ウィンザー城内の暗い廊下を、デイヴィッドが凄い勢いで駆け抜けると、そこかしこでたしなめる声があがった。デイヴィッドが足をゆるめずに回廊を回ると、腕に書類を山ほどかかえた書記官二人とぶつかりそうになった。
 「サー・デイヴィッド!走らないで下さいと、何度言ったら…!」
デイヴィッドはすでに先へ走っていっている。もう一人の書記官がその背中に怒鳴った。
「皇太子殿下のお仕事は、一段落しましたから、そんなに慌てなくても!」
その言葉が終わらないうちに、デイヴィッドは奥まった部屋のドアを勢い良く開けて、飛び込んだ。
 南向きに大きな窓があり、沢山のガラスがはめられている。厚い雲の間から覗いた日光が、部屋をかすかに照らしていた。暖炉があるせいか、室内はポカポカと暖かく、廊下の寒さが信じられないほどだった。大きな部屋で、壁にはタペストリー,床には絨毯が敷かれている。
 デイヴィッドは後ろ手にドアを閉めると、呼吸を整えてから小さな声で呼びかけた。
「ハル。」
大きく立派な材質の仕事机が据えられ、ペンとインク壷があったが、書類はきれいになくなっていた。しかし、執務室の机についているべき男の姿がない。デイヴィッドはそっと見回しながら、マントを外した。まだ少し呼吸が乱れている。机の後ろに回ると、窓際に大きな長椅子がある。覗き込むと、案の定ハルが長くなっており、丁度いびきをかき始めた所だった。
 デイヴィッドは小さくため息をつくと、机の上の水差しを取ってコップに注いだ。走っていがらっぽくなった喉に流し込み、椅子に腰掛けると、机にひじをついた。すると、ハルが長椅子の上で寝返りを打ち、体を横向きにすると、うっすらと目を開いた。そしてそこにデイヴィッドが座っているのを認めると、もぞもぞと口を動かした。
「…どうかしたか?」
 デイヴィッドは僅かに首を振った。
「別に。」
「どうしてウィンザーに?」
ハルは体を横たえたまま、億劫そうに尋ねた。デイヴィッドも面倒くさそうにつぶやいた。
「トマス様に馬の調達だ。」
「ああ…馬ね。」
ハルはぼんやりと言うと、また目を閉じ、寝息を立て始めた。
 デイヴィッドはしばらくそれを眺めていたが、やがてコップの水を飲み干し、そっと椅子から立ち上がった。そして自分のマントを取り上げると、それをどうするべきか少し考えた。考えてから振り返り、ドアをしばらく見つめて、そして小さく微笑んだ。すぐさま足音を立てないように扉まで駆け寄ると、勢い良く開けた。すると、外側に立っていた男が驚いて飛び上がり、
「ぎゃぁああ!!」と叫んだ。
 咄嗟にデイヴィッドは手で相手の口を塞いだ。そのままの姿勢で執務室を出ると、背後で扉を閉める。デイヴィッドの手で口を塞がれたジョン王子は、手に毛布を抱えてモガモガとうめいていた。デイヴィッドがニヤニヤ笑いながら手を放すと、ジョンは下から睨みつけながら抗議した。
「あの兄上が、目を覚ますわけがないだろう?」
「それもそうですね。こんにちは、ジョン様。」
 デイヴィッドはまだ笑っている。ジョンは相変わらず不機嫌そうだった。
「やぁ、デイヴィッド。久しぶりだね。」
「十日くらいでしょう。」
「いいや、十四日振りだよ。デイヴィッドは二十二日にロンドンを立ったんだから。せっかく領地に帰ったのだから、もっとゆっくりしてくれば良いのに。」
ジョンの細かさに、デイヴィッドは更に可笑しくなってしまった。それでも相手は王子である。必死に笑いをかみ殺しながら言った。
 「せっかくですが、私はまた出かけますよ。」
「兄上も一緒に?」
明らかにジョンは凄んでいる。デイヴィッドは肩をすくめた。
「いえ。疲れているみたいですから、放っておきます。あの、ジョン様。頼まれてくれませんか?」
「なに?」
ジョンは拍子抜けたようだ。
「ハルから目を離さないで欲しいんです。」
ジョンは絶句した。デイヴィッドを見つめる目が、徐々に潤んでくる。デイヴィッドは大笑いしそうになるのを、必死にこらえた。
「あの、いや、別にそれほど大袈裟な事じゃなくて。ちょっと事情があって。ウィンチェスター司教が、暫くハルに張り付いていろと仰ったのですが、今夜はどうしても出なきゃならないんです。だから、ジョン様にはハルが脱走しないように見張っていて頂きたく…」
 デイヴィッドが言い終わる前に、ジョンが勢い良くデイヴィッドの腕を掴んだ。
「分かったよ、デイヴィッド!兄上は、この僕が命をかけてお守りするから!ロンドンでも、セグゼスターでも、ダルシーでも、どこへでも安心して行ってくれ!」
「どうしてそこでダルシーが…」
迷惑そうに言うデイヴィッドを尻目に、ジョンは感動的な第一歩を踏み出し、毛布を抱えて執務室に消えた。
「やれやれ。」
 デイヴィッドはため息をつくと、床に落ちたマントを拾って歩き始めた。ハルの見張りに関しては、情熱と義務感という点において、どんな従者や小姓よりも、ジョンの方が当てになった。

 デイヴィッドは、国王ヘンリー四世に謁見した。謁見と言っても、王の居室における私的な会見である。従者や小姓たちを退出させると、部屋には王と義弟で大法官のウィンチェスター司教、そしてデイヴィッドだけになった。
 「久しぶりだな。デイヴィッド。元気だったか。」
 王は穏やかな口ぶりで言った。くつろいだ服装で椅子に腰掛け、想像していたより余程顔色も良かったので、デイヴィッドは一安心した。デイヴィッドが変わりありませんというと、更に王は微笑んだ。
「セグゼスターはどうだった。今年、伯爵夫妻はロンドンに居たが、クリスマスはソンダーク子爵が取り仕切ったのだろう?」
「ええ。今年は作物も豊作だったようで、良いクリスマスになりました。家族の人数も増えましたし。」
「ああ、『小さなエドワード』に子供が出来たのだったな。どちらだった?」
「例によって男でした。」
王と、傍らに立っていたウィンチェスター司教は、声を上げて笑い出した。
 王の言う『小さなエドワード』とは、セグゼスター伯爵の長男ソンダーク子爵のそのまた長男で、デイヴィッドにとっては甥にあたる。甥と言っても、デイヴィッドより一つ年上だ。その『小さなエドワード』が一昨年結婚し、去年の暮れに長男が生まれたのである。エドワードと命名されたので、『もっと小さなエドワード』というわけだ。これで、ギブスン家はセグゼスター伯爵の姉以来、六十年間十二人、男子しか生まれていないことになる。
 セグゼスター伯爵は、孫やひ孫が男子であることに関しては、あまり嘆いていない。幼い子供達は、性別は関係なく愛しいものであり、むしろ十九年前、自分の六男が女でなかったことを執念深く嘆いていた。デイヴィッドにとっては良い迷惑だ。しかも始末が悪いことに、そのデイヴィッドを伯爵は心底溺愛している。その為あれこれとうるさく、結局デイヴィッドとは大喧嘩になる。デイヴィッドが伯爵から逃げ回っているのは、そのせいだった。
 「まぁ、デイヴィッド…。」
国王は、また微笑みながら言った。いつも疲れたような、寂しげなような表情の国王は、デイヴィッドには常に情愛豊かな様子で接していた。
「孫やひ孫が出来ても、セグゼスター伯爵にとって一番かわいいのはお前だ。そう逃げ回らずに相手になってやれ。」
「ええ…。」
 仕方なく頷いたデイヴィッドを、王は目を細めて見つめた。怒ったり、喚いたり、喧嘩したり、逃げたりとは言っても、王にとってギブスン親子は羨望の対象だった。
「それで?デイヴィッド。私も呼び出したからには、何か報告をしたいのだろう。」
 ウィンチェスター司教が口を出した。デイヴィッドは頷いて見せた。

 「一昨日、司教の部下,ケイニスが身柄を確保した、グレンダワーの密偵の話です。この密偵がなぜ、ウェストミンスター宮殿内部の様子を記した書き付けを持っていたのかという話ですが…」
デイヴィッドが顔をうかがうと、国王は頷いた。
「その話は、さっき司教から聞いた。」
「宮殿内部の構造について、情報を漏らしたのは石工ではないかと思うのです。」
「石工?」
 王と義弟は同時に聞き返した。デイヴィッドは深く頷き、低い声で説明した。
 「昨日、私がセグゼスターからロンドンに戻り、ウェストミンスター宮殿の自室に入ろうとしましたが、改装工事の不手際で壁がそっくりなくなっていました。結局私はレッド・ホロウで寝ざるを得ませんでした。そもそも、クリスマスの後、国王陛下以下、宮廷がごっそりこのウィンザーに移動したのは、ウェストミンスターの改装の大幅な遅れが原因だったはずです。
 昨日、現場責任者が私に言い訳をしました。『石工頭が、給料をもらうなり消えてしまった』 ― 無論工事の遅れは以前からですから、この石工頭の失踪が全ての原因ではありません。しかし、ウェストミンスター宮殿から、石工が一人居なくなったのは確かです。」
「改装工事に携わる石工なら、宮殿内部の情報を知っていてもおかしくないな。」
同意したのはウィンチェスター司教だった。王は黙ったまま聞いている。
 「石工の失踪そのものは、私も最初特に気にも留めませんでした。しかし今朝早く、私はエリー厩舎への寂しい道の途中で、身元不明の死体を発見しました。腐敗が進んでいたので判断材料は少ないのですが、ただ両手にたこのある、職人の手をしていました。腐敗の具合からして、死後三日か四日です。石工頭が失踪したのは、クリスマス前の手当てをもらってすぐです。その数日後には失踪し、丁度年が変わる頃に、殺害されたのではないか ―」
「その死体が石工だというのは、手だけで判断したのか?」
「聖ステファノです。」
デイヴィッドが短く言うと、司教は一瞬眉を寄せ、大きく息を吐きながら応じた。
 「聖ステファノ…石工の守護聖人だ。しかも二十六日が祝日で休みのはずだ。」
「ええ。その死体は古ぼけた聖人のメダルを首から下げていました。彫金もすっかり摩滅して、聖人が誰なのか非常に判別困難ですぐには分かりませんでした。しかし、髭のない若い聖職者で、手を胸の高さにあげて丸い物を持っている…」
デイヴィッドが言った通りの格好をしてみせると、王も細かく頷いた。
 「確かに、石を持った聖ステファノの図象だ。」
「ええ。しかしこの死体がただの石工だとすると、いくつか不自然な点があります。グレンダワーの金貨を二枚も所持していたのです。普通石工の持つものではありません。もしこの死体が追いはぎに遭ったのであれば、当然金貨が残されるはずもありません。この石工は何らかの事情で金貨を入手し、しかも左胸を一突きに殺された。
 不自然な点はまだあります。死体の所持品の中に、ベッドフォード教区,ダンスタブルのガルベリー神父から、ドレール司祭への手紙がありました。」
「セント・ジョージ・チャペルの司祭じゃないか。」
驚いて見せたウィンチェスター司教に、デイヴィッドも頷いて見せた。
「ええ。手紙の内容は、この手紙を持参して来たジョン・ダンスタブルという男の、推薦文です。」
「聞いた名前だ。どこで聞いたのだったかな?」
 王が怪訝な顔をすると、少し考えたウィンチェスター司教が思い出した。
「ああ、何日か前に新入りの書記官見習として、紹介された少年ですよ。いや…もう大人か?」
「十六歳です。ジョン・ダンスタブルはもちろん死体とは別人で、今はウィンザー城内のあちこちで大活躍しています。彼が言うには、先月の三十日にロンドン宿屋『めんどり亭』に宿泊した時、所持していた推薦状を盗まれたらしいのです。ただの石工がダンスタブルの推薦状を盗むのでは、つじつまが合いません。しかしケイニスらが捕らえたウェイルズ反乱軍の密偵と、かかわりがあるとしたら ―?」
「飛躍だ。」
「しかし、ダンスタブルは盗難のあった宿屋に、石工が居たことを覚えていますし、司教の部下が密偵を捕らえたのもロンドンです。しかも石工がグレンダワーの金貨を入手する方法といえば、ウェイルズからの密偵としか考えられません。」
「それで?お前はどうすると言うのだ?」
 王は相変わらず穏やかに微笑んでいる。デイヴィッドは真面目な表情のまま応えた。
「今からダンスタブルを連れて、エリー厩舎へ行き、死体を確認させます。もう処分されたかもしれませんが、所持品があるはずですから。」
「どうも分からないな、デイヴィッド。」
ウィンチェスター司教が首を振りながら一歩前に出た。
「お前、やけに熱心だが、死体と密偵の関係がお前の本命なのか?他に何か気になることがあるように見えるが…。」
ウィンチェスター司教は、ハルにもっとも身近な叔父であり、十二歳からは教育担当だ。即ち、デイヴィッドにとっても多くの隠し事の出来る相手ではなかった。デイヴィッドは少し肩をすくめた。
 「馬ですよ。エリーの厩舎で馬が一頭、盗まれたんです。それが大晦日の夜中。死体の男が殺された時期と丁度かさなります。馬泥棒と、石工殺しは密接な関係がある。しかも、盗まれた馬は ―」
デイヴィッドがそこまで言ったとき、背後の扉の開く音がした。室内の三人が扉をみやると、
「それが、私の馬だったわけだね。」
と、おっとりとした口調で言う若い男が立っていた。
「トマス様…」
 デイヴィッドが呆れて言ったのは、トマスが扉の外で盗み聞きしていたからのみならず、そのトマスの足元にはハルとジョンが折り重なるように伏せて、やはり盗み聞きをしていたことを証明していたからだった。
「入りなさい。」
三人の息子に王が静かに言うと、トマスだけがすたすたと王の居室の中央に進んできた。ハルはニヤニヤしながら、ジョンはひどく困惑した顔で、扉の前に突っ立っている。
「失礼しました、父上。」
 トマスはまたおっとりと言って、王に礼をした。四人の王子のうち、トマスはもっとも髪の色が濃い。それ以外の姿は大方ハルやジョン,ハンフリーと似ているのだが、色が透き通るように白く、全体的に柔らかな印象だった。目をうっすらと細め、ゆっくり喋る仕草は王にそっくりで、他の三人の王子にはない特徴だ。『白馬の王子を地で行く』という、トマスが貫くスタイルの賜物だろう。
「セグゼスターから早々に戻ってきたデイヴィッドが、私の馬を連れて来られなかったと聞いたので、何かあると思いましたよ。目星をつけた馬を盗まれるとは、一大事だね。」
「ええ。」
デイヴィッドはあまり表情を変えずに同意した。
「トマス様の希望に叶い、しかも上物の馬となると、そうめったに手に入りません。今回を逃したら、また大変な労力が必要になりますからね。」
 多少皮肉を込めたつもりだが、根っからの『王子様』には効き目がない。
「よろしく頼むよ、デイヴィッド。」
などと優しく言って、鷹揚に笑っている。デイヴィッドの背後では、ハルが必死に笑いを抑えていた。
 王は差し出されたトマスの手をそっと取ると、デイヴィッドに穏やかに言った。
 「分かった、デイヴィッド。その方面の調べは、お前に任せようじゃないか。司教の意見は?」
ウィンチェスター司教は、眉を上げるとため息交じりに同意した。
「分かりました。とりあえずデイヴィッド、好きにしろ。明日また報告しに来い。私はケイニスに連絡して、その『めんどり亭』を調べさせる。」
 デイヴィッドは頷くと、膝をついて国王に退出の挨拶をした。
「今夜は天気が崩れるそうです。冷えますので、どうぞご無理をなさらず。」
国王は深く頷く。デイヴィッドはウィンチェスター司教、トマスにも会釈をすると、王の居室から退出しようとした。同時に、ずっと黙って立っていたハルも一緒に出て行こうとする。
「あ、兄上…!」
咄嗟にジョンが顔を赤らめて兄を引きとめようとしたが、王の傍らのトマスがそれを制した。
「ジョン、兄上を止めようだなんて、無駄だよ。」
「でも、トマス…」
ジョンがまごまごしている間に、ハルは一瞬だけ振り返って僅かに王に会釈し、デイヴィッドを追って出て行った。

 「どうしてお前までついてくるんだよ!」
 デイヴィッドは回廊を厩舎に向かって早足に歩きながら、並んで歩調をあわせるハルに怒鳴った。
「ご挨拶だなぁ。こんな面白そうな話、どうして俺に知らせないんだよ。」
ハルも負けじと言い返した。
「別に面白い話なんかじゃない。お前、仕事があるんだろう?」
「ところが!優秀この上ない皇太子殿下は、すっかり片付けちまったんだな。」
「書類仕事に片がついたら、陛下の部屋で盗み聞きか。趣味の良い王子様兄弟だ。」
「デイヴィッドが俺に内緒で面白そうな事をするのが悪いんだ。」
「いつ俺が内緒にしたんだよ。お前が寝てるから、そっとしてやったんじゃないか。」
「あ、やっぱり!」
「なんだよ。」
 頓狂な声を上げたハルを、デイヴィッドが横目で睨んだ。二人とも歩調を緩めない。
「やっぱりお前、俺の執務室に来たな?目を覚ました時に、どうもデイヴィッドの夢を見たような気がしたから、ジョンにお前が来ているかどうか訊いたのに、あいつ何て言ったと思う?」
「知らん。」
「『来ていません!』だとさ。あいつも嘘が下手だ。」
「どうせなら、騙されたふりでもしてりゃ良かったんだ。」
「なんで城内でただ一人、俺だけが馬鹿みたいに騙されなきゃならないんだよ。」
「死体と馬の話は、俺が片付けるんだから、お前までついてくるなと、言っているんだ!」
「いいじゃないか、もう暇なんだから!」
「この時期ぐらい、国王陛下のお側で大人しくしてようって心がけはないのか?」
「ないね。」
 ハルのそっけない返事には応じずに、デイヴィッドは数歩進んだ。しかし、ハルが足を止めていることに気付いて、振り返った。
「なぁ、デイヴィッド。」
 だいぶ暗くなった回廊で、立ち止まったハルの声が響いた。
「気付いているか?俺たち互いの顔を見るの、久しぶりだぜ。」
「せいぜい十日かそこらだろう。」
デイヴィッドは、不機嫌そうな低い声で言った。ハルが薄く笑いながら首を振った。
「十四日振りだよ。」
「兄弟、揃いも揃って…」
「寂しかった。」
 デイヴィッドは絶句した。ハルは暗い廊下でじっとデイヴィッドを見つめている。デイヴィッドは大きく息を吸い込んで、用心深く口を開いた。
「俺はそうでもない。」
「そう?それにしちゃ随分早く戻ってきたじゃないか。」
ハルはゆっくりとデイヴィッドに近づいてきた。
「兄嫁どもが色々うるさいから。」
「ウィンザーには、もっとうるさいのが居るのに?」
ハルがデイヴィッドの鼻先で足を止めた。ハルの瞳が返事を促すように、デイヴィッドの顔を見つめている。
「俺は…」
言葉に詰まるデイヴィッドの目の前で、ハルが悪戯っぽく眉を上げた。そして少し間をあけてから言った。
「悪いが、俺は『お前の敵』の味方でね。陛下のお部屋から、厩舎に向かうであろうことを、通報しておいた。」
 デイヴィッドが、しまったと思っても、もう遅かった。背後でやかましい声が響いたのだ。
「まぁ、デイヴィッド!こんな所に居たのですね!?」
侍女と小姓を引き連れたセグゼスター伯爵夫人が、ひどく上機嫌な声でまくし立てながら迫ってきた。
「何ですか、急に来たりして。お兄様たちが困ってしまうでしょう?お姉様たちにも叱られるのは分かっているのに、まったくしょうのない子ですね。甥っ子たちだって、叔父さんと遊べるのを、あんなに楽しみにしていたのに!― 皇太子殿下、ご機嫌うるわしゅう。(伯爵夫人と随身たちは、一斉にハルに向かって腰を落とした。) ―
 さぁ、デイヴィッド。お父様にご挨拶なさい。お前、髪をもうすこしきちんとしたらどうなのです?そのマントも!もっと良いものをお父様に買っていただきましょうね。またそんな顔をして。もう子供ではないのですから、ふてくされた顔をするのはお止めなさいと、何度言ったら分かるのです?ほら、ちゃんと前を見て歩きなさい。転んでも知りませんよ!」
 反論の余地も与えず、伯爵夫人と随身たちが押し寄せる。一行は、手に手にデイヴィッドの腕だの肩だのを掴んで引きずって行った。残されたハルが愉快そうに呼びかけた。
「じゃぁな、デイヴィッド!出発は四時なんだから、少しゆっくりしてこいよ。また後で!」
「ハルーッ!てめぇ、裏切ったなーッ?!」
 デイヴィッドの断末魔と、ハルの大笑いが回廊に響いた。



 → 8.エリー厩舎に、驚くほど頻繁に客が訪れた一日が、悪天候と共に終わる事
7.デイヴィッド・ギブスンが、親友の裏切りに遭う事
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  ダンスタブルの忙しい降誕節
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