Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

3. お茶会におけるシャーロック・ホームズの観察

 「もちろん、チェスナット荘の人々について、レン氏から説明は受けている。でも、ぼくはバリーズベリーの住人の目から見た、彼らについての知識が欲しかったから、パブでの情報収集は欠かせない。
 ぼくはこの辺りに休暇で来た鳥類学者を演じる事にした。名前はショーン・ヒープス。オックスフォード大学にいる、実在の鳥類学者だ。ぼくとほぼ同年代だから、ヒープス氏を直接知らない限り、偽者だとはばれないだろう。とにかく、ぼくはパブに行き、チェスナット荘に関するひととおりの評判を収集した。それらと、ぼくが出席したお茶会の様子から、彼らの人物像を、ここで整理してみよう。
 まず、二年前に死去した先代当主,老ジョン・レンについて。これはもっぱらパブでの評判だ。彼は頑固で元気な領主だったが、三人息子のうち、下の二人を相次いで亡くして以来、すっかり力を落としてしまった。四十以上も若いイライザ ― レン夫人が言葉巧みに老レン氏を篭絡し、後妻に収まるのは造作も無い事だっただろう。
 そのレン夫人に関するパブでの評判で、共通しているのは美人だということだ。そして全ての村人は、領主の財産目当てに取り入った、よそ者という理由でイライザを非常に嫌っていた。

 バリーズベリー到着の翌日、チェスナット荘のお茶会に招かれて、ぼくは実際のレン夫人に会った。あまりの嫌われ方に、どれほどの毒婦が現われるのかと、やや構えていたのだが、実際に会ってみると、拍子抜けてしまった。彼女が、財産目当てに老レン氏と結婚したのは確かだ。しかし、それ以上の策謀を働かせるようなタイプには見えなかった。確かに、美人と分類されるだろう。豊かで美しい髪の持ち主で、濡れたような瞳も大きく、くっきりしている。ただ、口元には甘さが残り、狡猾さが感じられない。ぼくが鳥類学者を装って、小鳥の話をすると、彼女は何の疑いも持たずに、いちいち感心したり、驚いたりしていた。
 イライザは金に対する欲求が人並みに強く、最初の夫を亡くし、偶然にも老レン氏と知り合ったことから、おいしい結婚に飛びついただけで、それ以上の行動を起こしていない。夫は大方の予想通り九十二歳で亡くなり、何もしなくても自分に莫大な遺産が転がり込むだろうと、のんびり構えていたのだ。
 しかし、実際はそうはならなかった。彼女には事態がそうなるなどという予想する想像力もないし、その状況を変える能力もない。それだけの女性に思えた。

 一方、イライザと彼女の先夫との息子,バリー・ジョンソンは顔立ちこそ母親似の大変な美男子だが、母親ほど悠長ではなかった。無愛想で、用心深い。期待したような遺産を相続できなかった事に不満を抱き、チェスナット荘の住人を憎みながら、暮らしている ― というのが、村人たちの見解だ。パブの男達は同時に、美男子ジョンソンが、村の若い娘の間で密かな人気の的になっていることも、面白くないと思っているらしい。
 ジョンソンがレン家の人々を憎みながら日々暮らしているという事は、お茶会での彼の無愛想で緊張感に満ちた態度からも、感じられた。しかも、中々の観察眼の持ち主だ。ぼくが鳥類学者と名乗って、色々喋っているのを疑わしそうに見ていたようだ。彼がお茶会の途中で居なくなる間際の捨て台詞は、ぼくのヒタキに関する講釈に対して、『本当ですかね。』というものだった。犯罪が起きるとしたら、大いに興味を引かれる人物だ。もっと観察したかったが、彼が退出してしまったので、これっきりになった。
 村人たちの噂によると、ジョンソンはレン氏の二人の姪の内、どちらかを妻にしようと目論んでいるとの事だった。母親経由での遺産相続が無理なら、姪たちを妻にしてそれにありつこうという算段だ。しかし、これは口さがない、そしてジョンソンを嫌う人々の見解で、良識のある人はそれについて、根も葉もない噂だと否定した。あの可愛い、しっかりしたお嬢さんたちが、ジョンソンのような美男なだけで、ほかは害を成すばかりの男になびくはずも無いというのが、彼らの言い分だった。
 特にアイリスはマイケル・ベッドシャム君とはお似合いの夫婦になるということで、村人全員に祝福された二人だから、なおさらだ。

 イライザはどうやら鳥が好きらしく、ぼくの話を心底面白がっていた。野鳥観察のために、朝早くから森へ出かける話などをすると、自分もやってみたいと言い出すほどだ。
『早朝の野鳥観察は、夏に限った事ですの?ヒープス先生。』
 イライザは黒く大きな瞳を輝かせて、尋ねた。
『もちろん、他の季節にも出来ますが、やはり夏の朝ほどさわやかな季節はありませんから。』
『森ですものね。それはそれは素敵でしょう。でも、毎回鳥が居るとは限らないのでは?なにせ鳥って気まぐれでしょう?』
 イライザにとって、小鳥のイメージはどこへでも飛び去ってしまう、きまぐれな、そして可愛い生き物なのだろう。
『いえ、鳥というのは、中々時間に厳密な動物なのですよ、ミセス・レン。』
 ぼくは、アイリスが注いでくれたお茶のおかわりに口をつけてから、続けた。
『夏の朝、日の出の一時間ほど前から小鳥は動き出します。観察を続けるとわかるのですが、ほぼ毎日、同じ木に同じ固体が、寝床から飛んでくるのです。そして、きまった動きでエサをついばみ始める。』
『まぁ、毎回同じですか。』
 イライザが言うと、甘いケーキを熱心に口に運んでいたマグノリアが、クスクス笑いだした。
『あら、毎日同じ時間に、同じ行動なんて、人間みたいですわね。特にこの家なんて、そうじゃない?』
 マグノリアは、レースのハンカチを口に添え、またクスクスと笑い、ケーキ皿を持った腕の肘で従妹のアイリスをしきりに突っついた。

 マグノリアは、母親のダイアナと一緒にチェスナット荘に住んでいる。彼女は典型的な世間知らずのお嬢様だ。無邪気で、恥ずかしがりやで、そのくせハンカチの下のクスクス笑いが止まらない。歳はアイリスと同じはずだが、落ち着きのなさたるやアイリスとは対照的だ。
 彼女は顔の作りがどれも小ぶりで、頬がふっくらとしたところなどは、やや少年っぽい印象を受ける。良家の娘らしく仕立ての上等な服は着ているが、レン氏によるとそれほどお洒落には興味がないらしい。むしろ、本が好きで子供向きの本を多数取り寄せては、慈善活動で孤児達に読み聞かせているとの事だった。
 チェスナット荘に住む殆どの人がいつもイライザやジョンソンの存在に苛立っているのに対し、マグノリアだけはあっけらかんとしている。彼女は何事も深刻にはうけとめないタイプなのだ。ジョンソンがレン氏の姪たちを妻にしようとしているという噂に関しても、自ら面白がっている節すらあるというのは、パブでの評判だ。
 基本的に、あまり物事について心配しない性質なのだ。いつもアイリスと行動をともにし、彼女と腕を組んでは、なにかと頼りにしている。帽子につけるリボンの色さえ、いちいちアイリスに決めてもらってはコロコロと笑っているらしい。

 マグノリアに同意を求められたアイリスは、控え目に、『そうね』とだけ答え、マグノリアに微笑んで見せた。マグノリアにいらだつような様子は、全くない。むしろ、手のかかる、可愛い妹の面倒を見るのが彼女の喜びにさえ見えた。
 アイリスは両親を同時に海難事故で無くした不幸な娘だが、実にしっかりしていて、聡明だ。話し方も理路整然としている。レン氏も息子のように頼りにしていた。そして彼女は伯父とチェスナット荘を心から愛し、よそから来てチェスナット荘を奪い取ろうとしている、イライザやバリー・ジョンソンを疎ましく思っているのは、お茶会での緊張した態度でも僅かに感じられた。もちろん、彼女はそれを隠そうとしているがね。イライザに対しては慇懃ではあるが、愛想の一つも見せないし、バリー・ジョンソンに至っては存在していないかのごとく、無視に近い態度でいる。ジョンソンもそれがわかっているのか、アイリスを避けているようだった。
 彼女は女性にしては少し背の高い方だ。薄い茶色の髪で、灰色の瞳をしている。レン氏の言うとおり、彼女は実にしっかりとした態度の女性だった。背筋をまっすぐに伸ばし、意志の強そうな太い眉を上げ、賢そうな眼光をしている。もちろん、彼女はぼくが何者であるかをレン氏から聞いているのだろう。同年齢のマグノリアのようにクスクス笑いをするようなことはなく、万事用心深そうにお茶会の首尾を観察しているようだった。
 まるで探偵のようなアイリスのその雰囲気に、ぼくはある種の強い情熱を感じた。それは恐らく、自分が女子相続人になってバリーズベリーの所領と、このチェスナット荘を守ろうとする強い愛情だろう。ぼくは領民を愛し、共に敵と戦う女領主のような気高さを彼女に見たような気がする。
 同時に一点、アイリスに関して気になる点がある。彼女はレン氏の念願どおり、マイケル・ベッドシャムと婚約しているが、それに関して心底幸せそうには、見えないことだ。ベッドシャムとは幼馴染で、気の置けない間柄ではあるし、さっき言ったように、村人たちも二人の結婚を待ち望んでいる。しかし、アイリスが彼を夫として愛し、敬うかどうか…ぼくが受けた二人の印象からは、それを確実に感じ取る事は出来なかった。
 ベッドシャムが頼りないとか、不誠実だという意味ではない。ただ、結婚という男女の契約が幸せのうちに成立するときに感じられる、特殊な感情 ― ぼくにはあまり上手く説明できないが、とにかくそれがアイリスには感じられなかった。

 ベッドシャムはいかにも優秀な学者らしく、生真面目な感じのする青年だった。今回のお茶会にも出席していたが、彼もアイリスと同じくぼくの正体を知っていたようだ。そ知らぬ顔でいるアイリスとは対照的に、ベッドシャムは終始、ぼくの顔をチラチラ見ては、心の不安を隠し切れていない様子だった。腹芸が利かないのだ。
 そんな緊張も加わってか、お茶会の間もずっと黙っていた。気高い女領主アイリスの夫君となるには ― なんだろう。そう、貫禄とか安心感が欠けていた。ぼくがアイリスとベッドシャムの間に、幸せな愛情の熱気を感じなかったのは、そのせいかも知れない。
 ベッドシャムの人物像を表現するなら ― 良く言えば純朴、悪く言えば愚鈍。アイリスにそれらを許容するおおらかさがあれば良いが、彼女はいかんせん、頭が良すぎる。
 これはぼくの考えすぎかもしれない。パブでの彼の評判はすこぶる良かった。ベッドシャムはこの村の生まれだし、村始まって以来の秀才だ。品行も良く、アイリスとは似合いの夫婦になると、誰もがこの結婚を祝福しているようだった。

 マグノリアの無邪気な小鳥への感想に対し、その母親,ダイアナがけだるそうに口を開いた。
『マグノリア、良い事を言うわ。ほんとう、この家で起こる事といったら、毎日同じ事だけ!本当に退屈この上ないのだから。ヒープス先生、小鳥みたいに小さくも、可愛らしくもないけれど、この家に居る人間を観察すると、これまたどれも寸分たがわぬ行動を毎日繰り返す事に、お気付きになりますわ。』
 ダイアナはこの長い台詞を、一度の息つきも無く、間延びした恐るべきスロウ・スピードで言った。彼女からマグノリアの遺伝は、その顔の輪郭に見られた。ぼってりとしたその頬は、緊張を忘れ、ただ引力に従っているように見える。彼女の表情全体には、その下向きの雰囲気が広がり、すっかり疲れてしまったような彼女の人生観を表しているようだった。
 ダイアナの気だるい雰囲気を嘲るように、イライザがひどく陽気に笑い出した。
『まぁ!ほんとう!この家じゃ、みんな朝起きて、夜眠るまで、何から何まで毎日同じ事の繰り返し!でも、それこそ居心地の良い生活だからこそ、こうなったのでしょう?使用人たちも楽で良いでしょうよ。食器の置き方も、本の並びも、毎日一緒。平和そのものだわ。私は平和な生活が好きよ。』
『お金のある、平和な生活でしょう。』
 皮肉とも、自嘲とも取れない、不思議な口調でダイアナが言った。一方、イライザは『あら』と小さく言ったきり、済ましてお茶を口に運んでいる。
『ダイアナ、お客様の前で失礼だよ。』
 男性陣はみな無口だったが、ここでダイアナの弟,オスカー・ウェストマンがたしなめるように言った。姉は鼻を少し鳴らして、不愉快そうに窓の外へと視線を移した。
『失礼しました、ヒープスさん。』
 ウェストマンはぼくに詫びるように、さらに言った。この弁護士は、色が浅黒く、カラスのように黒い髪がまっすぐで、印象としてはあまり姉や姪のマグノリアには似ていない。しかし、頬の輪郭線は良く似ており、ウェストマン家の強い遺伝は、ここに出ることを示していた。

 ウェストマンは弁護士で、その敏腕でもって、老レン氏の遺産がイライザ・レン夫人,バリー・ジョンソン母子に相続されるのを阻止した男だ。なんでも、老レン氏の遺言書製作日付や、株式取得年,株式に関する法律の施行年などの隙間を巧みに縫い、それをやってのけたというのだ。
 もとより、イライザとジョンソンには味方が少ない。チェスナット荘の住人が圧倒的にウェストマンのやり口を支持したのだから、母子には勝ち目がなかった。
 それよりもぼくの興味を引いたのは、ウェストマンのアイリスに対する視線だ。お茶の時間中、口の悪い姉をたしなめつつ、常にアイリスに愛情のこもった視線を送っているのだ。これは推測だが、ウェストマンも、ぼくと同じようにアイリスとベッドシャムの結婚に違和感を覚えているのだろう。同時に、アイリスに愛情を抱いている。ぼくは確信した。
 ただ、彼の態度は飽くまでも紳士的だし、レン氏に対する態度もいたわりに満ちている。このチェスナット荘にいらぬ火種を持ち込むような真似を、積極的にするようには見えなかった。
 だから、ウェストマンは自分のアイリスに対する恋愛感情を押し殺し続けるだろうし、アイリスの結婚後も、静かに彼女を見守りつづけるだろう。すこし、中世の騎士と貴婦人の関係に似ているかもしれない。
 そんなウェストマンには、優秀な頭脳と、自分を律する冷静さがある ― これがぼくの感想だった。
 パブでの彼の評判も、悪くはない。むしろ、大事なレン家の財産が、悪女イライザと、その息子ジョンソンに渡るのを阻止してくれたとして、感謝されているようだ。最近は、村人達の小さな法律問題の相談にも乗っているらしい。無償ではないが、あくどい稼ぎとしているわけではなさそうだ。
 パブではむしろ、ダイアナの評判が芳しくなかった。アイリスやマグノリアは村の行事や、慈善事業にも積極的に参加しているが、ダイアナは何もしないで日々を過ごしている。お嬢さんたちはよくやっているのに…という対比のせいか、ダイアナはイライザほどではないにしろ、やや不人気のような印象だった。

 お茶会の会話は終始、鳥とか最近もてはやされる演劇とか、さしさわりの無いものばかりだった。ぼくが早々にお茶会を辞すると、帰り際にレン氏がやってきて、翌日の朝、『オールド・オーク』にぼくを訪ねると伝言した。

 果たして、翌日の朝。ぼくの朝食が終る頃、レン氏がやってきた。この時も一人だった。多くの家人には『友人の鳥類学者ヒープスさんに会ってくる』と言い、実はシャーロック・ホームズに会いに行ったことを知っているのは、ベーカー街を訪ねたときと同じように、アイリスとベッドシャムだけだった。
 『どうです、ホームズさん。何かお分かりになりましたか?』
 レン氏はぼくの部屋に入るなり、こう切り出した。ぼくは、思うところを隠すことなく答えた。
『正直言って、レンさんにアヘンを盛った人物は分かりません。やはり、殺人未遂は行われたものとして、警察の捜査と共に、関係者への事情聴取が必要ですからね。今回の場合、レンさんの基本方針は「穏便に」ということですから…ぼくもなかなか難しいのです。
 ただ、昨日のお茶会で各人に関する人物観察はできました。この中で、殺人ができそうな人を見出す事はできます。』
『誰でしょう?』
 レン氏は目を見開いて聴き返した。ぼくは少しだけ首をかしげた。
『本当に知りたいですか?あまり気持ちの良い話にはなりませんよ。』
『覚悟の上でホームズさんに調査を依頼したのですから、何を言われても平気です。』
 レン氏はそう力強く答えるので、ぼくも正直に意見を述べた。
『昨日お会いした中で、あなたを殺そうとして実行するほどの頭脳と、実行力を持っているのは、三人です。バリー・ジョンソン氏、オスカー・ウェストマン氏、そしてアイリス・レン嬢です。』
『ホームズさん!』
 レン氏は特に最後の一人に驚いたようだった。
『そんな、とんでもない!アイリスは、そんなことを…!』
ぼくはため息をつきたい気持ちになりながら、レン氏を制した。
『アイリス嬢が犯人だと言っているのではありませんよ。実際、彼女は最初にアヘンを飲んだあなたの異変に気付き、手当てをした人です。殺人者ならそんな事はしないし、するとしたらとどめを刺すくらいです。ぼくが言いたいのは、この三人だけが、それほどの頭脳と実行力を持っていそうだ、という事です。実際、あなたはアイリス嬢のそういうところを非常に頼りにしている。違いますか?』
『確かに…ええ、確かに。あの子が男の子だったらと思った事は、一度や二度じゃありません…』
『ぼくの経験から言わせてもらいますと、計画的に殺人を行うには、冷静な判断力と、強固な意志、胆力が必要です。それを持ち合わせているのは、せいぜいこの三人くらいです。イライザ・レン未亡人と、ダイアナ・レン未亡人は、年老いた富豪と結婚するか、それを公然と非難するか ― その程度の行動が限度です。女性に対して失礼かとは思いますが、ここはお許し願いたい。マグノリア嬢は殺人などという大それた計画を、胸に秘めておけるようなタイプではなく、すぐにでも顔に出てしまうでしょう。ベッドシャム君には、ずるさ、抜け目のなさ、疑り深さが足りない。 ―
 ですから、あなたを殺そうとアヘンを盛るとしたら、バリー・ジョンソン,オスカー・ウェストマン,アイリス・レン嬢だけが可能だと申し上げたのです。』
 レン氏は落ち着いて頷きはしたが、アイリスの名を挙げられたショックを隠せないようだった。仕方が無いので、ぼくは先を続けた。
 『ところでレンさん。当然、遺言書をお書きですよね。』
『ええ、もちろん。』
レン氏は心を持ち直して答えた。
『その遺言書の内容は?』
『今のところは、ダイアナへ彼女が死ぬまでの年金を信託利益からの贈与があります。それから、使用人,友人達、オスカー・ウェストマンとマイケル・ベッドシャムへ、いくらかの金を。残りの株,預金,国債等の財産の三分の二が、アイリスに。三分の一をマグノリアが相続します。バリーズベリーの土地と、チェスナット荘はアイリスに。私の母の地元に、小さな地所がありますので、それはマグノリアに贈与されます。』
『何か付帯条件は?』
『姪たちへの相続は、結婚するか、三十歳になるかまでは、遂行されません。それまでは私の弁護士のトゥルーマン氏が財産を管理します。』
『ウェストマン弁護士ではない。』
『彼は遺産の贈与を受ける立場ですから。』
『なるほど。』
 ぼくはちょっと間を置き、心の中で確認した。つまり、継母イライザと、その息子バリー・ジョンソンには一ペニーたりとも渡らない。イライザが先代の未亡人である以上、チェスナット荘を追い出される心配はないが、それでもかなり厳しい内容だ。
 ぼくは質問を再開した。
『今のところは…と、おっしゃいましたね。』
『ええ、書き換えを検討中なのです。』
『どのように?』
『アイリスの権利を二分し、半分をマイケル・ベッドシャム名義に変えるのです。』
『つまり、遺産のほとんどを三分割し、アイリス嬢、マグノリア嬢、ベッドシャム君へ均等に残すと言うことですね?』
『ええ。』
『それは、アイリス嬢と、ベッドシャム君が結婚する約束が整ったからですか?』
『そうです、あの二人は婚約しましたから。こうしておけば、私に何か間違いがあっても、誰かがアイリスとマイケルの仲を邪魔して、財産を横取りできなくなるでしょう。マグノリアに関しても同じ手続きを取りたいのですが、あの子にはまだ婚約者はおりませんので。』
 レン氏はよほど警戒しているのだと、実感した。そして、マイケル・ベッドシャムもまたレン氏にとっては息子のような存在なのだ。
 もう一つ、この遺言書の内容が示しているのは、アイリスとマグノリアの間には大きな差があるという事だ。アイリスとベッドシャム併せた相続財産は、総額の三分の二。マグノリアは三分の一だ。やはりアイリスをレン家の後継ぎ,女子相続人と、とらえているのだろう。もっとも、レン家の全財産を考えれば、三分の一でも大した物だが。

 レン氏によると、新しい遺言書への書き換え手続きは、弁護士トゥルーマン氏の所で進行中とのことだった。ぼくはオスカー・ウェストマンが行った老レン氏死後の遺産相続手続きも気になっていたので、トゥルーマン弁護士に会うことにした。居場所を尋ねると、レン氏は簡単に答えた。
『今週はロンドンだそうです。何か大きな裁判があるとかで。来週、内容を確認した新しい遺言書を持って、こちらに来る予定です。私がサインをすれば、新しい遺言書に関する手続きは完了します。』
『なるほど。遺言書の変更内容を、誰か他に知っていますか?』
 ぼくが尋ねると、レン氏は少し驚いたようだった。
『別に大した変更点ではないので、特に告知はしていませんが。ただ、変更内容の当事者であるアイリスと、マイケルには説明してあります。』
 これ以上、話す必要はなかった。ただ、ぼくは一度命を狙われた以上、用心するに越した事はないと忠告した。するとレン氏は、分かったと短く答えて、チェスナット荘へ帰っていった。

 その日のうちに、ぼくはいったんロンドンに戻った。そしてレン氏に教えられた事務所を訪ねると、ちょうどトゥルーマン弁護士は関わっていた大きな裁判の仕事を終えて、帰ってきたところだった。
 ぼくがレン氏からの紹介状を見せると、トゥルーマン弁護士は快く現在の遺言書と、新しい遺言書を見せてくれた。内容はレン氏の説明した通りであり、トゥルーマンは二日後にバリーズベリーに赴き、レン氏のサインをもらうつもりだと言う。
 ぼくは、もう一つ気になっていた事をトゥルーマンに尋ねた。即ち、老レン氏が亡くなったとき、莫大な遺産が後妻のイライザとその連れ子バリー・ジョンソンには譲られなかった事に関する、手続きについてだ。
 トゥルーマンは、まず強調した。
『イライザは法的には確かに老レン氏の妻ですので、相続権があります。一方、ジョンソンは法的にはレン氏の息子ではないので、最初から相続権がなかったのです。
 問題は、老レン氏の遺言では、預金,株,国債等は全てイライザに相続し、土地と建物は長男のジョンに残すとした点です。預金,株,国債だけでもとにかく莫大でしたからね、イライザとしては、してやったりでしょう。』
 トゥルーマンもまた、イライザが財産目当てに老レン氏と結婚したと考えている事を、隠しもしなかった。彼は続けた。
『しかし、そこに登場したのが、オスカー・ウェストマン君です。彼も弁護士ですね。確か、老レン氏の三男アルフレッドの妻、ダイアナの弟だとか。彼は遺言書の日付と、イライザとの婚姻届日、債権の特約事項の有効期間などを精査し、イライザの取り分を本来の十分の一に減らしたのです。残りは、すべて息子の ― つまり、レン家の現当主であるジョンが相続しました。
 まぁ、ウェストマン君はかなりのやり手ですよ。かなり複雑で誰も目をつけそうもないような次項から攻めて、イライザを追い落とした。法的には全く問題ありません。』
『なるほど、そして現当主のレン氏は、ウェストマン君に多額の報酬を払ったでしょうね。』
『ええ、そうでしょう。それに、レンさんの新旧遺言書にある、財産分与にあずかる「友人」の一人に、ウェストマン君も入っていますから。』
 ぼくはもう一度、新しいレン氏の遺言内容を記したメモに目を落とした。アイリスとベッドシャムが結婚する以上、今回の変更点は大したものには思えなかった。やはりこの遺言書と、アヘンによるレン氏毒殺未遂は、関係ないのだろうかと、ぼくは考え込んでしまった。
 
 その日の最後の汽車で、ぼくはロンドンからバリーズベリーに戻った。汽車がバリーズベリー駅に到着したのは、夜中の十二時。すぐに「鳥類学者ショーン・ヒープス」として部屋を取っている、オールド・オークの部屋で休んだ。
 ところが、夜も明けきらないうちから、外が騒がしくなった。恐らく、牛乳配達の声だろう。起きていた宿の賄いと、勝手口で興奮気味に話しているのが聞こえた。
『大変だよ、チェスナット荘で事件があったらしい。なんでも、旦那様が殺されたって!マクビー巡査が本庁に電報を打ったってさ!』
 ぼくはベッドから飛び起きると、素晴らしい速さで身支度をして、宿から飛び出した。そして瞬く間にチェスナット荘へ駆けつけた。そこでは、あの忌々しいマクビー巡査が、自分の女房と小僧に手伝わせながら規制線を張っていた。遺体は随分前に発見されたのだろう。屋敷の庭には見えなかった。それでも、屋敷内で人がバタバタとしている気配はわかる。
 ぼくは巡査が簡単につけた印から、フランス窓の直ぐ外が遺体のあった位置だと推測した。そして、外からの侵入者の可能性を調べるために、小道から庭への門と、何か遺留品はないかとくまなく調べ始めた。ところが、いくらも調査が進まないうちに、あの田舎巡査がぼくの肩をムンズと掴んだのだ。」

 それから先は、ホームズが説明しなくても分かったし、させたいとも思わなかった。マクビー巡査は現場周辺をうろつく怪しい男を職務質問し、幾ばくかの不愉快なやり取りの後、公務執行妨害と警官侮辱罪で、この男を逮捕したのだ。

 マクビー巡査が打った電報により、スコットランド・ヤードからホプキンズ警部が派遣され、彼はその日の午後にバリーズベリーに到着。マクビー巡査が留置している不審者に会ってみると、これがホームズだったという訳だ。
 当然、ホプキンズはホームズを容疑者から除外したが、釈放手続きには時間が掛かる。何せ一度逮捕してしまったのだから、話が面倒になっているのだ。
 「ここがロンドンなら、さっさとお出しするのですが…」
 留置場の廊下に椅子を並べ、隣りに座ったホプキンズが眉を下げて言った。
「早くて、明日の昼ごろですね。一番早い便で釈放命令が来ればですが。それまでは、ぼくがどう言っても無理です。」
「だからぼくは前から、警察なんて何の役にも立たない、ボンクラだと言っているだろう!」
 格子の向こうから、ホームズが吠えた。もっとも、そんな意見は聞いたことがない。私はホームズをなだめるように口を開いた。
「詮無きことを言っても仕方ないだろう。それよりも、この事件についてだよ。」
私は、さっき馬車の中で取ったメモに目を落とした。
「チェスナット荘で最初に起きる執事が、フランス窓の外で、レン氏が倒れているのを見たのだろう?無論、犯行時刻はそれより前だ。そして、凶器はチェスナット荘今の引き出しに保管されていたはずの、二連式デリンジャー。音消しはクッション。ホプキンズ君、きみの見解は?」
「犯人像は大きく分けて二通りです。一つは、外部からの侵入者。恐らく、物取りの類でしょう。チェスナット荘に盗みに入ったが、当主のレン氏に発見された。レン氏は居間からデリンジャーを持ち出したが、もみ合うか何かで、犯人に銃を奪われ、撃たれる。そして犯人はそのまま逃走する。」
「クッションの説明がつかないな。」
 ホームズは嫌味な薄笑いを浮かべながら、言葉を挟んだ。しかし若い警部も動じない。
「分かっていますよ。ただ、よほど冷静な犯人なら、逃走時間稼ぎのために、室内のクッションを使う事も、考えられます。まぁ、ぼくもこの説には賛成していません。第一、昨日丸一日半がかりで調べさせましたが、ここ数日内でフランス窓のある庭から屋敷の外側広がる森へ向かって、人が通った形跡は発見されなかったのです。庭師や馬丁にも確認しましたが、やはり見当たりません。外からの侵入者が犯人だとすると、フランス窓のある庭への侵入はともかくとして、逃走は庭を通って、森に抜ける経路が必要なんです。人殺しをして逃げる犯人が、わざわざ玄関側に逃げるはずがありませんからね。」
「そこまでの推理は完璧だ。」
 ホームズが厳かに言った。ホプキンズは嬉しそうに笑顔なり、続けた。
 「そこで浮上するもう一つの犯人像は、チェスナット荘内の人物による犯行。これは簡単ですよ。レン氏の習慣を誰でも知っているでしょうから、夜中で一人、フランス窓の外で煙草を吸っているところにそっと近づける。そして誰でも手にする事が出来るデリンジャーと、クッションを使ってレン氏を殺害。そのまま寝室に戻ってしまえば良いわけです。」
「犯行時刻はどう考えているんだい?」
私が言葉を挟むと、ホプキンズは深く頷いた。
「ええ、一昨日の晩、最後に生きているレン氏が目撃されたのは夜の十一時でした。だいたい、その時刻に他の住人は自分の寝室に引き取ります。レン氏がそれくらいの時刻からフランス窓の直ぐ外で一服するのも、いつものこと。そして執事によると、レン氏はしばらく居間で読書などをして過ごし、自ら戸締りをする音がするそうです。そして遅くとも夜中の一時ごろまでには寝室に引き取る習慣だったそうです。」
「犯行時刻は、十一時から一時の間…?」
 ホームズが言うと、ホプキンズは手帳を数ページ繰った。
「ええ。無論、もう少し後でも、発見時の遺体は冷たくなっていますが、レン氏の習慣を知った上での犯行だとしたら、その辺りと考えるのが妥当です。」
 ホプキンズは手帳を閉じ、また続けた。
「そこでぼくも、内部の者の犯行という方向に目星をつけました。マクビー巡査が逮捕した、怪しい鳥類学者はさっさと除外して。昨日の午前中はほぼ現場の捜索に費やされ、ぼくが到着した午後から、関係者の事情聴取が始まりました…」
ホプキンズがその内容を続けようとすると、ホームズが白い腕をぬっと鉄格子の間から突き出した。
「待った、ホプキンズ君。ここは重要なところだ。事情聴取をした内容を、ただ単に報告するだけじゃだめだ。参考人の様子、表情、仕草、感じ取った心の動き、とにかく君の目に映り、耳で聞き取り、感じた事を詳細に教えてくれ。ぼくがしたように、物語るのだ。」
 ホプキンズは真面目な様子でホームズの顔をじっと見ると、やがて細かく頷いた。
「やってみます。」


 
→ 4. 真夜中の物音 ― ホプキンズの観察(その1)
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