ウェストミンスター・アビーでの礼拝後、ジェーンはどれほど緊張の連続を強いられるのだろうかと気を張っていたのだが、拍子抜けてしまった。それは、彼女が領地ダルシーでしていたのと、同じ事をする事になったからである。
 王妃が頭痛を訴えたのだ。それほど深刻ではないが、ここ数年頭痛が多くなり、特に午前中に起こると一日中続いて困っているのだと言う。そこで、さっそく新参のコンパニオン、ジェーンが呼び出された。つまり、医者としての職務を遂行して欲しいというのである。
 ジェーンもある程度は予想していた。母がリース卿夫人に王妃への紹介を依頼する手紙を書いた後、リース卿夫人からの返事には是非ロンドンへ来て欲しいという事と、女性たちの健康上の悩みも聞いて欲しいと書き添えられていたのだ。ジェーンが町医者や、聖アンジェラ修道院で医者の知識をつけいることを知っているらしい。
 ジェーン自身は、まさか宮廷の夫人達や王妃が自分を医者として、本気で当てにしているとは思っていなかった。だから、いきなり初日に王妃の頭痛をどうにかしろと言われて、驚きはしたが、結局やることはダルシーと同じだという結論に達した。
 ジェーンは王妃と侍女から症状を聞き取ると、すぐにこれは王妃ほどの年齢の高貴な女性にはありがちな頭痛と判断し、まず寝室を徹底的に換気し、香水,香木,その臭いのついた衣服を撤去させた。そして荷物の中からよく効く薬草を引っ張り出し、デイに熱湯を準備させると、手早く薬湯を作って王妃に飲ませたのである。
 あとは、空気の入れ替わった寝室で、王妃が休むだけ。ジェーンの仕事は終わってしまった。
 王妃が休むと、コンパニオンたちも仕事が終わる。かくして、彼女達は各々の部屋で引き続きお喋りをしたり、高貴な家同士の情報交換をしたり、刺繍をしたり、詩を読んだり ― とにかくのんびりとした時間を過ごすことになったのだ。

 ジェーンは宮殿内の自分の居室に荷物を運ばせると、またマーゴに宮廷の案内でも頼もうかとも考えた。マーゴも後で部屋に迎えに行くと言っていた。
 しかしその一方で、ジェーンは一人でやりたい事があった。案内無しには難しいかもしれないが、マーゴに案内を頼む気分にはなれないし、デイはもっと当てにならないだろう。
 ジェーンは居室の窓から、宮殿の中庭を眺めた。馬丁たちが、寒空の下で馬を引き、調教しているのが見える。奥の間では、デイが荷物を解きながら小姓達にあれこれと指示している。その声曰く―
「ちょっと!お嬢様の大事な衣装なのよ!そんなに乱暴に扱わないで頂戴!ああ、もう!それは奥様が送ってくださった高価な衣装箱なのに、傷がついたらどれほど嘆かれるか!ジェーンお嬢様の名誉を傷つけるような真似は、この私が許しませんからね!」
 ジェーンはそっとマントを取り上げると、デイに悟られないように居室を後にした。

 ウェストミンスター宮殿は、ジェーンが想像していたより、小さな宮殿だった。大きな要塞としての役割はロンドン塔やウィンザー城が果たすのだろう。ウェストミンスター宮殿は、地方の地主か領主の居心地の良い居館の大型版とでも言うべきだった。
 ジェーンはマントを体に巻きつけると、中庭に出て辺りを見回した。寒さのせいか、人影はまばらだ。女達の居住棟のどこかで、ハープの音が聞こえる。たまに見える人影は、薪や水桶を持った召使達が多く、稀に立派な身なりの貴族とその連れが見え隠れしていた。
 ジェーンはさっき窓から見た馬丁たちがどこへ行ったか、見回した。地方領主の居館も王宮も、厩の位置はだいたい同じだろう。ジェーンは勘を働かせて歩き始めると、建物の幾らか行き過ぎた先に、立派な厩舎が見えてきた。
 さすがに、イングランドの王宮の厩舎である。かなり立派なものだった。馬たちがそれぞれの馬房で休んでいる。日が高くなって、運動の時間なのだろう。何頭かが馬場に出て調教されているのが見える。
 ジェーンが厩に入ると、人の気配がなかった。居るのは馬たちばかりである。ジェーンは厩を見回すと、ゆっくり歩き始めた。そして、ある馬房の前で、足を止めた。見覚えのある黒毛の立派な馬が、じっとしている。ジェーンはその鼻先をそっとなでた。
 「こんにちは。あなたの名前は知らないけど…ご主人様を知っているわよ。あなたのご主人、今どこにいるか教えてくれない?」
 黒毛の馬はジェーンを見つめただけで、首を振りもしないし、大きく息をつきもしない。ただ、前足を少しカツカツと鳴らしただけだった。
 ジェーンが辺りを見回すと、足元にカラスムギの少し入った桶が放置されている。その中から一掴みムギを取ると、黒毛の馬の口元に持っていった。すると馬は躊躇せずにジェーンの手からムギを食み始めた。
 「凄いな。」
 不意に、ジェーンの背後で声がした。振り返ると、そこには右腕に毛布、左手に水桶を持ったデイヴィッド・ギブスンが立っていた。
「そいつ、俺以外の人の手からは、絶対に食べないのに。」
「そうなの?名前は?」
「フールハーディ。下手なところに立つと蹴り飛ばされるぞ。」
「あなた以外はね。」
「俺もたまに蹴られる。」
 デイヴィッドは無愛想に言って、水桶と毛布を置いた。そして改めて、ダルシーの女子相続人を見る。すると、ジェーンは膝を少し折り、目を伏せた。
「今朝はごめんなさい。まさかサー・デイヴィッドが逮捕されるとは思わなかったわ。」
「いきなり強盗の一味呼ばわりされれば、逮捕もされるだろうさ。」
 デイヴィッドが苦々しく言うと、ジェーンは顔を上げて言い返した。
「わざとじゃないわよ。」
「わざとじゃ無しに、『強盗の一味』なんて言葉が出るか?」
「出ちゃったんだから仕方がないじゃない。それに暗かったし、あなたは凄い勢いで入ってきて、しかも剣まで抜いて…」
「強盗退治するのに、抜かない訳にも行かないだろう。」
「押し入る前に名乗れば良かったのよ。」
「押し入ってない。助けに入ったんだ。あの状況で『私はサー・デイヴィッド・ギブスン、中にいらっしゃるのはどなた様ですか?』だなんて、言えるわけがないだろう?」
「強盗は言ったわよ。」
「俺と強盗を一緒にしないでくれ。おかげで礼拝に遅刻したじゃないか。」
「だから謝っているんじゃない。」
デイヴィッドは口を開いて何か言い返そうとしたが、考え直し、まず大きく息を吐き出した。そして、声を落とし、壁にかけてあったブラシを取りながらつぶやいた。
「やめよう。きみと言い合いをしていると、マリーが出てきそうだ。」
「ここはモンマスじゃないわ。」
「その通り。ロンドンだ。」
 デイヴィッドはブラシを桶に突っ込むと、軽く水を切り、馬房に入ってフールハーディの体にブラシをかけはじめた。ジェーンはブラシから飛沫が飛ぶのも気にせずに、相変わらず立っている。
 デイヴィッドは気を入れ替えて尋ねた。
「それで?ダルシーの女子相続人たるジェーン・フェンダーが、どうしてロンドンに居るんだ?」
「王妃様に伺候する事になったから。」
「コンパニオンとして?」
「そう。」
 デイヴィッドは休まずに手を動かしていた。
(どうしてそんなに大勢のコンパニオンが必要なんだろう…)
 そんな素朴な疑問は口にせず、代わりにマーゴと同じ事を尋ねた。
「そうは言っても、実際は花婿探しなんだろう?」
「そうね。選択肢が増えれば、母のお気に召す人も現れるでしょ。」
「宮廷には爵位も領地も豊かな騎士が、わんさと居る。ダルシーほどの大領地の女子相続人になら、何人でも申し込むだろうさ。」
「そうだと良いのだけど…」
 デイヴィッドがジェーンに向き直ると、彼女は地面から水桶を取り上げてデイヴィッドの前に差し出していた。デイヴィッドはそれにもう一度ブラシを突っ込むと、また水を切ってフールハーディの体をこすり始めた。この暴れ馬は、いつもなら何をされてもデイヴィッドを蹴ろうとするが、今日に限ってはなぜか大人しくしている。
 ジェーンは水桶を地面に置くと、フールハーディの長い顔をゆっくりと撫で始めた。デイヴィッドはそれを横目で見ている。
「浮かない顔だな。旅の疲れか、今朝の騒ぎが応えたなら、休んだらどうだ?」
「体は元気よ。ただ…ちょっと面倒だと思って。」
「何が。」
「あなたの言うように、素晴らしい爵位や広い領地を持つ立派な騎士に、結婚を申し込まれてもね…」
「それが面倒なのか?」
 デイヴィッドは思わず手を止めた。
「それは女子相続人としては職務怠慢だな。きみがまともな相手と結婚しなかったら、ダルシーはどこかの強欲な奴に掠め取られるぞ。」
「分かってる。結婚は一向に構わないわ。ダルシーのためだもの。ただ…相手の爵位とか、領地はね…」
「要らない?」
「そうじゃなくて…どう言えば分かってもらえるかしら。たとえば、とある公爵と結婚するとして。公爵様なら所領はダルシーよりも広大でしょう?」
「当然だ。」
「そうしたら、ダルシーは公爵家にとって、支領にしかならない。」
「・・・なるほど。」
 デイヴィッドは再び手を動かし始めた。
「女子相続人らしい悩みだな。つまりきみは、ダルシーこそが一番大事で、結婚した後もそうであって欲しいと考えるわけだ。」
「私にとっては、ダルシーが全てだもの。父も、その父も、フェンダー家が代々大切に納めてきた領地が、どこかの大領主の支領になったら…少なくとも、私はダルシーに住めないんじゃないかしら。」
「普通は、結婚で領地が増えれば素直に嬉しいものだが、女子相続人さんっていうのは、中々複雑だな。」
「私が特別なのかも。変わり者なのよ。さっきも、王妃様や貴婦人達に紹介されたけど、みんな私を珍しいものみたいに見ていたわ。王妃様に薬湯を差し上げた時なんて、なおさら…」
 ジェーンはまた地面から水桶を取り上げ、デイヴィッドの前に差し出した。デイヴィッドは自然とブラシをそれに漬け、フールハーディの体にまた反対側からブラシをかけはじめた。
「ご夫人たちのことは俺にはよく分からないが、おおかた無害な人たちだよ。変わった人も多いだろうから…きみのいろいろと条件の厳しい結婚相手も、きっと見つけてもらえるさ。今までに良い話はなかったの?」
 デイヴィッドは多弁になっていた。基本的に無口なのだが、女性相手の場合喋っていたほうが安全である事を、セグゼスターの兄嫁たちとの付き合いで学習している。
 「そりゃ申し込みは沢山あったわよ。父が生きていた頃から。だけど、父はあれが気に入らない、これが気に入らないで、全部駄目にしてしまうし、父が死んでからも母が同じ調子で、埒があかなくて。でも、一昨年だったかしら、凄く良いお話があって、もう結婚しようって決めた事があったわ。サー・ジョン・オールドカッスルって知っている?」
「オールドカッスル?!」
 デイヴィッドは驚いて大声を上げた。その拍子にブラシを滑らしてしまい、フールハーディが不満そうに首を振った。
「知っているも何も、オールドカッスルと言ったら、ハルや俺にとっては大恩人で大親友だ。結婚すれば良かったのに。あれほど良い男は居ないぞ。」
「そうね。爵位や大きすぎる所領はお持ちではないけど、立派な騎士だって評判だったわ。皇太子殿下もご存知なの?」
「最初にウェイルズ遠征をした時に、ハルにつけられたお守り役がサー・ジョン・オールドカッスルさ。当然俺もずっと行軍を共にしていた。とにかく騎士の鑑のような男で、ハルも俺も、オールドカッスルを見習い、必死について行くばかりだった。」
 デイヴィッドは懐かしさに手を止めた。
「もう随分会っていないな…待てよ、去年結婚したって聞いたぞ。たしか…」
「コバム卿の女子相続人と結婚したのよ。なるほどね、オールドカッスル様は国王陛下の信頼が厚いから、爵位がなくても母が乗り気だったんだわ。皇太子殿下のお守り役ともなれば当然ね。私と、コバム卿のお嬢さんの話は、ほぼ同時進行だったらしいわ。それで、オールドカッスル様はまずコバム卿のお嬢さんと対面して、その場で決めてしまわれたんですって。」
「ジェーンにとっては、不運だったな。」
「縁だもの。仕方がないわ。」
 肩を小さくすくめて見せるジェーンは、これといって残念そうにも見えない。デイヴィッドは大きく息をつくと、また手を動かし始めた。
「そうか。そういう話があったのか。オールドカッスルはすっかり所領にいついてしまったからな。良い縁組だったんだろう。ウェイルズ戦役での褒賞もあるだろうから…」
 ジェーンはさっきマーゴが言っていたことを思い出した。
余計なお世話かも知れないが、ジェーンは物事を確認せずにはいられない性格である。もう一度デイヴィッドが水桶にブラシを入れるのを待ってから、おもむろに尋ねた。
 「ねぇ、褒賞と言えば…あの話は本当なの?」
「あの話って?」
「サー・デイヴィッド・ギブスンは、国王陛下や皇太子殿下から、いかなる爵位も領地も頂く事は出来ないという法律の話。」
「そんな話、よく知っているな…」
 デイヴィッドは低く呟き、一旦ブラシを桶に入れると、横木に引っ掛けてあった毛布を取り上げ、フールハーディの背中に掛けた。そして、改めてブラシを取ると、今度はフールハーディの四肢を洗いながら、ジェーンの質問に答えた。

 「答えは、その通り。そういう法律がある。議会で議決されたんだ。」
「俄かには信じがたいわね。」
 ジェーンはデイヴィッドの作業の邪魔にならないように、フールハーディを挟んで向かい側に移動した。
「どうしてそんな変な法律なんて議決されたの?騎士だったら、国王陛下のための働きに対して、禄や爵位を戴くのは当たり前の事じゃない。しかも、それを法律まで作って禁じるなんて…」
 ジェーンの口調は落ち着いてはいるが、明らかに腑に落ちない様子だった。デイヴィッドはフールハーディの前足を洗い終えると、今度は後ろに回った。そして蹴られないように用心しながら、ジェーンに尋ねた。
「きみ、ピエール・ド・ギャヴスタンという男を知っているかい?」
「ギャヴスタン?」
ジェーンは僅かに眉を寄せた。
「随分昔の…百年くらい昔の人でしょう?たしかエドワード二世の…」
「寵臣。王の『度の過ぎた』寵愛を笠に着て、コーンウォール伯爵,摂政,王の姪の婿となった成り上がり者。諸卿を侮辱し、政治的には無能、イングランドを混乱させ、王と共に愚行の限りを尽くした男だ。
 結局、貴族たちの怒りが頂点に達し、追放、拉致された末に惨殺された。どこを取っても良い所がない。俺が実際に見たわけではないが…」
「ちょっと待って…」
ジェーンが言葉を挟もうとしたが、デイヴィッドがそれを遮った。
「俺が第二のギャヴスタンになるのを防ぐのが、法案議決の目的だ。」
「冗談じゃないわ。」
 ジェーンは思わず声を高くして、身を乗り出した。一瞬、フールハーディが息を荒らげ、身を震わせる。デイヴィッドはとっさに体を起して、左腕でジェーンをかばったが、フールハーディはそれ以上暴れなかった。
「サー・デイヴィッドが…」
 ジェーンは改めて声を落とし、デイヴィッドを睨みながら言った。
「ギャヴスタンみたいになるはずがないでしょう?」
「どうかな。」
 デイヴィッドは改めてフールハーディの後ろ足を洗い始めた。
「ギャヴスタンは王が十歳の時に、遊び相手として伺候した騎士の息子だ。そのまま、ずっと王と行動を共にして、愚行に及んだわけだが…俺はその上を行っている。ハルとは生まれた時から一緒だ。」
「あなたも皇太子殿下も、無能じゃないし、愚かでもないわ。ギャヴスタンと、エドワード二世とは全然違う。…そりゃ私も実際に見たわけではないけど…」
 ジェーンの最後の一言に、デイヴィッドは少し微笑んだ。そしてフールハーディの足を洗い終わると、桶とブラシを持って馬房から出てきた。そしてブラシを壁の掛け金に戻し、桶の水を排水溝に流すと、手を拭き、改めてジェーンに向き直った。
「実態がどうだかは、ともかくだ。もし俺が国王陛下やハルから、領地や爵位をもらったら、ギャヴスタンと同じだと解釈する人間がいても、おかしくはない。俺が禄をもらうのは、同時に敵を増やす事になりかねない。だから、そうなる前に、『セグゼスター伯爵エドワード・ギブスンの六男サー・デイヴィッド・ギブスンは、相続を除くいかなる手続きでも、領地および爵位は与えられない』という法案が可決されたんだ。
 もう五年前ぐらい前だろう。文書館に行けば、羊皮紙の条文を見せてもらえる。」
「相続を除く?」
「そう。ご存知の通り、俺は親父の六男。殺しても死にそうに無い兄貴や、甥が山ほど居るから、相続の見込みは皆無だな。」
 女子相続人と結婚する ― という手段が残っているが、ジェーンは黙っていた。そして少し微笑みながら、別の事を尋ねた。
「一見、あなたには非常に不利益な法律だけど…誰が立案したの?」
「最初に言い出したのは、俺の親父。セグゼスター伯爵。それにウィンチェスター司教が同意して、国王陛下が承認した。ハルもあの時、議会で賛成に一票入れただろうな。
 とにかく、誰も異議は唱えず、簡単に議会を通過したよ。」
「どうやら、その法律の目的は、あなたを守る事のようね。」
「そうかもな。」
「そうよ。決して褒賞は受け取らないからこそ、あなたは安心して皇太子殿下と一緒に居られるでしょう?あ、でも…もしかして…」
「なに。」
 ジェーンは伺うような表情で、デイヴィッドを見やった。
「もしかして、あなたがセグゼスター伯爵を『クソ親父』だなんて言うのは、その法案の立案者だから…?」
 デイヴィッドは珍しく気の抜けたような表情になって、暫しジェーンの顔をじっと見つめていた。そしてゆっくりと笑みが顔に広がり、これまた珍しく、声を立てて笑い出した。
「きみは面白い事を言うな、レディ・ジェーン!いや、参った。そう来るとは思わなかった…」
「いや、ちょっと思いついただけ…」
 ジェーンはデイヴィッドの笑い声に驚き、同時に決まりの悪い気分がして顔を赤らめた。デイヴィッドはやっと笑いを収めると、片手を柱に突き、少し姿勢を崩しながら言った。
「その質問については、ノー。クソ親父と法律は関係ない。俺は別に、国王陛下やハルから禄を全くもらわなくても、一向に構わないから。
 セグゼスター伯爵家とソンダーク子爵家は、俺の孫の代まで、決まった割合の年金を俺とその家族に支給する事が義務付けられている。これは司教区に届けている事項で、半ば法律化されていると言っても良いな。
 つまり俺が経済的に困るということは、伯爵家と子爵家が存続する限り、そう簡単には起こり得ない。納得した?」
「六男で相続する土地も爵位もなく、しかも十九歳だなんて若さのあなたが、『サー』なのはどうして?」
 デイヴィッドは暫し呆れて、ジェーンの顔を眺めていた。やがて大きく、長く息を吐きながらつぶやいた。
「よくもまぁ、そう次から次へと質問が出てくるな…」
「女っていうのは、そういうもの。」
「らしい。」
 デイヴィッドは姿勢を立て直すと、軽くフールハーディの鼻を撫で始めた。しかし、どういうわけか馬は不機嫌そうに首を振るので、すぐに止めてしまった。

 「きみの言うとおり、普通なら俺が『サー』である理由がない。そこは国王陛下の特別な計らいでね。バース騎士団の名前は知っているかい?」
「もちろん。国王陛下が即位と同時にお作りになった騎士団でしょう?」
「そのとおり。バース騎士団の叙勲は、王家の慶事に行われるが、ハルのプリンス・オブ・ウェルズ叙勲式にも何人かバース騎士団に迎え入れられ、その一人が俺だったわけ。無論、最年少記録。多分王族以外では破られないだろうな。」
「国王陛下の計らいって言ったわね。」
「親父は自分からねだるほど、ずうずうしくはない。でも、皇太子の相棒に、伯爵の息子とは言え何もタイトルがないのでは気の毒だと、国王陛下が気を遣ってくださり、俺は異例な若さで『騎士(サー)』になったというわけ。俺へのタイトルはこれっきり。一生増えないだろう。」
 ジェーンは少し首をかしげた。
「国王陛下がお気を遣って下さったのは事実でしょうけど…少なくとも、サー・デイヴィッドは『騎士』の名にふさわしい、武勇の持ち主ではあるのでしょう?」
「…そうでありたいと思っている。」
 そう応えると、デイヴィッドは脇の柱の上部に引っ掛けてあった細長い皮袋を手に取った。口からは、刀の柄と、弓の先、何本かの矢羽がのぞいている。
「ああ!」
 ジェーンは小さく叫んだ。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃって。鍛錬の最中だったのね。」
「構わないさ。それに…」
 デイヴィッドは少し声を大きくした。
「壁の向こうにたむろしている連中の、ささやかな娯楽にもなっただろうし。」
 ジェーンが背を向けている壁の向こうで、複数の人間が押し殺した声で喚くような気配と共に、ドタドタと走り去る音がした。その最後に、誰かが転んだようで、小さな悲鳴が聞こえたが、それはデイヴィッドにもジェーンにも、ジョン王子の声だと判別できた。
 「物見高い連中だ。」
 デイヴィッドがいまいましそうにつぶやくと、ジェーンは呆れたように首を振った。
「驚いた。どうして私たちがここで話しているって分かったのかしら。」
「俺が厩でフールハーディの世話をするのは、いつものことさ。こいつはどんな馬丁も受け付けないから。無理にやらせると死者が出る。それに…これは覚えておいた方がいい。ダルシーとロンドンの大きな違いは、情報の早さだ。」
「情報?」
「そう。誰もがありとあらゆる情報を、とんでもない速さで入手する。今朝方、きみが俺を逮捕させたなんて、いまごろストランドやレッド・ホロウのみならず、宮廷はもちろんロンドンじゅうの人間が知っているだろう。」
「逮捕させただなんて、失礼ね。あれは事故でしょう?!」
ジェーンは言い返したが、デイヴィッドは無視するように道具袋を肩にかつぎ、踵を返して歩き始めようとした。しかし、次の一歩を踏み出す前に、もう一度ジェーンの方へ振り返った。
「きみに会うとろくでもない目に遭うけど、ただ一つロンドンに来てくれて嬉しい事がある。」
「なに?」
 警戒するようにジェーンが聞き返す。
「例のべらぼうにしみる傷薬を補充してもらえることさ。そろそろ使い切りそうなんだ。手始めに、ジョン様の傷を手当てしてくれないかな。」



 → 6.デイヴィッド・ギブスンに貴公子が贈り物を届ける事
5.厩であまり甘美とは言えない会話が展開する事
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  複合的な家庭の事情
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