ジェーン・フェンダーが居住棟にもどると、自室にはデイも、小姓たちの姿もなかった。ジェーンの荷物の半分は開いているが、半分はそのままになっている。ジェーンはため息をついた。
 デイは悪い侍女ではないが、少々集中力に欠ける。荷解きの途中で他の事 ― 厩での盗み聞きに行ってしまい、その後は荷解きを忘れたのだろう。
 ジェーンは暫く自分で荷物を解き、整理をした。荷物を一通り眺めてみると、ダルシーから持参した薬草の包みがなくなっている。さっき、王妃に頭痛に効く薬草を煎じるために、デイに包みをあけさせたが、残りの様々な薬草や薬がない。ジェーンはデイが薬草を持って宮殿内の保管庫に持っていたのだと判断した。せっかく持っていっても変な棚に分類されてはかなわない。ジェーンは自室から回廊に出て、さて保管庫はどこだろうと思案していた。 すると、答えの方からこちらに向かってきた。侍女を従えたマーゴである。
 「ああ、居たわね、ジェーン。これは私の侍女のエリス。よろしく。それより…」
 せっかくエリスがジェーンに向かって優雅に礼をしているのに、それを無視するようにマーゴは楽しげに喋り始めた。
「中々やるじゃない!いきなり密会なんて凄わ!」
「盗み聞きなんて、レディの趣味としては誉められたものじゃないわね。」
 今日初めて会った仲だが、ジェーンは既にマーゴを遠慮なくものを言うべき相手を認識していた。マーゴの方はジェーンの指摘など気にせず、回廊を歩きながら早口に続けた。
 「そりゃ、厩っていう場所は良くないけど、相手がサー・デイヴィッドともなれば、話は別。馬と言えばサー・デイヴィッドだものね。聞いたわよ、明け方に宿で押し込み強盗騒ぎがあったんでしょ?助けに来たサー・デイヴィッドを泥棒呼ばわりして逮捕させるだなんて、ジェーンも余程慌てていたのね。それでも意外とサー・デイヴィッドは怒っていないみたいじゃない?」
「薬草保管庫の場所は?」
「でも、あなたの母上様はなんて仰るかしら。サー・デイヴィッドには褒賞が期待できない事は、確認できたでしょう?条件面が不利だし…もちろん、そういう不利な面があるっていうのも、素敵だけど…何か言った?」
「言った。薬草保管庫はどこ?」
「あら。」
 マーゴは目をぱちくりさせて、背後の侍女と顔を見合わせた。
「いいわよ。案内してあげるわ。」
 そう言ってマーゴはジェーンと一緒に歩き始め、背後からエリスがついてきた。
 ジェーンは、女達の部屋と薬草保管庫が近くだった事を神に感謝した。マーゴが回廊を歩いている間、延々と『サー・デイヴィッドをお奨めできる点と、お奨めできない点,および他にも様々な選択肢があるのだから、慎重に選ぶべきこと』について講釈していたからである。もし薬草保管庫が宮殿内の一番遠い位置だったら、マーゴの話題はトルコの王子まで達していただろう。

 ジェーンが慣れ親しんだ聖アンジェラ修道院などは、薬草保管庫が独立した部屋になっていたが、ここウェストミンスター宮殿は食料保管この一部に間借りしていた。もっとも、貴族の居館にしては良い待遇だと言える。
 前世紀半ば、エドワード三世の王子達 ― ブラック・プリンス・エドワードや、ハルの祖父であるランカスター公爵などが、カスティーリャ遠征を行った時に大陸の珍しい薬草を多く持ち帰ったのが、このウェストミンスター宮殿の薬草保管庫の始まりだという話もある。カスティーリャには遠くイスラムからもたらされた薬草が、多数存在したのだ。
 更に現国王ヘンリー四世も若かりし頃リトアニアに遠征したことがあり、更に現在病身とあって、薬草の占める位置は保たれたままになっているのだ。
 ジェーンは宮廷に伺候する事が決まってから、この保管庫に棚を一つ確保してもらえるようにリース卿夫人に頼んであり、快諾されていた。
 食糧庫係は、レディなどという高貴な人物がやってきて恐縮するのかと言えば、そうでもない。その前に王子が来ていたのだ。国王の三男、ジョン王子である。
 ジェーンは去年の秋に会っているので、すぐにその姿を認識すると、礼を尽くして挨拶をした。しかし、された方のジョンは決まりが悪い。両方の鼻の穴に布を詰め込み、ジェーンの侍女・デイに額と鼻の頭、そして顎にできた傷を洗浄されている最中だった。
 「ごきげんよう、レディ・ジェーン。」
 ジョンは鼻声で言った。
「モンマス以来ですね、ジョン様。お元気でしたか?」
 ジェーンはそう返したが、どうも状況的にはふさわしくない。椅子に腰掛けたジョンの額を、デイが乱暴な手つきで水洗いし、王子は悲鳴を上げている。呆れるジェーンの背後では、明らかにマーゴとエリスが笑っていた。
「デイ、もうすこしそっと洗いなさい。傷を広げてどうするの。」
 するとデイはまんまるの目玉が飛び出さんばかりの表情で言い返した。
「でもお嬢様、ちゃんと洗わないと膿んでしまいますよ。いつもお嬢様がそう仰っているんじゃありませんか。王子様、額なんて特に細かい砂がこびりついて…ああ、どうしてこんな転び方が出来るのですか?」
 ジェーンはため息をつくと、デイから水桶を取り上げた。
「デイ、代わるから。荷物の整理をしてちょうだい。」
 すると、ジョンが慌てて手を振った。
「そんな、レディに傷の手当てをさせるなんて、とんでもない!それにデイヴィッドに悪いし…」
「王子様も、土地無し騎士も、怪我をしたら同じ怪我人です。」
 ジョンには返す言葉もない。しかも、傷を洗い終えたジェーンは有名な『劇的にしみる傷薬』を塗りこみ始めたので、ジョンが耐えるべき痛みは、継続した。
 マーゴはエリスと共に物珍しそうに、ジェーンがダルシーから持参した薬や、薬草の包みを覗き見ている。そこでデイが誇らしげにそれを一々手にとっては説明し始めた。こうなると、誰もデイを止められない。マーゴとエリスも楽しそうにしているので、ジェーンは放置してジョンの治療に専念した。
 確かにジョンの顔の擦りむき傷は、その形成過程を知りたくなるような状態だった。額の次は鼻の頭,顎と順にジェーンが治療を進めていき、ジョンは決まり悪そうにモジモジしている。そして例の膏薬を塗りこむと、目に涙を浮かべ、声にならない叫び声を上げながら椅子にしがみついていた。
 「さぁ、終わりましたよ。多分、この薬を塗った状態で放っておいて大丈夫でしょう。」
 そう言ってジェーンが膏薬の容器を皮袋に戻すと、ジョンはため息をついた。
「やれやれ、ありがとう。レディ・ジェーン。」
「どういたしまして。ごめんなさい、沁みたでしょう。」
「少しね。」
 そうして二人で顔を見合わせて笑うと、厨房から暖かいハーブティーが運ばれてきた。まだ寒い盛りという事で、王子やレディに配慮したのだろう。ジョンはそれをすすり、湯気が傷をうずかせるのを我慢している。更に、まだ鼻血止めの布を鼻に突っ込んだままなので、酷く苦労して飲みつつ、ジョンが言った。
 「それで、いかがですか?ジェーン。ロンドンは。」
「まだ、今朝到着したばかりですから、なんとも。」
 ジェーンが少しそっけなく応じると、ジョンは笑い出した。
「そうは言っても、もう随分と体験済みみたいだけど。ストランドの宿屋に宿泊したら、強盗騒ぎに巻き込まれて、そこに駆けつけたのが兄上とデイヴィッドというのだから、華々しいね。しかもデイヴィッドを逮捕させてしまったのだから凄い。ウェストミンスターに到着後は聖マリア清めの祝日のミサに参加したのでしょう?そして、久しぶりにデイヴィッドとゆっくり話せたし…」
「そうですね。幸い、皆さんが退散した後、直ぐに話しは終わりましたよ。」
 ジョンは決まり悪そうに、もう一口お茶をすすった。
「うん、まぁ、その…それで、デイヴィッドはどうなのかな?」
 ジョンが伺うような目で見やった。
「どうとは?」
「レディ・ジェーンの婿候補としてさ。」
「さぁ。」
 ジェーンは少し天井を見上げた。いつの間にか、向こうで薬草のたぐいを見ていたマーゴ、エリス、デイもこちらに耳を向けている。
「候補の一人ではあるでしょう。同世代ですし。あちらもまだ妻帯していらっしゃらないし。」
「それだけ?」
 ジョンは少し勢い込んで畳み掛けた。ジェーンは少し首を振った。
「別に今日、明日にでも婿を決めなければダルシーの相続権を放棄しなければならないような、緊急の話ではありませんので。じっくり考えませんと。それに母の見解や領民達に歓迎される事が一番大事ですし。」
「やはり、デイヴィッドには爵位や領地が見込めないのは、引っかかるか…。でも、そうは言ってもデイヴィッドはセグゼスター伯爵の息子だよ。六男だけど。それに…国王陛下や兄上の信任も厚いし、ウィンチェスター司教にも信頼されているし…」
 ジョンが他にも何かあるかと視線をめぐらすと、そこにはいつの間にやって来たのか、デイの姿があった。
「駄目ですよ、王子様。そうは行きません。」
「なんだって?」
 デイの強い口調に、ジョンは驚いて目を丸くした。ジェーンは咄嗟に指先で額を抑えて俯いてしまい、侍女を制止する機会を逃した。
 「知っていますよ、ジョン様の作戦は。サー・デイヴィッドが花嫁に心を奪われれば、皇太子殿下へのお心が手薄になり、その後釜としてジョン様が皇太子殿下のお側に納まることが出来るという、算段なのでしょう?その為にうちのお嬢様を利用しようなどとお考えでしょうが、そうは行きませんからね!」
「わぁ、凄い。」
 王子に失礼な物言いをする侍女に、マーゴが驚嘆の声を上げたが、同時に声援も送り始めた。
「そうよ、ジェーン。ジョン様の目論見なんて、見え透いているんだから。宮廷じゅうで知らない人は居ないくらい、有名な『秘密計画』だものね。サー・デイヴィッドは良いけど、お婿さん選びは慎重にいかなきゃ。ジェーンは今日ロンドンに到着したばかりなのだから、今日決めてしまうだなんて馬鹿なこと、およしなさいな。」
「マーゴ様の仰るとおりです。私はダルシーの奥様から、厳重に言い含められているのですから。ジョン様の作戦に乗せられただなんて、奥様が許しませんよ。」
「いいかげんに黙りなさい、デイ。」
 ジェーンはやっと低い声で侍女を制した。デイが目をむいてまくし立てている間、ジョン王子は口をパクパクさせて、冷や汗をかいている。ジェーンはそんなジョンにすこし目を伏せて見せた。
「申し訳ございません、ジョン様。侍女は何分にも田舎から出てきたばかりですから。ただ、ダルシーとフェンダー家を思うあまりの無礼、どうぞお許しください。」
「だ、大丈夫だよ!気にしないで、レディ。ただ、僕は…」
 ジョンは頬を赤らめて、女達の顔を見回した。
「レディ・ジェーンはデイヴィッドと気が合うみたいだからさ。」
「会話は一応成立している事実を、この場に居る全員が、知っているようですし。」
 ジェーンが皮肉っぽく言うと、厩の野次馬に該当するのだろう、デイ,マーゴ,そしてエリスも天井に視線を浮かせた。ジェーンは小さくため息をついて続けた。
 「とにかく、私はまだ何も決めていません。第一、荷物の整理も終わっていません。婿探しをしている事は否定しませんから、ジョン様お奨めのサー・デイヴィッドも、心に留めておきます。それよりも…デイ。早く荷物を片付けなさい。」
 主人にぴしゃりと言われて、やっとデイは薬草類の収納に戻った。もっとも、既に大方片付いていたらしい。デイは荷作り用の布や袋、緩衝材を片付け、棚の様子をジェーンが最終確認した。
 「いいわ、ご苦労様。さぁ、もう引き上げましょう…」
 ジェーンはそう言いながら、デイの手元を見た。デイはまさに空になった薬瓶を拭き清めているところだった。
「待って。デイ、それは?」
「これですか?これは…。」
デイは言いよどみ、ジェーンは眉を寄せた。
「その瓶は確か…一杯に入っていたはずでしょう?」
「それが、お嬢様…」
 デイは俄かに気まずそうな顔つきになって、たどたどしくと答えた。
「私がここで荷捌きを始めた頃に、貴公子がお一人乳母と一緒にいらっしゃって、ご所望だったんです。元々こちらの薬草庫に供えていた分は、在庫を切らしていたらしくて、それでしたらこちらの荷物にあったので、それで…」
「差し上げたの?」
「ええ…あの…いけませんでした?」
 デイは主人の大事な薬を勝手に提供してしまったのは、やはりまずかったと思い直し、ジェーンの顔色を窺った。ジェーンはデイの手から瓶を受け取り、そのラベルと中身をじっと見ている。そして少し寄せた眉はそのままに、またデイに尋ねた。
「この中身を全部使ったのね?」
「ええ…」
「その貴公子ってどなた?」
「乳母がヘンリー様と呼んでいたので、ヘンリー様でしょうね。」
「ヘンリー様はたくさん居るじゃない。幾つくらいなの?」
「さぁ、…多分、五歳くらいかと…」
 デイが言いよどむと、そろそろ貯蔵室から退散しようとしていたジョンが振り向いた。
「それ、ヘンリー・ボーフォートだよ。さっき会った。」
「では、サマーセット伯爵の…」
 ジェーンがマーゴに向かって振り返ると、彼女も納得した様子で頷いた。さっきアビーの二階席から貴賓席を見下ろしたとき、サマーセット伯爵が夫人と幼子を連れていた。確かに五歳ぐらいの少年だ。ジョンが続けた。
 「さっき回廊で乳母と一緒のヘンリーと挨拶したよ。なんだか大事そうにコップを二つかかえて、ニコニコしていて…。誰に飲ませるかと訊いても、秘密だって…大事なこと?」
 ジェーンは瓶をテーブルに置くと、長く息を吐き出した。そして低い声でつぶやくように言った。
 「飲むと大変なことになると思います。出来れば飲むのを阻止したいですね。」
「大変なことって?」
 ジョンがこわごわ尋ねる。マーゴとエリス、デイも押し黙ってジェーンに注目した。ジェーンは小さく答えた。
「申し上げたくありません。」



 → 8.宮殿への来訪者が、事件の予感を匂わせる事
7.ジョン王子の有名な秘密計画が、危機に瀕する事
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