正直なところ、ハルにとっても、デイヴィッドにとっても、サマーセット伯爵邸はもはや居心地の良いところではなくなっていた。一刻も早く逃げ出してしまいたかったが、自分達は一時的とは言え倒れた身である。二人とも、仕方なくこの日の夜はサマーセット伯爵邸に宿泊する事になった。
 是非にと薦めた伯爵夫人に、ハルは一種の交換条件として、予定されていたボーフォート一族の晩餐は予定通り行うこと、消化器官を傷めた自分達二人は放っておいてもらう事で、話をまとめた。
 一方、ジェーン・フェンダーは正式に晩餐へ招待された。彼女はいわば子供達の命の恩人だ。招待を断るほうが難しいだろう。
 サマーセット伯爵家からウェストミンスター宮殿へ、皇太子ハル,デイヴィッド,ジェーン・フェンダーの動向を知らせる使者が走ると同時に、ハルはアランデル伯爵家にも使者を飛ばした。
 レッド・ホロウで、フォールスタッフの下敷きになっていたところを救ってやったアランデル伯爵家の家来には、『今晩お邪魔する』と伝えてあったが、訪問を延期する事になったからである。明朝改めて、サマーセット伯爵と共に訪問すると伝言した。

 ウィンチェスター司教は、その兄であるサマーセット伯爵と共に日が暮れてから屋敷にやってきた。そして最初に、ハルとデイヴィッドが借りている寝室に乗り込んできたのだ。
 司教が来たと取り次ぎに告げられて、さぁどうしたものかとハルとデイヴィッドも逃げ出したい気分になった。しかし、それは要らぬ心配だった。ことの顛末は、すべてケイニスから報告済みだったのだ。
 宮殿では大いに荒れたであろうが、娘の居るここサマーセット伯爵邸ではすっかり落ち着きを取り戻し、さらに嬉しそうな顔さえしていた。曰く ―
「これであの老人も、自分の無力さを思い知るだろう。そろそろ潮時だと自ら判断してくれれば、上々だ。」
 無論、老人とはカンタベリー大司教である。
「そこまで、うまく行きますかねぇ。」
 ハルはベッドに寝そべったまま、だらしなく言った。ニワトコの苦しみから逃れ、復活したデイヴィッドはきちんと立って司教に椅子をすすめた。司教は腰掛けながら甥を睨んだ。
「どういう意味だ、ハリー。今回のことは、あの老人の犯罪だぞ。」
「お気持ちはわかりますがね、叔父上。カンタベリー大司教をいじめるのは、得策じゃありません。」
「人の娘を誘拐しようとしておいて、いじめられたとは、言わせないぞ。」
「ねぇ、叔父上。」
 ハルはベッドの上に座りなおした。
「叔父上のお怒りは十分理解しています。ですが、今回の事件を公にすることは、皇太子として許可できません。
 一つ、カンタベリー大司教を糾弾する事は、その手から王冠を授けられた王の権威に影響する。
 二つ、巻き込まれたアランデル伯爵家とサマーセット伯爵家が迷惑する。
 三つ、ジェニーの母親たるチャールトン男爵夫人に、要らぬ心配をかける。
 四つ、今回の誘拐劇の首謀者がカンタベリー大司教であると、証明出来る見込みがない。大司教がとぼければそれまでですからね。
 五つ、この事件を明るみにして、国王の右腕たるカンタベリー大司教と、大法官ウィンチェスター司教が大袈裟に争えば、イングランドの政務に支障をきたし、ひいてはフランスの ― もしくはロヌーク夫人の思う壺になりかねない。…ええと、まだ申し上げますか?」
「もういい。」
 司教は、不満そうながらも存外穏やかに言った。恐らく、同じような事をケイニスにも言われたのだろう。
「それで、お前はどうするんだ、ハリー。」
「明日の朝、サマーセット伯爵と一緒にアランデル伯爵邸を訪問する段取りをつけました。」
「兄と?」
 司教は聞き返したが、ハルは伯爵家の台所から差し入れられたシチューをひと匙、口に運んだところだった。代わりにデイヴィッドが答えた。
「今、地下の食糧倉庫に閉じ込めている十人の身柄を、アランデル伯爵家に戻すためですよ。そもそも連中は、今朝ストランドの宿に『強盗』として押し入ったのを、カンタベリー大司教の恩赦で釈放され、その手続きはアランデル伯爵家が行っていたのですから、いったん、身柄をアランデル伯爵家に戻すのが筋でしょう。
 サマーセット伯爵家と皇太子は、たまたま脱走したあの十人を逮捕しただけ ― という筋書きで。伯爵はもう今回の騒ぎの事、ご存知ですか?まだでしたら私から洗いざらい説明しますが。」
「いや、ケイニスとレオンからの報告を、私と一緒に聞いた。あの人らしいことだが、まったく動じた風もない。ああいう所は、父親似だな。」
 司教は苦笑した。確かに、ボーフォート三兄弟の長男,サマーセット伯爵ジョン・ボーフォートは、カンタベリー大司教によるジェニー誘拐計画など聞いても、平気でいる,もしくは平気を装う性質の人物だ。
 司教は続けた。
「つまり、ボーフォート一族としいて今回の事件そのものは不問に伏すが、カンタベリー大司教の陰謀は把握しているという、意思表示だな。」
 ハルが頷いた。
「大司教も、事が露見したと悟るでしょう。そうなっては今後、叔父上に対して強く出るにも二の足を踏むでしょうね。」
「いつまで、踏んでいてくれるかな。」
 ウィンチェスター司教は、うんざりした口調で言いながら立ち上がった。デイヴィッドは肩をすくめた。
「あまり長くは期待しないほうが良いですね。」
「分かった。」
 ウィンチェスター司教は、大きくため息をついてからハルとデイヴィッドを見回した。
「今回のことは、はらわたが煮え繰り返るほどの怒りを感じるが、私も聖職者だ。許す事にしよう。それに、なによりもそれがジェニーのためでもある。」
 ハルが大袈裟に感動して見せた。
「わぁ、素晴らしい父性愛!」
「うるさい。ああ、それからレオンからの伝言だ。なぜ連中が、未明にストランドの宿屋に強盗を装って押し込んだのか分かったぞ。あの侍女だ。」
「どの侍女です?」
 デイヴィッドが聞き返すと、意味ありげに笑いながら、司教は返した。
「お前の、レディ・ジェーンの、侍女さ。」
「私のじゃありません。」
「レオンは、夕べから今朝にかけての泊り客を探し出して、話を聞いてきたらしい。それによると、昨日の午後に、ダルシーのジェーン・フェンダーと、侍女があの宿屋に到着したそうだ。あそこはストランドの中でも一番上等な宿で、貴族の宿泊も珍しくないらしい。それであの侍女だが…なんて名前だ?デイヴィッドか?」
「デイ。」
 デイヴィッドが不機嫌そうに答える。
「そう、デイだ。女主人が寝室で休んでいる間、あの侍女が食堂や台所で、自分の女主人がいかに高貴で沢山の土地をもっているかを、大袈裟に吹聴した。」
「侍女や従者にはありがちな現象ですね。」
 ハルがクスクス笑った。
「侍女が話した連中の中には、出入りの商人や食事だけの客もあったらしい。そこで、ある男があの侍女に『もしや、伯爵のお嬢さんのレディ・ジェーンでは?』と尋ねた事を、複数の人が聞いている。そこで、大きく出た侍女が、『その通り伯爵家の大事なお姫様だ』と、断言したというわけだ。」
「ホラ吹きめ。」
 デイヴィッドが苦虫を噛み潰したような顔で、頭を振った。
「でも、たいして罪のないホラだよな。」と、ハル。
「しかし、結果は重大だ。」
 司教は椅子の背を拳で軽く叩いた。
「さぐりを入れたのは、カンタベリー大司教から、ジェニーを誘拐するように命じられていた男だ。ジェニーが修道院からこのロンドンに向かっている事を察知していた連中は、ロンドンで網を張っていたんだ。そんな連中がストランドで、『やんごとなき伯爵の姫君レディ・ジェーンが宿泊中』と聞けば、誤解もするだろう。
 かくして、未明に最近頻発する強盗を装って宿屋に押し入り、令嬢誘拐を決行したが、そこに居たのはダルシーの女子相続人。幾つだ?」
「十八。しかも、先制攻撃の名手。今回は椅子で相手を殴り倒した。」
「そのとおりだ、デイヴィッド。そこへさらに男が一人飛び込んできて…」
「もういいです。」
 デイヴィッドは司教の話を遮った。ハルはゲラゲラ笑いながら、ベッドから降りて立ち上がった。
「分かりました。これで今日一日の騒ぎは収束ですね。さぁ、叔父上も広間に行きませんと。ジェニーが待っていますよ。」
「おっと、そうだった。」
 ウィンチェスター司教にしては珍しく、嬉しそうに微笑むと、ローブの皺を直し始めた。
「ああ、それから侍女に自慢話は自粛させるように、レディ・ジェーンに忠告しておけ。」
 司教とハルは揃って、腕を組んで突っ立っているデイヴィッドに視線を向けた。僅かな間をおいて、デイヴィッドはそれに気付き、心底迷惑そうに言った。
「あのレディとかかわると、どうもろくな目に遭わないのですが…」
「そう言うなよ、デイヴィッド。」
 ハルがニヤニヤしながら言うと、司教も同調した。
「そうだぞ、デイヴィッド。一人で領地からロンドンに来たレディに親切にするのは、騎士の義務だ。それにお前、切らしてしまった傷薬を、彼女からもらうのだろう?」
 デイヴィッドは視線をあげて、司教の顔に見入った。その意味に気付くのは、ハルが先だった。そしてウィンチェスター司教も気付いた。デイヴィッドが重々しく口をあける前に司教は、
「さて、遅れはいかんな。」
と言って、そそくさと寝室から退散していった。
 残されたハルがデイヴィッドの顔を窺う。デイヴィッドは扉のほうを見据えたまま、つぶやいた。
「まさか、司教まで立ち聞きをしていたとは思わなかった。」
 するとハルが、まるでレオンのような口調で、ヒラヒラと付け加えた。
「うん。俺も叔父上の方が先に、厩の外で場所を確保していたのを見た時には、驚いた。」

 翌朝、ハルはサマーセット伯爵とともに十人の侵入者を引き連れて、アランデル伯爵家を訪問した。二十五歳のアランデル伯爵は事前にほぼ状況を飲み込んでおり、形式的ではあるが犯罪人の逃亡と侵入を丁寧に詫びて、彼らの身柄を引き受けた。
 面白かったのは、その後である。サマーセット伯爵は長居は迷惑をかけるとばかりに、早々に辞去しようとした。すると、アランデル伯爵トマス・フィッツアランは、そっとハルとデイヴィッドの腕を取って引き止め、、二人の耳元で囁いたのだ。
「今回のこと、さぞかし叔父がご迷惑をかけたんでしょうね。」
 ハルもデイヴィッドも返答に困って顔を見合わせた。するとアランデル伯爵は若者らしい茶目っ気のある表情で、また小さな声で続けた。
「わかってますよ。大司教がうちの人間を使って何かゴソゴソやっていることくらい、勘付いていましたから。今日お連れになった十人だって、どうせうちの領地の人間でしょう。ご迷惑をお掛けして、申し訳ない。これで叔父もしばらく、大人しくしてくれるでしょうね。」
 大声で ― というわけにもいかないが、十九歳の皇太子とその親友,そして二十五歳の伯爵は同時に笑い出した。
 アランデル伯爵にとっても、叔父カンタベリー大司教がウィンチェスター司教を目の仇にして、色々と余計な事をするのが悩みの種だったらしい。若い伯爵としては、一族の長老たる大司教の存在が、多少ありがた迷惑な局面もあるのだろう。
 陰謀の詳細を知っているかどうかは別として、大司教の計画が失敗に終わり、ウィンチェスター司教,皇太子,そしてサマーセット伯爵に弱みを握られたのは、アランデル伯爵にとっても、幾らか好都合だったというわけだ。
 さらに、アランデル伯爵は小声で続けた。
「ねぇ、殿下。叔父を懲らしめるために何か、せしめませんか?ほら、侵入者を捕獲するのにかかった費用として。なぁに、叔父は悪巧みの隠蔽のためなら、なんでもしますよ。」
 ハルもデイヴィッドも、アランデル伯爵の提案は悪くないと思った。

 結局、アランデル伯爵はいかばかりかの金をカンタベリー大司教から徴収し、迷惑料としてハルに渡した。その際、ハルはアランデル伯爵に尋ねた。
「ところで、今年の復活祭までに、テムズ川は凍ると思いますか?」
 すると若い伯爵は即座に答えた。
「今年は凍るでしょう。」
ハルは傍らのデイヴィッドに笑いかけ、代わりにデイヴィッドが答えた。
「クリスマス・イヴをだいぶ過ぎていますが、伯爵を『凍らない方』にいれておきますよ。」

 カンタベリー大司教の出費は、レッド・ホロウでの掛け金に補充された。テムズ川凍結に関する掛け金を、フォールスタッフが飲んでしまっていたので、その穴埋めにしたのである。今回は飲まれてしまわないように、金は直接マライアとスパイクに渡された。
 今回の事件で功績のあったジェーン・フェンダーも締め切り後の賭けへの参加を許可され、凍結するほうに賭けた。
 呆れた事に、侍女のデイまでありったけの金をつぎ込んで、凍結しない方に賭けたのだ。曰く、もう二月なのだから冷え込みの底は過ぎているとの事。締め切り後に賭ける事の利点を、最大に利用したらしい。
 結局配当を受け取ったのは、アランデル伯爵とジェーン・フェンダー。川は凍結した。デイは地団太を踏んで悔しがっていた。
 デイヴィッドは、ジェーンが侍女選びを誤っているのではないかと思った。


追記
 ウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォートの私生児ジェーンは、ボーフォート家の一員として育てられ、1424年にセント・ドーナット城主サー・エドワード・ストラッドリングと結婚した。セント・ドーナット城は現在、ワールド・ユナイテッド・カレッジズ(UWC)のアトランティック校として使われている。
 十三世紀から十六世紀にかけてフィッツアラン一族が継承してきたアランデル伯爵位は、女子相続人がノーフォーク公爵に嫁したため、現在まで続くノーフォーク公爵ハワード=フィッツアラン家に引き継がれる事になった。



                      複合的な家庭の事情 完




あとがき

 ハル&デイヴィッドの第五作「複合的な家庭の事情」を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。今回は、第二作以来のジェーン・フェンダー登場の作品となりました。
 第二作をお読みになった方はだいたい想像できたとは思いますが、私はジェーンをハルデヴィシリーズの重要な人物と位置づけており、彼女の再登場は最初から決めていました。ジェーン再登場に関する、皆さんのご感想も気になる所です。
 ジェーンが語った縁談の中に、サー・ジョン・オールトカッスルの名前が登場しました。オールドカッスルはシェイクスピアが書いたフォールスタッフというキャラクターのモデルになった人物で、この二者が同時に登場するのは矛盾しています。ですが、「ハル&デイヴィッド」の世界では、オールドカッスルも、フォールスタッフも存在していることにしています。
 さて、今回はカンタベリー大司教とその一族アランデル伯爵家、そしてウィンチェスター司教とその一族サマーセット伯爵家の関係も、重要な要素です。この展開は、ウィンチェスター司教に娘が居たという所から発展させました。

 いつものことですが、今回の作品にも、いくつかのネタが紛れ込んでいます。ケイニスの相棒として登場したノエル・レオンは、イギリスのコメディアンノエル・フィールディングがモデルです。回文になっている姓名は、ノエルのファミリーネームをアナグラムか何かにしようと考えていた時に、単にノエルを逆にすればよい事に気付き、それを採用しました。
 小さなネタではありますが、サマーセット伯爵の長男ヘンリーの乳母には、ロレッタという名前をつけました。これはモンティ・パイソンの映画「ライフ・オブ・ブライアン」に登場した、エリック・アイドル演じる「赤ちゃんを産みたい男」の女性名です。
 レオンの台詞の中に、「海峡をひとっ跳びで超えられそうなくらい嬉しかったねなぁ。違う言い方をすれば、嬉しすぎてウィンチェスター大聖堂を齧り尽くす事」というものが出てきました。これも「空飛ぶモンティ・パイソン」第10話に登場したネタの引用です。
 テムズ川の凍結については、当初べつにどうという構成は考えずに差し込んだ話題でした。テムズ川は1814年を最後に凍結していませんが、それ以前は14世紀から19世紀半ばまで続いた小氷期のせいで、たびたび凍結したそうです。今回の物語では1407年の2月に凍結した事にしましたが、無論私の創造です。
 
 オリジナル作品であるハルデヴィも五作目となって、色々と想像をめぐらしたお話を展開できるようになり、毎回楽しんで書いています。
 これは、読んでくださる皆さん、応援してくださるみなさんあってのことです。改めて御礼を申し上げます。感想などございましたら、どしどしお寄せ下さい。


                          16th September 2007
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  複合的な家庭の事情
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14.ウィンチェスター司教は心の広さを発揮し、アランデル伯爵は本音を匂わせる事