Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

 10.完璧な鳥類学者

 ホームズと私がマグノリアの部屋を辞して廊下に出ると、ホームズはそのまま階段を下りて、玄関ホールへ向かった。
「ホームズ、ほかの住人には話を聞かないのかい?」
「いや。確認したかったのは、マグノリア嬢だけだ。少し考えたいし…。」
 ホームズは何か気にかかることでもあるのか、やや無口になっている。私が玄関に詰めていた巡査に確認してみると、ホプキンズは仮眠を取りに行ったらしい。それでも、チェスナット荘内には大勢の警官がうろつきまわっている。
「ワトスン。ここは少し落ち着かないな。静かなところが良いから、二人で一度オールド・オークに戻らないか?」
「きみは構わないが、私はどうかな。アイリスの容態が気になるし…」
 その時、突然階上から大きな声がした。
「ホームズさん、ワトスン先生!」
 見上げると、二階からマイケル・ベッドシャムが駆け下りてきた。彼は顔を上気させ、落ち着かない顔つきをしている。
「ちょっと…良いですか?あの…」
 ベッドシャムは私たちのところまでくると、玄関に詰めている巡査を、気にするようなしぐさをする。ホームズが何かを察知したらしく、巡査に外してくれるように頼んだ。巡査は、ホームズがいるなら大丈夫だろうと、玄関の外に出てくれた。これで、玄関ホールには、私たちだけになった。居間へのドアは閉まっている。
 ベッドシャムは目の下にくまを作っていた。すっかりやつれた様子で、婚約者が瀕死の状態であることに、ショックを受けているようだった。
「すみません。ただ、警察の人に言うと、いきなり逮捕とか、乱暴な話になると困ると思って。」
「どうかしましたか?」
 ホームズがベッドシャムを促した。
「ただ、ちょっと気になることがあるのです。でも、ぼくもチラっと気になるだけで、確証はないし…だから、警察に言う前に、ホームズさんにご相談しようかと思いまして。あの…毒のことなのです。」
「アイリス嬢に盛られた毒ですか?」
 私が言うと、ベッドシャムが頷いた。
「ええ。夕べの騒ぎの時のことです。ぼくは部屋でまだ着替えずにいたのですが、十一時過ぎに、マグノリアの叫び声が聞こえて、飛び出しました。声のするアイリスの部屋に入ると、ベッドの上でアイリスがもだえ苦しんでいます。マグノリアは泣き叫ぶし、アイリスは死にそうだしで、大混乱でした。ぼくはアイリスを助けようと必死でしたが、今思うと、もしかしたら毒の瓶を目撃していたかもしれません。」
 ホームズの瞳が、キラキラと輝き始めた。
「目撃した?」
「ええ、今になって思うと、あの部屋の絨毯の上に、小さな茶色いガラスの小瓶が転がっていたような、記憶があるのです。でも、あの大混乱でしたから、おぼろげな記憶で。そのうち、メインホルム先生とワトスン先生がかけつけて、ぼくらは部屋から出されてしまい…」
「でも、小瓶なんてなかった。私は見ていないし…警察も発見していない。」
 私が当惑しながら言うと、ベッドシャムはさらに声を潜めた。
「あの…これも、記憶の中にぼんやりとしかないのですが…。あの騒ぎの最中、何かを絨毯から拾い上げた人が…」
「ベッドシャム君!」
 突然、ホームズが右手の人差し指をベッドシャムの顔の前に突き出した。驚いたベッドシャムは頭をのけぞらせて黙った。ホームズがそのまま続けた。
「そのお話は、明日の朝いちばんに聞きましょう。ただ、警察には何も言わないで。大丈夫、明日になればきっと解決です。」
 ホームズはポケットから紙切れを取り出すと、何かを殴り書きして、ベッドシャムに押し付けた。そして、私の腕をとって玄関ドアを押し開いた。
「さぁ、ワトスン。ぼくらは引き上げよう。今日はオールド・オークでゆっくり考えることにしようよ。では、ベッドシャム君、ごきげんよう。」
 呆然とするベッドシャムを玄関ホールに残して、ホームズは私を無理やり外へ押し出してしまった。

 「ホームズ!」
 私は玄関の外で抗議した。
「どうしてベッドシャム君の話を最後まで聞かないんだい?彼は重要な目撃証言をしようとしているのだよ?」
「シッ。ワトスン、声が大きい。移動しよう。ほら、メインホルム先生が来てくれた。」
 それは本当だった。いったん家に戻っていたメインホルム医師が、道具や薬をそろえて、戻ってきたのだ。仕方なく、私が一度オールド・オークに戻りたいと、メインホルム医師に申し出ると、快くチェスナット荘にとどまってくれると言った。そういうやりとりをしている間、ホームズはまた紙切れに何かを書き込むと、近くに居た巡査をつかまえ、その紙を渡した。そうして、ホームズに引きずられるまま、私は馬車に乗り込んでしまった。

 馬車は一路、オールド・オークに向かった。私は今度こそ、遠慮なく尋ねた。
「何を考えているんだ?ベッドシャムの目撃証言を聞かずに出てきてしまうなんて。」
「犯人をおびき出す。」
「なんだって?」
 ホームズはニヤリと笑って見せた。
「さっき、ベッドシャム君は、階段を背にしていたし、きみはベッドシャム君の顔ばかり見ていたから気付かなかっただろうけど、ぼくは気付いた。階段の上、二階で人影が動いた。」
「誰の?」
「それは分からない。でも、その存在を察知されないように用心していたようだから、きっとベッドシャム君に余計なことを喋られたくない人物だ。」
「犯人?まさか、ベッドシャム君が目撃した、何かを拾い上げた人物?」
「たぶんね。きっと、毒の小瓶だ。」
「ホームズ!」
 私は思わず、両手でホームズの上着の襟をつかんでしまった。
「冗談じゃない、それじゃぁ、ベッドシャム君が危険じゃないか!きみがあんな事を言った以上、犯人はきっとベッドシャム君を殺すぞ!」
「大丈夫、寝室に引き取るまで、かならず警官と一緒に居るように、メモを渡してきた。」
 ホームズは私に襟をつかまれたままニコニコしている。
「安心できるものか。ちゃんと警察に話さなきゃだめだ。ホプキンズ君にも…」
「あの巡査に、ベッドシャムを一人にしないように、見張れと指示したし、ホプキンズ君にも伝えるように言ってある。」
「それだって、ベッドシャム君が寝室に引き取るまでだろう?その後は…」
「二人で、待ち伏せする。大丈夫だよ、ワトスン。毒蛇の待ち伏せをするよりは簡単な仕事さ。だから、今はまだベッドシャム君も安全だ。かえって、いま大騒ぎをすると、犯人に逃げられてしまう。確実にベッドシャム君を殺しに来るであろう、夜までは、オールド・オークでしっかり休んで、今夜に備えよう。誰が来るか、そこまでは、ぼくにも分かっていないからね。」
「ホームズ!」
 今度は乱暴にホームズを突き放した。
「それはあんまりだ。ベッドシャム君の命を危険にさらして、犯人をつかまえようだなんて!そんな人命をもてあそぶようなまねは、許さないぞ。」
「殺人犯よりはマシさ。」
「どうだか。」
「ごめんよ、ワトスン。許してくれ。」
 ホームズは急に悄然となり、眉を下げた。私は絶句してしまった。
「ベッドシャム君の命を危険にさらして犯人を捕まえようだなんて、きみが賛成するはずがない。分かっているよ、ワトスン。きみは何よりも人命を大事にして、あくまでも慈しみ深く人に接する、正義の人だ。ぼくもきみのそういう所が好きだし、そういう男がぼくの親友でいてくれるのは、この世で最もありがたい幸運だと思っている。
 ぼくだって、こんな危険な手段は取りたくない。でも、今回の事件の犯人は、慎重さと、軽率さを併せ持った、複雑な性格をしている。ベッドシャム君が、『何かを拾い上げる人物』を目撃したと証言した以上、この犯人はきっと軽率さの方を発揮して、ベッドシャム君が一人になった時をみはからい、きっと彼を襲う。 ― いや、ワトスン。ベッドシャム君が犯人だったとしても大丈夫だ。巡査たちにも、彼から目を離すなと言ってあるから。
 とにかく、一刻も早く、しかも『確実に』犯人を捕らえなければ。そう、殺人未遂の現行犯が良い。現時点で、薬瓶を持っている人物を逮捕したって、『拾った』としらを切られればそこまでだ。お願いだから、今夜のチャンスにかけさせてくれ。ぼくはこの事件に関しては、二回ともチャンスを逃しているのだから…」
 私もホームズと一緒にチェスナット荘を離れ、オールド・オークに向かってしまっている。もうこれ以上ホームズに抗議する気も失せてしまった。しぶしぶ、うなずくしかない。
「わかったよ。ベッドシャム君がちゃんと用心していてくれれば良いけど。」
「それは請け合うよ。彼は生真面目だ。ぼくの忠告をかならず守るし、大英帝国の警官もシャーロック・ホームズの忠告は絶対だと考えるだろう。」
 彼を逮捕したマクビー巡査が、シャーロック・ホームズの名前を全く知らなかったことなど、すっかり忘れているらしい。

 私たちの馬車がオールド・オークに到着すると、珍事が起きた。ホームズと私が二人で宿に戻ってくるのを見つけるや、宿の主人が満面の笑みで迎えて、こう言ったのだ。
「お帰りなさい、ヒープスさん。お客さんがお待ちですよ。」
「ぼくに?」
 ホームズはびっくりした顔で聞き返した。未だにホームズのことを鳥類学者のショーン・ヒープスだと思っている人間がいるとは思わなかったのだろう。主人は構わずに喋り続けた。
「ええ、グラスゴーからいらしている、アスピノール先生です。ヒープス先生と同じ、鳥類学者さんですよ。うちにヒープス先生が宿泊しているとお話ししたら、お喜びでしてね。アスピノール先生も、ヒープス先生のご本を読んで、いつかお話ししたいと思っていたそうですよ。こんな幸運はなかなか…」
 ポカンとしているホームズの目の前で、主人が楽しそうに話している最中に、その背後から甲高い声があがった。
「あっ、もしやオックスフォードのショーン・ヒープス先生では?」
 宿の二階から、背が低くて、ひどくやせた中年の男 ― 頭はきれいにはげ上がり、髭を剃り上げ、そして小さなめがねが鼻の上に陣取っている。彼はせかせかとホームズの前までやってくると、むりやり握手をして、自己紹介した。
「はじめまして。グラスゴーのアスピノールと申します。私も鳥類を研究しておりまして、ええ、専門は水鳥です。ヒープス先生の著作は拝読していますよ。いやぁ、感激だなぁ、このバリーズベリーでヒープス先生にお目にかかれるとは…こちらには研究で?」
 私はホームズの背後で、笑いをこらえるのに苦労した。ホームズときたら、どうやら実在の鳥類学者の名を騙っていたらしい。まさか本物のヒープスと勘違いした、鳥類の専門家につかまるとは想像もしなかっただろう。
 あきれたことに、ホームズはいきなり鳥類学者になりきってしまった。
「はじめまして、アスピノール先生。いや、こちらには休暇できていたのです。友人を訪ねてね。いやぁ、こんな所で、私の本を読んで下さった方にお会いできるとは、おもいませんでした。何をお読みですか?『干潟の鳥類新分類』ですか?それともその前の『湿地における食物連鎖と鳥類』でしょうか。」
「両方、読みしましたよ。どうですか、一杯おごりますので、お話を伺えませんか?」
 アスピノールは、ホームズの腕を取って、どんどんバーカウンターの方に連れて行ってしまう。ホームズはどうやら、ショーン・ヒープスを演じきるつもりらしい。私には肩越しに手を振って見せた。二人はもう、鳥類に関する専門的なおしゃべりを始めていた。私は小さくため息をつき、二階の部屋へ引き上げた。

 不規則な睡眠と大騒ぎで、疲れが取れていない。ホームズが本物の鳥類学者と話し込んでいる間、少し休むことにした。上着を脱ぎ、そのままでベッドに横になると、すぐに眠ってしまったらしい。目が覚めたのは、ホームズに起こされたからだった。しかも、彼はドタドタと騒々しく部屋に飛び込んで来るなり、叫んだのだ。
「ワトスン、大変だ!犯人がわかった!」
 私は驚いて跳ね起きたが、ドスンとのしかかって来たホームズが邪魔で、体を起こせない。
「なんだって?何か起こったのか?」
 聞き返す私に、ホームズは顔を近づけてきて首を振った。
「ちがう、ちがう、そうじゃない。分かったんだ。いいか、ぼくは完璧な鳥類学者なんだよ!」
「…意味が分からない。」
「分からない?だって、あのアスピノールっていう鳥類学者、二時間もぼくと話し込んでも、ぼくが偽物のショーン・ヒープスだとは気付かなかったんだよ。ぼくの鳥類に関する知識は完璧だ。完璧な鳥類学者ショーン・ヒープスを演じきったのに!なのに、あいつはぼくの正体を見破っていた!」
「あいつ…って、犯人か?」
「犯人にきまっている!犯人は、最初からぼくが偽鳥類学者だと知っていたんだ!これだけ完璧なぼくの演技を見破るのはあり得ない、前もって知っていたんだ!」
「誰だよ、犯人って?」
「え、分からない?しっかりしろ、ワトスン!思い出すんだ!」
 ホームズは上にのしかかったまま、両手で私の肩を痛いくらい強く掴んだ。
「ジョンソンだ!バリー・ジョンソンだよ!」

 ホームズが言ったとおり、犯人はバリー・ジョンソンだった。

 日が暮れてから、ホームズと私が見つからないようにそっとチェスナット荘へ行くと、上手い具合にホプキンズをつかまえ、犯人の名前を告げることができた。ホプキンズはすぐにでもジョンソンを連行しようとしたが、ホームズが反対した。今、間違いなくジョンソンは毒の瓶を所持しているが、拾ったと言われては話にならない。彼がベッドシャム君を殺しに来たところを、現行犯逮捕しようという、当初のホームズの計画どおりに行くことになった。
 無論、ホームズに犯人が分かっている以上、ベッドシャムをことさら危険にさらす必要もない。巡査たちを経由してベッドシャムにメッセージを伝え、夜を待った。私たちはホプキンズとともに庭に待機する。チェスナット荘内の巡査も、一階の図書室に一人残すにとどめた。
 私たちが庭から観察していると、夜十時過ぎ、居間からチェスナット荘の人々が引き上げ、それぞれの寝室に引き上げようとする様子がわかった。今日もベッドシャムはチェスナット荘に泊まることになっている。彼の部屋の灯りがつくと、あらかじめ巡査が寝室の窓の下に用意していたはしごから、男が一人音を立てないように用心しながら、降りてきた。私たちがそっとそのはしごの下に行ってみると、下りてきたのは、ベッドシャムだ。彼は黙ったままホームズとホプキンズ、私に目で合図をしている。彼はそのまま、巡査とともに庭を横切って、静かにチェスナット荘を離れた。
 かわりに、ホームズとホプキンズ、そして私がこれまた音もなくはしごを登り、ベッドシャムの寝室に入り込んだ。ベッドにはホプキンズが毛布を頭から被って横になった。灯りを消し、ホームズは私の肩を掴んで、そっとドア脇の壁におしやった。

 私たちはそのままいくらか待っただろうか。階下で働いていた使用人たちもみな三階に引き上げ、さらに巡査も一人を残してチェスナット荘から出て行く気配がした。そして、屋敷の中から、音がしなくなった。
 そしていくらか経ったころ ― 果たして、二階の廊下にかすかに人が歩く気配がした。そして、ホームズと私の脇で、ドアがそっと開いた。足音を潜めて入ってきた男は、静かにベッドに近づく。そして、上着のポケットから何かを取り出したようだった。窓のカーテンの隙間から僅かにもれる月明かりが、その手に持ったものをかすかに照らした。― 注射器だ…
「そこまでだよ、ジョンソン君。」
 ホームズがそう声をかけるのと、ホプキンズが跳ね起きてジョンソンの注射器を持った右手を掴むのは同時だった。とっさに、ジョンソンが左手をポケットに入れ、取り出した小瓶を自分の口元に運ぼうとしたのを、私が飛び出して取り押さえた。
 ホームズがガス灯をともした。明るくなった室内で、ホプキンズと私に両手を捕まれたジョンソンは、ホームズの方を振り返った。昼間の格好のまま、上着と靴を脱いでいる。彼は大きくため息をついた。そして長いまつげを伏せ、つぶやいた。
「やられましたね。」
 ホプキンズが注射器を、私が小瓶を取り上げると、手を離されたジョンソンは両手をポケットに突っ込み、ニヤリと笑いながら、ホームズを挑むように見た。
「わかりました。認めます。レンさんを射殺し、アイリス嬢のミルクに毒を入れたのは私です。」
 ホプキンズが、顔を真っ赤にして、尋ねた。
「どうして、ベッドシャム君を殺そうとしたんだ?」
 ジョンソンは、ふんと鼻を鳴らした。この期に及んでも、彼の美男子ぶりには一部の隙もない。
「アイリス嬢の部屋で、落とした毒の瓶を拾い上げるのを、見られたからですよ。」
 ホームズは黙っていた。やがて、ホプキンズに呼ばれた巡査たちが入ってきて、ジョンソンを連行していった。廊下には、意識不明のアイリスを除くチェスナット荘の住人全員が、騒ぎに気付いて顔を出していた。ジョンソンの母親、イライザは睡眠薬が効いているのか、声も出さず、ただ呆然として、息子が連行されるのを見送っていた。


 → 11. 真相
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