Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

4. 真夜中の物音 ― ホプキンズの観察(その1)

 「ぼくが現場に到着したのは、事件が発覚した日 ― つまり昨日の午後です。まず最初に、図書室へ移動された遺体をドクター・メインホルム立会いのもとに検分しました。弾丸は既にメインホルム先生の手によって、摘出されていました。ちっぽけなデリンジャーの弾です。
『一発目は心臓から、かなり右にそれて当たったようです。』
 メインホルム先生は気落ちした様子で言いました。年は四十歳くらい ― 働き盛りの、地域住民やチェスナット荘の人々にも信頼を寄せられているであろう、感じの良い医者です。レン氏とは長いつきあいで、その遺体を見るまなざしは悲しみに満ちていました。
一発目は正面からクッションを通して打ち込まれた弾が、左胸をそれています。レン氏はあお向けに倒れ、犯人はもう一発、クッションを使ってレン氏の額を打ち抜きました。これが致命傷です。
 レン氏の表情は ― いわば、二つの事を表していました。一つは驚き、そして苦しみ。犯人はレン氏を正面から撃ったのですから、その犯人の顔を見たのかもしれません。だから驚いた。そして、痛みに苦しんで倒れ ― そして額を打ち抜かれた。
 『警察の捜査的に言えば、特に複雑な遺体ではありませんけど…』
 メインホルム先生は冗談めかして言いましたが、表情は硬いままです。
『少し気になるのは、胸の出血量です。かなり多いのですよ。』
 ぼくは遺体の上着をそっと持ち上げ、胸の出血量を確認しました。確かに、シャツもウェストコートも、おびただしい血に染まり、乾いた部分はバリバリになっています。メインホルム先生が続けました。
『一発目が心臓を反れて当たり、レン氏は倒れます。それからすぐ、額に二発目を撃ち込んだとしたら、即死ですからこれほどの血は出ません。つまり、額への二発目は、いくらかの時間を置いて発射されたという事です。』
 ぼくは奇妙な気持ちにとらわれました。ますます、外部からの偶発的な侵入者 ― つまり強盗の類ではないという気持ちが強まり、そして額への留めの一発を撃った内部の人間の犯行に、戦慄を覚えたのです。
遺体には、出血量以外に特に変わった点は見受けられませんでした。向こう傷もありませんし、奇妙な手紙も、争った跡も無しです。ぼくはメインホルム先生に言って、遺体は移動して良いと許可しました。

 次に、巡査が押収したデリンジャーとクッション話を検分しました。両方とも、遺体の側に落ちていました。指紋を採取しましたが、僅かにレン氏の指紋だけがデリンジャーから採取されました。しかも、不鮮明なものです。この泥棒よけのデリンジャーを、居間の引き出しに入れたのはレン氏ですから、彼の指紋は当然ついていますし、古い指紋だったはずです。犯人は手袋をしてデリンジャーを持ったため、この古いレン氏の指紋を乱したと見られます。アメリカからの輸入品と思われるデリンジャーは、上下の二連式ですが扱いは非常に簡単です。これがレン氏の命を奪ったのですから、皮肉ですよね。
 クッションは居間に置いてある沢山のクッションの一つでした。比較的、うすい物です。デリンジャーの銃口とぴったり合う穴と、焼け焦げが二箇所見つかりました。実験してみたのですが、うすいクッションでも、デリンジャーくらいの小物なら、立派な音消しにはなるようです。しかも、レン氏が撃たれたのはフランス窓の外です。室内では本当に音はちょっとした石が落ちた程度しか響きません。当然、殺傷能力もそれ相応です。犯人がとどめに額を撃ったのは、胸を撃っただけでは不安だったからでしょう。

 さて、最初にレン氏の書斎に呼んで話を聞いたのは執事のチャントです。遺体の第一発見者ですから。彼はレン家に執事として仕える一族の人間で、まぁ小説や芝居によく出てきそうな典型的な執事です。一昨日の晩、いつもの晩餐は無事に終わりました。古語学者のマイケル・ベッドシャムはチェスナット荘に泊りました。晩餐に参加するときはいつもそうで、彼にはちゃんと寝室があてがわれているのです。
 チャントによると、晩餐のあとチェスナット荘の住人は居間でそれぞれにくつろいでいましたが、いつものように三々五々寝室に引き取っていきました。最後まで居間に居たのが、マイケル・ベットシャムと、オスカー・ウェストマン、そしてレン氏です。そろそろ十一時という頃に、ベットシャムとウェストマンは一緒に居間を出て、寝室に引き取ったのを、チャントが見ています。そのままチャントは居間に入り、レン氏に何か用はないかと尋ねました。これはいつものことで、主人の返事もいつものごとくだったそうです。
 『ブランデーをしまっておいてくれ。グラスはいい。まだ飲むから。一服してから寝るよ。戸締りは私がするから、もう休んで良いぞ、チャント。』
『かしこまりました。旦那様。それでは、お先に休ませて頂きます。』
 チャントは言われた通りブランデーの瓶をしまい、もう一度レン氏に挨拶をして、居間を後にしました。
 チェスナット荘の住人は、主人のレン氏だけが宵っ張りだったそうです。どの召使よりも、遅くまで起きているのがレン氏の習慣でした。

 『レン氏を居間に残して、きみはその後どうしたのだい?』
 ぼくが質問を続けると、チャントは頭の中で夕べのことを順序だてて思い出そうという顔つきをしながら、僅かに頭を縦に揺らして答えました。
『私は居間を出ると、いつもの戸締りの確認をしました。玄関から始めて、一階の部屋全ての戸締りを確認し、異常はありませんでした。居間のフランス窓だけが開いていますが、それはいつも旦那様が戸締りしますので。
 最後に台所に行き、万事異常がない事を確認しました。最後まで片付けをしていたメイドも、もう終わる頃でしたので、一緒に灯りを持って三階の自室に引き上げました。』
『それから?』
『休みました。いつものとおり…家内が先に部屋に引き上げておりましたので、二人とも…ええ…十二時になる前にはもう眠ってしまっていたと思います。』
『それから今朝まで、何か変わったことはなかったかい?物音とか…』
『いえ、別にこれと言って…警部さんがおっしゃっているのは、銃声とか、叫び声とかを聞かなかったかと言うことですか?』
『そうだけど、それ以外にも何か物音なり、見たものなりあれば…』
『いつもの音だけしか聞こえませんでした。窓の外の風とか、窓がガタガタ言う音、隣りの部屋のコックのいびき、栃の実が屋根に当たる音…それくらいで、別に変わったことはありませんでした。朝に目を覚ますまで何も…』
 翌朝だれよりも早く起きたのが、チャントでした。この時のことを語るとき、さすがに冷静沈着なチャンとも、眉をしかめ、頬をひきつらせました。
『私がベッドを離れたのは、明け方の五時です。この屋敷で毎日一番早く起きるのは私ですので。私はまず一階に降りると、真っ先に居間に入りました。私は居間へのドアを開けてるとすぐに、いつもとは違う気配を感じました。空気が変にひんやりとしているのです。私は夕べ、旦那様が戸締りをしそこなったのだと、直感しました。そこで、フランス窓の方を見やりました。案の定、フランス窓は外側に開いており、カーテンが風に揺れています。外は僅かに明るくなりはじめていました。私はさすがに部屋が冷えすぎだろうと思い、フランス窓へ近づき、締めようとしました。カーテンを払い、フランス窓に手をかけて閉めようとした時、そのすぐ外で倒れている旦那様を見たのです。』
『レン氏はどんな風に倒れていた?』
 ぼくが聞き返すと、チャントはさらにいっそう眉を寄せました。
『あお向けに ― お召し物は、昨晩のものと一緒でした。居間の方に足を向け、あお向けに倒れ、両手はだらんと投げ出していました。私は慌てて呼びかけながらお側に座り込みましたが、すぐにお亡くなりになっていることが分かりました。あまりの事に声も出ませんでした。私が座ったところから、旦那様の体を挟んで向こう側に、小さな銃とクッションが転がっているのを目にしました。』
『それらに触ったかね?』
『いいえ、触りませんでした。』
『それからどうした?』
『すぐに二階へ駆け上がり、アイリスお嬢様の部屋のドアを叩き、お嬢様を起こしました。お嬢様はすぐに驚いた顔をドアからのぞかせ、何事かとおっしゃいました…』
『待った。』
 ぼくはそこで手を上げて、チャントを遮りました。
『どうして、アイリス嬢なんだい?』
『それは…』
 チャントは意表をつかれたように、一瞬言葉を失いました。しかし、すぐにぼくをまっすぐ見据えて言ったのです。
『それは、このお屋敷で一番落ち着いて事に当たれるのが、アイリスお嬢様だからです。レン家の相続人ですし ― とにかく、この屋敷で旦那様に何かあれば、だれもがアイリス様に真っ先にご報告します。』
『なるほどね。』
 ぼくは一応納得する事にして、チャントに先を促しました。
『アイリスお嬢様に、旦那様が窓の外で倒れ、亡くなられている、銃で撃たれたようだと報告しますと、お嬢様はびっくりして目を見開き、しばらく押し黙ってしまわれました。私は失神でもしないかと心配しましたが、アイリスお嬢様はすぐに、ベッドシャム様と、ウェストマン様を起こし、人をやって警察とメインホルム先生に知らせるように命じ、着替えるために部屋に戻りました。』
『どうして、ベッドシャムさんと、ウェストマンさんなんだろうね。』
『お二人とも、男性ですから… イライザ様や、ダイアナ様、マグノリア様は旦那様の死体など見ようものなら、卒倒しかねません。』
『なるほど。』
『私はアイリスお嬢様の指示の通り、ベッドシャム様と、ウェストマン様を起こし、事の次第をご報告しました。お二人とも驚いて、寝巻きのまま部屋を飛び出し、居間へと駆け込みました。私は起きてきた下男を捕まえると、馬を使ってすぐにマクビー巡査と、メインホルム先生を呼びにやらせました。
 私が居間に戻ると、ベッドシャム様と、ウェストマン様は旦那様のご遺体を囲んで、呆然となさっていました。ウェストマン様が旦那様の手に触れて、氷のようだとかおっしゃったような気がします。ベッドシャム様はがっくりと膝をついて、懸命に口の中で何かを唱えていました。恐らく、死者のための古い祈祷でしょう。
 騒ぎに気付いて、イライザ様とダイアナ様が、ガウンだけをひっかけて降りてきましたし、他の召使達も起きてきて、ご夫人がたが卒倒したり倒れたり叫んだりの大騒ぎになりました。そこへ、ご自分で部屋着をお召しになったアイリス様がいらして、騒ぎを収めてくださいました。あの方がいらっしゃらなかったら、どうなった事か…。』
『なるほどね。』
 ぼくは、この家におけるアイリス嬢の立場が分かってきました。
『それから?』
『間もなく、マクビー巡査がいらっしゃり、現場の保全をお命じになりました。ご夫人がたは小間使いたちをつけて落ち着かせ、アイリス様が遺体は旦那様であることを巡査に説明なさいました。ご遺体の確認後、居間からフランス窓、庭は巡査によって封鎖されました。』
 チャントはその後、遺体を見ていないし、居間にも入っていません。それは他の住人も同じ事です。

 チャントの供述は、およその状況の説明になっていました。最後に居間に残ったレン氏が、翌朝五時過ぎに発見されるまで、他の召使達はチャントと同じように三階の部屋で休んでおり、誰も変わったことには気付きませんでした。
 ただ一つ、ぼくが注目したのは、チャントの言った『いつもの物音』です。『栃の実が屋根に当たる音』…これは、チェスナット荘の名の由来にもなっている、栃の木の実の話です。屋敷のすぐ南側に栃の木の老木があり、その枝が張り出してちょうど二階の窓の庇に、実が落ちてくるような位置になっています。この木の実が去年落ち損ねたような物もふくめて、風がおこるとよく庇にぶつかって、鋭い音を立てる。
 初めてチェスナット荘に宿泊した客などはかなり驚くそうですが、住人はすっかり慣れてしまって、夢の中でその音を聞いても起きたりはしないそうです。犯行のあった夜もこの栃の実が庇にぶつかった音がした ― しかし、そのうちの一つか二つは、クッションで音消しをされた銃声なんじゃないかと、ぼくは考えたのです。
 
 小間使いや下男、馬丁、庭師などにも話を聞きましたが、目新しいことは何もありませんでした。
 次に、レン家の人々を聴取することにしました。まず、当主が亡くなって、女子相続人ながら当主代理となったアイリス嬢です。それから、婚約者のマイケル・ベッドシャムも一緒に。彼の腕に手を添えて、アイリス嬢は書斎に入ってきました。
 正式の喪服ではないものの、暗い色のドレスを着たアイリス嬢は、さすがに顔色が冴えませんでした。しかし、太めの眉毛がきりっと上がり、賢そうな瞳をしっかりと据えたその顔は ― 美人の内に分類されると思います。
 マイケル・ベッドシャムは背格好こそいかにも「普通の人」という風情ですが、その見事な金髪が目を引く男です。目も真っ青なのですが、少し下膨れて子供っぽい印象のある顔つきのせいか、こちらは残念ながら美男子とは言えません。しかし非常に美しい声で、ゆっくりと話すので、ぼくの受けた印象は、とても良いものでした。
 ぼくが椅子を勧めると、アイリス嬢がそれに座り、その背後にベッドシャムが彼女を守るように立ちました。ぼくはお悔やみを述べてから、事情を尋ねました。
『最初に ― 大変心苦しい質問なのですが ― レン氏を殺害した人物にお心当たりはありますか?恨みを持っているとか…』
 すると、二人は顔を見合わせ、アイリスが小さく頷くと、ベッドシャムが口を開いた。
『警部、それなのですが ― 実はレンさんは生前、ご自分の命が狙われているのではないかと、心配していました。ロンドンの私立探偵に相談までしていたのです。』
『それは、シャーロック・ホームズさんですね?』
 ぼくが言うと、二人ともびっくりした様子で、また顔を見合わせました。
『ホームズさんとは懇意にさせて頂いているんですよ。バリーズベリーに滞在されているという事は、もう耳に入っていましたから、ホームズさんがレン氏の事件に何らかの形で関わっていることは、察しがついています。』
 ぼくはホームズさんが牢屋に居る事は伏せておきました。すると、ベッドシャムはなるほど、という感じでゆっくり頷きました。
『そうでしたか。レンさんは、私とアイリスにだけは、自分が命を狙われていると話され、ホームズさんに相談するためにロンドンに行くときも、私達を同行したのです。しかし、実は私もアイリスも、具体的にレンさんがホームズさんにどんな話しをしたのかは、知らないのです。ご自宅には一人で行かれましたので…』
『その点は、ホームズさんに直接お伺いしましょう。お二人とも、レン氏がホームさんに相談したことを、ほかの誰かに話しましたか?』
 まず、ベッドシャムが答えました。
『ドクター・メインホルムだけはご存知でした。ほかには誰にも。』
『伯父が絶対に口外しないようにと申し付けましたので。』
アイリスが続けるので、またベッドシャムが頷き、口を開きます。
『実は一昨日、ここでのお茶会に、ホームズさんがいらしたのです。ヒープスという鳥類学者と名乗って…』
『その時も、ヒープスがホームズさんであることを知っていたのは、レン氏と、お二人だけだったのですね?』
 ベッドシャムとアイリスは深く頷きました。
『レン氏が亡くなってから、誰かにホームズさんの話をしましたか?』
ぼくがしつこく尋ねると、ベッドシャムとアイリスは互いに顔を見合わせました。二人とも僅かに首を振ります。そして、ベッドシャムが答えました。
『いいえ、誰にも話していません。』」

 「どうして、レン氏がぼくに依頼をしたことをほかに知っている人がいるか、しつこく訊いたのかね?」
 ホームズが質問を挟んだ。すると、ホプキンズは悪戯っぽくホームズを上目使いで見ながら答えた。
「そりゃ、この事件の捜査にホームズさんが加わると犯人が知ったら、警戒を深めて証拠隠滅に走る恐れがあるからですよ。犯人には、できるだけホームズさんの存在を知られるのを遅らせたいと考えました。」
「ベッドシャムかアイリス、もしくは二人とも犯人だったら無意味な配慮だがね。それで、その後もヒープスがぼく、シャーロック・ホームズであることは、伏せられているのかい?」
「ええ、そうです。」
 ホプキンズが頷くと、ホームズは話の先を促した。

 「ぼくは、アイリスとベッドシャムに質問を続けました。
『お二人は、レン氏が誰を疑っていたかはご存知ですか?』
『いえ、それは…』
 ベッドシャムは、綺麗な青い目を伏せて、口ごもりました。あきらかに、誰か心当たりがあるようでしたが、そこはさすがに好人物です。人を悪し様には言いたくないのでしょう。
『だれか、疑っていらしたのですね?それとも、お二人には分っているとか…』
『いいえ。』
 控え目な音量ながら、きっぱりとした口調で、アイリス嬢が言いました。彼女はぼくをまっすぐ見詰め、口元を引き締めながら続けました。
『伯父は誰の名前にも触れませんでした。私達にとっても、伯父のような好人物を殺す人間など、想像もつきません。』
 ぼくは嘘だと思いました。彼女自身も、自分の嘘がぼくに察知されている事を分かっているようでした。とにかく、それ以上は追求せず、昨晩の事について尋ねました。すると、今度もベッドシャムが先に口を開きました。
『それなのですが、警部さん…』さっきと同じ出だしです。
『それなのですが、警部さん。実は夜中に妙な音を聞いたのです。』
『妙な音?どんな音を、何時ごろに聞いたのですか?』
『はっきりとは分りません。』
 ベッドシャムは青い瞳に当惑の色を浮かべて、首を振りました。
『多分、夜中の…何時ごろでしょうか。時計を見ていませんので、なんとも言えないのですが、何かパチンという音を聞いたのです。この家に泊ると、よく栃の実が窓の庇に当たる音を聞きます。ちょうどそんな音で、いつもはさほど気にならないのですが、ただ今になって思うと、夕べのパチンという音は、いつもよりだいぶ大きかったような気がするのです。』
『つまり…銃声だったかもしれないと?』
 ぼくが先を促すと、ベッドシャムは困ったように吐息をつきました。
『銃声なんてあまり聞いたことがありませんから、断言は出来ないですが…レンさんが夜中に銃殺されたとあっては、そう疑わざるを得ません。』
 銃殺という言葉の時に、アイリス嬢が身を固くしました。それを気遣って、ベッドシャムは彼女の肩にそっと手を置き、青い瞳に困惑の色を浮かべています。
『その気になる音は、一度だけでしたか?』
 ぼくが尋ねると、ベッドシャムは首を傾げました。
『確かに聞いたと言えるのは、一回だけです。』
『時刻はどうしてもわかりませんか?』
『どうでしょう…いや、分かりません。寝入りばなではないと思います。多分、いくらか夢をみていて…その途中で、聞いたような気がするのです。いつもの栃の実の音だろうと思って、気にも留めませんでした。』
『ベッドシャムさんの寝室はどこですか?つまり…一階のフランス窓との位置関係をお伺いしたいのですが。』
『私がいつも寝室としてお借りしている部屋は、二階の…西のから二部屋目です。ですから、居間のフランス窓からは、少し離れています。』
『アイリスさんはいかがです?その音をお聞きになりましたか?』
 ぼくが話を向けると、アイリスはその考え深げな瞼をわずかに動かして、答えました。
『私の寝室は、居間の真上です。ですから、フランス窓には近い位置になります。』
『音は聞きましたか?』
『いつもの通りでした。その、つまり…多分、栃の実が屋根にぶつかる音も、何度か聞いたかもしれません。でも、この家に住んでいれば普通のことですから、私自身は気にも留めませんでした。』
『あなた自身は・・・ですか?』
 ぼくがもう一度確認するように繰り返すと、アイリスは小さく頷いて続けました。
『申し上げました通り、私の寝室は叔父が亡くなっていたフランス窓のすぐ上の角部屋です。そしてその隣りが、従妹のマグノリアの寝室になります。ゆうべ、マグノリアが私の部屋に来て、下で妙な音がすると言うのです。』
 ぼくは思わず身を乗り出しました。
『それは何時ですか?』
『マッチを擦って時計を見ると、一時十八分でした。でも、マグノリアが私の部屋に来たのは、それより一分か二分前だと思います。』
『つまり…?』
 ぼくはアイリスの詳細で冷静な話しぶりに魅入られるように、先を促しました。すると、アイリスは椅子に座ったままもう一度姿勢を正して、説明を始めました。

 『はじめからご順を追って申し上げましょう。ゆうべ、晩餐のあといつものとおり居間で過ごし、やはりいつものとおり十一時ごろにはマグノリアと一緒にホットミルクを飲んで、それぞれの寝室に引き取りました。小間使いたちもすぐにさがらせ、十二時よりも前にはベッドに入りました。
 いくらか眠ったかと思った頃、誰かが私を揺り起こすので気が付いてみると、しきりにマグノリアが私に声をかけ、肩をゆすっていました。灯りを持っていませんでしたが、窓からの月明かりが不安そうなマグノリアの顔を照らしていました。私は驚いて起き上がりました。
 「一体、どうしたのマグノリア?こんな夜中に。」
「変な音がするのよ、アイリス。あなた、聞かなかった?」
 マグノリアは私のベッドに座り込み、ヒソヒソ声で言いました。私は首を振りました。
「いいえ、何も聞こえないわよ。」
「下で、なにか物がぶつかる音がしたのよ。」
「また、栃の実が屋根か何かに当たった音でしょう?」
「分からないわ。でも、いつもと違うような気がして、目がさめたの。何の音かしらと思って聞き耳を立ててみたけど、何も聞こえなくて。気のせいかと思ったけど、そのすぐ後に人が家の中を歩いているみたいな音がするのよ。ほら、聞こえない?」
 マグノリアはおびえるようにして言いましたが、私には外のかすかな風の音しか聞こえません。私は気のせいだから、寝室にもどるように言いましたが、マグノリアはききません。
「ねぇ、ちょっと廊下に出てみない?」
 従妹は言い出したらきかない、頑固なところがあります。仕方がないので、私はまずマッチを擦り、蝋燭に火を灯しました。そして時計を見ると、一時十八分だったのです。
 私が灯りを持ち、マグノリアは後ろから私の腕をしっかりとつかんで、二人して廊下に出ました。まず、私が二階の廊下を見回しても、家の中はシンとしずまりかえり、誰かが動き回っているような気配はありません。
 「何もないわよ」
 私がマグノリアの耳元でささやくと彼女は、「下に降りてみましょうよ」と、促します。仕方が無いので私の腕を掴んだマグノリアを従えたまま二階の廊下を進み、階段の下を覗き込みました。やはり何の気配もありません。私達はまっくらな階段を、蝋燭と天窓からの月明かりだけを頼りに、ゆっくりと降りました。
 降りたところが、玄関ホールです。もちろん、静かでした。人影もないし、物音もしません。
 私の背中にぴったりと体とつけていたマグノリアは、安心したように力を抜き、私の腕を放しました。
「なにもないみたいね。」
 彼女は私の耳元で小さな声で言い、すこし笑ったようでした。私は呆れながら、寝室に戻りましょうと言おうとしたその時、突然マグノリアが再び私の腕を掴みました。それも凄い勢いで。びっくりして振り返ると、マグノリアは私の肩越しに階段の方を見つめています。私は咄嗟に階段の方を見ました。真っ暗な階段には誰も居ませんでした ― ただ、階段の一番上で人影が動いたような気がしたのです。私は蝋燭をマグノリアに押し付け、彼女の手を振り払うと咄嗟に階段を駆け上がりました。
 階段を途中まで上がり、二階の踊り場を見ましたが、人影などありませんでした。さっきと同じように、だれもいない廊下です。天井の方を見ると、窓から月明かりが差し込み、庭木の陰が廊下や階段の壁に微かに映っていました。
 どうやら、私達はこの動く影を見間違えたようです。私は拍子抜けてしまいました。言葉を失い、蝋燭を持ったまま突っ立っているマグノリアの所に、私はもどって言いました。
「なにもなかったわ。大丈夫よ、庭木の影だから。」
 すると、マグノリアはクスクス笑い出しました。
「私たち、馬鹿みたいね。」
 私も苦笑するしかなく、二人して寝室に戻りました。その後、マグノリアは少し興奮して眠れそうにないというので、私がしばらく枕もとに居ました。そしてマグノリアが寝付いたのを見届けてから自分のベッドに戻り、また眠りました。
 次に目覚めたのは、チャントが私の寝室のドアを叩いたときです。つまり ― 伯父が死んでいると、知らせて来た時でした。』

 ここまで語り終えると、アイリスは深く息をつきました。その肩をベッドシャムが優しくさすっています。
 ぼくは全てをメモし終わると、少し考えてから口を開きました。
『なるほど。とても分かり易い説明ですね。感謝します。ですが、何点か確認させてください。』
 アイリスは小さく頷きましたが、少し疲れたような表情でした。
『まず、一点目ですが…夜中にマグノリアさんがあなたを起こしたとき、変な音がするから、廊下に出てみないかと言ったのですよね?』
『ええ、そうです。』
『マグノリアさんは、どうやって、アイリスさんの部屋に入ってきたのですか?つまり…そもそも、変な音で目を覚ましたマグノリアさんは、廊下に出てからあなたの部屋に入ったのではないのですか?』
『ああ。』
 アイリスはぼくの質問の意味を飲み込むと、少し微笑みました。
『マグノリアは、いったん廊下に出て私の部屋に来たのではありません。連絡ドアを使って、私の寝室に入ってきたのです。』
『連絡ドアですか?』
 ぼくが聞き返すと、アイリスは頷きます。
『ええ。マグノリアと私の部屋は、以前は大きな一つの寝室でした。後で真中に壁を作って仕切り、その壁に扉を作って部屋から部屋へ行き来できるようになっているのです。』
『鍵は?』
『ついていません。』
『その扉は普段も使いますか?』
 アイリスは少し微笑みました。
『ええ、刑事さん。マグノリアと私は、いつも一緒に行動する親友であり、従姉妹同士です。しょっちゅうこのドアを使って、互いの寝室を行き来しますし、開け放しのことも良くあります。』
『なるほど。だから、マグノリアさんは物音を聞いても、廊下には出ずに、直接あなたの寝室に来たのですね?』
『そうです。』 
 この点には納得が行ったので、ぼくは別の質問をしました。
『お二人は、蝋燭の灯りを一つ持って、階下へ様子を見に行きましたよね。確認しますが、本当に一階には人の気配が無かった?』
『ありませんでした。』
 アイリスは、揺るがぬ調子で答えます。
『マグノリアも私も、緊張して耳をすませましたが、一階には人の気配はありませんでした。』
『居間のフランス窓には近づきましたか?』
『いいえ。玄関ホールにしか行きませんでしたから。居間へは入らなかったので、様子は全くわかりません。』
 アイリスは、少し眉をしかめました。
『あの時、居間の様子を見ていたら…』
『それは何ともいえません。』
 ぼくが遮ると、アイリスは細かく頷いて、口をつぐみました。ぼくは、次の確認に取り掛かりました。
『お二人が、玄関ホールから二階に戻ろうとしたとき、お二人とも階上に人が動く気配を感じたのですね?』
 アイリスはしばらく、考え込むような顔をしていましたが、やがて口を開きました。
『マグノリアがどう表現するかは分かりません。私は、マグノリアが急に腕を掴むので彼女の視線を追ってみると、階段の上で何かが動いたような気がしたのです。ですが、途中まで階段を駆け上がってみても、何もありませんでした。』
『確かに?』
『ええ、確かに。』
 アイリスの返答には、確固たる物がありました。
『もう一つ、最後に確認させてください。お二人が階下に降りるとき、何か足に履きましたか?』
 アイリスはニ,三度瞬きをしましたが、すぐにぼくの質問の意図する事がわかったようです。
『私は裸足でした。マグノリアも、裸足だったと思いますが…彼女に確認してください。二人で寝室に戻ってから、私はしばらくマグノリアの枕もとに居ましたが、誰かが起きて部屋を出る気配は感じませんでした。』
 これ以上のことは、マグノリアに確認するべきだと判断し、ぼくはアイリスとベッドシャムに聞き取りは以上ですと言いました。すると二人は頷き、静かに出て行きました。」

 ホームズは長い足を組替え、足先を少し揺らしながら言葉を挟んだ。
「なるほど、アイリスは確かに察しが良いな。ぼくが思ったとおり、かなり頭が良いよ。」
 すると、ホプキンズも同感のようだった。
「ええ、そうですね。階段の上に人影があるんじゃないかと思って、アイリスは咄嗟に駆け出し、階段を途中まで昇って二階を見ました。もし、なにか履物を履いていたら多少の足音がして、ほかの住人を起こしたかもしれないと思ったのですが。アイリスはその事まで考慮して、答えています。ホームズさんのおっしゃるとおり、彼女はかなり頭の回転が良いですね ― 多分、ベッドシャムよりも…。まぁ、これは余計な事です。事情聴取の様子を、続けますよ。」
 そう言って、ホプキンズはまた手帳に眼を落とした。


→ 5. 母と息子をめぐる評価の相違 ― ホプキンズの観察(その2)


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