Sherlock Holmes  シャーロック・ホームズ  Pastiche  パスティーシュ

 
         チェスナット荘の殺人 
  

1. シャーロック・ホームズ君

  私の友人にして、同居人であるシャーロック・ホームズ君には、夏の休暇という概念がない。そもそも彼に関しては、時間の概念というもの自体が怪しかった。事件の捜査ともなれば一睡もせずに一日中走り回り、事件がなくなると何日も冬眠してしまう。季節の移り変わりとともに、生活を推移させる事など、ホームズには無縁のことで、クリスマスやイースターを、本気で忘れていたりした。

 そんな訳で、私は夏の休暇の時期、ホームズとは別行動になることがたびたびだった。
この休みの場合もそうである。私は知り合いの医師に留守中の診療所を任せ、一人でコーンウォールの友人宅に滞在した。
 静かで快適な田舎暮らしを満喫し、休暇が半ばに差し掛かった頃、私は一通の電報を受け取った。

 シキュウ バリーズベリー ニ コラレタシ。 タスケヲ モトム SH

 第一報がこれで、同時に打ったであろう第二報には、コーンウォールからバリーズベリーへの汽車の時刻が打ってあった。電報の到着時刻を計算して、翌日にはバリーズベリーに到着できるように、その汽車で直ぐにでも来いと言うのだ。
 ホームズからのこの手の呼び出しは珍しくない。「都合よければ来い。悪くても来い。」などと平気で言う男だ。バリーズベリーという地名は初耳だったが、恐らくホームズが仕事で滞在しているのだろう。私は快適な田舎暮らしと、読書の毎日、気の合う友人との語らいなどに心を残しつつ、ホームズを放置するわけにも行かないので、大急ぎで最低限の荷作りをすると、指定された汽車に飛び乗った。

 二回の乗り換えと、長い移動時間の末に、とうとうバリーズベリーに到着したのは、火曜日の午後二時十分。バリーズベリーはどこにでもあるような小さな町で、駅もどこにでもあるような佇まいだった。その佇まいにしては、駅前の広場に馬車が多い。私はプラットホームに降り立ち、左右を見回したが、期待したホームズの姿はなかった。私が到着する時刻はわかっているはずなのにおかしいなと思っていると、駅舎から見慣れた若者が現われた。スコットランド・ヤードのスタンリー・ホプキンズ君だ。
 「やぁ、ワトスン先生!お迎えに上がりました!」
 ニコニコしながら右手を差し出す。
「こんにちは、ホプキンズ君。スコットランド・ヤードのきみがここに居るという事は、殺人事件かね?」
「ええ、そうなんです。馬車を待たせてありますので、道々ご説明します。お荷物、持ちますね。」
 彼は溌剌とした様子でどんどん駅舎から出て行こうとする。なるほど、広場に人や馬車が多いのは、殺人事件を取材する新聞記者たちのせいらしい。私はホプキンズを追いながら尋ねた。
「それで、ホームズは?」
「それが大変なのですよ、ワトスン先生。」
 ホプキンズは待たせてあった馬車に私を案内した。
「ホームズに何かあったのかい?」
「ええ、あったのです。さぁ、行きましょう。」
彼は私を車内に促し、御者に怒鳴った。
「出してくれ、駐在所へやってくれ!」

 田舎の小さな町にありがちなデコボコ路を走りながら、ホプキンズは事件の説明を始めた。
「人間関係が多少込み入っていますので、まず家族構成から説明しますね。」
 ホプキンズはメモ帳の一番上に、『老ジョン・レン』という名前を書いた。
「ジョン・レン准男爵は、この辺り一帯を所有する大地主です。お屋敷の名前は、チェスナット荘。立派なマナー・ハウスです。レン氏は最初の妻との間に、上からジョン,フランク,アルフレッドという男子をもうけました。夫人は末っ子を出産した後、亡くなっています。レン氏は非常に長寿の人で、三年前に九十歳の誕生日を迎え、ついでに花嫁も迎えました。」
「誰の花嫁だって?」
 私が聞き返すと、ホプキンズは肩をすくめてみせ、ペンで一番上の『老ジョン・レン准男爵』の名前を突っついた。
「老ジョン・レンですよ。齢九十にして四十八歳の花嫁を迎えたのです。中々の美人ですよ。名前はイライザ。最初の夫を亡くしたイライザ・ジョンソンは老ジョン・レンと結婚し、息子のバリー・ジョンソンと共に、チェスナット荘に移り住みました。息子と言っても、もう二十六ですけれど。イライザは九十歳の老人に嫁いだのですから、財産目当てだと、悪し様に言われているのはご想像の通り。領民にも、家族にも好かれていません。まぁ、息子のバリー・ジョンソンは中々の美男子だし、なぞめいた雰囲気があるので、密かな人気ですけど。とにかく、老レン氏は花嫁を迎えた一年後、大往生をとげました。
 一方、老レン氏の息子達です。長男のジョンがレン家を継ぎ、現在の当主です。この人物は早く妻を亡くし、再婚しなかったので子供が居ません。その代わり、若い古語学者のマイケル・ベッドシャムを可愛がっています。
次男のフランクは新聞社の重役でしたが、十年前に妻と共に海難事故で亡くなりました。残された娘のアイリスは今年ニ十二歳。当主レン氏の庇護のもと、チェスナット荘で育てられ、今も住んでいます。
 三男のアルフレッドは陸軍中佐にまでなった人物ですが、アフガニスタンで戦死。残された妻のダイアナと、娘のマグノリアもまた、当主レン氏の庇護を受けてチェスナット荘に住んでいます。マグノリアとアイリスは同い年の従姉妹ですから、とても仲が良いです。
 ここまでの説明でおわかりのとおり、レン家には男子の相続人が居ないので、次男の遺児であるアイリスが女子相続人になり、レン氏が可愛がっている古語学者のマイケル・ベッドシャムと婚約しています。…ここまでは大丈夫ですか?」
ホプキンズが一息入れ、私の顔を窺った。
「一つ確認させてくれ。ベッドシャム君は、幾つだい?アイリス嬢との結婚はレン氏が決めたのだろう?」
「ああ、確かにそうです。ベッドシャムは二十九歳。物静かで大人しい青年です。ここバリーズベリーの、それほど裕福ではない家の出ですが、当主のジョン・レン氏が経済的援助をして、エディンバラ大学に進んだそうです。そこで古い英語の研究をはじめ、若いのにもう博士号を持っています。今はこのバリーズベリーに戻って、毎日下宿で山のような書籍と格闘していますよ。レン氏は息子のように可愛がっていますし、アイリスと婚約していますから、ほぼ家族同然でチェスナット荘にたびたび滞在しています。
 一通りレン家の人々を説明しましたけど、もう一人居るんです。名前はオスカー・ウェストマン。ダイアナの弟で、職業は弁護士。まだ三十代半ばで、中々のやり手です。」
「やり手とは?」
「レン家の遺産相続問題を引き受けているんです。老レン氏の未亡人イライザによる、莫大な財産の独り占めを阻止したのですから。イライザの連れ子であるバリー・ジョンソンなんて、一ペニーももらえていません。そんな事もあって、当主レン氏はウェストマンを非常に買っており、チェスナット荘に住んでいるというわけ。
 さて、ここで殺人事件が起こりました。被害者は、当主ジョン・レン氏。六十五歳になったばかり。昨日の早朝、庭で射殺体となって発見されました。」
 私はホプキンズのメモから目を上げ、彼の顔を見やった。若い警部は深く頷いてみせる。
「ええ、そうなんです。射殺体です。武器はデリンジャー。ニ連続発射できる最新型で、チェスナット荘の居間に保管されていました。大きなチェストの、引き出しの中です。」
「どうしてそんな物騒な物を居間に?」
「泥棒よけですよ。何年か前に、居間のフランス窓から泥棒が入ったことがあって、それ以来いつでも応戦できるよう、居間にデリンジャーを装備していたのです。」
「しかし撃たれたのは、当主だった。」
「皮肉ですね。ゆうべ、夕食の後は誰もがいつものとおり過ごし、何も変わった事は無かったそうです。レン氏は真冬以外、寝る前のタバコの一服を、いつもフランス窓の外で庭を眺めながら味わう習慣がありました。家族や使用人たちが寝静まった夜中の十二時頃に、自分で窓の戸締りをして、寝室に引き上げるのがいつもの習慣だったのです。ところが昨日の早朝 ― 正確には朝の五時過ぎ。一番に目覚める執事のチャントが、フランス窓が開いている事に気付いた。不審に思って外を見てみると、当主があお向けに倒れていたのです。」
「死んでいた?」
「ええ、それは確かです。一発は胸に、もう一発は頭に。冷酷な殺人ですね。レン氏が一発目で倒れると、とどめにもう一発撃ったんですよ。」
「銃声は?」
「はっきりしません。ご存知の通り、デリンジャーは湿った花火みたいな、間の抜けた音でしょう?しかも、クッションを使って消音をしていたんです。クッションと凶器のデリンジャーは、死体のすぐ隣りに落ちていました。指紋は検出されていません。」
「そのクッションは、部屋にあったものかい?」
「ええ。でも、そのクッションはフランス窓近くの椅子にあったもので、窓は開いていたのですから、誰にでも簡単に取れます。外部からの侵入者でもね。」
「外部からの侵入者か…」
「外部の侵入者 ― たとえば、強盗が現われたのを見たレン氏は、居間のチェストから、デリンジャーを持ち出した。ところが、逆に強盗にそのデリンジャーを奪われ、撃たれてしまった。これなら、外部からの侵入者の犯行という説明になります。」
「でも、それだと、突発的な状況になる。レン氏がクッションを持ち出すはずがないし、侵入者がクッションを用意するような余裕はないと思うな。」
 私が言うと、ホプキンズも同感だという様子で頷いた。
「そうですね。ところが、事件発覚からたいして時間が経たないうちに、外部からの侵入者が犯人だと思わせる展開が起こったのです。」
 私が少し目を大きく開くと、ホプキンズは右手の人差し指を立てて見せた。
「レン氏の遺体が見つかると直ぐに町医者と警察が呼ばれました。警察は駐在の巡査。彼は本庁への連絡と最低限の現場保存手続きを済ますと、すぐにこのバリーズベリーに不審者は居ないかと聞き込みを始めました。そしてさっそく、不審者が一名浮かび上がったのです。」
「手際が良いな。」
「ええ、巡査は得意満面ですよ。数日前から、バリーズベリーの宿屋に怪しい男が宿泊しており、チェスナット荘の周りをうろついているのを、目撃されています。宿帳によると、男の名前はショーン・ヒープス。鳥類学者です。怪しいこの男は、どの野次馬よりも早く殺人現場のチェスナット荘に駆けつけて、屋敷の周りで何かを拾ってはジロジロ観察していたのです。背が高くて痩せがた、髭はなく、黒い髪、年は三十代ぐらい。」
「嫌な予感がしてきた。」
「その予感は当たっています。とにかく、駐在所勤務のマクビー巡査はヒープスを怪しみ、事情聴取をしようとしたのですが、不愉快な成り行きで逮捕してしまいまして…」
 ホプキンズがそう言ったとき、馬車は目的の場所に到着した。駐在所 ―留置所も備えたタイプのそれだ。
「ホームズ先生はここです。ご案内します。」
 ホプキンズはきびきびとした動きで、馬車から降りる。私は降りる前に、大きくため息をついた。ホームズは電報で「助けを求む」と言っていたが、なるほど。その通りのようだ。

 その駐在所はこれまたどこにでもあるようなもので、小さな事務所と、狭い留置所が押し込まれ、隣りには町で唯一の警官が家族と共に暮らしている。警官の名前はマクビー巡査。チェスナット荘での殺人で、いち早く現場に駆けつけ、さらに迅速な捜査で不審人物を逮捕した男だ。
 ホプキンズが拘留人との面会のために、書類へ必要事項を記入している間も、マクビー巡査は胸を張り、大英帝国警官の誇りを一身に背負ったように身構えていた。
「逮捕の罪状は?」
 私が尋ねると、巡査は警官の鑑とでも言うべき威厳に満ち ― 少々威圧するような口調で答えた。
「公務執行妨害、および警官侮辱罪です。」
「執行妨害?」
「はい。チェスナット荘での殺人事件に関して、重要参考人として事情聴取をしようとしたところ、過剰な抵抗をしたので。」
 それは想像できる。
「それで、警官侮辱罪?」
「はい。言うもはばかれるような下劣な言葉で、本官を侮辱しましたので、現行犯逮捕した次第です。」
「なるほど…」
「鳥類学者ショーン・ヒープなどと名乗っていますが、怪しいもんです。何せ、実名はシャーロック・ホームズだとか言って、早速名前を変える。名前をコロコロ変える男なぞ、信用できませんからな。」
 私は呆れて、カウンターの向こうに立っている実直そうな巡査を眺めた。年のころは四十代半ばか。血色が良く、綺麗に剃り上げた頬が青々としている。細君の手入れが良いのだろう、ヘルメットも、制服も、バッジもピカピカに輝いていた。私はため息交じりに言った。
「なるほど。確かに信用できないな。」
 書類に記入を終えたホプキンズが顔を上げた。
「感心しないで下さい、先生。まったく、融通が利かなくて困ったものですよ。ぼくがスコットランド・ヤードから派遣されて到着したのが昨日の午後なのですが、『この人はヤードでもお世話になっている、有名な探偵だから釈放しろ』と言っても、正式な手続きが完了しないうちは、応じられないの一点張りなんです。」
 マクビー巡査は「当たり前だ」とでも言いたげな顔で、取り澄ましている。相手は警部と言っても、かなり年下の若造だ。勤続年数で勝る巡査は、大英帝国の秩序と安全を守る警官として誇り高く、階級など意にも介さないのだろう。
 ホプキンズは私を奥の留置所へと続く廊下に、私を案内した。マクビーは残していく。

 「本当に、田舎の警官なんて酷いものですよ!」
 マクビーが居なくなったので、ホプキンズは更に語気を強めた。暗い廊下に、彼の若々しい声が反響する。
 「そもそも、ホームズ先生をぶちこむだなんて、どうかしています。」
「釈放命令書はいつ届く?」
「早ければ、明日の昼便でしょうね。まったく、マクビーときたら、ヨーロッパ一有名な探偵の名前さえも聞いた事が無いと言うのですよ。信じられないでしょう?」
「ああ、つまり…」
 私は笑いそうになるのを、ため息をつくことで誤魔化した。
「それが、警官侮辱罪の原因だね。」
「その通りです。」
 我が親友は、自尊心の塊だ。その自分を、田舎の一巡査に「知らない」などと言われれば、逮捕されるほどの侮辱にも及ぶかもしれない。
 「さぁ先生、あの独房ですよ。」
 ホプキンズが指差した。
「ああ、しまった。椅子を持ってきます。ここで話さなきゃならないことが、沢山ありますから…。先生、お先に行って下さい。」
ホプキンズは私を残して踵を返し、事務所に椅子を取りに戻った。私は一人で、独房へ進んだ。
 それはご丁寧に、留置所の中でも最も奥まった独房だった。高い位置に小さく開いた窓から、弱々しい日の光が差し、中に居た人物の白いシャツをボウっと浮き上がらせた。
 私が格子の前に到着すると、その人物はこちらに振り返った。痩せて、無精ひげを生やし、髪は乱れ、目ばかりが炯々と光る男 ― シャーロック・ホームズ君だった。


→ 2.ジョン・レン氏のベーカー街訪問
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