Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
息抜き的作品
          姿なき依頼人   
  

姿なき依頼人 1

 シャーロック・ホームズと共同生活を始めて、長い年月が経つ。天才と言うべきこの友人は、同居人としては甚だ不都合な点も多かった。
 度の外れたヘビー・スモーカー、部屋の整理整頓が出来ない、時を選ばずにヴァイオリンをかき鳴らす、怪しい毒物を持ち込む、物騒な人物が出入りする、生活のリズムは乱れっぱなしなど、とにかく最初は驚き呆れるような事が多発したのである。
 しかし、彼と友人として長く付き合い生活を共にすると、次第に慣れてきた。そう言った点が、彼の興味深い事件への取り組みと少なからず関連していたため、私の生活の刺激になっている事も否定できない。ともあれ、私はベーカー街の下宿で起る、大抵の事には動じない様になっていた。
 しかし寒さが最も厳しい2月のある明け方に起きた出来事には、さすがに驚いた。
 突然の爆音が鳴り響き、建物全体が激しく震動する衝撃が突き上げたのである。当然寝室のベッドに居た私は飛び起き、ガウンを引っかけながら2階へと駆け下りた。同じように驚いて起きたらしいハドスン夫人と一緒に居間のドアを開けると、そこには無残としか言いようの無い光景が広がっていた。
 椅子の半数以上はひっくり返り、壁にかかっていた額のいくつかは絨毯に落ち、南側の窓ガラスの何枚かが割れ、カーテンが引き千切られて外へ向かってそよいでいる。そして居間にあったありとあらゆる物…本、新聞、手紙、その他書類、灰皿、マッチ、ろうそく、ランプ、インク壷、吸い取り紙、フールスカップ、葉巻の箱、ティーセット、果物、スリッパ、クッション、テーブルクロス、パイプ、食器、化学実験道具、帽子、手袋、毛布、ナイフ、拳銃と弾…とにかく全てが南側の壁の方に吹き寄せられて、うずたかく山を成していた。書棚と食卓と書き物机はさすがに動いていなかったが、その上にあったであろう物はその姿を消していた。
 この光景に呆然として首を回らすと、マントルピースの横に、ガウンを着て右手に小さな試験管を持ったホームズが立って、にっこり笑っていた。しかも額からダラダラと鮮血を流し、頬から胸へと滴らせている。
「やあ、おはよう!ハドスンさん、ワトスン君!なんて爽やかな朝だろうね!」

 明白な事実は、この寒いさなかのしかも明方に、例によってホームズが怪しげな化学実験を行い、私達の居間を爆破したという事である。
 まだ7時にもなっていなかったが、ハドスン夫人はビリー少年を呼び出し、割れたガラスと窓から外へと吹っ飛んだ様々な物を回収しにかかった。早朝で良かったようなものである。通行人が居たら確実に怪我人が出ていた。もちろん近所は大騒ぎで、巡査がやって来た。幸いこの巡査は顔見知りだったので、事情を説明すると溜息と苦笑を残して任務を終了してくれた。
「いやあ、まさに予想外の結果だよ、きみ。」
 割れたフラスコのガラスで額を大きく切り、他にも小さな切り傷を作ったホームズは、私に手当てされながら上機嫌に言った。
「こんな劇的な反応があるとはね。論文の書き甲斐があるというものだよ。」
「無駄だよ、ホームズ。」
 私は彼の頭に簡単に包帯を巻きながら、そっけなく言った。ホームズは私の言葉に少し驚いた。
「無駄?何のことだい、ワトスン?」
「きみ、本当は爆発が起ると予想がついていたんだろう。」
「どうしてそう思うのかね。」
 私は包帯を切って固定すると、小さな傷のために消毒液を脱脂綿に浸しながら答えた。
「いつもは居間のどこかに放り出してあるヴァイオリンが、今朝に限ってきみの寝室にあるからさ。つまり、きみは爆発を予感して大事なヴァイオリンだけは避難させておいたんだ。それにきみの怪我は額付近と、右手に集中している。それからそこの小机だけは他の物とは異なる方向で横倒しになっている。これらの事実は、爆発を予想したきみが小机を実験道具に対して盾になるように倒し、その向こう側から顔を出し、右手に試験管を持って何か怪しい物をフラスコに注いだ事を示唆している。」
「素晴らしい!」
ホームズは満面の笑みに、瞳を輝かせて叫んだ。
「まったく素晴らしいよワトスン!きみは僕と一緒に居るうちに、僕の手法を完全に習得したようだね。医者なんてやめて探偵になったらどうだい?」
「黙って。」
私はホームズの口元の傷に消毒液を叩き付け、彼は悲鳴を上げた。
「確かに火は出なかったんだ。まあ、ちょっと規模が大きかったかな…」
 ホームズはぶつぶつ言い続けたが、私は無視して道具をしまい始めた。
「ホームズ、私は出掛けるよ。」
「どこに?」
「診療所さ。」
「今日は休診だろう?」
「この寒いさなかに、窓にガラスも無く、馬鹿に風通しの良いこんな場所に居なくちゃならない理由はないね。診療所で論文書きか資料整理でもするよ。」
「食事はどうするんだい?」
「外で済ますさ。」
「僕は?」
「知らんよ。」

 ケンジントンの診療所では、私の休暇を利用して、メイドと看護婦が大掛かりな掃除をしていた。そこへ私がホームズと共にやって来たので彼女たちは驚いたが、事情を説明すると笑って書斎を大まかに片付けてくれた。
 私は机に向かって秋の学会で配布された論文に目を通していたが、ホームズは手持ち無沙汰で落ち着かない。書斎の中をうろうろ歩き回ったり、手近な本を取って数ページ眺めては放り出したりしている。
 そのうち、鏡の前に立って額の包帯を目立たなくするにはどうすれば良いのか、苦心し始めた。最初は前髪を下ろしたり、引っ張ったり、首を傾げたりしていたが、結局あきらめた。今度は帽子を何度も被り直したりして色々ためしたが、結局は深く被る事でおちついた。
 すると今度は大きなカウチに座り込むと、靴を脱ぎ、足を組んで目を閉じた。どうやら、瞑想らしきものを行っているらしい。大の男が完璧なフロックコートに身を包み、室内なのにトップハットを被ったまま瞑想している様は、不気味を通り越して滑稽だった。

 小一時間ほど経とうとした頃、メイドがドアを叩き、小さな紙片をもってきた。メッセンジャーが、ホームズ宛の手紙を持ってきたと言う。ホームズはそれを一読すると、私に投げてよこした。
 「シャーロック・ホームズ様 小生、大変奇妙な体験をし、先生に御相談申し上げたく存じます。つきましては、木曜の朝9時に尊宅へお伺いいたします。 ジョウゼフ・ビル…」
「どうだい、ワトスン。この手紙から依頼人について、どんな事が分かるだろうか。」
室内で帽子を被っている変な男が、目を輝かせながら尋ねた。私は少し手紙を眺めてから、答えた。
「そうだね。左利きの男だ。」
「ふむ、最も簡単な推理だね。その斜めになった文面からすれば、当然左利きという事になる。それから?」
「よっぽど慌てているね。字が乱れているし…t のクロスや、iのドットが抜けている。」
「それから?」
「そうだな…」
私は手紙を窓に向け、光に透かしてみた。
「住んでいるのは、おそらくウィンチェスターかその周辺で、職業は公認会計士。年齢は…20代ではないだろうね。個人ではなく、ジョンソン&パーキー会計事務所勤務で、平素はあまり自宅で書き物をしないのではないかな。」
 ホームズは鼻の頭に皺をよせ、ひったくるように私の手から手紙を取った。
 「まさに、そのとおり!この紙の透かしを見れば、ジョンソン&パーキーC.A.O.(charterd accountant office 公認会計士事務所)と、Hants.(ハンプシャー,州都はウィンチェスター)という文字が見られるし、やはり透かしに入っている聖堂の形はウィンチェスター大聖堂だ。それに創立25周年とあり、製作は1895年。つまりこの創立25周年記念のフールスカップを、10年以上もっている事になるから、当然20代の若者ではない。黄ばんでいる所を見ると、記念のフールスカップを自宅に持ちかえり、ずっと保管していたんだ。しかもインクのこの薄さは、長い間放置されていたインク壷の底に成分が沈殿し、よくかき混ぜずに上澄みで書いた事を示唆している。つまりは、自宅ではあまり書き物をしないという事になるし、会計事務所勤務である事の証だ。それに、封蝋もないから自宅には持っていない…」
「それは急いでいたからじゃないかな。」
 私が素っ気無く言うと、ホームズは少し視線を天井にぶつけてから、無造作に手紙をポケットに押し込み、またカウチに戻って足を組もうとする。私は立ち上がった。
「何しているんだい?」
「瞑想だよ、きみ。持ち込まれる事件に備えて、精神統一さ。」
「ホームズ、しっかりしたまえ。ここはベーカー街じゃないんだよ。」
 ホームズは数秒間目を閉じていたが、やにわに立ち上がると出口に向かおうとして、靴を履いていない事に気付いた。彼は靴を履くと、今度は帽子を探し始めた。それが自分の頭の上に乗っている事に気付く頃、私は馬車をつかまえていた。

 「ウィンチェスターの公認会計士だな。」
ホームズは馬車の中で、右手親指の爪を唇につけながら言った。
「ワトスン、君の書く小説の題名だよ。どうも君のつける題名はパターン化していないかい?『ナントカのナントカ』ばっかりだと思うのだけど。」
 題名など、ほかに何ともつけようがないし、凝った題名なぞつけようものなら、ホームズのお気に召す筈も無い。私は肩をすくめただけで、放っておいた。
 ホームズは紙巻に火をつけ、ゆっくりと吸い込みながら、つぶやいた。
「小生、大変奇妙な体験をし…か。退屈な仕事をこなすだけの単調な毎日を過ごしていた公認会計士の、奇妙な体験!これはきっと、何か面白い事件に違いないよ。背後に、大掛かりな犯罪が潜んでいそうなね。」
 やがてベーカー街へ到着した。私達が居間に入ると、ハドスン夫人がガラス職人と相談をしている所らしく、作業服の男がガラスの割れた窓の寸法を測っていた。
「まあ、ホームズ先生、ワトスン先生!」
ハドスン夫人はびっくりした顔で言った。
「行き違いですわ。ここに来た手紙をケンジントンへメッセンジャーに持たせてから、間もなく依頼の方が…ビルさんがいらしたんですのよ。ここはこんな有り様ですからと説明したら、約束の時間には大分あるからとおっしゃって、ケンジントンに向かわれたんです。先生がたはすぐにお戻りになるだろうから、ここでお待ちになってはと言っても、お聞きにならなくて。第一、こんな寒い部屋に待たせるのもなんですし…」
 最後の一言は、店子に部屋を爆破された家主の怒りがこもっていたが、ホームズはもちろん気にも留めない。
「戻ろう、ワトスン。」
 彼はすぐさまに踵を返して居間から出ていった。ドアを閉めた私の背後で、ガラス職人が見積り額を説明しているらしく、ハドスン夫人の悲鳴が聞こえた。

 ベイズウォーターで乗合が横転したらしく、ケンジントンへの道はひどい渋滞だった。ホームズはいまいましそうに通りを眺めながら言った。
「大人しくベーカー街で待っていれば良いものを、ケンジントンに向かうだなんて、よほど急いでいると見える。」
 こういう場合は、往々にして行き違いが重なるものだが、今回の場合もそうだった。私達がケンジントンの診療所に到着すると、メイドが困った顔をして言った。
「先生、申しわけございません。ビル様という依頼の方がいらして、中でお待ちになればと申し上げたのですが。」
「居ないのかい?」
私が尋ねると、メイドは更に困った顔で頷いた。
「ベーカー街で行き違いになったでしょうから、ここでお待ち下さいと申し上げたのですが、何分にも朝食をお食べになっていないとかで。」
「外に食べに行った?」
「そうなのです。こちらで、何かお出ししますからと申し上げたのですが、迷惑だろうからとおっしゃって、聞かないんです。」
「どこに食べに行ったか、分かるかね。」
ホームズが酢を飲んだような顔で尋ねると、メイドは僅かに笑いながら答えた。
「ええ、それは大丈夫です。近所に適当なレストランはないかとお尋ねでしたので、イル・フトゥーロをお教えしましたから。」
私とホームズの行き付けのイタリア・レストランだ。
「ありがとう。」
 ホームズは短く礼を言うと、踵を返して歩き始めたので、私もそれに続いた。

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