ジェーンは広間の扉を開け放った。それと同時に目に飛び込んだのは、床に崩れ落ち、口元を手で覆ったまま、デイヴィッドの胸に突っ伏しているハルの姿だった。ハルの体を抱きかかえるように膝を着いたデイヴィッドの顔が、明らかにこわばっている。
「大丈夫。」 
 ジェーンは低く言うと、すぐに二人の側に座り込み、嘔吐しているハルの背中に手を添えた。
「大丈夫。全部吐かせて。デイ!」
 ジェーンは服や体が汚れるのも気にせずに、ハルの口に手を添えながら、振り返らずに言った。侍女のデイが息を切らせながら、女主人を追って広間に入ってきたのだ。
「お湯をもらって、促吐剤を溶かしてきて頂戴。大丈夫ですよ、殿下。まだ吐けますか?慌てずに、ゆっくり鼻から呼吸をして。」
 ジェーンの低い声に、凍りついたような広間の人々がやっと動き出した。サマーセット伯爵夫人は小間使いたちにハルの寝室と着替えを指示し、手の開いている者もそれぞれに動き始めた。ジェーンはハルの嘔吐を助け、背中をさすりながら、低く言いつづけた。
 「大丈夫、もう少しです。ここで吐いてしまって。大丈夫ですから。…デイヴィッド。」
 デイヴィッドはハルの襟を開けて呼吸を楽にさせようとしている最中だった。呼びかけられてから一瞬置き、目を上げてジェーンを見た。
「大丈夫?」
 ジェーンは唇だけを動かして尋ねた。デイヴィッドは頷いて見せた。

 混乱は迅速に収束した。ジェーンが催吐剤をハルに飲ませ、さらに胃の中のものを吐瀉させると症状は治まった。サマーセット伯爵夫人が用意させた寝室にハルを運ぼうとしたが、ハルは自分で歩くのに支障はなかった。
 サマーセット伯爵夫人は威厳をもって、召使たちに緘口令を布いた。皇太子が容易ならざる状況で突然倒れたのだ。この処置は当然で、伯爵の屋敷は緊張と静寂に包まれた。今日の盛大な晩餐はどうなるのか、みなが心配している。
 ハルの寝室には、デイヴィッドとケイニス、レオンが集まった。密偵の二人は、ちょうど屋敷を離れようとしていたときに、ハルの異変を聞かされ、急遽もどってきたのだ。
 ハルはすっかり衣服も改めて顔色も元に戻ったが、さすがに酷い嘔吐で疲れている。ベッドに横になり、枕を背にして少し体を起こすと、ベッドの脇に立っているデイヴィッドを見上げた。
 「デイヴィッド、そんな顔するなよ。大丈夫だから。」
 デイヴィッドは固い表情で頷いた。デイヴィッドはまだ青い顔をしていた。冷や汗と両手の震えが止まらない。とにかく、ハルは大丈夫なのだから落ち着こうと自分に言い聞かせたが、意外にうまく行かない。デイヴィッドはそんな自分に腹が立ってきた。

 「症状の自己分析はいかがです?」
 やはり最年長のケイニスが一番落ち着いていた。彼は低い声でハルに尋ねた。
「そうだな…」
ハルは少し眉を寄せた。
「前兆なし。風邪もひいていないし、特に体調に異常があったわけじゃない。急に酷い嘔吐感に襲われて、視界がグラグラになり、全身に冷や汗が出て…とにかく、突然だった。」
「毒を盛られたと考えねばなりますまい。」
 認めたくはないが、誰もケイニスに異を唱えなかった。デイヴィッドが口を開いた。
「ハルも俺も、ここに来てから何も口にしていない。」
レオンがフワフワの髪に手を入れ、すこし傾げながら言った。
「ホワイト・ウィージルのエールは?」
 ハルが笑いながら否定した。
「あそこの物には間違いないさ。」
ケイニスもそれには同意した。
「あのエールは水差しに入って供されたんだ。俺たち四人で分けたのだから、あれも違う。」
「そうすると…」
 デイヴィッドは気分が悪くなってきた。想像するだに恐ろしい。しかし、ケイニスは確かめるように言った。
「ウェストミンスター宮殿内で毒を盛られた事になります。」
 デイヴィッドは長く息を吐くと、額を抑えながら低くつぶやいた。
「もう、そんな心配はしなくて良いと思っていたが…しばらく、厳戒態勢だ。」
 ハルが眉を下げて何か言おうと口をあけた時、ドアをノックする音がした。
「なんだ。」
 デイヴィッドがややぶっきらぼうに応じると、おずおずと小姓が顔を出した。
「申し訳ございません、お邪魔してはいけないと言いつけられているのですが、レディ・ジェーンがどうしてもご面会をと…」
「待ってもらってくれ。」
 デイヴィッドが言い終わらないうちに、ジェーン本人が小姓を押しのけて入ってきた。この屋敷に来て二回目の着替えを済ませ、デイは連れていない。彼女はドアを締めると、ハルに向かって膝を曲げて礼をして見せた。
「ご無礼はお許し下さい。どうしてもお話したいことが。」
 デイヴィッドがジェーンに向き直った。
「悪いが、外してほしいんだ。すこし待ってくれないか。」
「皇太子殿下にいつ、どうやって毒が盛られたのかを知りたいのでしょう?」
 デイヴィッドは震えそうになる声を懸命に抑えながらジェーンの発言を制した。
「ジェーン、きみには感謝している。子供達や、ハルが無事なのもきみのお陰だ。でも、そこまで。きみはこんな事に巻き込まれちゃいけない。」
「私、誰が犯人か知っているのよ。」
 ハル、ケイニス、レオンは顔を見合わせた。デイヴィッドだけがジェーンの顔に見入ったままだ。
「知っている?」
「そう。知っているわ。」
 ジェーンは真摯な表情で頷いた。デイヴィッドは懸命に息を抑制しながら言った。
「話してくれ。」
ジェーンはケイニスとレオンの顔を見回した。
「彼らは?」
「ジュリアン・ケイニスと、ノエル・レオン。二人ともウィンチェスター司教直属の部下だ。彼らなら大丈夫。…いつ、どうやって誰が毒を?」
 デイヴィッドの質問に、ジェーンは僅かに首を振って見せた。
「毒じゃないの。皇太子殿下が摂取したのは、ニワトコなんです。」
 ハルはもう笑い始めている。口元に笑みを浮かべて、ジェーンに聞き返した。
「ニワトコ?」
「ええ。私がダルシーから持参したニワトコの濃縮液です。少量で効くように出来る限り成分を濃縮したものを、この容器に入れて持参したのですが…」
 ジェーンは手に持っていた容器をひっくり返して見せた。空だ。
「このとおりです。もし入っていた液の四分の一でも摂取しようものなら、確実に下痢を発症します。ニワトコは骨を痛めたときに用いる薬草ですが、過剰摂取すれば消化器官に異変が起きるのです。皇太子殿下はこの瓶の、おそらく半分はお飲みになっています。他にも何かの薬草か、ジュースが混ざっていたので、反応が遅れのだと考えられます。
 摂取した人の体質にも拠りますが、皇太子殿下は大量のニワトコの成分が腸に達する前に、胃で拒否反応を起こして…先ほどのようなことに。とにかく、どこに作用したとしても、健康な成人男子であれば死に至ることは有りません。」
「なるほど…」
 ハルには事情が飲み込め始めている。そしてジェーンににっこり笑いかけた。
「分ってきたよ。毒の正体はニワトコ、そしてそれが入っていたのは、ヘンリー特製のジュースだな?きみがこの屋敷に来たのは、ヘンリーにジュースを誰に飲ませたのかを、聞きだすためだったんだ。」
「仰せのとおりです。」
 ジェーンはすこし顔を伏せて、申し訳なさそうに言った。
「私の責任なんです。もっと侍女に薬草・薬液の管理は厳しくするように、申し付けるべきでした。侍女のデイは、私がダルシーから持参してきた薬草・薬液を貯蔵庫の棚にしまおうとしていたのですが、『体に良いジュースを造りたいから、ニワトコ・ジュースを分けてほしい』と仰ったヘンリー卿に、軽率にも濃縮ニワトコを全て差し上げてしまったのです。
 もちろん、ヘンリー卿に悪意はございません。ただ、皇太子殿下をおもてなししようと…良かれと思って…」
「ちょっと待て。」
 ハルも、ケイニスもレオンも緊張からある程度解放されていたが、デイヴィッドだけが固い顔でジェーンの言葉を遮った。
「ヘンリー卿が作ったジュースと言ったか。」
「そうよ。」
「飲むと、下痢か、嘔吐?」
「そう。」
 デイヴィッドは何か呪いの言葉を口にしそうになったが、レディの手前かろうじてそれは留まっている。とにかく、なぜ自分がさぞかし酷い顔色で、しかも体の震えが止まらないのかを、理解し始めていた。
 そのことは当然、ジェーンにも分っている。彼女はそっとデイヴィッドの握り締められた右手を取ると、脈を診た。そして低い声で言った。
「どっちに来そう?」
「…多分、下。」
「じゃぁ、私にお手伝いできるのは、これをさしあげるくらいね。」
 ジェーンは手に持っていた、もうひとつの容器をデイヴィッドに手渡した。
「湯冷ましに溶かして飲んで。症状を軽減するから。でも、覚悟はした方が良いわ。神のご加護を。」
「どうもありがとう。心強いよ。」
 デイヴィッドはジェーンに目を据え、馬鹿丁寧に言うと、ハルの方に振り返った。
「先に戻っていていいぞ。司教様に報告することもあるだろう。」
 ハルは笑いながら気楽そうに言った。
「待っていてやる。頑張れよ!手伝ってほしければ、遠慮なく…」
 ハルが言い終わる前に、デイヴィッドは寝室から出てドアを閉めていた。
 ケイニスとレオンは顔を見合わせた。彼らも緊張が解けたような顔をしている。ケイニスはハルに向かって言った。
「我々はこれで失礼します。まだウェストミンスター宮殿に戻り、ウィンチェスター司教様にご報告するだけの時間はありますでしょう。皇太子殿下とサー・デイヴィッドはごゆっくり。」
「分かった、ご苦労だったね、ケイニス、レオン。」
 ハルが彼らの労をねぎらうと、ケイニスは皇太子とジェーンに礼をして、部屋を出てく。レオンはニコニコしながら肩をすくめた。
「やれやれ、俺が思っている以上の大展開に、おまけまでついて、今日は本当に楽しかったですよ。これからもよろしくお願いしますね。ええと…レディ・ジェーン、失礼します。サー・デイヴィッドによろしく。良い取り合わせになりそうですね…」
 レオンがなおもヒラヒラと喋ろうとすると、
「ノエル!」
と、ケイニスが呼ぶ。
「行くよ、ジュ!それじゃ。」
レオンはバタバタと退出して行った。
 
 寝室に残されたハルとジェーンは、暫し互いの顔を見て僅かに微笑んでいた。そしてジェーンは静かにハルの枕元に立った。
「一応、脈を拝見してよいですか?」
 ハルが頷いて左手を出すと、ジェーンは脈を診て、すぐにその手を戻した。
「大丈夫ですね。ご気分はいかがですか?」
「すっかり良いよ。ありがとう、ジェーン。きみのお陰で助かった。」
 ハルが微笑みながら言うと、ジェーンは首を振った。
「皇太子殿下をひどい目に合わせたのは、私の責任ですから。」
「気にしないで。こんな騒ぎは良くあることさ。それよりも、デイヴィッドが心配だな。助けに行った方が良いかな?」
 ジェーンは困ったようにまた首を振った。
「サー・デイヴィッドの場合は皇太子殿下と違って、腸にきてしまっていますから、多分お手伝いはできません。」
「そうか。それは残念。それで…」
 ハルは改めて体を起こし、まっすぐに座ると、ニコニコしながらジェーンに尋ねた。
「ロンドンの感想は?」
「到着早々、色々なことが起こって、目が回るようです。」
ジェーンは正直に答えた。
「それにしては、落ち着いているよ。」
「落ち着くように言い聞かせていますから。」
「心細い?ダルシーを離れて…顔見知りは多くはないのだろう?母上のコンパニオンを勤める未婚の女性の場合、殆どが親か親戚と一緒に宮廷に滞在しているからね。」
「ええ、確かに侍女は頼りになりませんし…でも、皇太子殿下やサマーセット伯爵、それにジョン様にはモンマスでお会いしていますから、心強く思っています。」
「そして勿論、デイヴィッドだろう?」
「ええ。」
 ジェーンは思わず笑い声を上げてしまった。
「サー・デイヴィッドとは、無関係ではいられそうにありませんね。」
「婿候補としてはどうだい?」
 ハルが急に真剣な様子で尋ねるので、ジェーンは更に笑ってしまった。
「皆さん同じ事をおっしゃいますね。ええ、候補に挙げて悪いことは無いと思います。」
「強制はしないよ。」
 ハルは真剣な調子もそのままに続けた。
「ただ、デイヴィッドには幸せになってほしいから。」
「サー・デイヴィッドの幸せって、なんでしょうね。」
 ハルは腕を組んで考え込んだ。
「きみ、難しいこと言うなぁ。」
「何かを欲するとしたら、それは具体的である方が、実現のための努力はし易いでしょう?」
 ハルはあらためて、このダルシーの女子相続人の顔を眺めた。
「なるほど、幸せなんていうのは、あまり良い表現じゃないな。ただ…」
 ハルはすこし息をついた。ジェーンは水差しから湯冷ましをコップに注ぎ、ハルに差し出す。ハルは水と一口飲むと、声を低くして呟くように言った。
「気になるんだ。時々だけど。恐れていると言った方が良いかな。ジェーン、きみはどう思う?俺はデイヴィッドを檻に入れてしまっているかも知れない…どうだい?」
「檻ですか。」
 ジェーンは静かに聞き返した。
「聞いたろう?デイヴィッドはいかなる爵位も領地も恩賞も、授けられないんだ。」
「ええ、聞きました。さっき皇太子殿下もご一緒に、厩で。」
 悪戯っぽく微笑むジェーンに、ハルも笑い出した。
「ああ。そうだったな。とにかく…俺の傍に居るために、デイヴィッドは騎士として当然の権利を手放すことを強制された。あれだけの武勇と頭の男だ、伯爵位や領地を得て当然だろうが…」
「でも、皇太子殿下は『檻』とは思っていらっしゃらないのでしょう?」
「少なくとも、俺自身は思っていない。ただ、そう言うとらえ方も可能ということだよ。そして、それが真実かも知れない。」
「他人のとらえ方はともかくとして。皇太子殿下自身は、サー・デイヴィッドに傍に居て欲しいのでしょう?」
 ハルはジェーンの目を見据えた。
「デイヴィッドは親友だ。」
「でしたら、檻ではありませんよ。」
 ジェーンは穏やかに続けた。
「さっき、厩で話した時のことですが。サー・デイヴィッドは随分早くから、壁の向こうで、皇太子殿下たちが立ち聞きしているのに気付いていました。気付いている上で、仰ったんです。『俺は別に、国王陛下やハルから禄を全くもらわなくても、一向に構わないから。』 ― って。」
 ジェーンはにっこりと微笑んで、ハルを見やった。ハルはその笑顔をしばらく眺めてから、やはり微笑み、頷いた。
「なるほど。」
「サー・デイヴィッドも、皇太子殿下が負い目に感じているのではないかと、心配しているのですよ。」
「元婚約者だの、親友だの、側近だのと言っても、やはり思っていること全てを、打ち明けているわけじゃないからな、お互いに。」
「その心のうちを、たまに確かめ合うのも、悪くありませんね。」
 ジェーンが気楽そうに言うと、ハルは姿勢を正して座りなおし、右手を差し出した。
「今回の場合、きみのお陰だよ。ありがとう、レディ・ジェーン。ようこそ、ロンドンへ。そして宮廷へ。どうぞよろしく。」
 ジェーンは丁寧にハルの手を取ると、膝を折り、恭しくその手にキスをした。
「私は国王陛下と、王妃様、そして皇太子殿下の僕でございます。お役に立つことでしたら、なんなりとお申し付け下さい。」
「じゃぁ…」
 ハルは悪戯っぽく笑いかけた。
「そろそろデイヴィッドの様子を見てきてやってくれないかな。まぁ、顔が見られればだけど。」
「無理でしょうね。」
 ジェーンは改めて笑い、膝を折ると踵を返し、寝室から退出した。



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13.皇太子とレディの間で、人間関係に関する会話が交わされる事