Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
息抜き的作品
          姿なき依頼人   
  

姿なき依頼人 3

  レストレードは内務大臣への報告のためにウェストミンスターに向かい、ホームズと私への説明は、ブーン巡査長に任された。ともあれ、駅に急行せねばならない。私達は馬車に押し込められ、猛スピードでパディントンに向かった。駅に到着してみると、ビル氏はクライン巡査と共に前の汽車で出発していた。
 次のウィンチェスター行きの発車までは、まだだいぶあった。ブーン巡査長と一緒にコンパートメントにおさまると、まず巡査長が切り出した。
「先生がたは、この件についてもうかなり捜査が進んでいるのでしょうな。」
 するとホームズは、不機嫌になるのも馬鹿馬鹿しくなったのか、やけににこやかな笑顔で返した。
「それが、全くなにも知らないのだよ。バジル以外はね。」
「バジル?…でも、ビルさんはホームズ先生にもご同行願うと…バジルって何です?」
「野菜だよ。こっちの説明をすると長くなるから、スコットランド・ヤードの報告の方を先にお願いできないかね。」
 すると、ブーン巡査長はひとつ咳払いをしてから、説明を始めた。
「ええ、まずですね。“カウンター”・ジェイコブソンをご存知ですか?」
「もちろん。」
ホームズは答えながら眉を上げた。
「何者だい?」
私が訊ねると、ホームズは腕を組みながら説明した。
 「本名ヘンリー・ジェイコブソン。マンチェスター出身の名うての詐欺師さ。会計学と、商法に長けていてね。その上実務の腕も良いのだから、たちが悪い。たびたび銀行や会計事務所に偽名で就職し、資金や支払、納付金を自分の口座に横流しさせるのさ。入金確認と共に姿を消し、金を回収するや行方不明。通称は“カウンター(計算係)”という訳だ。今まで被害を被った銀行や会計事務所は、その額の多さに度肝を抜かれ続けた。その手法も多種多様で、変装の名人でもある。仕種も行動も、完全に他人に成りすます天才的な技術を持っているのさ。去年は、あろうことか陸軍の会計方に入り込んで、しこたま稼いだんだ。軍事関係の資金運用の機密性を利用したのだから、政府も公表できなかった…彼が現れたのか?」
「どうやら、そのようです。」
 巡査長は少し鼻をすすりながら答えた。どうも隙間風が酷くて、狭いコンパートメントの中も寒々しい。彼は少し手を擦りあわせて、説明を続けた。
「去年の秋から、ウィンチェスターのジョンソン&パーキー公認会計士事務所に、フォルティという偽名で就職したのです。腕は良いし、経験豊かだし、それに人好きのする人物で、事務所でも大変重宝がられていたそうですよ。」
「実際に、被害が?」
「いや、それはまだです。今日、同じ事務所に勤めているビルさんという人が、スコットランド・ヤードに駆け込んできまして、フォルティという男は、“カウンター”・ジェイコブソンに違いないと通報してくれたのです。それで、我々も大急ぎでウィンチェスターの警察に電報を打ち、応援に駆け付けるという事になった訳でして。」
 私とホームズは顔を見合わせた。
 夕方4時。発車時刻だ。ガタンとゆれると、汽車はパディントン駅から動き始めた。ホームズは静かに、鼻だけで深呼吸をすると、巡査長の話を促した。
「ビルさんは、どうしてフォルティがジェイコブソンだと気付いたんだい?」
「とても些細な事です。ビルさんというのは左利きなんだそうですが、ジョンソン&パーキー公認会計士事務所の中でも唯一の左利きだったそうです。ところが最近、どうも他にも左利きの人間が居るような気がしてならない。」
「…気がする?」
「そうなんです。例えば、事務所員共用の、持ち運びでき、サイドに蝶番のある箱があるとしますよね?この場合右利きの人間と、左利きの人間とでは、置き方が異なるでしょう?それとか、ハンガーの掛け方とか、カップの置き方の向きとか。ビルさん自身がやったものではない、『左利きの形跡』が、時々目に付くのだというのです。」
「でも、利き手は字や、書き方をみれば一目瞭然だ。」
私が口を挟むと、巡査長も頷いた。
「ええ、ビルさんもそう思って、ただの偶然だと思う事にしたんですよ。所が昨日の事です。ビルさんは仕事上のちょっとしたミスをしましてね、反故にした伝票をゴミ集積所から探さねばならなくなったそうです。会計伝票というのは、ご存知の通り同じような文面や細かい数字ばかりですから、山のようなゴミの中から自分の伝票だけを探すのは、大変です。でも、幸い左利きの文字を書くのはビルさんだけですから、彼はそれを目印にゴミの山と格闘した。ところが…」
「ビルさん以外の人間による、『左利きの文字』が出てきた。」
 呟いたホームズは、紙巻に火をつける所だった。
「そうなんです。ごく少量ですが、反故にしたメモの中にビルさんの字ではない物を見つけたのです。明らかに会計事務所から出たゴミでしたから、いよいよビルさんは妙な気がした。そこで今日、奇妙な紙片を少し持って、専門家の意見を聞こうと、ロンドンに出てきたそうですが、昼頃突然フォルティが怪しいと思い付いたというのです。
 そこでビルさんは自らロンドンの公認会計士協会に駆け込みまして、フォルティの経歴をすっかり調べ上げたのです。結果、フォルティは巧妙に経歴書類をでっちあげた詐欺師であることを突き止めた。ビルさんというのは行動力の塊ですな。その足でスコットランド・ヤードに駆け付けて、詐欺課に相談したのです。
 詐欺課が把握している情報では、ジェイコブソンは左利き!しかし『仕事』の時は他人になりすますために、右で字を書く様に訓練をしているのです。だが、物の置き方など些細な点でビルさんに気付かれしまった。メモは余程急いでいたのか、本来利き腕である左で書き、ジェイコブソンは抜かりなくそれは反故にして捨てたが、これもビルさんに発見されたのです。
 もちろん、ジェイコブソンは変装しています。髪の色やら、眼鏡などで誤魔化してはいますが、間違いない。ビルさんが言うには、今フォルティことジェイコブソンは大きな仕事を任され、残業続き。きっと大きなヤマを張っているに違いないし、今日も遅くまで事務所にいるはずだ…」
「そこで、現場に踏む込む事にした訳だ。」
 ホームズは溜息と一緒に、大きく煙を吐いた。日はすっかり沈み、町は暗くなっている。ウィンチェスターへ向かう汽車は猛烈な速さで風を切っていった。
「でも、ちょっと待てよ。」
巡査長が、顎に手を当てて私に訊ねた。
「ホームズ先生と、ワトスン先生は?いつこの件を知ったのです?ビルさんが今日会おうとした専門家って…」
「ホームズの事だよ。でも、話の内容を知ったのは、たった今。」
「はぁ…」
「それよりも、ブーン巡査長。分からない事が一つあるんだ。ビルさんは、どうして今日の昼頃に突然、フォルティが怪しいと思ったのだろう。それに、ビルさんはバジルがこの事件の鍵だと、私達に伝言したのだが…」
「そうですねぇ…」
 私の質問に、巡査長は思案顔でパラパラとメモ帳をめくり、しばらくして一ページに目を留めた。
「ああ、これですよ先生!ジェイコブソンの偽名です。」
「偽名?」
「そうです。奴が使った偽名のファーストネームです。バジル・フォルティ!」
 バジルの医学的使用による凶悪な事件は、一体どこへ行ってしまったのだろう。私は呆れる思いを抑え切れずに、ホームズを見遣った。彼はもう苦笑するしかなく、右肘を窓枠に乗せ、どうでも良さそうな口調で言った。
「ビルさんは、仔鹿の香草焼きでバジルにピンと来た。あの『もう一人の左利き』の形跡に気付き始めたのが、去年の秋だった事を思い出したからさ。オーバーコートを使用する時期だったから、ハンガーに気付いたのだろう。ジェイコブソンがバジル・フォルティの名前で会計士事務所に就職したのは、去年の秋だからね。バジル・フォルティは本来左利きなのに、右利きの振りをしている…ともなれば…。」
 ホームズは首を振って大きく溜息をつき、あとはもう話す気を失い、暗い窓の外をじっと見詰めていた。

 ウィンチェスターへの到着便は、これが最終だった。駅に降り立つと、真っ暗な夜の中、凍るような寒さだった。ホームズと私が、スコットランド・ヤードの警官達とともに出口に向かうと、地元の警官が一人駆け寄ってきて、ブーン巡査長の前で敬礼した。
「ウィンチェスター警察の、レイ巡査であります。報告にあがりました。ヤードからの電報を受け取ってからすぐに警察官を動員しまして、先ほど応援のクライン巡査長とも協力し、パーキー&ジョンソン公認会計士事務所に踏み込み、“カウンター”・ジェイコブソンの身柄を確保しました。」
「迅速な対応でした。おめでとう。」
ブーンは嬉しそうに微笑んで敬礼をして聞き返した。
「踏み込んだ時は、特に混乱もなく、迅速に行ったかね?」
「いや、それがさすが“カウンター”ですよ。」
レイ巡査は大袈裟な身振りで言った。
「ずる賢い奴でして、事務所が包囲された事をすぐに察知しましてね。証拠書類をかかえて小さな通路から抜け出し、焼却炉に放り込もうとしたんですよ。すると、ジェイコブソンの事を通報してくれたあのビルさんって言う会計士さんが、いち早くそれに気付き、裏口に駆け付けて、間一髪の所で書類を守ってくれたのです。もちろんジェイコブソンは不意をつかれたのですが、猛然とビルさんに襲いかかりまして。危ない所でしたが、ビルさんは少しも動じずにヤツを組み止めますと、見事に投げ飛ばしたのです!なんでも、ビルさんは日本の柔術の達人とかで…」
 突然、私の背後でホームズが回れ右をしたかと思うと、凄い勢いで走り始めた。
「ホームズさん!一体どうしたって言うんです?!」
ブーン巡査長が唖然として呼びかけた。ホームズは一目散に反対側のプラットホームに向かっている。丁度、ロンドンへの最終便が発車しようとしている。帰る気だ。
「ホームズと私は、このままロンドンに戻ります!明日の朝、レストレード警部が来たら、おめでとうと伝えて下さい!」
 私はそう怒鳴りながら、ホームズの後を追って走り出した。
 ゆっくりと動き始めた汽車に向かって走りながら、私は途中で笑いがこらえられなくなってきた。そしてホームズの乗り込んだコンパートメントに飛び込むと、大声で腹を抱えて笑い出してしまったのである。全速力で走ったので息が上がっている上に笑いが止まらず、私は呼吸困難に陥った。それこそバジルの効用が必要な程、苦しくて仕方がない。
 ホームズは禁煙車に飛び込んだにもかかわらず、煙草をバクバクとふかしながら、何やらわぁわぁ喚いていたが、笑い転げる私には聞こえなかった。検札に来た車掌が、コンパートメントの中の有り様を見て、目を丸くした。

 ベーカー街に戻るなり、ホームズは寝室に立てこもってしまった。私達の居間の窓もすっかり直り、元の居心地の良い部屋に戻ったのだが、ホームズにとってはどうでも良いらしい。
 ウィンチェスターの公認会計士事件から二日後、ジョウゼフ・ビル氏から手紙が届いた。私がそれを持ってホームズの寝室に入ると、彼はベッドから顔も出さずに読んでくれと言う。私はホームズの枕元で封を切り、手紙を読み上げた。
 「親愛なるホームズ様。先日はお会いできずじまいで、申しわけございませんでした。おかげ様で、名うての詐欺師を逮捕する事も出来ましたし、事務所の損害も阻止できました。改めてお礼を申し上げます。依頼料の小切手を同封いたします。もし不足の場合は、遠慮なくお申しつけ下さい。甚だ簡単ではありますが、ご挨拶まで。ジョウゼフ・ビル…」
 同封されていた小切手の額面は、なかなか立派なものだった。私はまた、笑いを堪えられなくなった。自分で全てを推理し、解決してみせたこの公認会計士は、一体ホームズの何に感謝しているのだろうか。一体何の代謝としての小切手なのだろうか。私はホームズの頭上で小切手をひらひらさせた。
 「ホームズ、この小切手どうする?」
「食ってくれ。」

 もちろん私はヤギではないので、小切手を食べはしなかった。
 ホームズに代わって私が、ビル氏の慧眼と行動力を褒め称える手紙を書き、小切手を同封して返送した。ジェイコブソンが抜けた後、会計士たちが空いた穴を埋めるための残業代にでもしてくれと、書き添えておいた。
 余りにも長い間ホームズがこもるので、ハドスン夫人がしきりと心配した。また癇癪を起こして部屋を爆破したり、壁を蜂の巣にでもするのではないかと、気が気ではないらしい。
 仕方がないので、私は彼を夕食に連れ出す事にした。もっとも、バジルが出るような料理は避けねばなるまいが…。


姿なき依頼人 完



あとがき
 この作品は、「ホームズにベーカー街の部屋を爆破させたい」という動機で書き始めました。当然、冒頭の部分を書いた時点で行き詰まってしまい、かなり苦労しました。「結局、依頼人に会えない」という骨子が固まった後もです。それを救ったのは、レストレードの登場でした。彼を登場させたとたん、物語はスラスラ進みました。今回は、レストレードに感謝です。
 作中に登場したバジル・フォルティという名前は、モンティ・パイソンのジョン・クリーズが製作出演した「フォルティ・タワーズ」という抱腹絶倒のシチュエーション・コメディの主役の名前です。
 バジルという名前はハーブの名前と同じですが、そもそも聖バシリウスという初期キリスト教の教父の名前でもあり、特にアメリカなどでは、「ベイジル」と発音することもあります。
 会計事務所の名前「ジョンソン&パーキー」も、モンティ・パイソンから拝借しました。ジョンとエリックが、ビルの屋上から落ちてくる人について賭けた時、登場したのが「ジョンソン&パーキー」でした。
 最後に、この作品を読んでくださった皆さんに感謝を申し上げます。感想などありましたら、ぜひお寄せください。
 次回作は、「マリルボン…」系の少し大きな作品にしたいと思います。

                                  8th December 2004

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