Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

5. 母と息子をめぐる評価の相違 ― ホプキンズの観察(その2)

 「どの関係者もアイリスのようだと捜査も楽なのですが、そうは行きません。まず、ダイアナ・レンです。彼女は、弟のオスカー・ウェストマンと一緒に来てもらいました。
 さすがに衣服だけはきちんとしていましたが、髪は乱れ、泣いてばかりで化粧もしているのかも定かではありません。とにかく、最初から最後まで泣きじゃくりっぱなしで、話になりません。
 泣きながらも、義兄ジョン・レン氏が死んだら、自分と娘はどうなってしまうだろうと、その点を嘆きつづけるのです。そしてその結論は、
 『あの女が殺したんですよ!』…でした。
 『あの女とは?』
 ぼくが尋ねると、ダイアナはハンカチから顔を上げ、ぼくを睨みつけながらやけにしっかりした声で言いました。
 『あの女に決まってますよ!お義父さまをたぶらかして、この家の財産を全て我が物にしようとしたあのはしたない女!イライザですよ。』
『何か、彼女が怪しいと思われるような手がかりがありますか?』
『まぁ、警部さん!』
 彼女は心の底から、ぼくを馬鹿だと思ったのでしょう。まったく意外だというような口調で返しました。
『一体、あの女以外の誰が、ジョンに死んで欲しいものですか!あの女とあの息子以外の全員が、ジョンをそりゃぁ愛していたんですよ。この土地の皆さんにも、とても慕われていて。あの女は、お義父様の遺産をほとんど貰えなかったことで、家族みんなを憎んでいるんです。ええ、特にジョンを憎んでいたのですわ。だから殺したんですよ。』
 そう言い放つと、ダイアナはまたハンカチに顔をうずめて、泣きじゃくり始めました。
『夕べは何時にお休みになりましたか?』
 ぼくが質問を変えると、彼女は顔を上げ、親知らずまで見えそうなくらい口をあんぐり開けてから猛抗議しました。
『まぁ!私がジョンを殺したっておっしゃるの?!』
 オスカー・ウェストマンが、姉をなだめるように肩を叩きながら静かに言いました。
『とんでもない。警部さんは、昨日お義兄さんが殺された状況を確認したいのだけだよ。さぁ、落ち着いて。』
 その言葉の最後の方で、ウェストマンはそっとぼくに目を伏せて見せ、姉の無礼を詫びているようです。ダイアナも小声で詫びてから、鼻をすすり上げ、質問に答えました。
『十時半ごろでした。たぶん…ええ、少なくとも十一時までには眠ってしまいました。』
『夜中に、何か物音とか、気になることはありませんでしたか?』
『いいえ。』
 ダイアナが僅かに首を振るので、ぼくは再度確認しました。
『本当になにも?』
『ええ。熟睡していましたから。今朝、ジョンが死んでいると知らされるまで、まったく何も。』
『外の風の音とか、人の足音とか、どんな些細な事でも良いのですが。』
『無理ですわ。』
 ダイアナは少しむっとしたようです。
『私、眠るときは薬を飲みますの。メインホルム先生が処方してくださる睡眠薬で、とてもよく効きます。ですから、朝起こされるまでは、それこそ夢も見ないほど、熟睡しているんです。』
  傍らのウェストマンも静かに頷き、そのとおりだと言っているようでした。ダイアナからはあまり有力な証言が得られそうにありませんでした。約一週間前の晩、レン氏が倒れたときの事も、単に体調が悪かったらしいぐらいの認識しかないのです。私は彼女への尋問を終了し、退出してもらいました。薬を飲んで就寝するのだということを説明したときはほぼ平静だったのが、退出するときになってまた、よよと泣きながら出て行ったのが、少し滑稽に思われました。

 部屋に残ったのは、オスカー・ウェストマンです。彼は、姉が出て行ったドアが閉まると、改めてぼくの方に振り返り、眉を下げて詫びました。
 『すみません、警部さん。姉は少し動転していまして。お気を悪くなさったでしょうが…』
 ぼくは一向に構わないと言い、椅子を勧めました。
 改めて、腰掛けたウェストマンを見ると、中々の好男子です。ホームズさんがおっしゃったように、色が浅黒く、黒く真っ直ぐな髪をきちんと撫で付けています。衣服にも注意が行き届いていて、どちらかと言うとこんな田舎村ではなく、ロンドンでバリバリ稼ぐ敏腕弁護士に見えました。
 ぼくはまず、彼の経歴から確認することにしました。
『ウェストマンさん、夕べのことをお尋ねする前に、確認させてください。あなたは、ミセス・レン(ダイアナ)の弟さんですね?』
『ええ、十ニ歳下の弟です。』
『いつから、このチェスナット荘にお住まいですか?』
 すると、ウェストマンは少しだけ微笑みました。ぼくが、その経歴を詳しく知りたがっていることを察知したのでしょう。警官としては弁護士と話すのは少々苦手ですが、こういう飲み込みの良さは助かります。
『こちらには、二年と半年ほど前から同居しています。その前は、バースの法律事務所に勤めていました。そこでは、主に民事を担当していました。』
『なるほど。このバリーズベリーでのお仕事は?』
『主に、レン家の資産管理です。警部さんはもう既にご存知だと思いますが、このレン家の資産に関しては、先代が九十歳にして結婚したものですから、不愉快な法廷闘争に発展しまして、私はそのお手伝いをしたわけです。つまり…先代の未亡人(イライザ)と、その連れ子(バリー・ジョンソン)には、財産が行かないように事を運んだのが、私という訳です。』
『ええ、そのお話は伺っています。ですから、ウェストマンさんはこのたび亡くなったレン氏からの信任も厚く…』
『まぁ、そんな所です。』
 ウェストマンの表情に、いくらか後ろめたさのようなものが走りました。さすがに、あまり清廉とは言えないであろう法廷闘争と、そこでの自分の活躍に忸怩たるものがあるのでしょう。しかし、彼はすぐに晴れやかな顔になって、続けました。
『このレン家の財産が、無事にアイリスとマグノリアに行くのであれば、私も仕事をした甲斐があったというものです。殊に、今回のような事件があった後では…』
『つまり、ウェストマンさん。あなたは、犯人の心当たりという点では、お姉さんとは意見が違いますね?』
『ええ、もちろん。』
 やはりウェストマンは話の飲み込みが良く、理論的で助かりました。
『姉はイライザやバリーを悪し様に言いますが、彼らは義兄を殺したところで、ほとんど利益らしい利益は得ないのです。こういってはなんですが、ジョンがなくなったところで利益を得るのは、遺産の殆どを受け継ぐアイリスとマグノリア、そして信託年金を受け取る姉です。警部さん、まさかこの三人がジョンを殺したなどとは、お考えではありませんでしょう?』
『その点は、断言しかねます。』
 私が同意しなかったのが、ウェストマンには不満のようでした。しかし、彼はすぐに気持ちを持ち直したようです。
 『まぁ、警察は全ての人を疑って掛かりますからね。』
『あなたはどうです?ウェストマンさん。レン氏の死で利益を得ますか?』
『まぁ、多少は。確か、遺言には友人の一人として、私にも幾ばくかのお金を残すと書いてあるとか。レンさんから聞いたことがあります。しかし、アイリスやマグノリアとは比較するまでもありませんよ。』
『遺言状を、レン氏から預かっていますか?』
『いいえ、遺言状の保管と執行は、ロンドンのトゥルーマン氏です。内容だけは聞いています。』
『なるほど。では、夕べの話を聞かせてください。何時に寝室へ引き取りましたか?』
『私はベッドシャムとしばらく話し込んでいたので…この屋敷に住むようになって、一番の友達はベッドシャムです。彼がここに泊る時は、いつも遅くまで話し込むんです。ですから、夕べは…それでも、十一時半…いや、十五分ごろには切り上げて、寝室に入りました。』
『寝室の場所は?』
『居間の真上。…つまり、レン氏が死んでいたフランス窓にもっとも近いところでした。』
『お休みになってから、何か物音などに気付きましたか?何か見たとか…』
『音を聞きましたよ。何か…金属と金属がぶつかり合うような。ただ、栃の実が屋根に当たる音にも似ていました。この家では、夜中に風が吹くと、よく実がカツンと音を立てるのですよ。ただ、夕べの音は栃の実にしては音が大きく、私は寝入っていたのにパッと目が醒めました。』
『それは何時ごろですか?』
『分かりません、時計を見ませんでしたし。暗かったので。』
『目を覚まして、音の正体を探りましたか?』
『いいえ。ただ、ベッドに起き上がって、しばらく耳を済ましました。外では風が吹いていたようなので、やはり栃の実だろうと思い、また横になりました。』
『それから、朝起こされるまでに、何かありませんか?』
『いや…そうですね…』
 ウェストマンは、この部屋に入ってきてから、初めて躊躇するような表情になりました。
『つまり…音と気配は感じましたよ。』
『何の?』
 ぼくが興味津々になって身を乗り出すと、ウェストマンははぐらかすように少し肩を揺らしました。
『いや、たいしたことじゃないと思います。ただ、私がまた横になってしばらくすると、廊下に人が出て行くような気配が分かりました。』
『誰が出たのか、分かりますか?』
『アイリスとマグノリアでしょう。ヒソヒソと話している声が、ドア越しに聞こえました。』
『確かに、お二人でしたか?』
『ドアを開けて確認していないので、分かりませんが。多分。』
『それから?』
『さぁ。二人で下に降りていったようです。でもしばらくしてから、また足音がして、二人とも、寝室に引き取ったようです。二階の廊下で、クスクス笑っているのが微かに聞こえて、どちらかの部屋のドアが閉まる音がしましたから。あの二人の寝室は、内側でつながっているんです。』
『それは、アイリスさんからうかがいました。それから…お嬢さんがたが寝室に戻った後は?』
『私も寝ましたよ。チャントに起こされるまで、目を覚ましませんでした。』
『何か物音も聞いていませんか?』
『さぁ、例の栃の実が当たる音がしたかも知れませんが、夕べのことかどうかも記憶が定かじゃないし、夢の中でしたからね。何とも。』
『なるほど。』
 ぼくは手帳に書き込みながら、少し考えました。ウェストマンの証言は、時刻こそはっきりしませんが、アイリスの証言と一致しています。矛盾はないように思われました。それをぼくが頭の中で確認している間、ウェストマンは我慢強く黙って待っていました。
 ぼくは矛盾点が無いことを再確認し、もういちど質問をしました。
『質問の順番がお姉さんと逆になりますが。ウェストマンさん、レン氏を殺す人物にお心当たりがありますか?』
 すると、ウェストマンはさすがに用心深げに口を開きました。
『ジョンは…姉の言ったように、好人物でしたから。家族や友人、この土地の人々からはとても愛されていました。日常的に恨みを買うようなところはありません。ただ、資産家でした。』
『レン氏を恨まなくても、金のために殺す人は居るかもしれないと?』
『実際、ジョンは殺されたんです。そういう仮定はやむをえないでしょう。』
『金がらみでレン氏を殺す人にお心当たりはありますか?』
『ありません。』
 ウェストマンは、困ったように肩をすくめました。
『ジョンはあまり派手な資金運用をしていませんし、金貸しもしていなかったんです。金に困った友人には、貸すのではなく、無償で援助する人ですからね。そういう訳で、なおさら私にはなぜジョンが殺されたのか、わからないんですよ。さっきも申しましたが、ジョンの死で利益を得る、三人の女性 ― 私の姉と、二人の姪がジョンを殺すなんて、ありえません。』
『なるほど。』
 ぼくは、もう一度ウェストマンの端正な姿を見ました。もてあまし気味の姉はともかく、二人の姪に対する深い愛情は、手に取るようにわかりました。そう思う一方で、理路整然として、発言に矛盾が見られない。分からない,はっきりしない点は、そうだときちんと認める。或いは、こういうタイプが実は殺人者なのではないかと、一瞬思わずにはいられませんでした。」

 ホームズは眉をあげ、ゆっくりと脚を組替えながら、嬉しそうに言った。
「おや、ホプキンズ君。ぼくと同意見のようだね。」
「べつに、ウェストマンが犯人だと思っているわけではありませんよ。ただ、こういうタイプの殺人者は上手く立ち回るかもしれないと思っただけで。」
「同じことだよ。」
 ホームズが更にニヤニヤすると、ホプキンズはむきになって言い返した。
「でも、ぼくはホームズ先生のようにアイリス嬢を殺人者に仮定することには、反対ですよ。」
「おっと、ホプキンズ君。それこそ、ほら。ぼくもアイリスなら殺人も可能かも知れないと観察しただけで、彼女がレン氏殺しの犯人とは言っていない。」
「どうだか…」
 ホプキンズは、ぶつぶつ言いながら手帳を繰った。
「先に進んでも良いですか?」
「良いとも、良いとも!」
 格子の向こうのホームズは、だいぶ元気になってきた。ホプキンズをからかう気力も戻ってきているし、私にむかって意味ありげに微笑み、頷いてみせる。私にはその意味が良くわからなかったので、適当に小さく頷いてあしらっておいた。
 ホプキンズは、図書室での関係者聴取の報告を再開した。

 「ウェストマンが退室すると、マグノリア嬢の順番になりました。ぼくは、叔父のウェストマンが同席したほうが良いのかしらと思いましたが、マグノリアはアイリスと一緒に入ってきたので、大丈夫だろうと判断しました。
 マグノリア・レンは同い年の従姉妹、アイリスに支えられ、ゆっくりと入ってきました。黒いドレスを着て、手にはハンカチを握り締めています。目は泣き腫らして真っ赤、小さな口元を必死に引き締めているような表情でした。ホームズさんは、マグノリアの頬を少年のように赤いと表現しましたが、ぼくが会ったときは、ひどく青ざめていました。
 マグノリアが椅子に腰掛けると、アイリスはその背後に立って、ぼくに始めてくれと目で合図しました。
『マグノリア・レンさんですね。』
 ぼくがまず名前を確認すると、彼女は小さく頷きました。
『ジョン・レン氏の弟のお嬢さん ― つまり、姪御さんですね。…お悔やみ申し上げます。』
『ありがとうございます。』
 小さな声で答えたマグノリアは、視線をあげ、意外としっかりした表情をしていました。質問には答えられそうなので、ぼくは続けました。
『夕べ、何時ごろ寝室にひきあげましたか?』
『十一時前ごろです。アイリスと一緒に部屋に引き取りました。』
『すぐにお休みになりましたか?』
『アイリスと、いつも頂く夜のホットミルクを飲んでからですが。でも、十一時十五分ごろにはもう床に入っていました。』
 椅子の背後に立っているアイリスは何の反応もしません。ぼくは先を促しました。
『夕べ、なにか気付いたことがありませんでしたか?』
『寝入ってから暫くして、下で何かがぶつかるような音がしました。』
『なにかとは?』
 マグノリアは可愛らしい小さな目を何回かまたたいて、首を振りました。
『分かりません。眠っている間に聞いた音ですから。ただ、いつもの栃の実が屋根に当たる音にしては、大きいと思い、ベッドから起き上がりました。そうしたら…』
 マグノリアは少し言葉を詰まらせ、胸を押さえるような仕草をしました。しかし、小さく息を吐くと勇気を奮うように続けました。
『ベッドに起き上がって耳を澄ましてみると、廊下を誰かが歩くような気配がしたんです。』
『どんな気配ですか?具体的には…』
『その…絨毯の上を、誰かがソロリソロリと歩くような感じで…』
『つまり、それは寝室の前、二階の廊下を歩くような気配ということですよね。』
『ええ。』
『方向は分かりますか?ドアの音などは?』
 マグノリアは首を振りました。心底困ったような顔です。
『ごめんなさい、わからないんです。人が歩くような気配も、気のせいかもしれませんし。ドアの音も聞こえませんでしたから。』
『なるほど。』
 ぼくは注意深くマグノリアの表情を観察しましたが、何事かを隠すような余裕はなさそうに思われました。
『分かりました。それから、どうされましたか?』
『ちょっと妙な気がしたので、隣りのアイリスの部屋に行って、起こしました。アイリスは何も聞こえなかったと言いましたが、私は気になってしまって…二人で、様子を見に行こうということになりました。』
『それが何時ごろか、覚えていますか?』
『いえ、時間は覚えていません…でも、アイリスは時計を見たんじゃない?』
 マグノリアは首をねじって、背後のアイリスの顔を見上げた。アイリスは少し微笑んで見せます。マグノリアは心が安まったような顔をして、ぼくの方をみやりました。
『ええ、確かにアイリスさんからは、時刻をお聞きしています。その件は、良いでしょう。お二人で部屋を出て、どうされましたか?』
『二人で二階の廊下を見回し、それから一階に降りました。』
『何かありましたか?』
『いいえ、何も。二人でホールまで降りましたが、何もありませんでした。』
『物音もしませんでしたか?』
『何も。玄関ホールは静かで、ただ居間の置時計の音がチクタクきこえただけです。ああ、でも・・・』
 マグノリアは眉をしかめ、夕べのことを改めて思い出すかのように少し頭を振ってから続けます。
『何も無いから、二人で寝室に戻ろうとしたときに、ホールから見上げた階段の上に、何か影が動いたような気がしたのです。』
『それは何でしたか?』
『わかりません。』
 マグノリアははっきりとした仕草で首を振りました。
『私はびっくりして突っ立ってしましたが、アイリスが素早く階段を数段、駆け上がって上を見てくれました。でも、何も無かったのです。』
『影の正体は何だったかは、本当に分からないのですね?』
『ええ。でも、結局何も無かったのですから、…庭木が風で揺れた影か何かだったのでしょう…。』
『分かりました。それから、どうしましたか?』
『私、急に馬鹿みたいに思えて…とにかく、すぐに寝室に引き取りました。それからまた眠って…。』
『すぐに寝付きましたか?』
『いいえ、ちょっと目が冴えてしまってすぐには眠れそうになかったので、しばらくアイリスに居てもらって。でも、結局十分もたたないうちに、寝てしまいまったと思います。』
『それから、起きるまでは何かありましたか?』
『いいえ、全然。朝、大騒ぎになって、初めて目がさめて…』
 マグノリアは、急に眉間に皺を寄せて、涙をこらえるかのように口をつぐみました。ぼくは、さすがに気が引けましたが、訊かない訳にも行かないので、質問を続けました。
『マグノリアさん、レン氏を殺した犯人に、お心当たりは有りますか?』
『いいえ、全く。』
 マグノリアが短く答えると、涙が出るのをこらえています。
『伯父は、ジョン伯父様は本当に良い人でした。私やアイリスを、本当の娘のように可愛がってくださって、お優しくて…伯父様を殺すだなんて、そんな恐ろしいこと…』
 ぼくは心の中で自分を励ましながら、もう一押ししました。
『レン氏を恨んでいる人にも、心当たりはありませんか?』
『そんな、全然…』
 マグノリアは言いかけて、不意に止めました。そして両目をまたたかせています。やがて、マグノリアは小さな声でぼくに尋ねました。
『刑事さん、もしかして…母が何か申し上げましたか?』
『何かとは?』
『ああ、やっぱり。きっと、母はイライザや、息子のジョンソンさんが殺したと言ったのでしょう?』
 図星ですが、ぼくは黙っていました。マグノリアは構わずに続けました。
『悪く思わないで下さい。母は、本気で言っているのではないのです。ただ、イライザとは反りが合わなくて…その、お分かりでしょう?どうしても悪く言ってしまうのです。人の悪い噂でも、すぐに信じてしまう性分ですし。でも、イライザも、ジョンソンさんも、人が言うほど悪い人じゃありませんわ。』
 マグノリアが予想外の事を言うので、ぼくは少し驚きました。それと同時に、椅子の後ろに立っているアイリスの表情に、何か苛立ちのような…なにか微かな悪感情が走ったような気がしました。でも、一瞬です。すぐにマグノリアが、アイリスに顔を向けて、助け舟を求めました。
『ねぇ、アイリス。あなたもそう思うでしょう?ジョン伯父様だって、別にイライザやジョンソンさんに意地悪をしていたわけじゃないもの。』
『ええ、そうよ。そのとおりよ。』
 アイリスは穏やかに言って、そっとマグノリアの肩に手を添えました。それに勇気付けられたように、マグノリアは少し嬉しそうな表情になって、ぼくの方に向き直りました。一緒に同意してくれと言わんばかりです。ぼくは少し困りましたが、頷いて見せました。
 『なるほど。マグノリアさんのご意見は、きちんと心に留め置きます。大丈夫、お母様の言葉で、イライザさんや、ジョンソンさんに偏見を持ったりはしませんから。』
 マグノリアは、入ってきたときよりは幾分元気になって、アイリスとともに図書室から出て行きました。」

 「そのマグノリアの背後に立っていたアイリスだがね…」
 突然、ホームズが右手を挙げてホプキンズの話を遮った。
「聴取の間、マグノリアに何か合図をするとか、そういう仕草はなかったかね?」
「合図ですか?」
 ホプキンズは、ちょっと嫌そうな顔になって、少し考えた。
「いえ、特にありません。アイリスは、椅子の後ろに立って居たんです。マグノリアは、自分で振り向かなきゃ、アイリスの顔も見えませんよ。」
「たとえば、椅子の背を静かに叩いて、合図するとか…」
 ホプキンズは肩をすくめ、にべもなく否定した。
「いいえ。アイリスは両手を前で組み合わせていましたから。椅子の背には手をやっていませんでした。」
「そうか…」
 ホームズは脚を組替え、ふーっと息を吐き出した。そこで、私が口を出した。
「つまりホームズ、きみはアイリスが、マグノリアの発言をコントロールしようとしたんじゃないかと、考えているのかい?」
「そうだよ、ワトスン。さすがに分かっているね。」
 ホームズはにっこり微笑んで見せた。
「ぼくが観察した限り、マグノリアとアイリスは四六時中べったりして行動を共にしている。マグノリアはアイリスを非常に頼りにしていて、アイリスもマグノリアをとても愛しているのは明白だ。ホプキンズ君も、その点は同感だろう?」
「ええ、そうですが…」
「つまり、マグノリアはアイリスが命じるままの事を、言っているかもしれないということさ。聴取の最中に、何かまずいことでもあれば、合図を送って、イエスなり、ノーなりを指示したかもしれない。」
「そんな気配は微塵もありませんでしたよ。マグノリアもアイリスも、聞かれたことに正直に答えているだけだと思いますがね。」
 ホプキンズは、ホームズが何かとアイリスを疑って掛かるのが、気に入らないようだった。ホームズは小さく鼻で笑った。
「でも、マグノリアがイライザとバリー・ジョンソン母子についての意見を述べたときは、アイリスの表情が変わったんだろう?」
「それは、マグノリアとは意見が違うからでしょう。マグノリアは気立ての良い…いわば、能天気なお嬢さんですから、イライザやジョンソンはそれほど悪い人じゃないと言いたかった。でも、アイリスはレン家と、チェスナット荘を亡くなった伯父から託された ― つまり、女子相続人の立場ですから、必然的にあの母子が嫌いなんですよ。ダイアナのように露骨にそれを言ったりはしませんが、ほとんど母子を無視するかのような態度らしいですよ。」
「なるほどね。」
 ホームズは細かく頷くと、ホプキンズをまた促した。
「では、そのマグノリア以外にはあまり好かれていない、母子の話に移ろうじゃないか。」
 ホプキンズはまた手帳を繰り、図書室での聴取記録に戻った。

 「先代の未亡人イライザ・レンと、バリー・ジョンソンには一緒に図書室に来てもらいました。
 イライザは、噂にたがわぬ美人だと思います。無論、女盛りは過ぎていますが、いわゆる…男好きするような顔ですね。ホームズさんがお会いになったときは、屈託の無い様子だったそうですが、ぼくが会った時は、さすがに元気がありませんでした。喪服に着替えていたせいもありますが、ひどく顔色が悪く、少しぼんやりしているみたいです。後で聞いたのですが、メインホルム先生に軽い鎮静剤を処方されていたそうです。そのせいか、落ち着いてはいました。
 イライザが椅子に座ると、バリー・ジョンソンはずっと後方のドアの前に突っ立っていました。
 ぼくは挨拶を簡単に済ませると、ほかの人たちとおなじ質問からはじめました。
『レン夫人、夕べは何時に寝室へ引き取りましたか?』
『ゆうべは…私は早めに引き取りましたわ。』
 そうつぶやくように言うと、イライザは空中をしばらくフワフワと見据えてから、続けました。
『そう…十時には、失礼しました。私はいつも、みなさんより早いんです。』
 夕食後、ダイアナとの不愉快な会話が展開されるのを避けたのだろうと、ぼくは想像しましたが、一応しかつめらしい顔で、先を促しました。
『それで…ええ、三十分も経たないうちに、寝てしまいました。それから、朝までまったく目が覚めず…』
『何か、物音とかは耳にしませんでしたか?』
『いいえ、ちっとも。私、眠るときは、薬を飲むんです。朝、人に起こされるまではぐっすり寝込むものですから…』
 イライザは推察してくれといわんばかりにぼくを見つめます。鎮静剤のせいか、少しトロンとした彼女の表情は、確かに魅惑的だったと認めます。とにかく、イライザは犬猿の仲である、ダイアナと同じく睡眠薬を服用していることは確かです。これが本当なら、夜に起こった物音を聞くことは無理でしょう。ぼくは、質問の方向を変えることにしました。
 『立ち入ったことをお尋ねしますが、お許しください。ミセス・レン、あなたは先代当主の未亡人ですね?』
『ええ、夫は三年前に亡くなりました。』
『先代の遺産相続に関して、ご不満は?』
 この直裁な質問に、イライザはしばらく答えずに、足元を見つめています。後方のドアの前に立ったバリー・ジョンソンの顔色が変わり、息遣いが荒くなるのが分かりましたが、そっちは無視しました。
『そうですね…』
 イライザは、心底面倒くさそうに口を開きました。
『不満は無いと言っても、信じていただけませんでしょう?何せウェストマンさんが色々ご活躍して、夫の遺産のほとんどを私には渡さなかったのですから。でも…』
 イライザは答えを中断し、視線をフラフラとぼくに定めました。気だるい雰囲気だったその瞳が、突然、射すくめるような光を放ったような気がしました。
『それで、私がジョンを殺したなどとお思いなら、お門違いですよ。確かに ― 間違いなく、ジョンにとって私は疎ましい存在だったでしょう。でも、刑事さん。ジョンは古風な地主さんですよ。私ども親子を無一文にして、放り出すような無礼は働きませんでした。世間への体裁もありますからね。現にこうやって、先代の未亡人としてこのチェスナット荘に住まいし、これからもそのつもりです。』
『金銭的には不自由はしていませんか?』
『いませんとも。』
 イライザは背もたれから体を起こし、はじめて上体を真っ直ぐにして微笑みました。
『確かに、夫の遺産は受け取りませんでした。でも、前の夫 ― ジョンソンが、優良国債を随分私に残してくれましてね。オーストラリアの鉱山株もかなり。その配当は相当な額です。正確には覚えていませんが ― まぁ、ご自由に調べてくださいな。息子が知っていますでしょう。』
 イライザは、またゆるゆると上体を背もたれに戻しました。そして、メモを取っているぼくを満足そうに眺めながら、また気だるい口調になって言いました。
『刑事さん。どうせ誰かが、私や息子が、遺産相続を妨害された腹いせに、ジョンを殺したと言ったのでしょう。予想はつきますよ。でもね、馬鹿げていますわ。私はレン家の未亡人としてこの家に住みつづけますし、前の夫の遺産で困りもしません。ジョンは私が嫌いでも、それを表に出すような馬鹿でもない。確かに、遺産の事に関しては私もジョンを憎みましたよ。でも、それが何です?私には、ジョンを殺すほどの理由なんでないんですよ。もちろん、息子にも。』
『では、ほかにレン氏を殺すような人物に心当たりはありますか?』
 イライザは億劫そうに首を振ります。
『想像もつきませんわ。基本的に、良い人でしたもの。殺して喜ぶ人なんて…そうねぇ…あのお嬢さん二人は、大金持ちになりますけど…そんな必要、あるわけでもなし。せいぜい、泥棒が顔を見られたから殺した ― そんな所じゃございません?もう、よろしいかしら。』
 イライザは、ゆるゆると立ち上がりました。
『少し眠るようにメインホルム先生から言われてますの。誰が死んだにしろ、我が家で人が撃ち殺されるだなんて、神経にこたえますから。』
 イライザは、ぼくの許可も待たずに、ゆっくりと体の向きを変え、息子が開いたドアから出て行きました。それを見送りながら、ぼくは彼女が最後に示唆した犯人像も、完全に排除するべきではないなと思い始めていました。」

 ホームズが、ホプキンズの最後の言葉尻を捕らえた。
「でも、外部からの侵入者を示すような痕跡は、見つかっていないのだろう?」
「今のところは。でも、全ての侵入者が、その痕跡を分かりやすいように残してくれるわけではありません。今、応援の巡査達を使って、再度チェスナット荘周辺を捜索させています。」
 ホームズは少し首を傾けながら微笑んだ。
「ふむ。まぁ、犯人は内部の人間だと決め付けるのは、たしかに良くないからね。巡査達にはしっかり調べてもらおう。それから?次の人が事情聴取の最後かい?」
「ええ、イライザと前夫の息子,バリー・ジョンソンです。」
 ホームズの灰色の瞳が、キラキラと輝き始めた。
「ぼくが最も、興味を引かれる人物だね。さぁ、始めてくれたまえ。」
 ホプキンズは頷き、また手帳に眼を落とした。

 「母親が退出すると、息子のバリー・ジョンソンはゆるゆるとした歩調で前に進み、小さくため息をつきながら椅子に腰掛けました。その仕草が、母親に似ていると思いましたが、顔立ちはさらによく似ています。
 大きな瞳の黒さが印象的でした。形の良い眉と鼻筋が、少し憂いを含んだような表情で、確かに美男子です。さらに、豊かで美しい黒髪が優雅な印象で、美しい顔立ちに影を落としていました。服装は別に金のかかったものではありませんが、スマートに着こなして、遠目から見ても美男子ぶりがあふれています。
 それでいて、ゆっくりとした仕草と、ちょっとふて腐れたような喋り方。ジョンソンはバリーズベリーの女性達にもてはやされているとの事でしたが、納得できます。
 ぼくはそんなバリー・ジョンソンを前にして、質問を開始しました。
 『ジョンソンさん、あなたへの質問は、ちょっと長くなりそうです。ご辛抱願います。まず、お仕事は?何かなされていますか?』
 ジョンソンは数秒、ぼくを上目使いに見ていましたが、やがてため息交じりに答えました。
『ええ。友人と小規模ではありますが、貿易関係の仕事をしています。』
『貿易ですか。』
『主にアメリカとの。』
『商品はどんなものを扱っているのですか?』
『今回の件にとって、そんな事が大事ですか?』
 ジョンソンは早くもうんざりした様子です。ぼくは動じずに頷きました。ジョンソンは仕方なしにという感じで、脚を組みかえました。
『別に、どうというものではありませんよ。安く調達できるものを高く売る。商品はその時々で…衣料品だったり、飼料だったり、医薬品だった、本だったり…とにかく、これと言って商品を決めているわけじゃない。手広くやっています。』
『儲かりますか。』
『まぁ、赤が出ない程度には。』
『当面、お金には困っていない?』
 ジョンソンは、その艶やかな瞳で、ぼくをじっと見ていましたが、その表情は明らかに不快そうです。
『警察が、私の経済状況にどんな用があるんです?』
 ぼくは、手帳に走らせていたペンを止めて、答えました。
『殺人の動機は様々ですが、金銭も有力なものの一つです。そうである以上、関係者の経済実態のある程度は捜査上、把握する必要があります。ベッドシャムさんや、ウェストマンさんにも、同じように質問をしています。ご協力を。』
 ジョンソンは、小さくため息をついて、目を伏せました。その様子にはゾクっとするような色気がただよい、ぼくでさえドキっとしたことは、認めざるを得ません。ジョンソンは長い睫をゆらゆらさせながら言いました。
『金に困っているかと尋ねられれば、答えはノーです。私はこのとおり、母のおかげで住むところもあるし、死んだ実父の遺産で日常的な金銭に関しても不自由はしていません。ただお若い刑事さん、調べればすぐに分かる事だから言いますけどね、私はレンさんに援助してもらっていたのですよ。』
『この場合のレンさんというのは…』
『殺された、ジョン・レンですよ。』
 いかにも馬鹿にした風な言い方のジョンソンは続けます。
『続柄的には、義理の兄弟でしたが、そう思った事は一度もない。とにかく、私の商売では時として、大きな賭けに出て、思い切った投資をしなくてはいけない事がある。それこそ、手持ちの金では間に合わないほどのね。』
『それを、レンさんに出資してもらったのですか?』
『ええ。』
『それはいかほど?』
『さぁ、複数回にわたって出資してもらったし、損をしたこともあるから、はっきりとは分かりませんよ。レンさんの口座出納を確認すれば分かります。私と友人の会社、アレン&ジョンソン貿易あての出資が確認できますから。』
『なるほど。』
 ぼくが手帳に書き込むのを、組んだ足先をブラブラさせながら見つめ、ジョンソンは微かに笑いながら付け足しました。
『分かりますか、刑事さん。私は仕事上、金銭的にレンさんの世話になっていた。これからもそのつもりでしたよ。それどころか、レンさんに儲けさせ、更に出資してもらおうと目論んでいました。』
 ぼくは手帳から目を上げ、ジョンソンを見やりました。彼は微笑みながら、軽く頷いて見せます。
『なるほど。』
 ぼくは小さくそう言うにとどめましたが、はっきりした事が二つあります。まず一つは、ジョンソンにとって亡くなったレン氏は大事な出資者であって、死なれると損になると言うこと。ジョンソンは遺産の恩恵を受けませんからね。そして、どんな女性にとっても、ジョンソンは魅力的に映るであろうと言う事でした。」

 組んだ足先を細かく動かしていたホームズは、ふとその動きを止めた。
「その最後の部分は、この報告に必要かい?」
 そう訊かれたホプキンズは、少しむくれ気味に言った。
「ホームズさんが『参考人の様子、表情、仕草、感じ取った心の動きを、君の目に映り、耳で聞き取り、感じた事を詳細に教えてくれ』と仰ったんじゃないですか。ぼくはそれに忠実であろうとしただけですよ。」
 するとホームズは数秒間、奇妙な反応をした。何度か両目をまたたき、頭を細かくゆすったかと思うと、素早く脚を組替え、胸を大袈裟にそらして盛大なため息をつくと、身を乗り出した。
「良い指摘だ。」
 ホームズは自分自身の言葉に反応するように俯いて、不気味な含み笑いをすると、またぱっと顔を上げて、ニコニコし始めた。
「うん、ホプキンズ君。実に、実に良い指摘だ。きみの報告は、中々良い線を行っている。気に入ったよ。」
「なにか分かったのかい?」
 私が尋ねると、ホームズは格子の向こうから弾け出そうな笑顔を向けて答えた。


 
→ 6. 再びお茶会 ― ドクター・ワトスンの観察 その1

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