どれくらいその悲鳴が凄まじかったかと言うと ― 広い野原を超え、チャペルを超え、豪壮たるサマーセット伯爵邸の厚い壁をも突き破り、伯爵夫人を待つハルとデイヴィッドの耳に届くほどだった。
 ハルとデイヴィッドは互いの顔も見ず、扉へ殺到して飛び出した。おりしも侍女を連れた伯爵夫人がしずしずと近づいて来た所で、彼らが一瞬にして視界から消えたことに目を丸くした。
 玄関ホールを駆け抜け、壁にかけてあった自分の弓矢をひったくりながら、デイヴィッドは大声で叫んだ。
「ケイニス!レオン!」
 しかし返事はない。構わずにデイヴィッドは外に飛び出し、チャペルに向かって疾走する。ハルもそれに続く。背後で一体何事だと伯爵家の男たちが驚き、わらわらと追おうとしているのが分かる。
チャペルの外を回り、丘を駆け下りようとしたころ、相変わらずすさまじい叫び声が聞こえ、その合間に子供の泣き声、女の悲鳴が聞こえる。ハルとデイヴィッドの目に映ったのは、うずくまる三人の女性、そのうちの二人にしがみつく子供、そして剣を振るっていたのは明らかにジェーン・フェンダー、そして ―
「ケイニスとレオンだ!」
 ハルが走りながらそう言ったとおり、背の高い無精ひげと、頭髪のフワフワした密偵の二人だ。そしてハルとデイヴィッドがとうとう現場に到着したときには、彼らの敵 ― 総勢十名は地面に這い蹲るか、降参したように膝をついて両手を挙げていた。
「よぉし!動くなよ!それ以上怪我したら死ぬからな。そうなると後始末が色々面倒だ!」
 妙に楽しそうに声を上げていたのは、レオンだ。ケイニスがハルとデイヴィッドの救援に気付き、目で合図する。
「殿下、伯爵家敷地に進入し、ご婦人方,お子様たちに無礼を働いた者どもを、取り押さえました。」
 ケイニスは低く言いながら剣を鞘におさめる。ハルはそれに頷いた。そして、おくれてワラワラと駆けつけた伯爵の家人たちに向かい、
「この侵入者たちを確保して、どこかに閉じ込めろ。場所はあるか?」と尋ねた。
 すると執事が進み出て地下の食糧倉庫なら場所が確保できるだろうと答え、部下たちに侵入者たちを引き立てるよう、指示した。
 侵入者たちもこうなっては、抵抗の余地はない。しかも、何か口走ってはいけないとばかりに、一様に押し黙り、数人が負傷してうめき声を上げるのみとなった。
 すっかり怯えきっていた乳母たちや、子供たちも召使たちに助け起こされ、ようやく生きた心地がしたのだろう。ヘンリーはロレッタの服の裾を強く握ってはいるが、真っ赤な顔をしてかろうじて立っている。デイヴィッドがそれを抱き上げた。
「よく頑張りましたね、ヘンリー卿。」
 耳元でデイヴィッドがささやくと、少年はこくりと頷き、もういちど強くデイヴィッドの首にしがみつき、地面に降りたときには目を充血させていた。
 一方、ジェニーは乳母が慰めてもシクシク泣いている。その前にハルが跪き、小さな手を取った。
「可愛いジェニー。もう大丈夫。さぁ、泣かないで。」
 ジェニーは恐る恐る手を顔から離し、ハルを見た。まだ少し怯えている。ハルは優しく続けた。
「こんにちは、ジェニー。私はハリー。ジェニーの従兄。ずっとお会いしたいと思っていました。」
 するとジェニーは乳母の顔を見上げてから、もう一度ハルの顔を見て尋ねた。
「ハリー王子さま?」
「そう、ハリー王子です。」
「王子様だわ!」
 急にジェニーは嬉しそうに顔を輝かせた。乳母もようやく安堵した。
 そして子供たちは乳母に抱きかかえられ、召使たちと共に屋敷へと戻っていく。ケイニスとレオンも、侵入者の留置を見届けるべく、屋敷へ走っていった。

 残されたのは、ハルとデイヴィッド、地面にへたりこんでいるデイ、そしてまだ血のついた剣を持って突っ立っているジェーンだった。
「大丈夫?」
 デイヴィッドがジェーンの正面に立って尋ねた。見たところどうやら、彼女は二人くらいには怪我を負わせた様だった。袖と胸をあたりを、返り血で汚している。ジェーンは半ばポカンとしたように呟いた。
「あれは、一体なんなの?」
 デイヴィッドはジェーンの手から剣 ― 見覚えのある剣を取り、マントで血をぬぐいながら答えた。
「ウィンチェスター司教の敵が差し向けた連中さ。」
「何のために?」
 ジェーンはやっと体を動かした。そして丘を上がっていく侵入者と、それを捕らえた召使たちの後ろ姿を見つめている。ハルとデイヴィッドも同じように眺めた。
「私怨と政治闘争のため。」
「あの女の子を誘拐することが?」
「まぁね。」
 デイヴィッドはあまり多くは説明せずに頷いた。
「さて、俺たちも戻ろう。屋敷で温かいものでも、もらえるだろ。」
 ハルが言うと、デイヴィッドも同意して歩き出そうとした。しかし、ジェーンはまだ動かずに呟いた。
「あの男、脱走したのしら。」
 ハルとデイヴィッドが同時に彼女を見やる。ここで初めて、ジェーンは二人の顔を見回した。
「だってあの男、間違いなく今朝、私たちが宿泊していた宿に押し込んできた強盗じゃない。声で分ったわ。私が椅子で殴ってやったんだから。どうして、こんな所に…」
「今朝はそいつが、宿屋できみの部屋に飛び込むなり、『中にいるのは、どなたですか?』と尋ねたわけだ。」
「どうして知っているの?」
 ジェーンはまるで、デイヴィッドがやはり強盗一味だったかのような目つきで、聞き返した。デイヴィッドはため息交じりに答えた。
「さっき、厩で俺が、『あの状況で、中にいらっしゃるのはどなた様ですか?…なんていえるわけがない』と言ったら、きみは『強盗は言った』と答えた。その強盗こそ、きみに椅子で殴られた男。ジェーンという名前のレディを連れ去るよう、主人に命じられていた男なのさ。」
「…まさか。」
 ジェーンは呆れたように二人の騎士を見回した。デイヴィッドは眉を上げ、ハルが億劫そうに言った。
「ジェーン違いだったんだ。…さぁ、寒いからもう中に入ろう。それから…こちらのお嬢さんをお忘れなく。」
 ハルが目で示したのは、悲鳴に全精力を使い果たしたのか、それとも単に腰を抜かしているのか、言葉もなく座り込んでいるデイの姿だった。

 領地の城であれば、犯罪者を留置する牢屋もあるだろう。しかし、ここはサマーセット伯爵のロンドン邸である。さすがに牢はないので、侵入者たちは地下の食料倉庫に閉じ込められた。
 ここで難しいのは、サマーセット伯爵夫人にどう説明するかである。
 伯爵夫人マーガレット・ボーフォートは、ハルやデイヴィッドより二つ年上。若いが、夫と同じで落ち着いた性格。ものには動じない。ハルとデイヴィッドがいきなり屋敷にやってきて、更に面会の直前に騒々しく外に飛び出し、庭で十名もの侵入者を捕縛してきても、大して驚いた顔もせず、家人たちに落ち着いて事後処理に当たれと指示してみせる。この方面においては、問題はなかった。
 難しいのは侵入者たちがカンタベリー大司教の手のものであり、ジェニーを連れ去りに来たという事実である。伯爵夫人もまた、カンタベリー大司教の姪なのだ ― つまり、ウィンチェスター司教との間にジェニーをもうけた、アリスとは従姉妹にあたる。
 母方でアランデル伯爵家につながるサマーセット伯爵夫人に、両伯爵家の仲に決定的な溝を作るような今回の陰謀を、説明するという事に、ハルには気が進まなかった。

 「当人たちは―」
 デイヴィッドは地下倉庫に閉じ込められている侵入者たちを、そう呼んだ。
「当人たちは何も言うまい。」
 ハルとケイニス、レオンが頷いた。四人は伯爵家の広間から中庭に出て、他に聞こえないようにヒソヒソと話し合った。ジェーンは血のついた衣服を改めに行き、デイもそれに従っている。
 ハルは腕を組み、他の三人を見回した。
「伯爵夫人には単に侵入者とだけ説明しよう。それが大司教の望みでもあるだろうし、アランデル伯爵家のためでもある。」
「ウィンチェスター司教は怒り狂いますよぉ。」
 レオンが悪戯っぽく言った。
「叔父上の腹は煮え繰り返るだろうが、こらえてもらう。今回の騒ぎは、カンタベリーとウィンチェスター、この二人の個人的な悪感情の産物だ。そんなものが、イングランドにとって足しになるわけがない。両伯爵家にとっても迷惑なだけだ。それに…」
 ここでハルはすこし笑った。
「カンタベリー大司教は、叔父上に借りを作ったことになるからな。」
「なるほど。」
 声を出して納得したのはレオンで、ケイニスは相変わらず無表情だ。ケイニスはとうやら、レオンに喋る事を任せているらしい。今度は、デイヴィッドが口を開いた。
「さっきのことだが。俺たちが駆けつけた時には、もう連中は全員降参していた。二人とも、あの侍女のべらぼうな叫び声を聞いてから飛び出しにしては、早く片がつきすぎだ。さすがのジェーン・フェンダーもそこまで無敵じゃないだろう。」
「いやぁ、無敵かもしれませんよ。だって、サー・デイヴィッドに一撃を加えたレディでしょう?」
 レオンは嬉しそうにヒラヒラと喋る。さすがにケイニスが口を挟んだ。
「殿下とサー・デイヴィッドが伯爵夫人に面会するために奥に行かれた後、我々は控えの間には向かわなかったのです。ジェニー嬢が従弟と一緒に遊んでいる可能性も考えられましたので。我々がチャペルを回った頃に、ちょうどあの叫び声が。即座に剣を抜いて駆けつけましたが ― 我々が到着する前に、レディ・ジェーンが二人は倒していました。」
「先制攻撃は彼女の特技だからな。」
 デイヴィッドがうんざりとした口調で言った。その後は大体想像できる。ケイニスはデイヴィッドさえも敵わないほどの武勇の持ち主だし、レオンとても仕事柄、最低限の技術はあるはずだ。それにジェーンも加えて、侵入者たちの制圧に時間がかからなかったはずだ。
「最後にもうひとつ、疑問があるな。」
 ハルがしきりに手で顔をこすりながら言った。どういうわけか、さかんに大きく息をつく。
「どうして連中は今朝 ― 未明に、あのストランドの宿屋に侵入したかだ。あそこにジェニーが宿泊していたのなら分かる。最近出没する強盗を装って、彼女を連れ去ることが出来るからな。しかし、あそこに居た『レディ・ジェーン』は、ダルシーのジェーン・フェンダー。たしか、十八歳だろう?人違いにもほどがある。」
「調べます。」
 ケイニスが短く答えたとき、四人の会話は中断された。広間に伯爵夫人が侍女や召使たちを連れて現れたのだ。改めて、皇太子との面会に臨むためだ。密偵二人は中庭からそのまま外へ退出し、ハルとデイヴィッドは広間に戻った。

 先々代アランデル伯爵リチャード・フィツアランの孫娘,サマーセット伯爵夫人マーガレット・ボーフォートは、特に美人という訳ではないが、その育ちの良さが滲み出し、立ち居振る舞いは完璧だった。家内にて采配を振るう能力にも恵まれ、高貴な女性として非の打ち所がない。
 彼女は侍女とコンパニオン、召使たちを引き連れ、しずしずと広間に現れた。ハルとデイヴィッドは外出向けの身なりで、連れも居ないので、身分の高低が良くわからない。伯爵夫人はハルの前に進み出て深く腰を落とし、全員 ― デイヴィッドも含めて ― それに倣う。夫人は義理の甥にあたる皇太子ハルに、にっこりと微笑みかけた。
 「改めて、ご挨拶申し上げます、皇太子殿下。ようこそいらして下さいました。せっかくのお越しだというのに、ならず者が当家に侵入するなどという醜態をお見せし、その上ご助力までいただいてしまい、お恥ずかしい限りでございます。どうか、お許しくださいませ。」
 ハルは笑った。
「いや、急に押しかけて申し訳なかったです。偶然とはいえ、侵入者の逮捕に強力で来て、私もデイヴィッドも嬉しい限りですよ。」
「まぁ、恐縮でございます。それで…きょうの御用は…?」
 ハルは僅かに首をかしげ、一瞬どうしようかと思案したが、すぐに答えた。
「実は、ウィンチェスター司教が可愛いジェニーが屋敷に来るのだと、うっかり私に口を滑らしまして。かねてから従妹に会いたいと思っていたので、司教には内緒で参上した次第なのです。」
「まぁ、それはそれは…私はてっきり、うちのヘンリーが口を滑らせたのではないかと…」
 伯爵夫人が軽やかに笑った。ハルも笑って返すべきだったが、なぜか数歩後ろに下がり始めた。伯爵夫人はにこやかに続ける。
「ジェニーは修道院でも、王子様が自分の従兄だと聞かされ、とても憧れていましたの。さっき、様子を見ましたら、夢を見ているようだと、大喜びでしたわ。」
 デイヴィッドは下がってくるハルとぶつかるまえに横によけ、ハルの顔を覗き込んだ。そして聞こえないくらい小さな声で尋ねた。
「どうした?」
 ハルは真っ青な顔で、返事をしなかった。

 ジェーンはサマーセット伯爵家の一室で、着替えを済ませた。その頃にはやっと、デイも自分で立ち上がれる程度に回復していた。
 ジェーンはジョン王子に無理を言って馬車を用意させ、この屋敷に駆けつけた当初の目的を達成していない。もう手遅れになっているかもしれないという危惧を抱きつつ、着替えを済ませると子供たちへの面会を求めた。侵入者から子供たちを守ったレディの申し出だ。サマーセット伯爵家の小姓は速やかに、ジェーンを子供部屋に案内した。
 大きな子供部屋に通されると、部屋の隅の長椅子に疲れた表情で座り込んでいた二人の乳母が立ち上がった。しかし、ジェーンが手で挨拶には及ばないという風に合図し、もう一度座りなおす。子供たち ― ヘンリーとジェニーは衣服をあらため、敷物の上に座り込んでいた。小姓の一人が、綺麗な絵の描いてある大きな本を、子供たちに見せているのだ。
「レディ!」
 まず、ヘンリーがジェーンに気付いて立ち上がり、礼儀正しく挨拶をした。続いてジェニーも立ち上がって膝を折る。
「デイ。ジェニー様と一緒に遊んで差し上げなさい。」
 ジェーンは背後についてきているデイに命じた。実の所、デイは小さな子供の遊び相手というものには慣れていない。何か言い返しそうになったが、乳母たちの手前、素直に頷いてジェニーの傍に歩み寄り、一緒に敷物に座り、小姓が見せる本に見入った。 
 ヘンリーは、ジェーンが自分に用があると、悟ったようだ。彼はジェーンの前に歩み寄った。
「ごきげんよう、ヘンリー様。」
 ジェーンはヘンリーの前にしゃがみこんだ。ヘンリーも挨拶を返す。
「ごきげんよう、レディ・ジェーン。」
「ヘンリー様。実は、教えていただきたいことがあるのです。今日、ウェストミンスター宮殿で、飲み物を作りましたでしょう?」
「うん、作ったよ。」
 ヘンリーは得意そうに頷いた。
「強くなるジュースなんだ。いい薬草を分けてもらって、沢山いれた。」
「デイにもらって?」
 ジェーンが視線をデイにやりながら確かめると、やはりヘンリーは頷いた。
「そうだよ。レディの侍女だったんだね。」
「ええ、そして差し上げた薬草のジュースも、私のものでした。」
「あっ。」
 ヘンリーは気まずそうに顔を赤くした。
「ごめんなさい、レディにちゃんとお願いもしなかったし、お礼も言っていなかった。」
 乳母のロレッタが歩み寄ってきた。
「まぁ、あの薬草、レディ・ジェーンのものだったのですか。知らなかったとはいえ、大変失礼いたしました。きっと大事なお薬だったのでしょう?」
「ええ…でも大丈夫、またすぐにダルシーから送ってもらえますし…。それよりも私が知りたいのは、そのヘンリー様お手製のジュースを、誰が飲んだのかということです。」
「ひみつだよ。」
 ヘンリーは屈託なく言った。
「だってさ、強くなるジュースを飲んだことが、敵には知られないほうが良いでしょ?」
 ジェーンは助けを求めるようにロレッタを見上げた。ロレッタは何か恐ろしいことが起こりつつある事に、うすうす感づいてきたようだ。
「あの…大事なことですの?」
 ジェーンはまじめな表情で立ち上がり、頷いた。
「とても大事なこと。一刻を争うことなの。私の薬草を入れたジュースを飲んだのは、誰?」
 ロレッタはジェーンの耳元に口を寄せ、その名前を告げた。 ジェーンは即座に踵を返すと、すごい勢いで走り出した。そして子供部屋のドアに控えていた案内の小姓に怒鳴った。
「皇太子殿下とサー・デイヴィッドはどこ?!」
 驚いた小姓は走り去るジェーンの背中に大声で返した。
「伯爵夫人との面会のために、広間に…!」

 領地ダルシーの居館で同じような事をして、母親や乳母、侍女たちによくたしなめられていたが、気にしている場合ではない。ジェーンはわき目も振らずに通路といくつかの部屋を駆け抜け、恐ろしい速度で広間へ突進した。従僕たちや小姓たちは、蹴散らされるがごとく、身をかわして呆然とレディの疾走を見送る。
 広間の扉まであと数歩だという時、内側から切羽詰まったデイヴィッドの声が聞こえた。
「ハル!」



 → 13.皇太子とレディの間で、人間関係に関する会話が交わされる事
12.地下食糧倉庫の有意義な活用法、および皇太子ハルの異変
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  複合的な家庭の事情
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