Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

9. シャーロック・ホームズの再登場

 ふと気がつくと、人の気配がする。うすく目を開くと、ホームズの顔が近くに見えた。どうやら彼は、上から私の顔を覗き込んでいるらしい。私はそのままぼんやりしていた。ホームズも何も言わず、特に表情も変えずに私の顔をみつめている。そのまま数十秒経っただろうか。ホームズは身なりもきっちりとして、すましている。私は、自分がソファで横になっていること、ここはチェスナット荘の空き部屋であることを思い出し、やがて窓から入る日の光から、今は昼間であることに気付いた。
 私は体を起こした。
「アイリスは?」
「おはよう、ワトスン。」
 ホームズは私の質問には答えずに、ソファの脇に突っ立っている。私は上半身だけ起し、ソファに座ったまま、ホームズの頭のてっぺんからつま先まで見やった。
「おはよう、ホームズ。今、何時だ?」
「一時。」
「えっ?そんなに眠っていたのか?しまった…」
「大丈夫だよ、ワトスン。アイリスはまだ生きている。昏睡状態だがね。」
 ホームズはくるりときびすを返すと、部屋の中央にゆうべ急遽すえられたテーブルに向かい、お茶をついで戻ってきた。そして、まだソファの上でぼんやりとしている私に差し出した。私が無言で受け取ると、ホームズは少し微笑んで、私の足元に座った。
 辺りは静かだった。物音一つしない。そこはチェスナット荘の使われていない客室だった。夕べからメインホルム医師と、私が休憩する部屋になった。お茶をすすりながら窓の外を見ると、みごとな青空だ。
 私は足元に座っているホームズが邪魔で、足を下ろせない。そのままの姿勢で尋ねた。
「いつ、留置所を出たんだい?」
「ついさっき、釈放命令書が届いて、ジェンキンス巡査が出してくれた。夕べの騒ぎはもう聞いたよ。一度、オールド・オークに寄って、着替えてきた。」
 なるほど、髭もきれいに剃ってあるし、髪型もきちんとして、いつもの端然としたホームズに戻っている。
「それで?ホームズ、夕べの毒殺未遂については、どう思う?」
「どうって…」
 ホームズはポケットから紙巻タバコを取り出すと、マッチをすって、うまそうに吸い始めた。そして大きく煙を吐き出す。
「ちょっとぼくには判断がつきかねるな。」
「どういう意味だい?」
 私が聞き返したとき、小さくノックする音がして、ドアがそっと開いた。そして、メインホルム医師が顔を出したのだ。
「ああ、お目覚めだね。」
 手に小さな紙片を持っていて、掲げて見せた。ホームズとは目で会釈している。私が寝ている間に挨拶は済ませたらしい。
「毒物の検査結果が出たそうだ。」
「もう?」
 私が驚いて聞き返すと、メインホルムは入ってきて、紙片を私に手渡した。私はそこに記された毒物の名前に驚いた。
「サロカルチヒペヒド・・・?どうしてこんな猛毒が…」
 メインホルム医師も同感という風にうなずいた。
「しかも、ヨーロッパにね。」
 ホームズがタバコをひねくりながら、二人の医師の顔を交互に見た。
「驚いた。ぼくもサロカルチヒペヒドのことは知っているが、お二人のような一般医が知っているとは思わなかったな。確か、十年ほどまえにアメリカとカナダで話題になった毒物で、即効,強力に呼吸系統を破壊するって話だった。」
「でも、その抽出に必要な媒体が解明し切れなかったので、アメリカでも最近は出回っていないと、つい先月の学会誌に書いてありましたね。」
 私がメインホルム医師に確認すると、彼も同感だったようだ。
「ええ、イングランドを含めて、ヨーロッパではほとんど出回らず、アメリカでも簡単に検出可能な試薬が発見されたので、もう実効性は無いという報告だったよ。今回は、その試薬ですぐに分かったのだろう。」
「それがどうして、アイリスのホットミルクに…」
 私はソファから降りるのも忘れて、毒物分析結果に見入った。すると、ホームズがタバコをくわえたままつぶやいた。
「本当にアイリスは被害者なのだろうか…」
「ええ?」
 メインホルム医師が驚いた声をあげた。私は紙片から目を上げてホームズに尋ねた。
「何が言いたいんだ?ホームズ。」
 ホームズは私に申し訳無さそうな苦笑を向けながら答えた。
「殺人の真犯人が、自分への疑いをそらすために、死なない程度の毒物を自ら服用し、被害者を装っているのかもしれないってことさ。使い古された手だけど、なかなか効果的だ。」
「それは無いな。」
 メインホルム医師が即応した。
「マグに残っていたミルクに含まれた濃度から言って、アイリスは明らかに致死量の
サロカルチヒペヒドを摂取している。装うどころの量じゃない。」
「ワトスンの意見は?」
「私もメインホルム先生と同意見だ。見ろよ、マグに入っていたサロカルチヒペヒドの推定量は、0.8オンス。全部飲まなくても、せいぜい三分の一程度で普通は死ぬ。実際…症状は酷いものだった。」
 私がメインホルム医師に向けて顔を上げると、彼はわずかに眉を寄せた。
「アイリスはまだ昏睡状態だ。あそこまで酷い痙攣を起こして、生きているほうが不思議だが…。あとは祈るしかない。」
 メインホルム医師のその言葉に、ホームズは黙り込んでしまった。彼はレン氏の殺害について、アイリスを有力な容疑者と考えていたのだろう。それゆえにこの事態は気に入らないようだった。

 メインホルム医師は、薬や道具を改めてそろえるために、いったん自宅に戻ることにした。私が時々アイリスの様子を見ることになるが、あとは神に祈り、アイリスが持つ運に任せるしかない。
 メインホルム医師が出て行くと同時に、女中が私のために洗面器やお湯、タオル、そして軽い食事を持ってきた。
「ぼくが頼んでおいたのだよ。」
 ホームズは急に楽しそうな様子でソファから立ち上がると、いそいそと椅子を運んで、私のためにしつらえ始めた。私は足元に陣取っていたホームズがどいたので、やっとソファから抜け出し、身づくろいをはじめた。
「ホームズ、きみは食べないのか。」
「ぼくはいいんだ。さぁ、ワトスン食べてくれ。きみは昨日からずっと働きづめだったからね。夜中にたたき起こされたり、ソファで寝たり、さぞや疲れたろう。」
「もう大丈夫だよ。」
 私は苦笑しつつも、楽しそうなホームズに調子をあわせて、テーブルについた。さすがに空腹なので、食べながらホームズに質問を始めた。
「それで?どうやらアイリスが第二の被害者となったらしきこの状況、ホームズはどう考える?」
 ホームズは両手をこすりあわせると、私の顔をまじまじと見ながら口を開いた。
「残念ながら、今回の事件の場合、二回ともぼくは事件現場に犯行直後に行くことが出来なかった。全ては警察や、きみたちが処理した後だからね。相変わらず、動機から考えざるを得ないが、まず普通に考えて怪しいのはマグノリアということになる。」
 私は黙ってホームズをにらんだ。
「そう、にらまないでくれよ、ワトスン。そりゃ、マグノリアのような世間知らずのお嬢さんが、伯父や従姉を殺すようなことはあってほしくない。しかも、双方ともマグノリアを慈しみ、保護してきた存在だからね。
 でも、レン氏が死に、しかもその遺言書は古いまま。さらにアイリスが死ぬとなると、がぜんマグノリアへ渡る遺産が増える。こうなると、彼女はあやしいし、なんと言ってもアイリスがホットミルクを飲む現場に居合わせている。毒を盛るには、一番良い位置だ。
 むろん、あの可愛いお嬢さんの頭一つで、そんな恐ろしい事を思いつき、実行するのは無理がある。そこで、母親のダイアナや、その弟のオスカー・ウェストマンが ― 彼らが共犯だと考えたら?現実味が沸いてくるだろう。」
「ウェストマンが、アイリスを愛しているっていうのは、きみも私と同意見だったはずだが。」
「愛情は常に殺人動機の有力候補だ。ウェストマンがアイリスへの愛が叶わないものと悟り、彼女を殺そうとしても、おかしくはない。その手の話は世の中にざらにある。」
「ぞっとしないな…」
「きみは本当に優しいからね。」
 いつもなら皮肉っぽく言うこの台詞だが、今日のホームズは昨日から引き続き、こちらが照れくさくなるような言い方をする。私はとっさに話題をかえた。
「愛情の問題なら、ベッドシャムも同様だ。彼はアイリスとの結婚について、迷っている。」
「なるほど、確かにそうだな。もうひとつ、ぼくが気になるのは、アイリスが何か重大なことを知っていたのはないかということだ。」
「レン氏の殺人について?」
「そうだ。アイリスとマグノリアはあの夜、二人で物音がしたと思われる一階に下りている。そして、何もないと分かった頃、突然二人は階段の上のほうで、何かが動く気配を感じた。そのとき、とっさに階段を駆け上がったのは?」
「…アイリスだな。」
 私がうなずきながら言うと、ホームズも一緒にうなずいた。
「そう。とっさに、マグノリアの手を払って、明かりを持ったまま階段を上ったのはアイリスだ。彼女は何もなかった、庭木が風に揺れた影を見ただけだったと証言したが…」
「本当は、階上に犯人を見た・・・?」
「そうかもしれない。しかし、なぜかアイリスは警察には真実を話さなかった。犯人をかばっているのか、それとも犯人を脅迫していたのか・・・いずれにしろ、犯人にとってアイリスは邪魔だ。それこそ、致死量の毒物を盛って殺してもおかしくない動機だ。」
「その説明のほうが、納得いくな。だとしたら、階上に居たのは誰だ?」
「さぁね。」
 ホームズは小さくため息をついた。
「これは誰でもありえる。感情的にレン氏を好いてはいないであろうイライザや、ジョンソンとも考えられる。ただし、ジョンソンは経済的にレン氏に依存していたから、単なる恨みとは考えにくい。ウェストマンが犯人だったとしたら、アイリスはウェストマンをかばっているのかもしれない。ベッドシャムでも同様だ。ここは一つ…」
 ホームズはいたずらっ子のように瞳を輝かせて、私を見やった。
「マグノリアにもう一度話をきこうじゃないか。」
「それはどうかな…。伯父が殺された上に、従姉が目の前で死にかけたのを見たんだ。今のマグノリアはそっとしておいてやった方が良いと思うよ。」
「仕方が無いよ、ワトスン。殺人、殺人。しかも二件。二件目は未遂だけど。とにかく犯人を挙げるには、躊躇などしていられない。それに、こんなときこそ心優しき、ジョン・ワトスン君が必要なのさ。きみのような、限りなく優しく、誠実なひとが一緒に居てくれれば、マグノリアも勇気付けられて、話してくれるよ。」
 なんだか気持ち悪いので、ホームズの言葉の最後の方は聞かないことにした。

 私は腹ごしらえを終え、一度マグノリアの部屋で横になっているアイリスの様子を見た。警察が派遣したらしき、看護婦が付き添っている。私はアイリスの脈を見たが、ひどく弱々しく、いつ息を引き取ってもおかしくないくらい、頼りなかった。彼女が再び目を覚ますことがあるとすれば、それこそ奇跡のように思われた。
 あとを看護婦にまかせ、私はホームズとともに一階に下りてみた。チェスナット荘は静まり返っていた。玄関に詰めている巡査に聞いてみると、住人たちは全員外出せず、それぞれの部屋に引きこもっているとのことだった。マグノリアは寝室をアイリスに譲ったので、客間の一つで休んでいるらしい。
 居間に入ると、ホプキンズが巡査たちに指示を出していた。彼は入ってきた私たちに気付くと、さすがにきつそうな雰囲気で口を開いた。
「どうも。今日、予定されていたレン氏の検死審問は延期です。いま、毒物の痕跡が庭などにないか、巡査たちに探させています。」
「毒物の痕跡?」
 私が尋ねると、ホームズがホプキンズの代わりに答えた。
「サロカルチヒペヒドは猛毒だ。裸では持ち運べない液体だから、何か小さな瓶などに入っていたはずだ。犯人がその猛毒入りの小瓶を所持しているのは危険だから、破棄した可能性が高い。それを探しているんだ。ところで、ホプキンズくん。マグノリア嬢と話をしたいのだが、構わないかい?」
 ホプキンズはさすがに寝不足なのだろう。ますます不機嫌そうな顔になった。
「ぼくは構いませんが…かわいそうじゃないですか。すごいショックを受けているんですよ。」
「しかし、愛する伯父を殺し、従姉に毒を盛った犯人をつきとめるのに協力はしてくれるだろう。」
 ホームズは私を促して、居間から出ようとする間際、ホプキンズの方に振り返りながら付け足した。
「ホプキンズくん、少し眠った方がいい。仕事熱心も結構だが、捜査の指揮官が寝不足でイライラしているのは良くないな。」
 ホプキンズは苦りきっていた。私は背後で居間のドアを閉め、玄関ホールに出ると、そっとホームズの袖を引いた。
「ホームズ、彼もショックなんだよ。」
「なにが。」
「アイリスが毒殺されそうになったことさ。ホプキンズくんも彼女に好意を持っていたじゃないか。」
「なるほど。」
 ホームズは目を細め、そっと笑った。そして私の耳元に口を付けてささやいた。
「そういう細やかな気遣いも、きみの美点だな。」
 牢屋から出たというのに、まだこの調子だ。どうやら入牢の後遺症は、シャーロック・ホームズにおいて長引きそうだ。

 小間使いを通して会見を申し込むと、気丈にもマグノリアは会うと返事をした。
 マグノリアは自室を瀕死のアイリスに譲っているため、今は客間の一つに居た。小間使いに案内されて私たちがその部屋に入ると、マグノリアは部屋着姿で、窓際の椅子に腰掛けていた。ひどく顔色が青白く、目が真っ赤になっている。入ってきた私に軽く会釈し、次にホームズの顔を見ると、僅かに驚いたようだった。
「まぁ、ヒープスさん…」
 レン氏が殺される前日、お茶に来た鳥類学者,ショーン・ヒープスが、シャーロック・ホームズと名乗って目の前に現れたのだ。
「ミス・レン。シャーロック・ホームズです。伯父様のこと、お悔やみ申し上げます。先日は変名など使って、失礼しました。ぼくはレンさんから、周囲について調査を依頼されておりながら、今回の事件を防ぐことが出来ず、本当に申し訳ない。」
 ホームズの優しいことばに、マグノリアは少しうつむきながら首を振る。さらに、ホームズが続けた。
「しかも、アイリス・レン嬢のことも。お見舞い申し上げます。さぞかしショックだったことでしょう。」
「アイリスは、助かりますか?」
 マグノリアはか細い声で言った。ホームズは深い同情をあらわしながら答えた。
「ぼくにはなんとも。でも、メインホルム先生や、ぼくの親友ワトスンくんが、最善を尽くしてくれています。あとは、祈るばかりです。」
 マグノリアは目を何度かまたたいて、ホームズの顔をじっと見ていた。
「ええ。そうですわね。さぁ、どうかおかけ下さい。」
 マグノリアは小間使いに言って、ホームズと私の分の椅子を運ばせた。気丈に振る舞う彼女は、どこかアイリスに似てきたような気がする。
 椅子に腰掛けたホームズは、ゆっくりと、優しい声で質問した。
「お手間は取らせません。二つの事件が起きた時のことを、再度思い出してほしいのです。まず、伯父上がなくなった夜。ミス・レンは、夜中に物音を聞いて、アイリス嬢と共に下へ様子を見に行きましたね?」
「ええ、誰かが歩くような気配がしたので。でも、下には誰も居ませんでした。」
「居間や、フランス窓の方には近づきましたか?」
「いいえ。二人で玄関ホールまでしか行きませんでしたから。」
「そして、戻ろうとしたとき、階段の上で何かの影が動いたとおっしゃっていますね。」
「ええ、とっさに、アイリスが私の手を放して、階段を駆け上がってみました。でも、何もなかったのです。」
「本当に?」
 ホームズがその灰色の瞳を、マグノリアの瞳にじっと合わせて念を押した。マグノリアは一瞬息をつめたが、わずかに首を振った。
「私には何も見えませんでした。ただ、アイリスが何もなかったと言ったのです。『庭木が風で揺れた影だろう』…って。」
「階段を駆け上がって見上げた時の、アイリス嬢の表情を思い出せますか?」
 マグノリアは質問の意図がわからないらしい。やや当惑してホームズと私の顔を交互に見た。
「いいえ…いいえ。アイリスの表情はわかりません。暗かったから。」
「なるほど。」
 ホームズはまたいつものように、白い両手を合わせると、唇と鼻先につけて、暫し考え込んだ。マグノリアが助けを求めるように私を見るので、気にするなという風に、合図して見せた。マグノリアも理解したようで、ホームズがまた質問を再開するのを待った。
 「では、ミス・レン。夕べのことをもう一度思い出してください。」
 ホームズが言うと、マグノリアの表情に緊張が走った。
「夕べのホットミルク。お二人は、確かに、ご自分自身のマグカップで飲んだのですね?」
「ええ。」
 マグノリアはやや声を震わせながら頷いた。
「間違いありません。私はマグノリアの花が描かれた私のカップで、アイリスはアイリスの花描かれたカップで、飲みました。」
「このチェスナット荘に住む人なら、絶対に、お二人のカップを取り違えませんか。」
「ええ。みんな知っていますから、誰でも間違えずに、花模様の道具を見分けます。私も絶対に間違えません。薄暗い部屋でも、ランプ一つついていれば、あの大きなお花模様は判別できますもの。」
「ゆうべも、間違えなかった。」
「確かです。私、ちゃんと自分のマグカップを選んで手に取りました。絶対に、マグノリアの花のカップから飲みましたわ。」
「途中で交換もしなかった?」
「しません。必要がありませんもの。」
 マグノリアはホームズの顔をじっと見ながら答えた。


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