードの敏腕警部レストレードが私達の席に駆け寄って来た。
「ホームズさん、ワトスン先生、ヤードまでご同行願います!」
「レストレード君。生憎ぼくらは今、仕事中でね。」
ホームズが座ったまま上目遣いに警部を見ながら言った。
「難事件の解決に協力したいのは山々だが、その暇はないのだよ。」
「協力要請ではなくて、重要参考人です!」
一瞬の沈黙の後、数人の巡査が入って来て私達を連れ出そうとすると、面倒な騒ぎになった。
「レストレード君!僕が一体なんだって、重要参考人なんだね?!」
「それはこっちがお聞きしたいですよ!」
「僕らはコーヒーを飲んでいただけで、バジルソースは食べていないぞ、なぁワトスン!」
「この場合バジルは関係ないと思うけど…」
「ホームズさん、ふざけている場合ではありませんぞ!…あなた、どうしたんですその頭は。」
「シニョール!お代を払って下さいよ!」
「黙りたまえ、リカルド!診療所につけとけ!一体何の容疑だね、レストレード!」
「爆発物による器物損壊です!」
「ガイ・フォークスはとっくに終わっている!(*注)」
「火薬陰謀事件の話ではありません!」
「シニョール!チップの1ペニーも無しですか?!」
「ガイ・フォークスは終わっていると言っているだろうが!」
 朝からイライラ続きだったホームズは、ここにきて爆発して ― いや、堪えきれなくなってしまった。散々騒いだ末に、私達は馬車に乗せられ、スコットランド・ヤードへと運ばれてしまった。護送車を使われなかっただけ、幸運と言うべきだろう。
 仕方がないので、私はリカルドに例の紳士ビル氏が現れたら、我々はスコットランド・ヤードに居ると伝えてくれと頼んだ。

 もちろん、私達は陰気な取調室に入れられる事も、ましてや留置所に放り込まれる事もなかった。レストレードが私達を応接室に招き入れると、若い警官がお茶を持ってきた。
「つまり、こういう事ですよホームズさん。」
レストレードは説明し始めた。
「今朝あなた、ご自分の部屋を爆破したでしょう。」
「化学実験だよ。別に火も出なかったし。ちょっと爆風が強かっただけさ。」
「そうでしょうね。ブランドン巡査がそのあたりは報告してくれましたよ。まぁホームズさんのする事ですし、普通ならちょっとした騒ぎってだけで片付けられるのですが、そうは行かないのですよ。」
言いながらレストレードはポケットから名刺を一枚取り出し、ホームズに渡した。
「サー・リチャード・スミス…スミス・アンド・ゴーダーホールド銀行頭取…」
「この方が午前中、直々にヤードにいらっしゃいましてね。早朝に起きた爆破事件について、詳細な報告を求めるのです。」
どうして、という風にホームズがレストレードを見据えると、彼は肩をすくめた。
「秋に、スミス・アンド・ゴーダーホールド銀行の本店が、ホランド・パークからベーカー・ストリートに引っ越すのですよ。本店の移転予定地で爆発騒ぎがあれば、そりゃ当然驚きますわな。金庫を吹き飛ばされてはたまらない。」
「だとしても、ブランドン君の報告で十分じゃないか。何も優秀敏腕警部レストレード君をひっぱりだすまでもないだろう。」
レストレードはホームズの下手なおだてには乗らなかった。
「サー・リチャードは警視総監の兄上でして。」
レストレードも苦り切っており、この件はさっさと終わらせたいという気持ちが伝わってきた。ホームズも勿論同意見なので、不快な気持ちを口に出して時間を浪費する事なく、その後はお偉い銀行家を黙らせるのに適当な理屈を列挙して、20分もたたない内に私達は解放された。

 「そもそも、ベーカー街に銀行なんて、利点があるのだろうか。」
ホームズはスコットランド・ヤードの出入り口に面したホールで手袋をはめながら言った。
「道路だってまだ舗装が終わっていないし、シティからは遠いし…」
「まぁ、新興地だからね。新しい利用層を対象にしているのかも知れないよ。」
銀行預金の利回りだの、株取引などにはあまり興味のないホームズは少し笑いながら返した。
「おや、ワトスン。君はさっそく、軍人年金の振込先をスミス&ゴーダーホールドにかえるつもりかい?」
 指定銀行ではないと私が言おうとする前に、階上からさっき別れたばかりのレストレードがあたふたと駆け下りてきて、一緒に居る巡査たちに口早に指示をし始めた。
「よし、ブーン達はウィンチェスターに急行し、あちらの警察と協力して会計士事務所を封鎖しろ。証拠書類を守れよ。ビルさんはクラインと一緒にもう駅へ向かっている。私は内務大臣にご報告してから、現地へ向かって合流する。」
「レストレード君、何があったんだね?」
 聞き覚えのある言葉が連発されたのに驚いたホームズが、レストレードに迫った。相手は顔をしかめて呆れている。
「あなた、まだ居たんですか?」
「いいから、早く説明したまえ。」
 すると、階上からさっきお茶を運んできた若い警官が叫んだ。
「警部!ビルさんが、シャーロック・ホームズさんにもご同行願いますと、伝言なさっていましたよ!もうお帰りになってしまいましたか?!」


* ガイ・フォークス(・デー) Guy Fawkes Day (11月5日) :
ガイ・フォークスを首謀者とした旧教徒による、英国議院の爆破計画(火薬陰謀事件 Gunpowder Plot,1605年,未遂)に由来する行事。子供たちがフォークスの人形を引き回し、「ガイのために1ペニーを」と言いながら人々から小銭をもらう。



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