今日のハルの公務は、宗教関係の重要人物たちとの会見が主な物だった。聖マリア清めの祝日のミサのために、複数の司教や、カンタベリー大司教、そしてスペインから来た枢機卿が来賓としてウェストミンスターに滞在している。
 彼らとの顔合わせや挨拶には、国王も出席したが、その後の情報収集や、教会からの資産保護要求に関する会談はハルとウィンチェスター司教にゆだねられた。
 ここにカンタベリー大司教が同席すると、荒れた会見になりかねないが、大司教は国王と行動を共にしたので、それは回避された。それに、ハルは教会のご機嫌取りより、スペインの枢機卿との情報交換の方に興味がある。

 聖職者達との会談が終わると、ウィンチェスター司教は今夜サマーセット伯爵 ― つまり彼の実兄の屋敷に行くとの事で、それまでに済ませることが山ほどあると言って執務室にこもった。
 そこでハルも、書類仕事を済ませることにした。昨日までデイヴィッドと共にシーン離宮に滞在したのは、スコットランド国境での領地争いに関する裁判が、はるばるロンドンまで持ち込まれ、それに立ち会うためだった。判決は出たが、複数の領主が関係する案件だったため、書類はウェストミンスターへ持ち込まれ、それを片付ける必要があったのだ。

 目が乾いてしまいそうな勢いで仕事を終え、椅子に座ったまま伸びをしていると、中年の従僕が軽食用の皿を下げに来た。
「お疲れ様。」
 ハルが声を掛けると、従僕はペコリと頭を下げた。
「皇太子殿下も、お疲れ様です。お忙しいですね。今朝お戻りになってから、お休みもとっていらっしゃらない。あまり無理をなさらないで下さいね。」
「ありがとう、大丈夫だよ。ああ、そのコップも持っていって良いよ。もう飲んだから。」
 従僕はハルが指差したコップを手に取り、すこし怪訝な顔をした。
「おや、さっき私がお持ちしたものではありませんね。」
「従弟からの差し入れだよ。まだ四歳なのに、執務室まで会いに来るなんて、度胸がある。」
「そうですか、ああ皇太子殿下。会いにくるで思い出しましたが…」
 従僕は食器の載った盆を手に退出しようとして、ドアの前で振り返った。
「東門に、殿下に会わせてほしいと訴える男がニ、三人押しかけていますよ。」
「その手の人間は沢山居るけど?」
ハルが笑うと、従僕は首を振った。
「いえ、地主さんとか、貴族様とかじゃないんです。何でも、町からきたゴロツキみたいな連中とかで。門衛が追い返すのに苦労していますよ。」
 もう一度頭を下げて、従僕は出て行った。残されたハルは少し考え込んでしまった。
 皇太子に合わせろなどと言って押しかけてくる「町からきたゴロツキ」と言えば、レッド・ホロウの連中だろう。しかし、それほど気心が知れていても、彼らがウェストミンスター宮殿にまで押しかけてくるというのは、尋常ではない…

 食器を下げた従僕は二、三人と言ったが、実際にレッド・ホロウから押しかけてきたのは総勢二十名にも昇る人数だった。その先頭に居るのはネッド。低い身長を一生懸命伸ばして、槍を携えた門衛に食って掛かった。
「もう一度言うぞ、俺はサー・ジョン・フォールスタッフにお仕えしている、ネッドだ!皇太子殿下とは親友の間柄だぞ!さっさと取り次がねぇと、とんでもない目に遭うからな!」
 門衛がいかめしい顔で、即座に帰るように言っても、ネッドの背後についてきた男たち ― ロッド・ホロウの大工や鍛冶屋、膏薬屋、書記に両替屋、ただの酒飲みなどなど、とにかく元気な男たちが、皇太子ハルを出せ、出せといい騒ぐ。その中にはスパイクの顔もあった。
「とにかく、お前たちなんて連中が、お忙しい皇太子殿下のお仕事を妨害するなんぞ、とんでもない!さっさと帰れ!」
 門衛が槍を振らんばかりの勢いで怒鳴ると、ますますネッドたちは元気になって合わせろ、取り次げ、そうでなければデイヴィッドを探して呼び出せと騒ぐ。
その時、ネッドたちの背後から小柄でコロコロと太った若者が、馬の手綱を持って控えめに声を上げた。
「あの…すみません、すみません…通してください。あの、中に入りたいのですが、あの…あの、ネッドさん?」
 ネッドが後ろを振り向くと、そこには男たちをやっと掻き分けつつ、馬を引いて歩いてきたジョン・ダンスタブルの姿があった。例によって、少し顔を後ろにそらし、目を細めてネッドの顔を確認している。ネッドは狂喜してダンスタブルの首に抱きついた。
「ジョニー!よく来てくれた!俺たちの危機を知って助けに駆けつけてくれたんだな?!」
 するとダンスタブルはとまどって首を振った。
「いいえ、ロンドン塔での宿直当番が終わったので、こちらに戻ってきた所なんですよ。どうしたのですか?この騒ぎは…?」
 ダンスタブルは顔見知りになっている門衛と、ネッドの顔を交互に見ながら尋ねた。
「よく訊いてくれたよ、ジョニー!なぁ、この馬鹿野郎に、このネッド様がハルやデイヴィッドの大親友で、取り次がなきゃ皇太子からひどくお叱りを受けるぞ、ってこと説明してやってくれよ!」
「そうは言っても、ここは王宮だから…レッド・ホロウとは訳がちがうし…第一、王宮に押しかけてくるだなんて、尋常じゃありませんよ。」
 ダンスタブルはまだ十六歳の少年だが、その言動はしっかりしている。しかし、このままネッドを追い返すことにも賛成しかねていた。
 「ねぇ、ネッドさん。ここは一つ私が皇太子殿下に伝言をするって方法で、手を打ちませんか?だって、門衛さんたちは人を中に入れないのが仕事なのだから、おいそれと入れるわけにも行かないし。このまま大騒ぎを続けると、お縄頂戴なんて騒ぎになって、皇太子殿下やサー・デイヴィッドも迷惑しますよ。もし私がお二人にご報告して、お二人が面会を許可すれば良いわけでしょう?」
「ちゃんと伝えてくれるんだろうね?」
 ネッドが意地悪そうに言うと、ダンスタブルはうなずいた。
「もちろん。」
「よぉし、分かった!とにかく最初にハルかデイヴィッド、どっちかを探し出して、ネッドからの伝言だって伝えてくれ。『今朝の盗賊が釈放されたのは、どういう了見だ』ってな!」
「けさの…とうぞく?なんです、それは…」
「いいから、いいから!そう伝えてくれりゃ、ハルとデイヴィッドには分かるんだよ!さぁ行った、行った!俺たちゃレッド・ホロウ待ってるからな!」
 ダンスタブルは頷き、そのまま馬を引いて門内に入ろうとしたが、その前にスパイクがダンスタブルのマントをつかんで引き止めた。ダンスタブルが驚いて振り返ると、スパイクは小さく手招きをして、近くに来るように促した。ダンスタブルがそのとおりにすると、スパイクはダンスタブルの耳に口を寄せて、何事かを囁いた。
 「それもお伝えするの?」
 ダンスタブルがまた目を細めてネッドの顔を見ると、彼は僅かに頷いて見せた。

 デイヴィッドは鍛錬場での稽古を終えて水場で顔を洗うと、その水の冷たさに痺れるような感覚を味わいながら、マントを体に巻き付けなおしてウェストミンスター宮殿の居住棟へ向かって歩き始めた。そろそろ日は南中を迎えようとしていた。雲がうすれて、ところどころ青空が覗いている。それでも、空気の冷たさが辛い。
 先に武器室に立ち寄り、汚れた靴を替え、練習用の剣を管理係に預ける。そして回廊を渡って居住棟に入ると、一度自室に戻って衣服を替えることにした。するとさっき稽古をつけてやった小姓の一人が走って追ってきた。
「サー・デイヴィッド、お召し替えのお手伝いをしますので…!」
 デイヴィッドは自室に入りながら振り返った。
「いいよ、気にしないで。自分でするから。」
「いえ、稽古をつけていただいたお礼ですから…」
 そう言われればそれ以上の拒否はしなかった。
 デイヴィッドは自室の窓を少し開けて、下を見おろした。高い声で何か話す声がする。しばらくすると、すぐ下の扉から、女が四人わらわらと出てきた。ジェーンとマーゴ、そして侍女のデイとエリスだ。どうやら人を探しているようで、四人は駆け足で去って行った。
 小姓もデイヴィッドの脇から顔を出して、下を見おろして同じ光景を目にした。
「ああ、レディたち。お忙しそうですね。」
「あれ、何やっているんだ?」
 ロンドンの王宮でレディがどたどたと駆け回るのは、やはり奇異な光景だ。
「人探しだそうですよ。」
 小姓があっさり答えた。
「人探し?」
「ええ。サマーセット伯爵を探しているそうです。さっき、私も訊かれましたから。」
「伯爵を?何のためだろう。」
 デイヴィッドは首をひねって、もう一度外を見た。四人の姿はもう消えている。
「何か大事な御用ですかとお聞きしたのですが、理由は教えていただけなかったんです。ただ、サマーセット伯爵は今日、お屋敷へ移られるそうですよ。伯爵夫人と、ご子息は午前中のうちに宮殿から私邸の方へ、先に向かわれましたし…」
「それは教えたのか?」
「ええ。」
「サマーセット伯爵夫人に会うにも、誰かの紹介が必要だろうに…」
 デイヴィッドがそう呟くと、自室のドアを控えめにノックする音がした。入室を促すと、そっとドアが開いた。そのドアが開ききらないうちに人が勢い良く入ろうと、ドアに激突して凄い音がした。開けた主は低いうなり声を上げて、しゃがみ込んでしまった。デイヴィッドにはそれが誰なのかは分かっていたが、小姓は驚いてドアを開けなおした。額を押さえながらヨロヨロ立ち上がったジョン・ダンスタブルは、首を巡らすと、
 「こんにちは、サー・デイヴィッド…失礼しました。」
と言いながらペコリと頭を下げた。しかし例によって小姓に向かって礼をしてしまっている。
「やぁ、ダンスタブル。元気か。」
 デイヴィッドは着替えの仕上げに上着を羽織ると、公式文書製作係兼天文台勤務の若者に微笑みかけた。
「はい、元気です。あの…なんでしたっけ。」
 ダンスタブルは大きな瞳に涙を浮かべ、もう一度本当のデイヴィッドの方に向き直った。
「ああ、そうでした。伝言なんです。いま、ロンドン塔からこちらに戻ってきたのですが、東門にネッドさんたちがお友達と押しかけて、皇太子殿下かサー・デイヴィッドに会わせてほしいって言っていますよ。」
「ネッドが?でも門からは、さすがに入れてもらえないだろう。俺かハルが一緒ならともかかく…」
「ええ、それで私が偶然通りかかったので、伝言をお預かりしたんです。その代わり、皆さんはレッド・ホロウに引き上げるという条件で。ネッドさんは、『今朝の盗賊が釈放されたのは、どういう了見だ』 ― ですって。皇太子殿下とサー・デイヴィッドなら意味が分かるって言ってましたけど。」
「未明に、ストランドの宿屋で押し込み強盗騒ぎがあったんだ。その犯人が…釈放されたのか。確かに妙な話だな。」
「それから、スパイクさん、って居ますよね。」
「居るよ。レッド・ホロウの自警団副団長で、あの辺りじゃ一番頼りになる男だ。」
「その人も伝言ですって。」
 デイヴィッドはもう一度ダンスタブルの顔を見直した。ネッドの伝言も気になるが、普段からほとんど喋らないスパイクからの伝言というのはますます気になる。
「スパイクさんの伝言は、『回文男が現れた』ですって。意味、分かります?」
 デイヴィッドは返事をせずに、僅かに眉を寄せた。
「どうも今日は妙な日だな。」
しばらくしてデイヴィッドが呟いた。ダンスタブルがキョトンとして訊き返す。
「妙な日ですか?」
「多分。」
「はぁ…」
 ダンスタブルはどう反応して良いかわからずに困っている。そんな相手をよそに、デイヴィッドは壁から実戦用の剣と弓矢を取り上げると、小姓に服を洗濯に回すように命じ、そしてダンスタブルには、
「ありがとう、助かった。」
と短く言って、部屋から出て行った。取り残されたダンスタブルと小姓は、少々呆然としてその後ろ姿を見送った。

 デイヴィッドが足早にハルの執務室に向かうと、ハルは丁度執務机の前から、立ち上がったところだった。
「ハル、時間あるか?」
いきなりデイヴィッドが言うと、ハルは頷いた。
「あるよ。いや、作った。これ、綴り見てくれるか?」
 ハルは机の上に重なっている羊皮紙を指差すと、机から離れて続きの間になっている休憩室に入った。寝室ではないが、執務の合間に休んだり、衣服を変えたりする小さな控え室のような部屋だ。ハルは多少格のある執務用のローブを脱ぎ、外出用に着替え始めた。
「お前、東門にネッドが来ているって知っているか?」
 デイヴィッドは執務机に腰掛け、ハルの書類に目を通しながら言った。書類はラテン語と英語、場所によってフランス語がならべてある。
「聞いた。門衛に止められているんだろう?」
ハルが控え室のドアを開けたまま返した。
「通りかかったダンスタブルが伝言をもってきたぞ。…お前、ラテン語は完璧なのに、どうして英語の綴りを間違えるんだ?」
デイヴィッドは訂正個所にしるしをつけた。
「ダンスタブルとネッドが何だって?」
「伝言だよ。連中、レッド・ホロウに引き上げている。ネッドは、『今朝の盗賊が釈放されたのは、どういう了見だ』…だと。」
「今朝の盗賊が釈放された?それは妙だな。」
「それから、スパイクが別件を持ってきた。『回文男が現われた』」
 ハルが声は発せずに、顔だけ執務室に出してデイヴィッドを睨んだ。デイヴィッドは俯いて書類を見ている。
「これ、どうするんだ?」
 デイヴィッドは最後の書類を摘み上げ、書面をハルの方へ向けた。ハルは低い声で答えた。
「地元の治安判事に差し戻し。ロンドンで判断する次元じゃない。」
「…そうかもな。じゃぁ、二箇所。両方とも綴りだ。」
「ありがとう。回文男が出た?」
 ハルは着替えの仕上げにマントを手に持つと、剣と一緒に抱えて休憩室から出てきた。
「スパイクはそう言っている。」
デイヴィッドは執務机から立ち上がった。
「愛想の良い、町っ子らしい若者で、ロヌーク夫人を知っているらしき男、だな。」
ハルが確かめると、デイヴィッドも頷いた。
「そして名前が回文。右から読んでも、左から読んでも同じ。」
「デイヴィッドはどちらが気になる?」
「さぁ。お前は?」
「両方。」
 ハルはニヤリとして、回廊に出るドアを開け、背後のデイヴィッドに外出を促した。
「行こうぜ、デイヴィッド。まずレッド・ホロウで、現場をおさえよう。…どうした?」
 デイヴィッドは執務机の前で、腕を組んで立っている。
「今日はどうも、妙な日のような気がする。」
「ええ?」
 ハルが驚いて聞き返した。デイヴィッドは普段、あまりこういう物言いをしない。
「朝一番に大立ち回りがあってから…色々な人が俺のところにやって来て、色々な事を言い残して行くんだ。でも、どれが一番大事のかが分からない。」
「俺、お前が言っている事がよく分からない。」
「何か大事な事を、聞き流してしまったような気がする。」
 ハルは少し眉を寄せ、デイヴィッドの顔をジロジロと見た。
「それ、俺も聞いているか?」
「それがわからない。」
 デイヴィッドの真面目な返答に、ハルは呆れて首を振った。
「追い追い思い出せ。行こう。」



 → 9.下敷き男と、回文男との相次ぐ面会
8.宮殿への来訪者が、事件の予感を匂わせる事
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  複合的な家庭の事情
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