Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

6.再びお茶  ドクター・ワトスンの観察 その1

 「分かったというよりは、いくらかおかしな点に気付いた…という程度さ。」
「本当ですか?教えてください。」
 身を乗り出したホプキンズに、ホームズは白い手をヒラヒラと振って見せた。
「いや、まだ無理だよ。きみに偏見を植え付けるわけには行かないしね。それにぼくはまだ、本調子じゃないんだ。牢獄はやっぱり禁煙かねぇ…」
 ホームズは眉を寄せて、廊下の向こうに視線をやった。ドアの向こうに控えているであろう、マクビー巡査が、牢獄の容疑者に火気使用を許可するとは、とても思えない。ホームズにもそれはわかっているようで、すぐに諦めたように首を振った。
「ニコチン補給が望めない今は、ぼくの思考能力も半減だ。それでホプキンズくん、ジョンソンのへの事情聴取の続きは?」
「それが、そのあと直ぐに終ってしまったんですよ。事件の日の夜は、十一時過ぎには寝室に引き取り、さっさと眠り、朝になって騒ぎでたたき起こされるまで、一度も目をさまさなかったと言っています。」
「物音も聞かなかったというのかい?」
「ええ、まったく。ジョンソンの寝室は、庭の栃の木からも、フランス窓からも一番遠い位置なんです。風の音も気にならず、何かがぶつかるような音もしなかったと言うので、全く手がかりになりません。」
「もしくは、それらの全てが嘘か…。」 
 ホームズがそう小さくつぶやくと、ホプキンズが首を傾げた。
「つまり、ジョンソンが怪しいとお考えですか?」
「きみは、反対なのかい?」
 ホームズが微笑みながら訊き返すと、ホプキンズは少年のように鼻の頭をこすりながら応じた。
「まぁ、確かにあの家の中で小説に出てくるような犯罪者タイプに分類できるのは、ジョンソンだけですが…でも、動機がないんですよ。」
「金銭的な?」
 私が口を挟むと、彼は細かく頷いた。
「ええ。さっきも言いましたが、ジョンソンは事業のために殺害されたレン氏から資金を得ていたんです。しかも、遺産を受け取ることもない。レン氏を殺しても、何の利益も得ません。」
「では、ホプキンズ君は、金銭的な利益を得るものが犯人だと思っているのだね?すると、一番怪しいのはアイリスだよ。」
 ホームズはこのアイリス犯人説がお気に入りのようだ。彼は自信のありそうな姿勢で続けた。
「ただでさえ、アイリスは女子相続人としてレン家の財産を最も多く受け取る人物だ。しかも、殺人が、新しい遺言書が発効する直前に行われたことも忘れちゃいけない。新しい遺言書にレン氏がサインをしたら、アイリスが受け取る遺産は古い遺言書のそれの、半分になる。彼女が自分の取り分を守るために、伯父を殺したと考えるのが自然だろう。」
「でも、その減った分は、マイケル・ベッドシャムが相続するんですよ。アイリスとは結婚するのですから…」
「アイリスがベッドシャムとの結婚を望んでいないとしたら?」
 そう言ったのは私だった。ホプキンズはギクリとしたように、私をみやる。一方、ホームズは嬉しそうに私に微笑みかけた。彼も同じことを考えていたらしい。
「いや、でも。ワトスン先生…嫌だな、アイリス嬢はとてもしっかりした女子相続人ですよ。伯父のことも、チェスナット荘のことも深く愛している、女主人としてふさわしい女性だ。それに、レン氏は遺言書の書き換えを、事前にアイリスとベッドシャムの二人には伝えてあるんです。アイリス嬢ほどしっかりした人なら、ベッドシャムと結婚したくないならしたくないと、きちんと伯父と話し合ったはずです。それに…とにかく、アイリス嬢は金に目がくらんで、立派な伯父上を軽率に殺害するようなタイプじゃありませんよ。」
「確かに、そんなに頭の悪い女性ではないな。」
 ホームズはそう言って、ホプキンズに同感であることを認めた。
「さっきも言ったが、ぼくもチェスナット荘の住人の中で、アイリスがもっとも冷静沈着で頭の良い人だと思う。だから、動機の面で最も疑われ易いアイリスが、やおら夜中に伯父を自宅のフランス窓の外で撃ち殺したとは、想像しにくい。そう、その点はホプキンズ君に同感だ。
 しかし、やはり動機は大事だ。今回の事件の場合、今のところ外部からの侵入者は認められない。そして家の中に居たであろう容疑者たちは、誰でも犯人かもしれないし、そうではないかもしれない。犯行そのものは、誰にでも可能なんだ。
 漠然とした、夜中の物音。屋根にぶつかる栃の実の音と、小さなデリンジャーの発射音。アイリスとマグノリアを一階に行かせた物音は本当にしたのか、その時本当に誰も居なかったのか?居間にも?階段にも?物音を聞かなかったと証言した人々の言葉は真実なのか?
 こうした、『とても簡単な殺人』を推理するのは、難しい ― しかもぼくは事件後の現場を見る事も、容疑者達に話を聞くことも出来ずに、こうして牢屋に押し込まれているのだからね。そうなると、どうしても動機の面から攻略するしかない。
 アイリスのほかにレン氏の死で利益を得る者は?ジョンソンと、その母親のイライザには、何の利益も無い。義理の妹・ダイアナには多少はあるが、莫大とは言えず殺人のリスクには見合わない。友人の一人として、多少の金額を得るオスカー・ウェストマンもしかり。マイケル・ベッドシャムに至っては、新しい遺言書が発効する前にレン氏を殺すことは、逆に不利益だ。― 残るのは、マグノリア。」
 ホームズは格子越しに、ホプキンズと私の顔を順に見回した。ホプキンズは緊張した面持ちで黙っている。ホームズは続けた。
「マグノリアは、アイリスほどではないにしろ、伯父の死によってかなりの財産を相続する事になる。」
 ホプキンズは声を潜めながら否定した。
「そんな、有り得ませんよ。あんな…可愛いらしいお嬢さんが、育ててくれた伯父を殺すなんて。ホームズさんだって、マグノリア嬢に会っているのだから、お分かりでしょう?」
「確かに、マグノリア一人では、伯父を撃ち殺すような事は想像もできないだろうね。でも、同じく伯父の死で利益を得るアイリスと共謀したら…?」
「そんな…!」
 ホプキンズの声には、怒りが含まれ始めた。しかし、ホームズはひるまずに続けた。
「ホプキンズ君、ぼくはあらゆる可能性を探っているのだよ。それに、あの年頃の女達のことを、ぼくら男達がどれほど理解している?思い込みが激しく、夢見勝ちで、しかも四六時中べったりとくっついて、信頼し合っている、同性,同世代の従姉妹と一緒に過ごしている。その半身は子供のような突拍子のなさを秘めている。そんな彼女達が何事かを思いつき、その思考が暴走し始めたとしたら、我々のような大人の、しかも男どもには理解不能の事が起こるかもしれない。」
 ホプキンズは顔を真っ赤にしたが、言うべき言葉を失っていた。すると、ホームズは悪戯っぽく笑い、急にくだけた声になって、床につけた方の足をトントンと鳴らした。
「ちょっと脅かしすぎたようだね。こんな狭くて暗い牢屋に押し込められているんだ、想像力もはたらくってものさ。さぁ、二人とも。そろそろ動き出さなきゃ。ほかに、この場で報告する事があるかい?」
 ホプキンズは我に返ったようにメモ帳を繰り、いつもの調子に戻って言った。
「ええと、以上です。検視審問は明日の午後、教会の隣りにある寄り合い所が使われます。ホームズさんも、それまでにはここから出られるでしょう。ぼくは、チェスナット荘に戻って、付近の捜索結果をもう一度聞きます。外部からの侵入者の可能性だって、まだ完全に消えたわけじゃありませんので。
 ワトスン先生もいらっしゃいますか?チェスナット荘の人々は、ほとんど家に居ますし、外出しても町からは出ないように言ってありますので、お会いになれますよ。」
「そうだな…」
 私が手帳をしまいながらつぶやくと、ホームズが元気な声で言った。
「ぜひとも行ってくれ、ワトスン。」
「私が捜査の役に立つだろうか。」
「もちろんだよ。きみはただ、チェスナット荘の人々にチラっと会って、少し話しをするだけで良い。その印象をぼくに報告してくれ。」
ホームズのこの指示は意外だった。
「チラっとで良いのかい?」
「うん。少し会うだけで十分だ。色々と話を聞くこともできるだろうが、相手の警戒心を呼び起こしたくはない。それよりも、ワトスンが直感的に得たな印象のほうが、ぼくにとっては有り難いよ。きみほど、人の心というものが分っている人もいないからね。その鋭く、豊かな感受性をいかしてくれれば、どんな捜査官の尋問よりもよほど有益な情報を得られるに違いない。ぼくはもう暫く、ここで苦痛に耐える事にするよ。それで、ホプキンズ君。チェスナット荘の人々に、ワトスンを何と言って紹介するつもりかね?もう鳥類学者ショーン・ヒープスは使えないよ。」
 ホプキンズは、少し前の失礼な物言いにややムっとしていたようだが、そういうホームズにもなれているので、ニコリともせず、肩をすくめた。
「べつに、どうという事は、言いませんよ。単に、『ドクター・ワトスン』と紹介します。では、行きましょう。ああ、ぼく椅子を片付けないと。先に行っていますね、ワトスン先生。」
 ホプキンズはそう言うと椅子を抱えて、足早に出口に向かった。私は立ち去る前に、もう一度ホームズの方へ振り返った。ホームズは、椅子から立ち上がっていた。薄暗い牢の中で、シャツに白っぽい光がまつわり付くように見える。
 「ホームズ、明日までの辛抱だ。ゆっくり休むと良いよ。」
「依頼人が殺されたんだ、神経を休めてなどいられないね。」
 ホームズはそう言いながら鼻の頭に皺を寄せた。しかし、すぐに穏やかに微笑んだ。
 「もう一度、礼を言わせてくれ、ワトスン。本当に来てくれてありがとう。きみさえ来てくれれば、ぼくの心は平安そのものだよ。」
 ホームズは格子の間から、またほっそりとして手を差し出した。私はそれを握り、静かに答えた。
「おやすいご用だよ、ホームズ。」

 独房の凶悪犯を、絶対に脱走させないという覚悟が顔に張り付いたマクビー巡査に見送られ、外に出ると警察の馬車がホプキンズを待っていた。ホプキンズはマクビーに、囚人は誤認逮捕なのだから丁重に扱い、喫煙を許可するように要請した。しかしマクビーにとっては、ホームズの罪状は公務執行妨害と警官侮辱罪である。スコットランド・ヤードの若い捜査官の要請は、にべもなく断られた。
 私はホプキンズとともに警察の馬車に乗り込み、一路チェスナット荘へ向かう。
 バリーズベリーは、どこにでもあるような村だった。小さなパブと、ホームズや私の部屋が取ってある小さな宿屋「オールド・オーク」…教会の側には小さな学校があり、そこを過ぎると田舎路が続いた。牧羊と様々な野菜の農場が半々くらいで存在し、どの施設も小綺麗で手入れが行き届いている。物成りの良い土地柄なのだろう。しかも、丈夫そうな水路がきちんと整備され、歴代のチェスナット荘の当主がこの地を愛し、気を配ってきた事をうかがわせた。
 そこで働く農夫達が散見されたが、彼らは一様に私たちの馬車をじっと見やり、心配そうな表情をしていた。自分達の大事な領主が殺されたのだ。残された姪たちのことも思いやっている事が、その視線からもよく分かる。
 程なく、馬車は大きなお屋敷に到着した。往々にして、経済的理由か、当主の情熱欠如のせいか、手入れが行き届かず、みすぼらしさを露呈するマナーハウスがあるが、チェスナット荘はその対極にある。悪趣味な増築には見向きもせず、重厚な外観のバランスに配慮した美しい屋敷だ。
その上、庭師にも金を惜しまないのだろう。私がこれまでに見た中でも最高位の行き届いた庭が印象的だ。さらに、窓やバルコニーなど、木造構造物はどれも新しく見え、綺麗に掃除されている。レン家が見掛け倒しではない裕福な家であることが実感できた。

 馬車が車寄せに到着し、私が降りると、ホプキンズは最初に庭に回ろうと言った。
 「先に、遺体発見現場と例の栃の木をご覧に入れます。」
 ホプキンズは私を先導しつつ、警備に張り付いている巡査達に声をかけて、家の周囲で発見されたものは無いかを確かめ、慎重に歩を進めた。
 屋敷をぐるりと回り、南に面した庭に出ると、広大な芝生に向かって大きなフランス窓があったが、閉まっていた。日はまだ高いが、空気はすこしひんやりしているので、開けておくには寒いのだろう。フランス窓のあるポーチに、巡査が立っていたので、ホプキンズが声をかけた。
「ジェンキンス、何かわかったか?」
 ホプキンズがロンドンから連れて来たらしきジェンキンス巡査は、ホームズや私とも顔見知りだ。彼は私に軽く会釈し、首を振った。
「いえ、警部。何も出ませんでした。」
「庭の周辺も全て点検したのだろう?」
「ええ。しかし、侵入者および逃走者の痕跡は何一つ見つかりませんでした。」
「そうか。」
 ホプキンズは視線を巡査から私に移して、頷いて見せた。やはり、外部からの侵入者という線は、排除して良さそうだ。
 「さて、先生。これがチェスナット荘の本当の主です。」と言いながら、ホプキンズはフランス窓から数フィート離れた、栃の木を指差した。
 私がこれまで見た中でも、最も立派な栃の木だろう。その高さは屋敷の屋根をゆうに越えている。この木の特徴である大きな葉を盛大に茂らせ、広い日陰を作っていた。そして今、私たちが立っている周りにも散見されるが、たくさんの栃の実が転がっている。
 ホプキンズは太い木の幹に手を置くと、体重をかけて揺らした。大きな木なのでほとんどびくともしないが、振動が木の末端に届くと、小さな枝が揺れる。その拍子に実が一つ落ちてきて、フランス窓の上の庇に辺り、カツンとかなり大きな音を立て、残響が庭に響いた。そして地面に落ちた栃の実は、少し転がり、私の足に当たって止まった。
「なるほど。」
 私はそうつぶやきながら、地面から栃の実を拾って眺めた。
「確かに、かなり大きな音だな。二階の室内で寝ている人によっては、これの音で目を覚ますかもしれない。」
 フランス窓の上を見上げると、庭に向かって寝室らしき、こぎれいな窓がずらりと並んでいる。ホプキンズも同じように顔を上げて二階の窓を見上げて言った。
「同時に、この屋敷の人間にとっては、聞きなれた音なので、目を覚ますまでに及ばない人も居るようです。」
「夕べ、寝室に入ってから何の物音も聞かなかったと、証言しているひとたちだね。」
「ええ、被害者の家族もそうだし、使用人たちにも、音を聞いた者と、覚えのない者が居ます。結局、当人の眠りの深さにもよるんですよ。」
「しかも、事件当夜は、強風が吹いていた…」
「ええ、ですから落下して屋根に当たる栃の実も多数あって、それらの音の中に、銃声が紛れたようなのです。」
 私は思わず、大きくため息をついた。なるほど、夜中の殺人 ― 目撃者なし、銃声は曖昧、外部の侵入者なし、家族は全員就寝中でアリバイなし ― ホームズが強調するとおり、誰にでも可能な殺人であり、動機から攻めるのが適当に思える。この美しい屋敷に居住する、被害者の家族たちであり、同時に容疑者たち ― 私は気が重くなった。

 しかし、そんな気分を慮るはずもなく、ホプキンズは私を屋敷内へと促した。フランス窓から入れない事もないが、玄関へ回る。ホプキンズの後について歩き出そうとしたとき、私はとっさにフランス窓の内側に目が釘付けになった。
 明るい屋外に対して、室内は無論やや暗いのだが、それでもレースのカーテンの隙間から、若い女性が思いつめたような表情で椅子から立ち上がり、私には背を向けて座っている誰か ― 後頭部を見る限り、男性に向かって何かを言っている。
 声は聞こえないので、大きな声ではないようだが、その表情が強張り、ひどく動揺しているように見えた。その若い女性 ― せいぜい二十歳ぐらいにしか見えない、黒いドレスの女性だ。きっと、レン氏の姪アイリスか、マグノリアだろう。その毅然とした表情から、私はアイリスの方ではないかと想像した。
 そのとき、彼女は窓の外に立っている私に気付いたらしく、すばやく椅子に座ってしまい、その姿はレースの陰に隠れた。私は窓から離れ、ホプキンズを追った。

 ホプキンズと共に玄関からホールに入ると、シンと静まりかえっていた。台所や居間に通じているであろうドアは全て閉まっており、物音一つしない。ホプキンズが奥に声をかけようとしたその時、執事が飛んできた。これが、レン家の執事、チャントだ。五十代ぐらいの痩せた男で、いかつい鼻を持っているが、柔和な目つきが彼の印象を優しげにしていた。いかにもという執事の雰囲気を持っているが、さすがに主人の死に衝撃を受け、さらに多忙とあって、ひどく疲労しているように見えた。
 「今日は、チャントさん。」
 ホプキンズはきちんと「さん」をつけて呼び、穏やかに微笑みながら帽子を手渡した。どうやら、この執事のことが好きらしい。事件の捜査によく協力してくれるのだろう。この手のマナーハウスで事件が起こると、ズカズカと上がりこんで来る刑事が、執事に邪険に扱われると言う話をよく聞くが、チャントとホプキンズに関して、その心配は無用に思えた。
 「いらっしゃいませ、刑事さん。何かお分かりになりましたか?」
この台詞の後半、チャントは慎み深く声を潜めた。ホプキンズは済まなそうに微笑み、僅かに首を振った。
「それがまだ、なんとも。ああ、ワトスン先生、執事のチャントです。チャントさん、こちらはドクター・ワトスン。スコットランド・ヤードの協力者です。」
「そうですか、どうかよろしくお願いいたします。ドクターですか…そう言えば、ドクター・メインホルムがあとで、いらっしゃるそうです。女性がたの体調を気になされて。」
 チャントはホプキンズと私の帽子などを受け取りながら、ちらりと視線で二階を示した。階段を見上げると、二階の廊下にある窓からの光がさして、玄関ホールを照らしていた。ホプキンズがアイリスとマグノリアに聞いた話によると、殺人のあった夜、二人はこの階段をそっと降りて、この玄関ホールまで様子を見に来た。しかし、特に何も見なかったと証言している。
 そのとき、その居間のドアが素早く開いて、さきほどフランス窓から姿を垣間見た女性が、足早に出てきた。
「チャント、お客様なの?」
 そのキビキビとした物言いに、私は一瞬で好感を持った。中世、出陣で不在の夫に代わって領地を守る貴婦人 ― もしくは、先祖伝来の土地を愛し、誇りを持つ高貴な女子相続人がそうであったろうと想像させる、毅然とした、しかもその立ち居振舞いが美しい女性だ。彼女の場合、年齢が若く、まだ少女の名残があるだけに、可憐さが僅かな痛みのように宿っている。
「アイリス様、刑事さんと、協力者のドクター・ワトスンです。」
 チャントが予想通りの名前で彼女を呼び、私たちを紹介すると、彼女はやや目を見開いた。アイリスは、レン氏が『命を狙われている』とシャーロック・ホームズに相談した事を、知っていた数少ない人物の一人だ。私の名前を聞いて、ピンと来たのだろう。しかし、彼女はチャントの前であるためか、それ以上の反応は示さなかった。
 「そうですか、よくいらしてくださいました。何かお手伝いすることはございますか?当家は何分にも、当主が不在なものですから、万事行き届かず…」
 アイリスが低い声でそう言うのを、ホプキンズが微笑みながら遮った。
「ワトスン先生は、再度こちらの皆さんのお話を聞くためにいらしたんです。」
「…聴取ですか?」
 アイリスは窺うように聞き返した。ホプキンズは僅かに首を振る。
「いえ、もちろん警官ではないので、正式な事情聴取ではありません。ただ、民間協力者として、ワトスン先生の意見も、我々は参考にしておりまして…もし、チェスナット荘のみなさんさえ構わなければ、少し先生と話していただきたいのです。」
「そうですか。」
 アイリスは安心したように、少し表情を和らげると、私に向き直った。
「家の者には、私から説明しましょう。とりあえず…私は上の様子を見てきますので、まずベッドシャムさんとお話してくださいますか?事件の夜はここに泊っていましたし、家族同然ですから。」
「あなたの婚約者ですね?」
 私が言うと、アイリスは僅かに頬を染めて目を伏せた。毅然とした中に、可憐な色がのぞく。
「ええ、どうぞ居間へいらしてください。」
 アイリスは私を先導して、居間に向かおうとした。ホプキンズは後に残った。
「ぼくは図書室で、部下の報告を聞かなきゃなりませんので、どうぞ先生おひとりでいらしてください。」
 私は頷き、アイリスに導かれて居間へと進んだ。チャントは、お茶をお持ちしますと言って、台所の方へと立ち去った。

 広く、明るく、気持ちの良い居間に入ると、まず目に入ったのが、庭に面した大きなフランス窓だった。そのレースのカーテン越しに、庭で張っている巡査の黒い影が見え隠れしている。あの窓のすぐ外に、被害者レン氏の死体があったのだ…
 「マイケル、こちらドクター・ワトスン。スコットランド・ヤードの協力者で、私たちの話をお聞きになりたいそうよ。」
 アイリスがそう声を掛けると、窓際のソファに腰掛けて、ぼんやりと空中を見つめていた若い男が、すっくと立ち上がった。ホプキンズが言ったように、見事な金髪の持ち主だ。驚いたような大きな青い瞳が、私とアイリスを交互に見て、何か物を言いた気だった。私が彼に歩み寄って右手を出すと、慌てて握手に応じた。
 「はじめまして、ベッドシャムです。ドクター・ワトスンというと、もしやシャーロック・ホームズ氏の…」
「ええ、そうです。ホームズのパートナー,ドクター・ワトスンです。お二人は、亡くなったレン氏がホームズに相談するために、ベーカー街にいらしたことを、ご存知でしたね。」
私が言うと、ベッドシャムは少し嬉しそうに口を開きかけた。そのとき、まだドアの所に立っていたアイリスが、低く、しかし素早く言った。
「私、上の様子を見てきます。みなさんに、先生と話すように伝えてきますので、どうぞここでお待ちください。」
 アイリスは出て行った。その様子を見送り、ベッドシャムは独り言のような口調でつぶやいた。
 「アイリスは、私に気を遣っているのですよ。ああ、お掛けください。」
 ベッドシャムがすすめたソファに腰掛けながら、私は彼に訊き返した。
「気を遣うとは、どういう意味ですか?」
「アイリスは、自分が同席していると、ぼくが窮屈だと感じると思っているのでしょう。ああ、すみません。事件の話でしたね。ぼくがお役に立つのなら、何でもお話しします。」
 ベッドシャムがソファに腰掛けると、なんだか急に体が小さくなったように思えた。私がポケットから手帖を取り出す間、彼はまだ低い声で続けた。
「事件当夜のことでしたら、残念ながらあまりお話できないんです。刑事さんにも申し上げたのですが、私は朝起こされるまで、まったく何も…」
「夢の中で栃の実が落ちるような音を聞いたかもしれない…ホプキンズ君に、そう話されましたね。」
「ええ。」
「それ以外は何も?」
「何も。」
「それでは、当夜以外のことをお尋ねしましょう。少し個人的なことですので、お答えになりたくなければ…」
「いえ、とんでもない。事件解決のためなら、何でもお話ししますよ。」
 ベッドシャムの表情は相変わらず不安そうだが、誠実であろうとする様子は、手に取るように分かる。私は手帖を一通り繰って見てから、質問を始めた。
「ホームズや、ホプキンズ君の話をきいてみると、あなたは残念ながら ― ええ、残念ながら。レン氏の死で多少は利益を受ける立場になりますね。その点について、何かご感想があれば…」
 我ながら、まずい質問のしかただと思った。育ての親のような存在を失ったベッドシャムへの配慮も足りていない。私は言い直そうとしたが、ベッドシャムは頓着しないようだった。
「たしかにぼくは、レンさんの遺言書によって、いくらかの遺産を贈与されることになっています。でも、それは本当に大した金額ではありません。先生、ぼくが気になっているのはその…新しい遺言書のことなんです…」
 ベッドシャムは「新しい遺言書」という言葉を発しても良いものかどうか、少し思案していたようだが、結論を得る前に口に出していた。彼は少し困ったように、言葉を探している。私は助け舟を出した。
 「ええ、新しい遺言書については、すでに警察も、シャーロック・ホームズ君も把握しています。しかし、レンさんの署名がないので、この新しい遺言書は無効ですね。…失礼ですが…失望していますか?」
「とんでもない。」
 ベッドシャムは怒る風でもなく、僅かに首を振った。
「確かに、新しい遺言書が有効だった場合、ぼくが受け取る遺産の額は格段に多くなります。ありがたいお話ですし、生前のレンさんもぼくにきちんとその話をしてくれました。でも正直言ってぼくは、遺産やこのバリーズベリーの所領にはあまり興味が無いのです。誤解しないで下さいよ、アイリスのことは愛しています。でも…」
 私にはベッドシャムの微妙な心境が分かるような気がした。彼は骨の髄まで学者なのだ。レン氏からは学資をもらっただけでも十分で、チェスナット荘の当主になりたいとは、毛ほども思っていない。その点で、婚約者であるアイリスとの関係は、微妙な物と言わざるを得ないようだ。
 ベッドシャムは口をモソモソと動かしながら続けた。
「ぼくは最初の遺言にあったとおりの贈与額だけでも、まったく満足なのです。ぼくは大学で教えていますから普通に収入もありますし、僅かですが死んだ両親の遺産もあります。アイリスにしても、ぼくと結婚しなくてもレンさんの相続人たり得るわけで…」
「つまり、新しい遺言書に署名しないままレン氏が亡くなったことは、アイリス嬢にもっとも利益をもたらしたことになります。」
「その件に関して、ぼくは大失敗しました。」
 ベッドシャムは身を乗り出した。私の無礼な発言を聞きとがめる風も無い辺り、腹芸は効かず、素直に考えている事を口にしてしまうタイプかも知れない。
「さきほど、私は思わずアイリスにその事を言ってしまったんですよ、ワトスン先生。ええ、馬鹿だったと思います。ただ、悪意があってのことじゃないんです。つまり、ぼくはアイリスに、ぼくと結婚しなくても、女子相続人として十分な遺産を相続できるのだから、もしぼくとの結婚に気が進まなければ…構わないと…」
 どうやら、私がさきほど庭から見たこの居間の風景は、ベッドシャムがアイリスにこの台詞といったときだったらしい。
「アイリス嬢は怒ったでしょう。」
 私が言うと、ベッドシャムは体を背もたれに戻して、ため息をついた。
「ええ、色をなしました。めずらしく椅子から勢い良く立ち上がって…。まったく、ぼくは男としていけませんね。これでも、学者としてはしっかりやっているつもりですが、あのアイリスの夫になるには、不足が多すぎます。」
「でも、アイリス嬢を愛していると仰いましたね。」
「ええ、それはもちろん。あれほどの令嬢が他にいますか?」
 この言葉ばかりは、自身ありげに、しっかりと言った。
このマイケル・ベッドシャム君とは、数分前に会ったばかりなのに、かなり個人的な話を無防備にしてくる。性格的に、警戒心が薄いのかもしれないし、同時に普段、こういった個人的なことを相談できる友人を身辺に持っていないことをうかがわせた。しかし、私自身は彼に好意を持った。非常に正直で、アイリスを愛している。その愛情表現は不器用で、真意が彼女に伝わりきらないのだろう。

 一瞬、ベッドシャムと私の間に沈黙が訪れた時、居間のドアをノックする音がした。そしてすぐにドアが開くと、アイリスが入ってきた。
「叔母のダイアナと、イライザさん、それからマグノリアをお連れしました。」
 アイリスの背後から、三人の女たちが続いてきた。まず、若い女性 ― 少女に近い容姿をしているのは、間違いなくマグノリアだろう。あとの二人はいずれも中年女性だが、同じような喪服を身につけているせいか、どちらも億劫そうな雰囲気で、何となく似ている。先に入ってきた女性のほうが、ややぼんやりした顔の造作をしており、少しマグノリアに似ているので、彼女が母親のダイアナだろう。そして最後に入ってきた方は、確かに世間一般で言う美人な婦人が、イライザに違いない。アイリスが、彼女達を一人一人私に紹介してみると、私の見立てには間違いなかった。
私は自己紹介した。
 「はじめまして。ドクター・ワトスンです。」
イライザとダイアナは目礼をしただけで、およそ無反応だったが、マグノリアが弾けるように声を発した。
「まぁ、ドクター・ワトスンですって。お友達はシャーロック・ホームズさんかしら?」
 さっきまで沈んだ表情だったのが、頬を染め、瞳を輝かせている。私は彼女の無邪気さに釣り込まれた。
「ええ、そのとおり。ホームズは私の友人です。」
「えっ?」
 マグノリアはびっくりして一瞬声を失った。中年の女性二人も、ソファに腰掛けながら、思わず顔を上げて私を見上げた。マグノリアはすぐに、嬉しそうに応じた。
「では、この伯父様の事件を、シャーロック・ホームズさんが捜査してくださるのね!なんて素敵なこと。ねぇ、アイリス。私たち、先生のご本は残さず読んでいますわ。ホームズさんは、いまどちらに?」
「マグノリア。」
 アイリスは、はしゃぐマグノリアを優しくたしなめ、袖を引いて座らせようとした。マグノリアは急に気恥ずかしくなったらしく、あわててアイリスの腕をとりながら着席した。
「ごめんなさい。伯父様がお亡くなりになって、みんな悲しんでいるのに。でも、もちろん、私だって…」
そう言い繕いながらマグノリアは顔を伏せ、見る見るうちに泣き出しそうな沈うつな表情になった。
「ええ、分かっていますよ。」
 私も改めて座りながら応じた。
「今回のこと、お悔やみを申し上げます。私とホームズは今回の事件に関して、スコットランド・ヤードに協力することになりました。ホームズは今、他での捜査に出向いていますので、こちらには明日来ます。」
「まぁ、それは…」
 イライザが静かに口を開いた。
「ご丁寧にありがとうございます。警察と、高名なシャーロック・ホームズさんがいらしたからには、犯人はきっとすぐに捕まるでしょうね。」
 どうやら、彼女達は先日お茶にやってきた鳥類学者ショーン・ヒープスがそのシャーロック・ホームズだったとは、思い至っていないらしい。私の隣りで、ベッドシャムが立ち上がった。
「あの、ぼくは外しましょうか?」
「いえ、どうぞいらしてください。みなさんもあまり緊張なさらず。警察の聴取ではなく、私を友人と思ってお話してくださると助かります。ホームズも、警察とはまた違った角度での情報を求めておりますので。」
 私の言葉の意味を理解したのは、アイリスとせいぜいベッドシャムだけだったようだ。あとの女性三名はややポカンとしている。しかし、深く考える性質ではないのか、まずイライザが口を開いた。
「情報とおっしゃいましても、私ども、夕べの事件のことは、警察に全てお話しましたわ。他に何を申し上げれば良いのでしょう。」
「べつに特別なことは何も。お亡くなりになったレンさんは、恨まれるような方ではないことは重々承知なのです。それなのに、このような悲劇に見舞われた理由に、みなさんお心あたりがあるかどうかをお聞かせ願いたいのです。」
 すると、ダイアナがびっくりするほどゆっくりした仕草で首をめぐらし、イライザの方を向いて言った。
「まぁ、先生もご存知でしょう?先代の遺産に関して、ジョンを恨んでいる人が、少なくとも二人、この家には居りますし、そのうちの一人は今まさに、ここに座っていますわ。」
「お母様!」
 マグノリアがひどく不満そうな様子で声をあげた。しかし、言われたほうのイライザは動じなかった。
「私と息子のことをおっしゃっているのでしょうけど、本気になさらないでくださいね、先生。誰がなんと言っても、息子ともども、ジョンには感謝こそすれ、恨みなど微塵も持っておりません。」
「そうよ!」
 意外にも、マグノリアが積極的に弁護を始めた。
「イライザさんもジョンソンさんも、伯父様を殺すような酷い人ではありませんもの。それにお母様だってご存知でしょう、伯父様が亡くなったら、財産はアイリスと私、それからお母様たちの物になるのよ。イライザさんやジョンソンさんが伯父様を殺したりするものですか!」
 マグノリアは遺言内容にまで言及して、得意そうだった。しかし、娘の抗議にもダイアナはどこ吹く風だった。
「さぁ、どうかしらね。アバズレ女に、女ったらしの色男だもの。どんな手を使うやら…」
 居間の空気が凍りついた。小さく「まぁ!」と叫び声をあげたのはマグノリアだけで、アイリスは伯母であるダイアナの顔も見たくないという風に視線を下げている。ベッドシャムはと言えば、真っ青になった。そんな中、ただ一人凍りつかなかったのはイライザだった。彼女は悠然と立ち上がり、
「失礼しました、ワトスン先生。ダイアナに代わって、お詫び申し上げます。私、気分がすぐれませんので、上で休ませて頂きますわ。何かまたお尋ねになりたいことがあれば、いつでもお声をかけてくださいませ。」
そう言い捨てると、居間を静かに出て行った。怒気を含むでもなく、実に悠然としたもので、どうやらダイアナよりも役者が一枚も二枚も上手らしい。

 イライザが出て行くと、居間には気まずい空気が残った。かわりに、チャントがお茶を運んできたので、私たちは無言でお茶をすすりはじめた。
ダイアナは手に紅茶のカップを持ったままぼんやりしているし。アイリスは不満そうな様子で俯いて、ひどくゆっくりした仕草でお茶を飲んでいた。ベッドシャムといえば、居たたまれない気持ちなのか、大きく目を見開き、キョロキョロしている。マグノリアはやたらとサンドイッチを摘み上げては、ばくばくと食べ、お茶で流し込んでいた。その作業が終ると、マグノリアは私に向かって、ほとばしるように喋りだした。
 「ワトスン先生も、シャーロック・ホームズさんも、噂話などで犯人を決めたりなさいませんでしょう?ご本によれば、お二人とも科学的に捜査をなさいますもの。ねぇ、アイリス。」
 アイリスは優しく、しかし小さく微笑んで見せた。
 ホプキンズも言ったとおり、アイリスとマグノリアは仲の良い従姉妹同士であり、同時に親友なのだろう。日々の生活において二人は常に密着し、同じ本を読み、それについていつも語り合っているのだ。私は熱心な読者に、笑いながら答えた。
「ええ、もちろん科学的根拠に基いて、犯人をつきとめるのがホームズの手法です。あなたのお母様がおっしゃったことだけで、犯人を決め付けるようなことはしませんから、どうぞご安心を。」
 ダイアナが気を悪くするかとも思ったが、彼女は上の空で、私の声が耳に入っていないようだ。マグノリアは嬉しそうに笑顔を浮かべ、隣りのアイリスの腕においた手に力をこめた。
「しかし、お嬢さん。ホームズは人の心理にも大きな関心を寄せています。」
 私が続けると、反応したのはベッドシャムだった。
「心理学ですか?」
「それほど大袈裟ではありませんよ。彼は一見なんでもないような事から真実を見出す名人ですので。人の心の動きにも敏感だと思います。」
 私は一応笑って見せて、おのおのの反応を見ることにした。ダイアナは相変わらず聞いていなかったかのように上の空でいる。どうやら処方されている鎮静剤が効きすぎているようだ。マグノリアはどの程度理解しているのか、とにかく満足そうに力強く頷いて見せた。その隣りのアイリスは − 注目に値することだと思う。彼女は俯いていた。一瞬上目使いに私に視線をやったが、すぐに俯いてお茶を口に運んだ。アイリスには何か思うところがあるらしい。
一方、ベッドシャムは、お茶もお菓子も忘れたように、凝然として私を見つめていた。彼もまた、何か含むところがあるのだろう。

 結局、このお茶の時間、これと言って具体的な収穫を得ることは出来なかった。お茶会は早々に終わり、ダイアナは横になると言って自室に引き取った。アイリスとマグノリアも、自室で少し静かにしていようという相談になった。アイリスは、レン氏の葬儀についてしきりに気にしている様だったが、今日のところは何もせずに待つように警察から言われているとのことだった。
 ベッドシャムは今夜も自分の下宿には帰らず、チェスナット荘に泊まることにした。そして、彼もいつも使っている寝室へ、ひきあげた。


 → 7.チェスナット荘の夕暮れどき ― ドクターワトスンの観察 その2

ホームズ・パスティーシュ
トップへ
ホームズ トップへ 掲示板,もしくはメールにて
ご感想などお寄せください。

No reproduction or republication without permission.無許可転載・再利用禁止
Copyright(c)2003-2010 Kei Yamakawa All Rights Reserved.