いささか無礼な事かも知れないが、ウィンチェスター司教とハル、デイヴィッドは国王・王妃一行を追い越して、ひとあし早くウェストミンスター宮殿に戻った。司教が通路を歩きながら小姓に儀式用の衣装や装身具を渡し、更に執務用のローブを引っ掛けた頃、彼の執務室に到着した。
 司教に促されてハルとデイヴィッドが執務室に入ると、先客が居た。司教の執務机の向かい側に突っ立っていた男は、入ってきた三人に向き直ると、僅かな動きで礼をした。司教の部下、ジュリアン・ケイニスである。
「ご苦労、ケイニス。」
 司教が言うと、密偵たちのリーダーであり、ある意味で司教の右腕であるケイニスはもう一度頷き、さらにあらためてハルとデイヴィッドに会釈をして見せた。
「やぁ、ケイニス。おはよう。」
 ハルがそう声を掛けると、司教は暖炉の火を掻き回していた召使に退室を命じ、あらためてケイニスに向き直った。
「待たせたな。もう一人はどうした?」
すると、ケイニスはいつものように表情を全く動かさずに答えた。
「一緒に参る予定でしたが、未明に突発事が起ったとかで、今朝は私だけでの報告になります。」
「まぁいい。報告とやらを聞こう。ハリーとデイヴィッドも居るから、説明の手間が省ける。」
「ロヌーク夫人の事です。」
 一斉に三人の視線が動いた。
「正体が分かったのか?」
 ハルが尋ねると、ケイニスは僅かに首を振った。
「それは残念ながらまだです。主にフランスに網を張って情報を集めていますが、未だに掴めません。フランスでは違う名前を名乗っている可能性もあります。今回は、正体ではなくて夫人の行動の一部が分かりました。」
「去年の秋に、イングランドに来ていたらしいという頃だな?」
「そうです。まず十月にポーツマスに上陸。翌月にはモンマスに現れたことは、皇太子殿下からの情報です。」
「俺は実際に会ったわけじゃない。レディ・ジェーン・フェンダーが会っている。」
 ハルは言葉の最後の辺りで噴き出しそうになるのをこらえた。ケイニスはそれには気も留めずに報告を続けた。
「ロンドン市長リチャード・ウィッティントンとワインの輸入契約を結んだのは、モンマスへ行く前です。モンマスからの足取りはつかめませんでしたが、目撃情報が報告されました。」
「どこだ。」
 この問いはデイヴィッドが発した。
「カンタベリーです。」
 三人は僅かに口をあけ、ケイニスが言った地名を繰り返すのを辛うじて留まったという表情をしている。やがて、ウィンチェスター司教が長く息を吐き出しながら声を発した。
「…嫌な予感がするな。本当にカンタベリーに来たのか?」
「間違いありません。大聖堂に寄進をしていますし、その台帳には堂々とロヌーク夫人と記していますから。日付は聖アンデレの祭日。」
「確かにモンマスでの婚礼の後だ。でも…」
 ハルが指を折り、モンマスからロンドン,カンタベリーへの移動日数を数えた。
「ギリギリだな。女性の一行なら、婚礼の日はモンマスに居ても、トーナメントが開かれた日には、モンマスを立たないと、聖アンデレの祭日にカンタベリーには到着できないだろう。それで?」
「その後、二日ほどカンタベリーに滞在し、また旅立ったようです。恐らく、帰国したと思われます。丁度良い日程で、ポーツマスからシェルブールへ戻る船が出ていますので。」
「カンタベリー滞在中はどこに居たか分かっているか?」
 司教が尋ねると、またケイニスは頷いた。
「アランデル伯爵家の邸宅です。」
 三人は顔を見合わせた。ハルもデイヴィッドも感想を言い辛い気分だったが、やがて司教が苦々しく言った。
「トマス・フィッツアラン…!ロヌーク夫人は、『あっち側』の人間という事か?」
 無礼にも、ウィンチェスター司教はカンタベリー大司教の名前を呼び捨てにした。ケイニスは主人である司教の気分など意に介さず、素っ気無く答えた。
「それは分かりません。ただ、ロヌーク夫人は侍女と従者を連れてアランデル伯爵家を訪れ、二日間滞在した後、旅立ったということまでが、今日のご報告ですので。」
「アランデル伯爵の屋敷に密偵を仕込んでおかなかったのか?」
 司教の無茶な発言にも、ケイニスは動じない。
「検討しておきます。」
 ハルが慌てて手を振った。
「よせよ、ケイニス。これ以上、叔父上と大司教の仲を悪くしてどうする。」
「これ以上、悪くなりようが無いだろう。」
 デイヴィッドが短く言葉を挟んだが、ケイニスはニコリともしなかった。

 フィッツアラン家は代々アランデル伯爵位を継承する、名門中の名門だ。現アランデル伯爵は、トマス・フィッツアラン。まだ二十五歳の若い貴族だが、国王からの信頼は篤い。先ほどの礼拝でも、夫婦揃って王族に次ぐ席を占めていた。
 七年前に当時のダービー伯爵が国王リチャード二世を退位に追い込んだ時、アランデル伯爵は即座にダービー伯爵の元に馳せ参じた。当時はまだ十八歳だったアランデル伯爵の行動に迷いが無かったのが、ダービー伯爵にとっても、アランデル伯爵家にも幸いした。王位はあっけなくリチャード二世からダービー伯爵 ― ヘンリー四世に渡り、アランデル伯爵家は政変の功労者として益々勢力を増す事になる。
 ウィンチェスター司教はカンタベリー大司教を「トマス・フィッツアラン」と呼び捨てにしたが、これは現アランデル伯爵とは同名で、叔父にあたる人物である。そもそも七年前の政変時、若い伯爵がダービー伯爵陣営に迷うことなくついたのは、この叔父の助言があったからである。そして今でも、アランデル伯爵家でもっとも発言力があるのは、このカンタベリー大司教なのだ。
 現カンタベリー大司教が最初にその任に就いたのは、リチャード二世の治世である。しかし、大司教は当時のランカスター公爵との関係が密接だった。ランカスター公爵は、国王リチャードが最も忌み嫌った叔父である。
 大司教は才気煥発、政治的意思も強く、大司教座の権限拡大とその確保、無論アランデル伯爵家隆盛への志も強い。そんな彼は、リチャード二世後の王位を自らの息子,孫へと目論む、ランカスター公爵とは同盟することが吉を考えた。さらに大司教は、奸物たるランカスター公爵よりも、その息子ダービー伯爵に期待していたのだ。 ― 期待という言葉が妥当でないとしたら、それは「ダービー伯爵の方が御しやすい」と表現するべきだろう。
 リチャード二世は徹底的にランカスター公爵を嫌っていたが、同時にカンタベリー大司教も全く信用していなかった。これは教養豊かで信心深いリチャードにとっては、不幸な事としか言いようが無い。
 大司教とランカスター公爵は、宗教的見解においては完全には意見が一致していなかったからである。ランカスター公爵はロラード派の保護に熱心だったが、大司教にとってロラード派は弾圧すべきもの以外の何者でもない。国王リチャードは、この二者の不一致点を突くべきだった。自分が厭うランカスター公爵の政治的影響力を削ぐためには、大司教を味方につけた上で、この二人の大物を離間させるべきだったのだ。
 しかし、リチャードはカンタベリー大司教を追放してしまった。これは非常に危険な行為だった。イングランド国王の王冠は、カンタベリー大司教の手によって王の頭上に据えられる。その象徴的な場面ひとつ取っても、危険である事は誰にとっても明らかだ。実際、ヘンリー二世の御世では、王との意見の不一致と、不幸な成り行きから殺害されたカンタベリー大司教トマス・ア・ベケットが聖人にまでなって、今日も多くの巡礼者を集めている。
 当然、アランデル伯爵家をはじめとする貴族たちは王に対する不満を公言した。リチャードは苦境に立たされ、それを解決するような政治的手腕と実力を持ち合わせるのは、皮肉な事にイングランドでただ一人ランカスター公爵しか居なかったのである。徹底的にランカスター公爵を嫌った国王リチャードは、公爵を利用する事も出来ず、大司教の追放によってますます孤立することになった。
 そのような状況では、1399年にダービー伯爵が滞在先のフランスから戻り、リチャードから王位を奪うのはさほど難しい事ではなかっただろう。

 かくしてヘンリー四世が即位した。ロラードたちを保護していたランカスター公爵は既に亡い。ヘンリー四世はすぐにトマス・フィッツアランをカンタベリー大司教に再び就かせ、なおかつ大法官の任まで与えた。文字通り、カンタベリー大司教は国王の右腕となったのである。
 カンタベリー大司教と、大貴族アランデル伯爵家が国王の側近ともなれば、心強いというものだが、ここに一つの問題がある。王の義弟ウィンチェスター司教こと、ヘンリー・ボーフォートが大司教と犬猿の仲なのだ。
 国王は自分の長男ハルの教育をウィンチェスター司教に任せ、なおかつ大司教の次に大法官に任ずるほど、義弟を信頼している。実際、ウィンチェスター司教はその信頼に十分応えるほどの明晰な頭脳と優れた行動力の持ち主だし、甥のハルとは非常に気が合う。王にとって義弟に不満はなかった。しかし、王が最も信頼する ― 尚且つ年長者であるカンタベリー司教と、若い義弟の不仲には、少々困惑している。
 カンタベリー大司教は国王より十歳以上年上で、なおかつ即位してからは慎重な性格となった国王を、御し易いと考えているのは間違いない。ところが生意気なウィンチェスター司教は、兄弟たちの中でももっともランカスター公爵に性格が似ており、野心的で怜悧で、遠慮がなく、思い切った事を平気で実行する。叔父の影響なのか、生まれつきなのか同じような性格の皇太子と組んで、いつ自分を失脚に追い込んでもおかしくないと、大司教は若いウィンチェスター司教を警戒していた。
 実際カンタベリー大司教が、「ウィンチェスター司教にあまり権限や発言権を与えるのは良くない」と、国王へ忠告したのは一度や二度ではない。
 当然、ウィンチェスター司教はカンタベリー大司教を敵視する。自分や甥ハリーにとって、大司教は古臭い前世紀の遺物にしか思えない。この二人の聖職者は、世代の隔たりと政治的感覚の違いで、まず対立していた。
 しかも、もう一つ。非常に個人的な問題がある。

 「お二人とも、私情を挟むのはやめていただけませんかね。」
 ハルは遠慮なしに言った。デイヴィッドも別に止めようともせず、ケイニスは関係ないような顔をしている。
「私情で言いがかりをつけるのはあちらのほうで、私ではない。」
 ウィンチェスター司教はハルに冷静に言ったつもりだが、語尾がやや震え、憤りが混じっているのを隠し切れていなかった。
「そうですかねぇ…」
 デイヴィッドがため息交じりに小さな声で言うと、ウィンチェスター司教はその声の主をギロリと睨んだ。

 アランデル伯爵家出身のカンタベリー大司教と、サマーセット伯爵家出身のウィンチェスター司教。この二人の聖職者の「個人的な」悪感情の原因は、明らかにウィンチェスター司教が作ったものだった。それは、彼の娘である。
 十歳で僧籍に入ったウィンチェスター司教こと、ヘンリー・ボーフォートに娘とあっては、まず穏やかな話ではない。しかも、彼が娘をもうけた相手の女性というのが、アリス・フィッツアラン ― 先代アランデル伯爵の娘だったのだ。カンタベリー大司教にとっては姪にあたる。
 男女が出会ったのは、およそ十数年前のオックスフォードだった。ヘンリー・ボーフォートはまだ学僧であり、大学の総長職にも就いていない。
 当然、一族の長老たるカンタベリー大司教は、アリスにヘンリー・ボーフォートとの別離を命じた。大司教にしてみれば、大事な一族の姫を、新たに王となったヘンリー四世の義弟とはいえ、聖職者と関係させ続けるわけには行かない。国王がリチャードからヘンリー四世となった時点では、このカンタベリー大司教の意向は守られたかに見られた。
 ところが、ヘンリー四世即位の三年後、アリスは娘を出産したのだ。父親は今やウィンチェスター司教のヘンリー・ボーフォート。つまり、男女の関係は続いていたのである。娘はジェーン・ボーフォートと名づけられた。通称ジェニー。今はサマーセット伯爵家の手厚い保護のもと、サマーセットシャーの修道院で大切に育てられ、一族の貴婦人として扱われている。
 父親は高貴な聖職者だ。その点はあまりおおっぴらには語られないが、面白いのはウィンチェスター司教自身が特に隠し立てしない点だ。彼曰く、コソコソと隠すのは母親たる貴婦人に失礼であり、娘にとっても不幸だという。彼は娘の保護を兄であるサマーセット伯爵に託しているものの、折を見ては修道院を訪ね、愛する娘に面会していた。
 一方アリス・フィッツアランは、娘を手放したこと自体には悲しんでいたが、サマーセット伯爵の庇護を感謝し、信頼している。そしてその後、第四代チャールトン男爵と結婚し、領地で女主人として忙しい毎日を送っている。しかも、ジェニーが暮らしている修道院への寄付は惜しまず、訪問も多いとのこと。
 それぞれの道を歩む男女と、その娘は自分の人生を生きていたが、その一方でカンタベリー大司教の怒りはとんでもないものだった。彼は自分をないがしろにされたと感じたのだ。ウィンチェスター司教が聖職者であることは、あまり問題視せず、ひたすら自分の命令を無視されるという屈辱を感じていた。
 当然、アリスも怒りの対象であるべきだが、彼女は姪だ。やはり鼻持ちならず、自分に対抗して、大法官にまでなりあがった若造ウィンチェスター司教への怒りの方が、数倍も大きかった。
 この事件以来カンタベリー大司教は、ウィンチェスター司教を個人的に憎悪し、彼への非難をしばしば公言して、国王を困らせた。国王としても、義弟が娘をもうけたこと自体に引け目を感じ、大司教をなだめ切れていない。

 ウィンチェスター司教とはそんな関係のカンタベリー大司教のもとに、ロヌーク夫人がやってきたという事は、司教から過剰な反応を引き出した。
「とにかく!これは重大事だぞ。」
 ウィンチェスター司教は、我関せずを決め込んでいたようなケイニスに、もう一度向き直った。
「もう一度訊くが、アランデル伯爵のカンタベリー邸宅に二日間宿泊したのは、我々が探しているロヌーク夫人に間違いないんだな?」
 ウィンチェスター司教は、執務机の端においてあったコップから一口水を飲んだ。
「容姿に関して、部下に確認させましたが、大聖堂や伯爵家で目撃した誰もが、これまでに報告されていた通りの容姿だったと、証言しています。」
「二十代半ばで、透き通るような白い肌に、見事な金髪、遠くからでも分かる大きな青い目…」
 デイヴィッドが呟くと、ハルがその先を続けた。
「しかも、綺麗な英語を話すフランス人と思しき女性だ。」
「聖アンデレの祝日前後に、カンタベリーのアランデル伯爵家邸宅には、他に誰が居たか、分かっているか?」
 ウィンチェスター司教が、どんどん不機嫌になっていきそうな気持ちを立て直すように、部下に質問を続ける。
「アランデル伯爵は不在でした。領内の視察へ出発した後でしたので。カンタベリー大司教様が、滞在されていたことは、確かです。」
「会見もしただろうな。」
「ええ。おそらく。しかし、内容については、まだ何とも。部下が調べています。一昨日の時点で、アランデル伯爵家の家人から話を取れたとの事でしたから、遠からず何か情報が取れるでしょう。」
 ケイニスの報告はここまでだった。ウィンチェスター司教はイライラする気持ちをなだめながら、椅子に座りなおした。
「まったく、油断ならんぞ。ロヌーク夫人は害を成したことはないが、カンタベリー大司教となんらかの接触を持ったとすると、要注意だ。よし、ケイニス。引き続き調査をしろ。どんなことでも構わない、何か分ったら報告しろ。」
「かしこまりました。」
 ケイニスはそう答えて、僅かに礼をすると、同じようにハルとデイヴィッドにも挨拶をして、司教も執務室から出て行った。
 ハルとデイヴィッドは顔を見合わせた。そしてハルが努めて気楽そうに言った。
「叔父上、まぁそう悪いほうに考えないで。そりゃ大司教と叔父上の仲の悪さは、イングランドで知らぬものはないし、フランスでも有名でしょうよ。だからって、謎のロヌーク夫人が、カンタベリー大司教と組んで、叔父上に害をなそうだなんて…」
「分からんぞ、ハリー。第一お前にとっても他人事じゃない。あいつは、お前の事も気に入っちゃいないからな。」
「まぁ、大司教様には好かれてはいませんけど…」
ハルは苦笑した。デイヴィッドは半ば呆れて黙り込んでいる。
「とにかく、叔父上。ケイニスたちの報告を待ちましょう。憶測やら、個人的感情やらで、カンタベリー大司教と大喧嘩するのはやめてくださいよ。困るのは父上なのですから。」
 ウィンチェスター司教は、甥にこんな風に言われるのはちっとも嬉しくない。しかし、ハルはまったく間違っていないので、不機嫌そうに頷くと、ハルとデイヴィッドを執務室から追い出した。今日は早めに公務を済ませて、兄サマーセット伯爵家での晩餐に参加するのだと言う。
 二人にとっても好都合である。ハルには公務が、デイヴィッドにもやるべき事は沢山あったのだ。


 → 5.厩であまり甘美とは言えない会話が展開する事
4.高貴な聖職者の関係について、少々説明を要するくだりのため、読者は忍耐を要する
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  複合的な家庭の事情
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