Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

 11. 真相

 アイリスが奇跡的に意識を取り戻したのは、ジョンソンが逮捕された翌日の夕方だった。
 ホームズは事件の詳細について全てホプキンズに説明をし終わり、私とともにバリーズベリーを後にしようとしていたが、そこにアイリスが目を覚ましたという知らせが入ったのだ。看護婦に言って、最低限の栄養と水分を補給させると、ホプキンズはホームズと私に、警察より先にアイリスと話しても良いと許可してくれた。

 私たちは荷物をまとめ、それをチェスナット荘の玄関に置くと、元々マグノリアのものだった部屋に通された。案内した看護婦は出て行き、部屋にはホームズと私、そしてベッドの上に座り、肩からガウンをかけたアイリスだけが残った。
 アイリスは、かつての毅然とした佇まいを失っていた。そこに居たのは、青白い顔をして、力なく静かにほほえむ ― 儚げな若い女性だった。背中には枕をあてて、私たちを見上げた。窓からの夕方の光が、彼女のそげ落ちた頬をてらしていた。
「ホームズさん。ワトスン先生。」
 アイリスは、小さな声で言った。かつて私たちが接したときのように、自らを律するような力強さはなく、ひどく疲れた声だった。彼女はそのまま、私たちに椅子をすすめた。私たちが腰掛けると、アイリスはホームズを見ながら、つぶやいた。
「看護婦から聞きました。夕べ、逮捕したそうですね。」
 ホームズがやはり静かに答えた。
「ええ。もう、連行されて、バリーズベリーには居りません。」
「そうですか。」
「ええ。」
 ホームズがうなずいた。しばらく、誰もが黙っていた。そして、もう一度ホームズが口を開き、小さな声で言った。
「あの晩 ― マグノリア嬢と一緒に一階に下りたとき。玄関ホールから居間へ通じるドアは開いていたのですね。」
 アイリスは無言でホームズを見つめている。ホームズはそれに促されるように、続けた。
「伯父上が殺された翌日、最初にホプキンズ君が関係者に事情聴取をしたときのことです。マグノリア嬢は、一つだけあなたが言わなかったことを証言しました。あの晩、二人でそっと降りてみた玄関ホールでは、『居間にある大きな置時計の音だけが、チクタクと聞こえた』と言っているのです。しかし、先日はじめてこのチェスナット荘にやってきたワトスンによれば、玄関ホールはシンと静まりかえり、時計の音はしなかった。台所や、居間に通じて居るであろうドアは、すべて閉まっており ― 物音一つしなかった。
 つまり、マグノリア嬢が証言したように、居間にある置き時計の音が鳴るのが聞こえたということは、あの晩、居間のドアは開いていたんだ。ミス・レン。あなたはもうその時点で、何か異変が起きたと、気付いていたのではありませんか?だからこそ、階上に何かの陰が動いたとき、とっさにマグノリア嬢を玄関ホールに置いたまま、階段を駆け上がったのではありませんか?」
 アイリスは小さくうなずいた。ホームズが続ける。
「階上に、誰を見たのか ― そう、バリー・ジョンソンの姿を見たのですね?」
 アイリスはぴくりとも動かない。ただ目を伏せて、膝の上に組み合わせた手を見つめている。
「しかし、あなたは階上にジョンソンの姿を認めたことを、マグノリア嬢には一言も言わず ― それどころか、秘密にして、『木の影が揺れた』と言ってごまかした。そして、寝室に引き取り、マグノリア嬢が眠ったのを確認すると、再度あなたは一階に行ったんだ。そして、いつもなら閉まっているはずの玄関ホールから居間へのドアを通り抜け、居間へ行き、開いたフランス窓の外に、胸を撃たれて倒れている、伯父のレン氏を発見した。
 そしてあなたは ― そばに落ちていた銃と、クッションを使って、レン氏の額にとどめの一発を撃ち込んだ ― 」
 アイリスは目を上げ、もの問いたげにホームズを見やった。すると、ホームズは小さく首を振った。
「いいえ、ジョンソンはミス・レンの事を何も言っていません。ただ、自分がレン氏を二回撃った、毒を盛ったのも自分だと言い張っています。」
 アイリスは柔らかな表情になって、微笑んだ。その笑みが、ひどく美しくて、私は悲しくなった。
「でも、ホームズさんにはお分かりになったのですね。」
「ええ。」
「どうして、分かったのですか?」
 ホームズは、小さくため息をついてから、変わらず静かな口調で説明し始めた。
「馬鹿な話で、昨日、やっと気付いたのです。もっと早く気付くべきだった。最初にレン氏が命を狙われているかも知れないと、ぼくに相談したとき。そのことを知っていたのは、レン氏のほかに、主治医のメインホルム先生と、アイリス・レン嬢、そしてマイケル・ベッドシャム君だけでした。しかも、レン氏は三人に対して、口外を硬く禁じていた。
 ぼくが『鳥類学者ショーン・ヒープス』と名乗って、チェスナット荘のお茶に呼ばれたときも、この数人以外は誰もが、ぼくを鳥類学者と信じて疑わないはずでした。それほど、ぼくの演技も、鳥類に関する知識も、完璧だったはず。本職の鳥類学者でさえ、ぼくをヒープスと信じて疑わないほどにね。
 ところが、ジョンソンの様子は、ぼくが鳥類学者と名乗って、色々喋っているのを疑っているようだった。しかも、お茶会の途中で彼が退席する間際、ぼくのヒタキに関する講釈に対して、『本当ですかね。』と言い捨てた ― ぼくは迂闊にも、ジョンソンはなかなか鋭いと思っただけだった。違う、違う!ジョンソンはヒープスと名乗る鳥類学者が偽物だと知っていたんだ!しかも、正体が有名な探偵,シャーロック・ホームズであることすら、知っていた!
 レン氏殺害後、チェスナット荘にやってきて、初対面だったワトスンが名乗っただけで、彼は『そろそろ登場すると思いましたよ。シャーロック・ホームズさんはどこです。』と返している。こんな反応をしたのは、彼だけだ。ワトスンの本のファンであるマグノリアでさえ、冗談で相棒はホームズかと言って、本当にそうだと聞かされたら、驚いていたほどなのに。ウェストマンはワトスンに会った時こそ、探偵ホームズの相棒だと知っていたが、それは先に姪たちから知らされていたからだ。
 しかしあの時、ジョンソンは外出から帰ってきたばかりで、チェスナット荘の誰とも話していない!なのに、初対面のドクター・ワトスンは、あのシャーロック・ホームズの相棒と見破っている。さらに、『ぼくの身なりを観察しただけで、殺人の証拠でも?シャーロック・ホームズさんならたちどころに見つけ出すとか?もう鳥類学者ごっこも終わりでしょうから、拝聴したいですな。』とまで言った ―。
 ジョンソンは、知っていたんだ。レン氏がシャーロック・ホームズに相談し、そのぼくがこの事件の調査に乗り出すとを。では、なぜ知っていたか?それは教えられたからに決まっている。最初からぼくの存在を知っていた人物のうち誰が?レン氏のはずがない。彼は、ぼくの調査をごく内密に行おうとしていた。メインホルム先生は利害関係者ではないし、ベッドシャム君にいたっては、ジョンソンに利するようなことをするはずがない。しかも、ベッドシャム君がもしジョンソンに話したとしても、その後ジョンソンが行う犯罪で、何の利益も得ない。と、なれば残るは、アイリス・レン嬢 ― あなただけです。あなただけが、レン氏の殺害で利益を得る人間であり、ジョンソンにぼくのことを教える可能性のある人物だ。
 あなたが、ジョンソンにぼくの存在を教えたんだ。それこそ、レン氏がぼくをベーカー街に訪ねた時から、すでに教えていたのでしょう。それは、あなたとジョンソンの間に、男女の愛情があるからだ。ぼくや、ワトスンがあなたに会って感じた、『何かを隠しているような印象』…それは、ジョンソンとの関係だ。…いつからですか?」
 アイリスは満足そうに微笑んだ。
「いつからも何も…あれは、三年ほど前です。ええ、祖父がイライザと結婚し、その連れ子としてバリーがこのチェスナット荘にやって来たその日から ― ずっと、私たちは愛し合っていました。」
 なるほど、そうであるからこそ、アイリスはわざとイライザとジョンソンの母子を無視するがごとき態度でいたのだ。何かにつけて彼らをかばおうとするマグノリアとは対照的なアイリスの態度は、実は自分とジョンソンの関係を人に悟られまいとするためだったのだ。
 しかし、アイリスの心が他の男に移っているのではないかという空気を、ベッドシャムは敏感に感じ取っていたし、ウェストマンもまた、アイリスへの愛は報われることはないと判断するに十分だったのだろう。

 ホームズも私も、黙り込んでしまった。暮れようとする日の光が、アイリスの青白い頬をほんのりと赤く染め始めていた。アイリスは穏やかに笑いながら続けた。
「本当に…美しくて、お馬鹿さんで、愛しい私のバリー…。無茶をして。本当に子供のようだわ。思い込んだら、よく考えもせずに、伯父を殺そうとするんですもの。」
「最初に、レン氏のスコッチにアヘンを盛ったのも、ジョンソンですね。」
「ええ。」
 アイリスはうなずいた。
「伯父が倒れて、メインホルム先生からアヘンを盛られたに違いないとお聞きしたとき、すぐにピンと来ましたわ。バリーが盛ったのだと。」
「ジョンソンがレン氏を殺そうとした動機は ― 遺産と、遺言書ですね。」
「ええ。伯父は私とマイケルには、新しい遺言書の内容を話してくれていました。もし新しい方の遺言書が有効になったら、私とマイケルが結婚しなかった場合、私には遺産が三分の一しか渡りません。あとの三分の二はマイケルと、マグノリアに。
 バリーは貿易の仕事を成功させるために、お金が必要です。私も、彼のために幾らでもお金は欲しいと思いましたわ。マイケルに取られるだなんて、我慢できません。
 だから、バリーは新しい遺言書が有効になる前に伯父を殺そうと言いました。私は止めました。軽率に行動を起こして、全てを台無しにしてしまってはいけません。でも、バリーは待ちきれませんでした。最初は、伯父のスコッチにアヘンを盛り、次は伯父の胸を撃って、殺そうとしたのです。」
「撃ち殺すことについて、あなたに相談はしなかったのですね。」
「ええ。私は止めるに決まっていますもの。私だったら、もっと上手く遺言書の更新を阻止するなり、 ― だめなら、きちんと計画を立てた上で、確実で疑われないように伯父を殺します。
 でも、バリーはシャーロック・ホームズさんが乗り込んできたことに、危機感を持ったのでしょうね。軽率にもいきなりあの晩、伯父を撃ってしまったのです。しかも、致命傷を負わせることなしに。」
「あの日の夜中、『物音がする』と言うマグノリア嬢とともに一階におりてきたあなたは、居間のドアが開いていたこと、そして階上にジョンソンの姿を見たことから、ジョンソンが何かをしでかしたのだと、直感した。だからこそ、彼が何をしたのかを確認すべく、マグノリア嬢が寝てからもう一度下におりて、居間へ行き、瀕死のレン氏を発見し ― そして、とどめを刺した。
 寝室へ戻るとき、あなたは一つミスを犯している。ジョンソンが最初にレン氏を撃ったあと、開け放してあった玄関ホールと居間の間のドアを閉めたことです。翌朝、チャントが居間に入ったときについて、
『居間へのドアを開けるとすぐに、いつもとは違う気配を感じました。空気が変にひんやりとしているのです』と証言している。
 マグノリア嬢とあなたが降りてきたとき、玄関ホールで居間の時計の音が聞こえた ― つまりドアは開いていた。しかし、翌朝には閉まっていた ―。犯人は二人。一発ずつ撃ち、一人はドアを開けたまま、もう一人はドアを閉めて立ち去った。あなたは後者の犯人として、まだ息のあったレン氏に、とどめをさしたのです。」
「バリーが二度撃ったとは思いませんでしたの?」
 ホームズは小さく首を振った。
「彼は大胆だが、そこまで細心ではない。きっと、あなたが二発目を撃ったのだと考えたとき、ぼくにとっての小さな謎の一つが解けました。それは、執事のチャントがレン氏の遺体を発見し、それをあなたに知らせたときのことです。あなたは、チャントにウェストマンと、ベッドシャム君に知らせるように指示すると、まず部屋に引っ込んで着替えた。着替えてから居間にかけつけています。
 伯父が死んでいるというのに、なぜ悠長に着替えなど?淑女として最低限の身なりをととのえるべきだから?ぼくにはそうは思えない。実際、騒ぎをききつけた二人の未亡人は、ねまきのまま下にかけつけている。アイリス嬢には、きっと着替えなければならない理由があったのだ ― こうなると、想像をめぐらすしかありませんが、おそらく間違っていないでしょう。
 ジョンソンが最初にレン氏を撃ったとき、間違いなく彼は手袋をしていたでしょう。しかし、時間をおいてあなたが伯父上に止めを刺したときは、手袋の用意などしていたはずがない。きっと、ねまきか、ガウンの裾を使って、デリンジャーを握り、伯父上の額にあてて発射したんだ。当然、服は銃の油や、血で汚れる。しかし、そのときは夜中で暗かったため、あなたはそれに気付かなかった。
 しかし、朝になってみると陽光でそれに気づいた。だから、あなたは一旦着替えてから、部屋を出ざるを得なかったのです。どうですか、ぼくの推理は間違っていますか?」
 アイリスはひどく満足そうで、穏やかな笑みを見せながら、首をふった。
「いいえ。いちいち、そのとおりですわ。マグノリアが寝てからもう一度、居間に下りてフランス窓の外に伯父が倒れているのを見たときは、本当に驚きました。すぐにバリーがやったとわかりましたわ。
 なんて早まったことをしたのかと、私はバリーに腹が立ちました。でも、こうなってはもう後戻りはできません。幸い、伯父は新しい遺言書にサインをする前でした。いま伯父が死ねば、遺産の三分の二は私のもの。すなわち、バリーのものですから。止めをさす以外、私には考えられませんでした。」
 どうりで、ホームズが「犯人は、慎重さと、軽率さを併せ持った、複雑な性格をしている」と分析したわけだ。犯人は、思いついたらすぐに行動してしまうジョンソンと、慎重で物事を確実に運ぶアイリス ― 二人だったのだ。

 ホームズはまた黙り込んでしまった。私はすでにホームズから事のあらましを説明されていたが、改めてアイリスの口から説明されると、吐き気がするほどの恐ろしさを覚えずにはいられなかった。
 アイリスはそれを感じ取ったのか、私たちの顔を交互に見て、済まなそうに言った。
「失望させましたね。申し訳ございません。でも、愛するバリーのためですわ。私、どんな手を使ってでもお金が欲しかったのです。」
 ホームズは自分の気持ちを立て直すように、姿勢を正し、アイリスをしっかり見ながら尋ねた。
「マグノリア嬢を殺そうとしたのは、遺産のためですか?それとも、レン氏殺害の夜のことで、マグノリア嬢が何かまずいことを証言するのではないかと危惧したからですか?」
「…そのことも、もうご存じですね。」
「ええ。分かっています。あの毒は、あなたが入れたのだ、ミス・レン。従妹のマグノリア嬢を殺すために。あの毒、サロカルチヒペヒドは、十年ほどまえにアメリカやカナダで使われた以外は、特にヨーロッパではほとんど知られていない。きっと、アメリカと貿易をしているジョンソンが入手したものでしょう。」
 アイリスはまた微笑みながらうなずいた。ホームズが続ける。
「あの晩、あなたとマグノリア嬢の部屋の外側に置かれた廊下のサイドテーブルに、いつものようにホットミルクが置かれた。その盆を取って、あなたの部屋に行ったのは、マグノリア嬢だ。誰もが、お二人のマグカップには花の模様が描かれているから、見間違えることはないと言いましたが、ただ一人、あなただけが、間違えた。そう、生まれたときから常に行動を共にし、愛し、慈しんできた従妹を殺そうとする、その追い詰められた一瞬、異常な緊張を強いられた殺人者であるあなただけが、マグカップを間違える可能性のある人物だった。マグノリア嬢を殺すことに躊躇しないはずのジョンソンなら、決して間違えない。ただ一人、あなただけが間違え得たのです。
 マグノリア嬢は最初、盆の向きを逆にして、ベッドの上に置いたんだ。あなたの方に、マグノリアの花のカップ、自分の方に、アイリスの花のカップを置いた。その時、あなたはマグノリア嬢がしゃべっている隙を見て、小瓶に隠し持っていたサロカルチヒペヒドを、マグノリア嬢側のカップに注いだ ― 密かに心が高ぶっていたあなたは、マグノリア嬢がカップを間違って置いたことには気付かなかった!そして、あなたが小瓶を隠そうとしたその隙に、今度はマグノリア嬢がカップを間違えて置いてしまった事に気付いたのです。
 マグノリア嬢は、誰に何度尋ねられても、自分は間違いなく自分のカップからミルクを飲んだと証言しました。ええ、その通り。ぼくに訊かれた時も、
『ちゃんと自分のマグカップを選んで手に取りました』と言った。
 そう、『選んだ』のです。マグノリア嬢は、あなたの側にあったマグノリアのカップを取り、自分の方にあったアイリスのカップを、あなたの側に置き換えたのです!毒の瓶を隠すことに気を取られていたあなたは、それに気付かなかった…!」
 アイリスは首を振りながら、うつむいた。
「あのときは ― 本当に、もう駄目だと覚悟しました。どうして、私の方のカップに毒が入っているのか…まったく理解できませんでした。そして、私は死ぬんだなと思いました。」
「ずっと愛していたマグノリア嬢を殺してでも、遺産が欲しかったのですか。」
 私はこの部屋に入って初めて、声を発した。愚問だとは思ったが、あまりの悲しさに、言わずにはいられなかった。アイリスはすぐには返答しなかった。しかし、やがて、穏やかな表情のまま口を開いた。
「ええ。欲しかったのです。バリーの仕事のため。バリーと私の将来のため。二人の幸せのために、私は伯父の遺産の全てが欲しかった。マグノリアは可哀想ですが、でも…私、バリーをこの世の誰よりも愛しているんです。彼のためなら、誰を殺すことも厭いません。
 それに、あの晩のこと。マグノリアが、もし階上にバリーが居たことに気付くとか、なにか余計なことを喋ったりしたら困りますもの。マグノリアを殺すことに、迷いはありませんでした。
 さっき、ホームズさんは、バリーがマグノリアを殺すのに躊躇するはずがないと、おっしゃいましたね。でも、本当は違うんです。かえってバリーの方が、可哀想だと言ってマグノリアを殺すことをためらいました。でも、私は決心していました。今、全てに決着をつけようと。」
 かくして、いつもの習慣を破り、性急に行動しようとしたアイリスはマグノリアを毒殺し損ね、手違いで自分が倒れるに至ったというわけだ。
 アイリスは自分で盛った毒に苦しむ内に、毒の小瓶を取り落としたのだろう。それを、アイリスの犯罪を知るジョンソンが、証拠隠滅のために拾い上げた。ベッドシャムはそのジョンソンの姿を、見ていたと言うことになる。

 日が暮れようとしていた。部屋が赤く照らし出され、私たちの沈黙を包みこむ。
 アイリスはベッドの上から、窓の外に視線をやった。そして長く、深いため息をついた。
「ホームズさんは、もう警察に何もかもお話になったのですね。」
「ええ。ミス・レン、あなたはどうしますか?」
 アイリスはうつむいたまま、穏やかに微笑んだ。
「バリーは、一人でやった、私は関係ないと言っているのでしょうけど…。もうだめね。自供します。」
「それが良いでしょうね。」
 アイリスは、わずかに声をひそめた。
「バリーは…縛り首ですか?」
 ホームズは頷いた。
「ええ。そして、あなたも。」
「私たち、もう会えないのかしら。」
「無理ですね。」
「そう…」
 アイリスは、もう一度大きくため息をついた。そして顔を上げると、ホームズと私を順々に、しっかりと見すえると、きっぱりとした口調で言った。
「私、伯父を殺したことも、マグノリアを殺そうとしたことも、まったく後悔していません。愛するバリーと、自分のためですもの。一体何を後悔すると言うのです?ただ、一つだけ心残りがあるとしたら、もう二度とバリーには会えないということです。それだけ。それだけが、とても悲しいのです…」

 私たちが部屋を出ると、廊下にホプキンズが立っていた。彼は最初、ホームズにことの真相を説明されたとき、ひどくショックを受けたようだった。しかし、そこは誇り高き大英帝国スコットランド・ヤードの警部だ。もう気持ちを立て直したらしい。毅然とした表情で、私たちに頷いてみせると、巡査たちをつれてアイリスのもとへ向かった。
 ホームズと私は、玄関ホールから荷物を取って、チェスナット荘を後にしようとした。その時、開いていたドアの向こうの居間に、マグノリアの姿が見えた。彼女はソファに腰掛け、魂の抜けたような表情をしている。
 私に合図して、ホームズは静かに居間に入った。すると、マグノリアも気がついて、顔をあげた。しかし、立ち上がるほどの気力もないらしい。彼女も、ホプキンズから事の真相を知らされたのだろう。
「ホームズさん、ワトスン先生…」
 そう言ったきり、マグノリアは両目からおびただしい涙を溢れさせた。ホームズは、マグノリアの前にひざまずき、その小さな手を取った。マグノリアは涙を流し、唇を震わせながら言った。
「私、一番大事な、大事なお友達を、失ってしまいました。この世で一番好きだった従姉を…」
 そして、彼女は体を前にのめらせ、ホームズの左肩に顔を埋め、大声で泣きだした。ホームズは優しく両手をマグノリアの体に回し、いたわるように抱いた。私はこみ上げてくる涙をこらえるのに精いっぱいで、突っ立っているしかなかった。ホームズは優しくマグノリアを抱き、彼女の嗚咽がおさまるのを待った。そして、そのままの姿勢で、静かにささやいた。
「今は泣きなさい。今は悲しくて、悲しくて、どうにもならない時だから。泣いていいのです。そして、涙が止まったら、勇気を出して。そして、このバリーズベリーと、チェスナット荘の女子相続人として、しっかり生きなければ。」
「でも、私、ひとりでは何もできませんわ…」
 マグノリアは言いながら、泣きじゃくっている。ホームズはそれでも続けた。
「ええ、分かっています。人は誰しも、一人では生きられません。ぼくだって、一人は生きられない。でもミス・レン。あなたはまだ若い。失ってしまった、愛する従姉以外にも、きっとあなたと喜びも、悲しみも共にしてくれる友人が現れます。必ず。その友人はあなたを勇気づけ、間違いを正し、導き、限りない愛情を注いでくれるでしょう。女性であれ、男性であれ、友人であれ、夫であれ、きっと、その人は現れます。大丈夫。きっと大丈夫…」
 ホームズの優しい仕草と言葉に、マグノリアは落ち着いたのか、顔をゆっくりと上げた。ホームズはその顔をしっかりと見て、頷いた。
「ええ、ぼくが保障します。」
 マグノリアは、ホームズと私の顔を交互に見て、そしてやっと少し微笑んだ。マグノリアにはもう、立派な女子相続人としての気高さが宿っているように見えた。

 チェスナット荘からバリーズベリー駅に向かう馬車の中で、私はホームズを肘でつついた。
「なんだい、ワトスン。」
「感動した。」
「うん?」
 ホームズは照れているのか、私の顔を見ずに生返事をした。私は構わずに続けた。
「きみが若い女性に、あんなに優しく接するのは珍しい。でも、立派だよ、ホームズ。」
「きみのおかげさ、ワトスン。」
 ホームズは照れくさそうにしつつも、私の方に顔を向けた。
「きみの優しさが、ぼくにも伝染したらしい。ありがとう、ワトスン。マグノリアはアイリスに裏切られ、大事な友人を失うことになったけど、ぼくにはきみがいる。きみという親友が居る以上、ぼくは友情の力の信奉者だ。ぼくの幸運が、マグノリアにも訪れてくれるように、祈るばかりだよ。」
 おやおや。私は茶化すこともできず、ただホームズに笑いかけ、そして黙った。


 →12. もう一つの真相
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