Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

2.ジョン・レン氏のベーカー街訪問

 「ワトスン!」
 私はホームズがこんな声をあげるとは、全く予想していなかった。いつものように、いささか高慢な口調で、虚勢をはって見せるのかと思いきや、彼は世にも哀れな声を発したのだ。
「来てくれたのだね…!」
 ホームズは声を震わせ、まるで幼い子供が恋しい母親に向けるような口調で続けた。そして、白くほっそりした腕を格子の間から差し出す。私はやや呆れつつ、その手を取った。
「そりゃ来るよ、ホームズ。きみが呼んだんじゃないか。」
「ああ!そうとも、確かに呼んだよワトスン!でも、でも本当に来てくれるとは…!」
 なにやらホームズの双眸に光るものが現われ始めたので、私は慌てて手をひっこめた。
「ホームズ、相当こたえているな。きみから助けを求められて、私が来なかったためしなど、ないだろう?」
 格子を握るホームズの手が震えている。やはり独房入りが精神に及ぼす影響は大きい。
「ワトスン…ぼくは…ああ、この気持ちをなんと言えば…!」
 ホームズが言葉を探す間隙をついて、椅子を二つ抱えたホプキンズがやって来た。
「あのぉ。感動的な再会の場面に割り込んで申し訳ないのですが。」
「よく分かっているじゃないか。」
 ホームズはいつもの憎たらしい口調で、ホプキンズを睨んだ。しかし、若い警部もひるまない。
「ぼくに当たらないで下さいよ。せっかくこうしてワトスン先生をお連れしたのですから。さぁ、先生。どうぞ。」
 彼は独房の前に椅子を二つ並べた。
「今後の対策を練りませんと。ホームズ先生は早くても明日にならないと、ここから出られませんし。まず手近な話から。ワトスン先生の宿は、『オールド・オーク』に確保しました。バリーズベリー唯一の宿屋ですよ。鳥類学者ショーン・ヒープスこと、ホームズ先生のお部屋も、延泊のままになっています。」
「手際が良いね、ホプキンズ君。」
 私が感心しながら腰掛けると、若い警部は屈託の無い笑顔で返した。
「事件は迅速かつ、効率良く解決しませんと、税金のむだ遣いですからね。そのためにはホームズ先生や、ワトスン先生のご協力はあり難いこと、この上ありません。さて…ホームズ先生。この事件に関する、見解をご披露くださいますか?」
「見解と言ってもねぇ、ホプキンズ君。本格的な捜査に入る前に、あの馬鹿巡査にとっ捕まったのだから…」
 ホームズも独房内の小さな椅子を格子の前に引き寄せ、不恰好な姿勢で腰掛けた。私がポケットから手帳を取り出しながら、口を開いた。
「そもそもホームズ、きみはどうしてこのバリーズベリーに居るんだい?人殺しがあってから駆けつけたわけじゃあるまい。」
「依頼を受けたんだ。」
 ホームズは私に顔を向けると、穏やかな表情になって説明し始めた。

 「ぼくが最初に依頼の手紙をもらったのは、ワトスンが休暇に出かけた一週間後だった。送り主は、ジョン・レン。チェスナット荘に住む現当主だ。手紙には、『自分の命にかかわる重要事項で相談したいので、ベーカー街を訪問する』というものだった。
 彼は手紙に書いたとおり、ベーカー街にやってきた。いかにも田舎の大地主っぽい服装をした人物で、立ち居振舞いは中々立派だった。しかし、少々おびえているようだった。ぼくはすぐにこれは何か重大な危機に直面しているに違いないと、察知した。レン氏は、お茶を一口飲んで落ち着くと、おもむろに用件を話し始めた。
 『ホームズさん、私は命を狙われているのです。』
穏やかじゃない。しかし、レン氏は確信しているようだった。
『ホームズさん、あなたはきっと、心当たりはあるかとお聞きになりたいのでしょうね。ここは、正直に申し上げます。私は金持ちです。土地も、家も、預金も、株もかなり父から相続しました。その金を目当てにした敵は居ると思われます。』
『具体的には、誰ですか?』
 ぼくが尋ねると、レン氏は心底悲しそうにため息をついた。
『悲しい事に、身内と言わねばなりません。私の継母、イライザは二年前に死んだ父が、九十歳の時に再婚した相手で、私よりも十五も年下です。彼女は先夫との息子バリー・ジョンソンと一緒に、チェスナット荘で暮らしていますが、父の遺産を期待したほど相続できなくて、私を恨んでいるのです。』
 その後、レン氏はチェスナット荘の住人について、一通り説明してくれた。継母とその息子バリー・ジョンソン、姪のアイリス、義妹ダイアナと、その娘でレン氏にとっては、やはり姪のマグノリア、ダイアナの弟で弁護士のオスカー・ウェストマン。チェスナット荘を頻繁に訪れる古語学者のマイケル・ベッドシャムも、ほぼ家族同然。あとは執事、従僕、メイド、コック、庭師、馬丁たちだ。
 『それで、命を狙われているとお考えなのは、なぜです?』
 ぼくが話を先にすすめようとすると、レン氏は両手を膝の上で強く握り締めた。
『未遂事件があったのです。ホームズさん。毒殺未遂が!』
 レン氏は英国紳士らしく平静を装おうと、必死だった。しかし、彼は声を震わせながらその状況を説明した。

 ベーカー街訪問の四日前、チェスナット荘では、いつもの晩餐が平穏に行われた。そして晩餐後の住人たちは、これまたいつもの通りそれぞれ煙草を吸ったり、本を読んだり、カードに興じたりしながら、居間でくつろいでいた。
 こういう時の習慣で、レン氏はかならずスコッチを飲んだ。チェスナット荘の住人で、スコッチを愛好するのはレン氏だけだった。義弟のオスカー・ウェストマンはブランデー愛好者だし、ベッドシャムは飲めない。バリー・ジョンソンはアメリカで最近もてはやされているバーボン・ウィスキーを手に入れて、もっぱらこればかり飲んでいる。
 レン氏のスコッチは、いつものとおり執事のチャントがグラスに注ぎ、銀の盆に載せ、サイドテーブルに置いた。チャントは退出し、レン氏はしばらく新刊の狩猟雑誌に見入りながら、スコッチを飲んだ。レン氏は、この時少し味がおかしいと思った。しかし、気のせいか、もしくは夕食に食べたインド風の食事のせいかも知れないと思いながら、飲み干した。
 ほどなく、レン氏は気分が悪くなった。いつもなら、一人で居間に最後までに残る習慣だが、このときはチェスナット荘の人々に、『もう眠いので先に休む』と告げ、引き取った。多くの人はその言葉をその通りに受け取ったが、アイリスは違った。アイリスはレン氏の亡き弟フランクの忘れ形見 ― ぼくが見たところ、チェスナット荘でもっとも聡明な人物だ。二十二歳の彼女は、叔父がただならぬ顔色であることに気付いた。
 『マイケル、ちょっと一緒に来てちょうだい。』
 彼女は、居間で新聞を読んでいた婚約者のマイケル・ベッドシャムに声を掛け、伯父の後を追った。
 彼女の心配は的中していた。レン氏は酷い眩暈と吐き気で、階段の踊り場に倒れ伏していたのだ。アイリスとベッドシャムはただちにレン氏を助け起こし、使用人たちを呼んだ。そしてすぐに町医者のドクター・メインホルムが呼ばれた。
 メインホルム医師の適切な処置により、レン氏は胃を洗浄され、体調を快復した。原因は、アヘンの摂取だった。この日、レン氏だけが口にしたものは、スコッチ以外にありえず、これに混入されたのだ。
 事の重大さに驚いたメインホルムは、レン氏本人と、アイリスとベッドシャムだけにその事実を伝えた。スコッチ瓶の残りに異常はなかった。しかもグラスはチャントが注いだ後、しばらくサイドテーブルにあり、居間に出入りした人々全員に、簡単に近づく事が出来る。居間にいた誰かがレン氏にアヘンを盛ったのだ。
 アヘンの量に関するメインホルム氏の見解は微妙だった。致死量ではないが、確実に気分を悪くする量。ただし、もし心臓に疾患があれば、命取りになる ― 
 レン氏にはっきりとした心臓の疾患があったわけではないが、ただ最近は多少の不整脈が見られた。あの年齢なら、ごく普通のことだ。
 アイリスとベッドシャムはひどく心配し、警察に通報するようにレン氏に勧めた。しかし、レン氏はそれを拒否した。彼は理由を明言しなかったが、やはり領主としての体面を気にしたのだろう。ベッドシャムとアイリス以外の家族にもこの件は秘匿し、単に体調を悪くした程度にしか説明しなかった。
 警察に通報する代わりに、レン氏はぼくに相談をしに来たのだ。つまり、毒を盛られた四日後、ベーカー街を訪れたというわけだ。

 『四日前の出来事については、よく分かりました。それでレンさん、ぼくにどうして欲しいのですか?』
ぼくが尋ねると、レン氏は強張った表情で言った。
 『もちろん、私に毒を持った人物を突き止めた欲しいのです。それも内密に、事が大袈裟にならないように…』
『レンさん。あなたが警察には通報せず、私立探偵のぼくを訪ねた理由は分かります。しかし、これはやはり警察に通報するべきですよ。命を狙われた以上、警察を優先するべきです。領主としての体面、一族の名誉は二の次ですな。』
 ぼくは忌憚なき意見を述べた。レン氏は表情をくもらせたが、落ち着いて答えた。
『ホームズさん。おっしゃる事は分かります。あなたの言う通りです。しかし、あなたは独身とお見受けします。守るべき家を持つという事がどんなことか、お分かりにならないのです。つい二十年ほど前までは、レン家も並みの領主と同じように、 ― 私と妻の間に子はなかったものの ― それなりに幸せでした。しかし、二人の弟フランクとアルフレッドが相次いで死んだ後 ― 更に老父が若い妻を娶り、我が家は異様な空気に支配され続けました。明らかに財産目当ての義母に、その連れ子 ― それを疎ましいと面と向かって口にする亡きアルフレッドの妻ダイアナ…。ダイアナの弟オスカー・ウェストマンは父の財産が義母に行かないように良く働いてくれましたが、その過程も気持ちの良いものではありませんでした。
 私はこれ以上、レン家に不愉快な事が起こって欲しくないのです。私の命が危険なのは分かっています。その危険の元凶を私立探偵であるあなたに突き止めていただき、できるだけ平和で静かなレン家を取り戻したいのです。そして、アイリスとマグノリア、二人の姪にこのレン家の財産を無事に残してやらねばならないのです…。』
 レン氏の気持ちは分かる。彼は明らかに、義母のイライザと、その連れ子のバリー・ジョンソンを疑っていた。レン氏の目的は、彼らを断罪するのではなく、彼らにレン家から静かに退場してもらい、二人の姪が平穏に暮らす事なのだ。
 ぼくは少し心を動かされ、しばらく考えてからレン氏に尋ねた。
『ぼくに相談することを知っている人は、他に誰かいますか?』
『ドクター・メインホルムと、アイリス。そしてマイケルには話してあります。』
『マイケル・ベッドシャム君ですか。古語学者の。彼を大層、信頼していますね。』
『私はマイケルの両親がなくなったあと、あの子の後見人をつとめ、学校にもやりました。素直で善良な青年ですよ。しかも、優秀な学者だ。私の念願かなって、アイリスと結婚する予定なのです。』
『なるほど。家族同然というわけですな。』
『どうでしょう、ホームズさん。バリーズベリーのチェスナット荘へ、いらしてくださいませんか?私の友人として、お茶にご招待しますので…』
『分かりました。』
 ぼくは、レン氏の依頼を受ける事にした。幸い、関わっている仕事もなかったし、ワトスンの不在のせいで、ハドソンさんの小言がぼくに集中する災難からも、逃げ出したかったからね。」

 ホームズはそこまで説明すると、独房に備えられていた水差しから、コップに水を注いで一口飲んだ。
 ハドソン夫人のお小言は、おそらく一日中不健康にも寝室にこもっているとか、居間がスラム化するとか言うことだろう。元々、私が受けるべきお小言ではない。
「それで、ホームズさんがバリーズベリーにいらしたのは、いつですか?」
 ホプキンズが先を促した。
「先週の水曜日だ。ぼくはまず『オールド・オーク』に宿を取り、パブでチェスナット荘の住人の評判を聞くことにした。」



 → 3. お茶会におけるシャーロック・ホームズの観察
ホームズ・パスティーシュ
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