二月ともなると、冷え込みも底となり、ロンドン名物の例の賭けに関する感心も最高潮に達していた。即ち、今年のテムズ川は凍結するか否か ― である。賭けの対象期間は降誕節の始まりから、復活祭までに凍結するかどうかで、賭けに乗る人間はクリスマス・イヴまでにどちらかの選択を迫られ、その後は毎日をひやひやしながら過ごすのである。
 老人の中には、前世紀の前半にテムズ川がクリスマス前に凍結してしまった事件を覚えている者がいた。その時は凍結する,しない、どちらに賭けた人もクリスマス以後の事で、掛け金は全て胴元が頂くと言い出したのだから、大暴動になった。

 「そんなん、当たり前でぇ!」
 ネッドが憤慨して口からエールの飛沫を飛ばしながら言った。
「そんな胴元なんて、ふん縛ってポカポカ殴って、みんなに一杯おごって、掛け金は二割増で返金するぐらいの事、してくんなきゃなぁ!サー・ジョン・フォールスタッフだったら、そんなケチな事は絶対にしないぞ!」
 レッド・ホロウの宿屋兼酒場のホワイト・ウィージルは、すっかり安ワインやエールで酔っ払った人々でごった返していた。彼らはネッドの主張に多いに賛同し、それからまた二手に分かれてテムズ川が凍る、凍らないの議論を始めた。
 ここレッド・ホロウでは、ホワイト・ウィージルを根城とするフォールスタッフと、レッド・ホロウ自警団が賭けを取り仕切っており、白髪肥満老騎士が「胴元」のように言われていた。
 二週間ほど、シーン離宮に出向いていた皇太子ハルとデイヴィッド・ギブスンは、ロンドンに戻って来たその夜、熱気に包まれたホワイト・ウィージルに宿を取った。夜遅くになって到着した二人がドアを開けて入ってくると、まずは歓迎されたが、外の寒気を身にまとっているものだから、一気に室内が寒くなるとケチをつけられた。
「おい、ハルもデイヴィッドも体を温めてから入って来い。まったく気の利かない奴だな。夜中にご婦人の寝室に参上する時にそんな真似をしたら、相手にされないぞ。」
 食堂の上座で、王のごとくどっしりと座ったフォールスタッフがそう言うと、ハルはマントを外しながら苦笑した。
「このレッド・ホロウで熱い風呂にありつける見込みなんて、ありゃしないじゃないか。マライア、先に熱いハーブ茶をたのむよ。」
 デイヴィッドも黙ってマントを外し、冷気を吹き付けられて迷惑がるネッドの隣りに腰をおろして尋ねた。
「スパイクは?」
「見回りに出ているよ。」
「こんな遅くに?」
 デイヴィッドはいぶかしんだ。スパイクはレッド・ホロウ自警団の副団長で、よくその職務をこなしている。即ち、団長であるはずのフォールスタッフが今こうして飲んだくれている間も、町に出て見回りをしているのだ。それにしても、もう時刻は夜中であり、さすがに遅い。すると、デイヴィッドの前にハーブティーとエールを差し出したマライアが代わって説明した。
「いえね、最近ちょっと物騒なんですよ、サー・デイヴィッド。王子様もこんな遅くにいらっしゃるって、知らせてくだされば何人かで迎えに行きましたよ。」
「物騒って…追いはぎか何かか?」
 ハルが温かいハーブティーの器で手を温めながら訊き返した。すると、フォールスタッフが腹をブルンと震わせ、重々しく答えた。
「強盗だぞ、ハル。強盗だ。全くけしからん。このロンドンの町で強盗が出るなんて、とにかくけしからん。」
「どこが狙われるんだ?シティか?」
「シティも少々被害が出たようだがな、あそこは城壁で囲まれているし、守りが堅い。それに金持ち商人どもは用心棒を雇う金にも困らないだろうさ。最近じゃ被害はストランドに移り、下手するとこのレッド・ホロウにも及びかねない。だから自警団も警備を強化しているのさ。」
「ストランドのどんな店に入ったって?」
 ハルがもう一度尋ねると、食堂の窓際で飲み食いしていた男がいきなり立ち上がり、自分が被害者だと高らかに宣言した。何を勘違いしたのか、同席していた酔いどれどもは、やんやの喝采をあびせた。
 その男の講釈によると、こうだ。この男はストランドで手ごろな大きさの宿屋を経営している。地方からの陳情団や、商人たち、ロンドン見物の騎士や上流の婦人など、いつも宿屋は繁盛していた。ところが先月、降誕節が空けるや否や夜中に強盗が押し入ったのだ。宿屋はその商売柄、あまり戸締りを厳重にするわけにも行かない。そこを突かれたのだ。
 夜中と言っても朝に近い刻限、突然大人数の強盗が一斉に窓や扉を突き破り、一気に押し込んできた。宿屋はいたる方向からの破壊音で大混乱。灯りを探す間もなく、強盗たちは売上金や、客の所持金を奪って逃げていったのだ。

 「荒っぽいな。」
 デイヴィッドがつぶやくと、宿屋の男は飛び出しそうな勢いで目をむいた。
「荒っぽいどころじゃありませんや、サー・デイヴィッド!ありゃぁね、前もって家の中を調べてあるんですよ。きっと、泊り客の中に強盗の一味が居たんでしょうな。しかし、こっちは商売ですから、客をいちいち疑うわけにも行かない!とにかく、連中はあっという間に押しかけて、こっちが行く手を阻もうものなら、殴る蹴る、斬りつけるの乱暴者でさぁ!死者が出なかったのが幸いってもんですよ!」
 その後、この男は奪われた金品の金額の事を話したが、その額はどんどん膨張して行き、その点についてはあまり信用できなかった。
 
 「なるほどな。」
 ハルはマライアからシチューの皿を受け取ると、持ったままデイヴィッドとネッドの間に体をねじ込ませた。こちらの方が暖炉に近いのだ。
「この季節はどの店も現金を持っている場合も多いし、旅人もしかりだ。」
 農閑期のこの時期、手の空いた農村の男たちが雪に覆われていない町に出て、稼ぐのが最近の流行らしい。たとえば石造りの建物を作るには熟練した石工が必要だが、その簡単な助手となると、農夫にもこなせる。テムズ川河岸の船着場は、いつも荷物を運ぶ人足不足に悩まされているのだから、重宝される。もっとも、テムズ川が凍結すると商人たちの船が動けなくなるので、この事業に従事する人々は、必ず「凍らない」方に賭けていた。
 とにかく、そう言った農村からの人々への報酬は現金が多い。必然的に宿屋や商店には現金がたまりやすい時期に入っていた。
 ウェストミンスター宮殿にも泥棒が入るかしら、などとハルが言う隣で、デイヴィッドは黙って飲み食いしていた。あの宮殿の中で失せ物があったら、まず疑うべきは皇太子ハルである。
 ホワイト・ウィージルに集う人々は、またテムズ川の凍結に思いを馳せ、それぞれの持論を展開していた。ハルとデイヴィッドは不覚にも賭けていなかったが、勝手な理屈を聞いているのは楽しい事だった。
「その賭けが大問題ですよ、お二人とも。」
マライアは困ったように訴えた。
「テムズ川凍結の賭けは毎年、あのじいさんフォールスタッフが胴元とかでお金を集めるでしょう?それで必ず私かスパイクでお金を厳重に保管していたのですが、私もスパイクも預かり損ねてしまって。あのじいさんときたら、集めたなりすぐにお金を全部使って飲み食いしちゃったらしいんですよ。ねぇ、ネッド!」
 声をかけられて、ネッドは首をすくめて小さくなり、口の中でブツブツ言っている。さっきは威勢の良いことを言っていたが、掛け金を呑んでしまったというのは本当らしい。呆れるハルとデイヴィッドに視線を戻し、マライアは続けた。
「ね、大変ですよ。復活祭には配当しなきゃならないのに、どうするつもりかしら?うちは一文たりとも、出しませんからね!」
 マライアは小声だったが、その決心は堅そうだった。ハルもデイヴィッドも、仕方がないという風に、特に解決策は出してやらなかった。

 教会の鐘が夜中の十二時を告げた頃、やっとスパイクが戻ってきた。彼が食堂に入ってくると、外の冷気が塊になって飛び込んできたようで、ハルとデイヴィッドが入ってきたときと同じように散々文句を言われた。
「やぁ、スパイク。ご苦労だったな。こっちに来いよ。」
 ハルは隣りのネッドを椅子から突き落とし、スパイクに手招きした。落とされたネッドは、すっかり酔いが回って、床にひっくり返って、高いびきを立て始めた。
 スパイクはいつものように控え目な表情でハルとデイヴィッドに挨拶をすると、席に座って夜回りの首尾を報告した。もっとも、報告を聞くべきフォールスタッフも、従者とおなじように天井に向かって口をあけ、雷のようないびきを立てているのだが。
 言葉が極端に少ないスパイクから何とか聞き出した情報によると、やはりストランドの中心街は用心深くなっているようだ。人を雇って警備をする所もあるし、交代で寝ずの番をする所もある。しかし、やはりストランドの町の西側に当たるあたりは、まだ暢気な雰囲気が漂っているらしい。かえって、より西に位置するこのレッド・ホロウのほうが、しっかり警戒しているということだった。
「でも、この店に入るような馬鹿が居ますかしらねぇ?」
 マライアが皿やコップを片付けながら言った。
「何せうちには、武勇の誉れ高きハル王子と、サー・デイヴィッドがお泊りなんですよ。そんな所に押し込んでくる強盗なんて、捕まえてくれと言うようなものですわ。」
「ここはマライアが居るから、大丈夫さぁ…」
床の方から、ネッドの寝ぼけた声が上ってきた。
 レッド・ホロウに強盗が出るかどうかと言う点に関しては、スパイクの見解も可能性は低いほうに傾いていた。金目のものがありそうな宿や商店は、ストランドに近い方だ。
「それに、外からの人も、大勢来ていました。」
 スパイクは落ち着いた声で言った。ストランドにも数件の宿があるが、これが中々立派な宿で、どこも満員なのだ。スパイクが強盗と勘違いされない程度に探りを入れると、今夜の客はヨークから来た裕福な商人の団体や、巡礼者、若い貴婦人のご一行、パリへ留学する学生たちなどらしい。
「確かに、現金がありそうだな。」
 ハルは最後のエールを喉に流し込んだ。そしてそろそろ、いつもの「王の間」に引き上げようかと腰を上げ、デイヴィッドもそれにあわせる。すると、スパイクが遅い食事をする手を止めて、マライアに合図した。
「あの話は?」
「あの話?ああ!あれね…」
 マライアは洗い物をする手を止め、ハルとデイヴィッドの前にやってきた。そしてまだ飲み足りないといってわぁわぁ騒いでいる連中には聞こえないような声でこう説明したのだ。
「いえね、王子様やサー・デイヴィッドにご心配をかけるのも良くありませんから、別にお話するほどではないんですけどね…ただ、スパイクはどうしても気になるから、って言うんですよ。ほら、この人はここじゃ比較的まともな男でしょう?」
 マライアの長い前置きはともかく、ここ数ヶ月ホワイト・ウィージルに気になる客が来ると言うのだ。
「数ヶ月?」
デイヴィッドが短く訊き返した。
「そうですねぇ。ほら、あの美人なご夫人に美味しいワインを頂いたじゃないですか。あの頃だと思いますよ。」
 去年の十二月初頭の話だ。その客というのは、一見どこにでも居るような若い男で、町っ子らしく明るく、愛想が良かった。陽気な下町訛りで、噂を聞いたからと言ってホワイト・ウィージルにやって来たらしい。よく飲み食いし、払いも良い。フォールスタッフやネッドなど、店にたむろす連中とも、すぐに仲良くなり、いつも楽しくお喋りをしていた。しかし、一点だけ妙な事があった。名乗らないのである。誰かが名前を尋ねると、謎かけをするのだ。曰く、
「右から読んでも、左から読んでも同じ名前。」

 「回文か。」
 ハルが笑い出した。しかし、マライアやスパイクのように、相手をきちんと観察している人間にとっては、不審な点はまだあった。ロヌーク夫人を知っていると言うのだ。ロヌーク夫人と言えば、最近ハルやデイヴィッドの周辺に出没するものの、その正体は不明の美女である。その若い男は、
「彼女は、この世のものとは思えないほど、美人だ。」
などと言って、ニコニコしている。かといって、それ以上の事を知っているとも、知らないとも言わないのだ。更に、皇太子殿下は最近ここに来るかと尋ねる。
 ハルとデイヴィッドがレッド・ホロウに出没するのは有名な話で、下町の若者が知っていてもおかしくは無いが、目の良いスパイクにとっては、この若者は油断ならないと判断させるには十分な発言だった。
 スパイクとマライアはこの回文男に探りを入れようとしたが、その空気を素早く察知したのか、すぐにエールをガブガブ飲んで、フォールスタッフやネッドと陽気に歌い騒ぎ、太っ腹にもおごったりしつつ、元気に手を振っていなくなってしまう。

 「見た目は気の良いお兄さんだから、油断しがちですけど…でもね、後でよく考えれば体つきもしっかりしているんですよ。いえね、背は普通で痩せてますけど、よく鍛えている感じで…まぁ、王子様とサー・デイヴィッドがお気になさらなければ、それで構わないのですが…」
 結局、マライアとスパイクの報告も歯切れが悪く終わってしまった。ただ、ハルにとっても、デイヴィッドにとっても、スパイクの鼻は信用すべきものだった。
「最後に来たのは?」
 デイヴィッドが尋ねると、マライアはスパイクと顔を見合わせてから答えた。
「そうね、先々週の水曜日だわったわ。それ以来きていないから、今日もお話しし損ねるところでした。」
 ハルとデイヴィッドは顔を見合わせた。やや気になる話ではあるが、今すぐ危険が迫ってきそうな様子でもない。二人はマライアとスパイクに礼を言って、食堂を後にした。朝早く起きて、「聖マリア清めの祝日」の礼拝に間に合うようにウェストミンスター宮殿に戻らねばならない。

 ハルとデイヴィッドが引き上げた後も、暫く食堂では騒ぎが続いていた。この極寒期、憂さをはらしたい男女が多いということだ。その音がしようがしまいが、ハルもデイヴィッドも寝つきがよく、いつもの「王の間」の二段ベッドで、眠りについた。
 ところが、数時間後にデイヴィッドを揺り起こす者が現れた。



 → 2.何事もはじめの挨拶こそが肝心だという教訓の場面
1.皇太子ハルとデイヴィッド・ギブスンが、夜の酒場で情報を得る事
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  複合的な家庭の事情
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