Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

8. 再び真夜中の事件

  私はホプキンズが取っておいてくれた宿屋・オールド・オークに入った。主人は、
「ああ、ヒープス先生のお連れさんですね。」
と、にこにこしている。どうやら、ホプキンズはホームズのことを鳥類学者ショーン・ヒープスということにしたまま、ドクター・ワトスンと相部屋を取ってくれたらしい。こっけいなことに、主人はこうも付け足した。
「ちょうど良かった。明日はグラスゴーからなじみのお客さんがいらっしゃるんですけどね。たしかこちらの先生も鳥が専門ですよ。ヒープス先生とお話が合うんじゃないですか。ご紹介しますよ。ところで、ヒープス先生はどうしました?昨日からお姿を見ませんが。」
「ちょっと、所用で出ているんです。明日、もどってきますよ。」
 私は適当にごまかしておいた。ホームズは素人相手に見事に鳥類学者を演じて見せたが、果たして本物の鳥類学者と対峙したらどうなるのだろうか。
 私はすっかり疲れ果ててしまい、食事を軽く済ませると、さっさとベッドに入って休むことにした。

 少し眠った頃に、揺り起こされた。驚いて起きると、寝巻き姿でランプを手にした宿屋の主人が、ベッド脇に立っていた。
「ワトスン先生、警察の方が、至急チェスナット荘へいらしてくださいと、馬車をよこしているんです。何でも、病人が出たとかで…」
 主人が言い終わらないうちに、私は飛び起きた。時計を見ると、まだ十二時にもなっていない。慌しく身支度を済ませると、かばんを引っつかんで飛び出した。宿の前には、巡査の乗っている馬車が待っている。私が乗り込むや、馬車は全速力で走り始めた。改めて見ると、巡査はホームズや私とはなじみの、ジェンキンスだった。
「一体、何があったんだ?医者が必要なら、メインホルム先生が居るだろう?」
 騒音に負けないように大声でたずねると、ジェンキンスは緊張した面持ちで、しかも大声で言い返した。
「飲み物に毒をしこまれたんです。」
「誰の飲み物に?」
「アイリス嬢です!」
 私は頭を強打したような衝撃を感じた。吐き気がする。こういうときには決まって、戦場で受けた傷がうずく。卑劣な犯人は、レン氏を殺害し、さらにその相続人であるアイリスを殺そうと言うのか ―

 私の馬車と、メインホルム医師の馬車がチェスナット荘に到着したのはほぼ同時だった。二台の馬車がぶつかりそうになりながら玄関前に到着すると、扉は開け放たれ、チャントが私たちを待っていた。私もメインホルム医師も無言で、チャントに導かれるまま、玄関ホールから階段を駆け上がった。人々が一つの寝室の前に集まり、口々にわめいている。私たちが寝室に入ると、小間使いとベッドシャムに抱きかかえられたアイリスが、寝巻き姿で痙攣を起こしていた。顔色はおよそ人間のそれとも思えないほど青黒く、声も出せないほどもがき苦しんでいる。
 その後のことは、私の記憶がはっきりしないほど、混乱していた。とにかく、ウェストマンに言って泣き叫んでいるマグノリアを部屋から連れ出し、ワナワナと震えているベッドシャムも他の男連中とまとめて一緒に廊下に出した。あとはメインホルム医師と私が、小間使いと女中頭を助手にして、アイリスが飲み込んだものを吐き出すよう、必死に処置した。
 私たちは出来る限りのことをしたと思う。もうこれ以上吐き出すものがない段階になっても、アイリスの痙攣はしばらくおさまらず、意識は戻らなかった。やがて夜中の一時半にもなるころには、やっと痙攣がおさまった。ホプキンズが巡査たちをつれて駆けつけ、廊下で何か人と話しているのが視界のすみに入った。
 私たちは相談し、アイリスの体を隣のマグノリアの部屋へ移し、彼女のベッドに横たえた。印象としては、まさに虫の息だった。もちろん、アイリスの部屋への通用口は閉めておいた。
 医者ができることはほぼ終わってしまうと、小間使いと女中をアイリスのそばに残し、何か変化があったら知らせるように指示し、私たちはあらためてアイリスの部屋に入った。

 部屋には、ホプキンズと、巡査が一人だけだった。ガス灯もつけられ、部屋はずいぶん明るい。しかし、ホプキンズの声は陰鬱だった。
「就寝前のホットミルクだそうです。」
 ホプキンズが指差した方向を見ると、アイリスのベッド脇のカーペットに、液体をこぼした跡がある。メインホルムがそれを見やりながら尋ねた。
「毒は…なんでしょうね。」
「調べさせますよ。いまマグカップに残っていたミルクから、サンプルを取らせています。試薬で分かれば良いのですが。」
 ホプキンズは、私たちを促して図書室に向かった。さすがに疲れた顔をして目が血走っているが、足取りには力がこもっている。ホプキンズは、図書室前に巡査を立たせ、私たち医師二人だけを相手に、状況を説明した。私たちが処置している間に、下の階で簡単に関係者から状況を聴取していたのだ。
 「今夜は、いつものとおり家族で食事を取ったそうです。当主が殺害されたばかりですから、だれも食後の楽しみを言い出す事もなく。アイリスとマグノリアは十一時前には寝室にひきとりました。就寝前のホットミルクは、いつもの習慣だそうです。女中が、アイリスと、マグノリア、それぞれのマグカップに入れ、その盆を二人の部屋の前の廊下の、サイドテーブルに置く。これもいつものことでした。娘たちは自分でそれを取って部屋で飲むというのです。
 今夜の場合、マグノリアがサイドテーブルから盆を取り、アイリスと一緒に飲むために、通用口からアイリスの部屋に入ったそうです。二人でアイリスのベッドに座り込み、いつものようにおしゃべりをしながら、ホットミルクを飲み始めたのですが、アイリスが飲み始めてしばらくするうちに、苦しみ始めたそうです。
 マグノリアは仰天して、すぐに家人や使用人を呼び出し、チャントがメインホルム先生をお呼びしたんです。一人つめていた巡査が、ぼくとワトスン先生に知らせてくれました。」
「毒がいれられたのは、いつだろう。」
 私が言うと、ホプキンズは首を振った。
「下の台所で、娘たちのホットミルクが作られるのは、この屋敷の人間なら誰でも知っています。だから使用人のだれでも、隙を見て毒を入れられます。廊下のサイドテーブルに女中がミルクの盆を置いて下がったあと、マグノリアがそれを取るまでの間も、その廊下を歩く家族なら、誰でも毒を入れることができます。それから…もちろん、マグノリアも。」
 私はメインホルム医師と顔を見合わせた。いくらなんでも、アイリスに頼り切っているマグノリアが、毒を仕込んだとは考えにくい。ホプキンズの表情を見ても、同感のようだった。
「そもそも、その毒は誰を標的にしていたのだろうか。」
私が言うと、ホプキンズが目をあげた。
「…と、おっしゃいますと?」
「マグノリアもミルクは飲んだのだろう?」
「ええ、アイリスが苦しみ始めるまでは飲んでいました。」
「でも、彼女はなんともない。どちらのマグカップを、アイリスとマグノリア、どちらが使うか分からない以上、毒は誰を狙って入れられたかが分からない。」
 私の隣りで、メインホルムが僅かに首を振った。ホプキンズも小さく首を振っている。
「いや、そこははっきりしています。犯人はアイリスを狙ったんです。」
「どうして分かるんだい?」
「マグカップの絵ですよ。彼女たちが毎晩使うホットミルク用のマグカップは、レン氏が姪たちのためにあつらえた特注品で、それぞれに花の絵が描いてある。アイリスのカップにはアイリスの花が。マグノリアのカップには、マグノリアの花が。彼女たちは自分専用のカップを持っているわけで、この屋敷に住む人間なら、誰でも知っています。内部の人間が毒を入れたのなら、確実にアイリスを狙って、入れたとしか考えられません。」
 メインホルムもうなずきながら同意した。
「そうだね。レン氏はよく姪たちの花を模様の物を特注していましたよ。アイリスはピンク色、マグノリアはうすいベージュ。あのマグカップなら、私も見たことがあるが、間違えようが無い。」
 ちょうど、残ったミルクからサンプルを採取した後のマグカップを、巡査が図書室に届けにきた。ホプキンズがそれを取り上げて見せると、確かにピンク色のアイリスの花が大きく、鮮やかに描かれている。一方、もうひとつのカップはアイリスの寝室のサイドテーブルに置いてあった。倒れてはいなかったが、ぞんざいに置いた雰囲気はあった。そしてそのカップには、メインホルム医師の言うとおり、たしかに薄いベージュ色のマグノリアの花が描かれていた。
私はもう何も言う気がなくなった。
 
 マグノリアの興奮状態はひどいものだったので、メインホルム医師が鎮静剤を処方して、落ち着かせ、三時ごろには小間使いに付き添われて眠ったらしい。二人の未亡人たちは、最初から睡眠薬を飲んでいたので、騒ぎの最中は呆然としていたが、騒ぎがおさまるとまたそれぞれの寝室に戻った。
 ベッドシャム、ウェストマン、ジョンソンの男三人は、しばらく居間で待っていたが、事態が変わらないので、やがて寝室に引き上げた。
 私とメインホルム医師が相談し、まずは私がアイリスに付き添って様子を見ることにした。アイリスは、
呼吸をしているのがやっという様子で、昏睡していた。顔色はもはや若い女性のものともいえないほどどす黒くなっている。盛られた毒が何であるかにもよるが、私にはアイリスが助かるかどうか、自信がなかった。
やがて朝になり、仮眠を済ませたメインホルム医師と交代し、私はやっと眠ることができた。


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