冬の朝の乗馬はつらい。特に日が昇るより、大分前に出発すると更に辛い。それでも、午前中にはエリーでの用を済ませ、午後にはウィンザーに到着したいデイヴィッドには、他の選択肢は無かった。
 鞍にまたがりマントを厳重に巻きなおすと、フードを被り、襟を鼻の辺りまで引き上げた。それでもいてつく寒さは容赦しない。手袋をしていても、手綱を取る手が千切れそうに冷たくなった。
 ロンドンからエリーへの道は南西に伸び、東の空がようやく白み始めた。デイヴィッドは黙々と駒を進めていたが、後ろから借り物の駄馬に跨ってついてくるネッドは、不平の言い通しだった。
 「よぉ、デイヴィッド!少し休んで火に当たろうや。このままじゃニワトリが鳴く前に、凍え死んじまう。第一、お天道様が出てくる前に出発だなんて、ひでぇ話だよ。なぁ、デイヴィッド。足が冷たくてたまらねえ。ケツも何時もより痛むし、腰も痛い。お前ワインか何か持ってないか?」
 わぁわぁとしゃべり続けるネッドをよそに、デイヴィッドは低い声で言った。
 「止まる方がきついぞ。もう少しだから辛抱しろ。」
「でもよぉ、デイヴィッド。」
ネッドは泣き言を続けた。
「もう夜明けだって言っても、いかにも寂しい道じゃないか。こんな所で追いはぎに襲われたら、どうしよう。」
 デイヴィッドは聞き流している。こんな寒い朝の道で、仕事に励む熱心な追いはぎが居るとは、あまり思えない。
エリーへの道は寂しい荒野を、ほぼまっすぐに続いていた。春になれば美しい野原なのだろうが、この季節は死の原野にしか見えない。枯草の合間合間に湧き水か、情けない小川かが、凍りついている。所々に立つ木々も、すっかり葉を落として、悪魔の手のような不気味な姿を、夜明けの空に突き立てていた。その足元に、僅かに枯葉が吹き寄せられ、惨めな塊と化している。東の空から光の弱い太陽が昇り始めたが、雲がそれを遮り、憂鬱な朝となった。夜中に吹き荒れた北風が、止んだのだけが救いだ。
 さすがのデイヴィッドも、片手をマントの中に入れて、体をさすった。ネッドは尚も背後で不平を並べていた。喋りつづけるのも、寒さをしのぐには有効なのかもしれない。
 「朝飯だって、もっとちゃんと食ってくるべきだったなぁ。デイヴィッドがせかすから、温かい物が食えなかったじゃないか。これでエリーの厩舎に美味しくて熱いシチューがなかったら、俺はもう即死するぞ。ああ、今ごろサー・ジョンはまだ温かいベッドの中だろうなぁ。うう、寒い寒い。何てこった…あれぇ?!」
 突然、ネッドが頓狂な叫び声を上げた。
「おい、デイヴィッド!見ろよ、あそこに人が倒れているぞ!」
 デイヴィッドは馬を止めると、ゆっくりと振り返った。ネッドは元から巨大な目を更に広げて、右斜め前方を見つめ、そっちの方向を指差している。デイヴィッドはその視線をたどってみた。
「人?人なんてどこに居るんだ。」
「見えないか?ほら、あの低い木の根元だよ!人が倒れているに違いないよ!」
デイヴィッドはネッドに言われた木の方を見やった。確かに、その根元に何か茶色っぽい塊が長くなっている。
「人…か?」
 デイヴィッドは馬から下りた。寒さが増したような気がする。道を外れ、馬を引きながら野原を歩き出した。ネッドもそれに倣ってついてくる。
 しばらく歩いて、目指す木の手前までやってきた。デイヴィッドは手綱を放すと、そっと根元に長くなっている物に近づいて覗き込んだ。確かに人だ。男が一人、地面にあお向けに倒れている。ネッドが大分後ろの方から、おずおずと尋ねた。
「ど、どうだ?やっぱり人だろう?」
デイヴィッドはもう一歩踏み出してよく見ると、振り返らずに頷いた。
「人だ。死んでる。」
「し、死んでる?!た、確かなのか?寝ているだけじゃないのか?」
「いや、もうだいぶ腐ってる。」

 デイヴィッドが即座にその死体を移動させなかったのは、ネッドがすっかり腰を抜かして役に立たなかったからである。人通りもないので、とりあえずデイヴィッドはネッドをむりやり馬に乗せ、引きずるようにエリーへと急いだ。
 エリーの厩舎はギブスン家六男デイヴィッドの到着を大歓迎したと同時に、ここに至る道筋に死体があるという知らせに、大騒ぎとなった。

 「そりゃあ、あんた!びっくりしたなんてもんじゃないよ!」
ネッドは厩舎の食堂でお湯をすすりながら、またわぁわぁと喋り始めた。腰を抜かしてからは暫く口も利けなかったが、体が温まり、厩舎の厩務員や蹄鉄打ち、見習少年,賄い係りに囲まれて事情を尋ねられると、一気に言葉がほとばしり出たのである。
 「この俺様が向こうの木の根元に、人が居ると知らせると、デイヴィッドが確かめに行ったんだ、本当に、本当に死体だったんだぜ!男の死体だ。大人の。衣服?そんなのものじっくり見ちゃいねぇよ!だってデイヴィッドの言うことにゃだいぶ腐っているってんだから!ああ、恐ろしい。このあたりじゃ普通のあることなのかい?」
 そう聴き返されて、厩舎員達は顔を見合わせ、口々に言った。
「まさかぁ。あの道で行き倒れなんて、一度も出たことないよ。」
「でもさ、最近物騒だからな。」
「そうだよ、その死体、この間のアレじゃないのか?」
「アレなら、どうして野っぱらで死体になっているんだよ。」
 そこに、デイヴィッドが入ってきた。ずっと外に居たせいか、彼が入ってきただけで食堂の気温が下がるような気がする。厩務員たちはすぐに立ち上がり、デイヴィッドに丁寧な挨拶をした。この厩舎の所有者はセグゼスター伯爵であり、デイヴィッドはその六男だからだ。
 「楽にしていい。」
 デイヴィッドは短く言うと、テーブルにつきながら、賄い係に熱いシチューと、できれば温かいミルクを出すように指示した。
「うへぇ。お前、よく肉なんて食えるなぁ…。」
ネッドが身震いするが、デイヴィッドはまったく平気な顔をしている。
「それで、どうなんだ?あの死体…。」
ネッドがおずおずと尋ねると、厩務員たちも興味津々でデイヴィッドに注目した。デイヴィッドはマントと手袋を外し、手を洗うと、席について両手をこすり合わせた。
 「一応、簡単に調べておいた。麻布を用意させたから、引き取り先が決まるまでここで保管する。神父さんを呼ばないとな。」
「ここで保管…ですって?」
厩務員たちが気持ち悪がった。
「少しの間だから、我慢してくれよ。この地域の代官が許可すれば、すぐにでも埋葬してくれるさ。」
 デイヴィッドの前に熱いシチューの皿と、ミルクのコップが出されると、彼はそれを口に運び始めた。ネッドは食事をするデイヴィッドを見るだけでも、気分が悪そうだ。
「それで?あの死体、やっぱり行き倒れってやつか?」
「左胸に穴の開いた死体は、普通行き倒れとは言わないだろうな。」
「人殺し?!」
どよめきが起こった。ネッドはますます青くなっている。そこに、外から中年の男がドカドカと入ってきた。
 「こら、お前達!こんな所で何しているんだ。仕事に戻れ、馬は赤ん坊より手が掛かると何度言ったら分かるんだ?!」
台所にたむろしていた厩務員やその他の連中は、慌ててデイヴィッドに礼をしてそれぞれの持ち場に戻って行った。
 「まったく…物見高いのだから。すみません、デイヴィッド様。お食事の邪魔をして。」
「いや。」
デイヴィッドは笑いながら、首を振った。
 入ってきた男の名はセドリック・ワンバーフィールド。代々セグゼスター伯爵家に仕える馬丁の家の男で、今はエリー厩舎の現場責任者だ。背の高いデイヴィッドにとっても見上げるような大男で、巨大な肩幅と、隆々たる筋肉の持ち主。デイヴィッドが幼い頃、彼に肩車をしてもらった記憶がある。
 ワンバーフィールドは手に抱えていた荷物を、テーブルの上に置いた。
「ご指示の通り、あの遺体から上着と、所持品を持ってきました。その下はちょっと…やっぱり無理ですね。靴も…」
「仕方が無いよ、けっこう腐敗が進んでいたから。」
デイヴィッドはつぶやきながら、手早くシチューとミルクを流し込んだ。ネッドは泣きそうな顔になって、
「お、俺、外の空気でも吸ってくるよ…」
と、食堂から出て行ってしまった。デイヴィッドはワンバーフィールドに肩をすくめて見せた。
「意気地の無いやつだ。」

 デイヴィッドは食器を目の前からどけると、ワンバーフィールドが持ってきた荷物を調べ始めた。まず大きなマント。かなり濡れていて、ずっしりと重い。これにはこれと言った特徴が無い。次に、上着。沢山のポケットがあり、防寒性に優れた良い品だが、やはり特徴は無かった。ただ、左胸に穴が開いている。デイヴィッドはそこから指を出して見せた。
 「一突きだな。心臓を狙っている。最初から殺す気だったんだ。」
「追いはぎではないとお思いですか?」
ワンバーフィールドもデイヴィッドの向かいに座りながら、聞き返した。
「追いはぎではないな。遺体の方もそうだったが、刃物自体は大した大きさもない。短剣だろう。かなり鋭い刃で、一発でしとめている。しかもこれだけしっかりした上着の上からだ。不意を襲われた…というより、顔見知りと向かい合わせに話している最中に、突然刺されたと考えるほうが良さそうだ。」
「戦闘に心得のある人間の犯行という事になります。」
「しかし、騎士ではないだろう。騎士なら長剣が使えるはずだ。」
「そうですね…。ああ、これが所持品です。マントと上着のポケットと、首から下げていたものです。」
 所持品をざっと見回したデイヴィッドに、ワンバーフィールドが言った。
「旅行者にしては少ないですね。第一、日用品がない。やっぱり追いはぎが持っていったのではありませんか?」
「う…ん…。」
 デイヴィッドは生返事をしながら、所持品を手に取った。小さなナイフ,点け木の切れ端…
「もし旅行用の荷物を持っていれば、追いはぎが持っていったか。」
「ええ。ただ、気になるのは金貨なんです。」
ワンダーフィールドが二枚金貨を指し示すと、デイヴィッドは眉を寄せた。
 「こんな大金、どこに持っていたんだ。」
「上着のポケットです。」
「じゃあ、やっぱりおかしい。追いはぎならこれを残していくはずが無い。」
「確かに、変ですね。」
 デイヴィッドは金貨を一つ手にとり、じっと眺めてつぶやいた。
 「それにこの金貨、ただの金貨じゃない。お前、見たことがあるか?」
デイヴィッドから手渡された金貨を、ワンバーフィールドはしげしげと眺めたが、首を振った。
「そもそも、私は金貨なんかとは縁の無い生活ですからね。」
「縁があったって、見たことがないだろうさ。それは、グレンダワーの金貨だ。」
「グレンダワー?あのウェイルズ反乱軍の大将ですか?」
ワンバーフィールドはボサボサの眉を上げて驚いた。
「そうだ。グレンダワーがウェイルズの自治権を主張して発行した貨幣の一つだ。重さからして…かなりの金の含有率だな。ものすごい価値があるはずだ。しかも、イングランドで持っている者なんてそう簡単には居ない。」
デイヴィッドは金貨をテーブルに戻し、考えを確かめるようにつぶやいた。
「身なりは特に良いわけでもないのに、高価なグレンダワー金貨をニ枚も所持しているのは、不自然だ。しかも武器も持っていないということは、騎士や兵士のたぐいでもない。…ワンバーフィールド、あの遺体の手を見たか?」
「ええ…一応見ましたけど…。」
「腐っていても分かるのは、ずいぶんごつい手をしていた事だ。両手にマメもあった。農夫か、職人の類…でもニ枚の金貨。説明がつかない。」
「そうですね。ああ、それからこれが,首から下がっていました。メダルですよ。」
 それは粗末な鎖にぶらさがった、これまた粗末なメダルだった。くすんだ色の金属に、聖人らしき像が彫刻されている。その姿は、ひどく摩滅して判読が非常に難しかった。
 「磔刑図でも、聖母子でもなく…男の聖人だな。立っているだけの。髭がないのか、つぶれてしまったのか…」
「聖セバスティアヌスでは?」
「いや、右手を胸の高さにあげて…」
デイヴィッドはメダルの聖象と同じ格好をして見せた。
「何か、小さな物を持っている。丸いんだか、四角いんだか…やっぱり摩滅して分からないな。」
「もし、あの遺体が何かの職人だとしたら、その守護聖人だと考えられますね。ほら…」
ワンバーフィールドは、肉厚の手を襟の中に入れ、服の中から首にぶらさげていたお守りを引っ張り出した。
「聖ニコラウス。もっぱら子供の守護聖人ですが、馬丁の守護聖人でもあります。」
「守護聖人か…。」
 摩滅した聖人の姿をみつめながら、デイヴィッドの頭にある事が浮かんだ。しかし、「まさか」とそれはすぐに取り消した。ワンバーフィールドが、遺体の所持品の内、最後の一つをデイヴィッドに差し出した。
「デイヴィッド様、あの遺体の身元は、これが決め手になるかも知れませんよ。手紙です。」
 デイヴィッドはメダルをテーブルに置くと、差し出された手紙を手にとった。そこそこの羊皮紙を使っている。小さな紙を折りたたみ、黒っぽい封蝋がしてあるが…
 「開封してある。」
デイヴィッドがワンバーフィールドを見上げると、厩舎長は首を振った。
「私が開けたのではありません。開いていたんです。」
「なるほど。」
 デイヴィッドは手紙を読み始めた。ちょうど朝日も高くなり、字を読むには好都合な明るさになってきた。

「『ベッドフォード司教区 ダンスタブル ガルベリー神父より。 親愛なる師匠にして、セント・ジョージ聖堂司祭ドレール様…(デイヴィッドはここで顎を引いて眉を寄せた)…この書状を所持したる者、ジョン・ダンスタブルは、我が教区ダンスタブル村の出身であります。幼少期より学問に秀で、その才はベッドフォードで知らぬものはございません。修辞学,法学,数学,星占天文学,外国語学,音楽、いずれもわれらが国王陛下の御許にてお役に立つと存じます。
 先般、ご相談しましたとおり、ここにジョン・ダンスタブルの推薦状をしたため、よろしくお世話いただくことをお願い申し上げます。なお、いかなる職務を与えるかは司祭様にご判断を仰ぎたいと存じます。同時にダンスタブルといえども未だ神学については勉強不足の嫌いがあり、この点よろしくご指導いただきますよう、重ねてお願い申し上げます。
 神のご加護のあらんことを。1406年12月23日 』…。」

 デイヴィッド手紙を読み終わると、しばらく考え込んでいた。やがてワンバーフィールドが業を煮やして、口を開いた。
「それだけですか?」
「それだけだ。」
「でも、デイヴィッド様…」
ワンバーフィールドは、深い皺の刻まれた広大な額に手を当てて、当惑気味に言った。
「あの遺体の男が、そのジョン・ダンスタブルなのですか?手紙を読む限りでは、すごい秀才の学者ではありませんか。両手にたこの出来る、農夫や職人にはとても思えませんよ。」
「そうだな…。」
 デイヴィッドはまだ手紙を見つめている。そして背もたれにドスンと背中を預けると、足を伸ばして深呼吸をした。
 「あの遺体は、果たしてこのジョン・ダンスタブルという男なのか、それとも別人なのか。もし別人なら、なぜこの手紙を持っていたのか。そして最後の問題は、どちらにしても同じだ。なぜこの男は胸を一突きに殺されたのか…。」
「デイヴィッド様は、追いはぎ説がお気に召さないのですね。」
ワンバーフィールドは笑い出した。
「まあね。それに、この手紙の当て先…ドレール司祭に心当たりがある。」
「セント・ジョージ聖堂ということは、ウィンザー城の…?」
「そういう事だ。」
 デイヴィッドは手紙を元の形に折りたたむと、懐に入れて立ち上がった。
 「この手紙は俺が預かろう。今からウィンザーに行くんだ。ドレール司祭に直接渡して、事情を聞く。代官がみつかったら、俺が手紙を持っていったことも報告しておいてくれ。」
「分かりました。ところで、デイヴィッド様…」
立ち上がってマントを巻きつけ始めたデイヴィッドに、ワンバーフィールドも立ち上がって尋ねた。
 「セグゼスターからのお手紙には、確か今日は馬を見に来るとありました?」
「ああ、そうだった。」
デイヴィッドは謎の死体のせいで、すっかり当初の目的を忘れていたことに苦笑した。
「トマス様の馬を調達しに来たんだ。」
「トマス王子ですか?それは光栄ですね。」
「乗馬用と、狩猟用兼用で行けると思うのだが、セグゼスターに、おととし生まれた白いのが居ただろう。確か、ティンクの子供だ。性格も大人しかったし、丈夫そうだったから、トマス様に丁度良いと思うんだ。」
「ああ。仰る通り、良く仕上がりましたよ。そろそろご領地に報告して、高い値をつけていただこうと思っていたところです。」
ワンバーフィールドは黒く日焼けした大きな顔に、にんまりと笑顔を浮かべたが、太い両腕を組んで少し声を落とした。
「しかしデイヴィッド様。せっかくトマス王子の馬にと申し出てくださったのはありがたいのですが、ちょっと問題がありまして。ご提供する訳にはいかないのですよ。」
「何だ、もう買い手がついているのか?」
 デイヴィッドが、それなら王室付き厩舎から話させようかと言おうとする前に、ワンバーフィールドがそれを遮った。
「あれは先週、馬泥棒に盗まれてしまいましたので。」



 → 5.ウィンザー城における、逃走劇の始まり
 4.デイヴィッド・ギブスンがエリー厩舎への道で、思わぬ拾い物をする事
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  ダンスタブルの忙しい降誕節
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