ハルとデイヴィッドは、セント・トマス塔の地階まで降りると、中庭に出た。人の気配は、敷地中央のホワイト・タワーの北側にしかなく、この南側は日が暮れるとシンとしずまっていた。二人は南側の塔を見回してテムズ川の船着き場へ降りる出入り口を探した。
 突然、ハルが手元の灯りを吹き消した。デイヴィッドが振り返ると、ハルが塔の東側の回廊から、南塔に向かって近付いてくる人影を指差した。灯りが遠くて暮れなずむ空の僅かな光でしか認識できない。
 二人は素早く建物の壁に背をつけた。人影は二人が居る事には気付かない様子で近付いてくる。その顔は良く見えないが、背が高い事は分かった。
 長身の男は少し辺りを見回すと、南東端に位置するデヴリン塔にある小さな通用口の前に来て、懐から何かを取り出した。微かに、金属音がする。鍵を持っているのだ。男はドアの鍵をあけると、中へ静かに入っていく。ハルとデイヴィッドも、壁を離れてそれに続いた。
 そのドアは、ロンドン塔の南側を取り囲む城壁内の倉庫への通用口だった。上への階段はない。下への狭い階段の向うに、灯りが遠ざかって行く。二人は静かにその後をつけていった。ロンドン塔の南側の城壁を西に向かって進み、恐らくウェル塔,クレイドル塔を過ぎているようだ。途中、随分昔から放置されているような武器庫を通った。恐らく、さっき二人が食事をしたセント・トマス塔の下に当たるのだろう。デイヴィッドは埃を被った弓を拾い上げた。弦が片方にぶら下がっている。ついでに矢も何本か失敬し、背中のベルトに押し込みながら、長身の男の後を追った。
 しばらくして、前を進んでいたハルが足を止めた。階段が降りきった所に外扉がついている。開け放たれたその扉の向うに、わずかにテムズ川の水面が輝いているのが見えた。二人はそっと下まで降りると、ドアの両側に身を隠して、外を窺った。船着場に下りてきたのだ。
 日が沈んだらしく、濃い紫色の空の下、テムズ川の水が鉄のような色でゆらめいている。ロンドン塔の船着き場に接岸した船は、黒い大きな塊となろうとしていた。
 ハルとデイヴィッドが追ってきた長身の男は、丁度灯りを持って船の傍まで進んだ所で、甲板の方へ向かって、灯りを上下させていた。すると、甲板の上で少し影が動き、やがて縄梯子が降りてきた。そして船から二人、人が船着き場に降りてくる。かすかに見える身なりからして、二人とも船員らしい。船員が船着き場に降り立つと、それぞれ長身の男と握手をした。
 長身の男が言った。
「ピット、万事順調だ。塔内にはこの船が接岸している事は知られていない。」
 塔の中から外を窺っていたハルとデイヴィッドは、互いの顔を見合わせた。聞き覚えのある声だ。すると、ピットと呼ばれた船員の男が答えた。
「あんた、こんな所をうろついて大丈夫かい。城内のお偉方に感づかれたら事だ。せっかくの大芝居も台無しになっちまう。」
「分かっている。もう逃亡用の小船が出る頃だ。こっちに向かっている最中だから、もうすこし船の中で待っていてくれ。灯りはつけるなよ。物音も極力立てないでくれ。私はこの塔から小船に合図を送ってくる。小船がついたら、すぐに荷降しをしよう。それまでもうすこし静かに待っていてくれ。大丈夫、万事上手く行くさ。」
「頼むよ、すべてはあんたにかかっているんだ。危なっかしい密輸稼業とは、今日でおさらばできる。王様の弟君からせしめた大金で、優雅な逃避行さ。」
 ピットが嬉しそうにもう一人の船員と顔を見合わせた。すると、長身の男が声を潜めた。
「もう少し辛抱だ。サウスエンドに着くまでは油断するなよ。また、後で来る。」
「よし、じゃぁまた後でな。」
 船員たちはさっきの縄梯子で船に戻っていく。長身の男も踵を返して、船着き場から塔内への扉へと向かってきた。ハルとデイヴィッドは素早く扉から離れると、音を立てない様に階段を駆け上がる。灯りがないので、二人とも壁に手を滑らせながら上っていった。地階付近の、さっきの武器庫に着くと、二人は同時に足を止めた。そして、息を整えながら暗闇の中で待った。
 やがて、下から灯りが揺れながら近付いてきた。足音もする。それはどんどん武器庫に迫ってきた。
 そして、当人が ― 灯りを持った長身の男が武器庫に入ってきた。と、同時に彼はそこに立っているハルとデイヴィッドに気付き、絶句した。長身の男の代わりに、ハルが口を開いた。
 「やぁ、リンドレイ。」

 「皇太子殿下…それにサー・デイヴィッドも。」
 ボーフォート家の家臣リンドレイは驚きつつも、落ち着いた声で二人を見回した。デイヴィッドは傍にあった椅子の埃を払いながら腰掛け、リンドレイに言った。
「こんばんは、リンドレイ。事情を聞かせてもらおう。」
「事情ですか。」
リンドレイは注意深く聞き返した。するとハルも適当な椅子に座り込んで、足を組んだ。
「駄目だよリンドレイ。誤魔化しても無駄だ。俺とデイヴィッドは、いまさっき船着き場でのお前とピットの会話を聞いてきた所だ。」
 リンドレイはもう一度ハルとデイヴィッドの顔を見回した。デイヴィッドはさっきせしめた弓を調べ、片方にぶら下がった弦を張り直している。ハルが眉を上げて促すので、リンドレイは小さく息をつきながら手に持った燭台を傍のテーブルの上に置いた。
「皇太子殿下やサー・デイヴィッドが、偶然船着き場にいらしたとは思えませんね。私をつけていらしたのでしょう?」
 ハルが微笑みながら頷く。デイヴィッドは相変わらず弦の調整をしていた。リンドレイは溜息をついた。
「つまり、お二人とも何かをご存知だと思いますが、私は何から説明したら良いでしょうか。」
「じゃぁ、まず俺達が知っている事をかいつまんで並べよう。」
 ハルが少し身を乗り出して指を折りながら言った。
 「早朝、カプソン兄弟水運のテムズ川輸送船セント・メアリーが、ロンドンの船着き場に接岸した。しかし、接岸直後に陸側から賊が乗り込み、彼女は再びテムズ川へ漕ぎ出し、下流へと姿を消した。湾岸警備が後を追ったが、彼女の姿はなく、行方不明だ。」
 ハルはここまで言うと、デイヴィッドの方をみやった。デイヴィッドは相変わらず弓と弦で格闘している。一体誰が引いたのだと思うほどの強弓だ。ハルはまたリンドレイの方に向き直った。
「しかし、輸送船がテムズ川の真ん中から突如消えるなんて、沈没したか空を飛んだか ― もう一つの選択肢は、『死角に逃げ込む』と言う事だ。つまり、セント・メアリーは船着き場から離れると全速力でこのロンドン塔に向かい、南塔が接している船着き場に接岸したんだ。川霧と川の形から死角になったロンドン塔に隠れ、いまだに彼女は停泊している。
 船主のカプソン兄弟や、荷主たちはまさか賊に乗っ取られた船が、王城に接岸しているとは、思わないだろう。なかなか巧妙にやったもんだ。どうだい?」
 ハルがまたリンドレイに眉を上げてみせると、のっぽの中年男は眉を下げて頷いた。ハルは背中を椅子に戻すと、デイヴィッドに言った。
「続き、頼むよ。チェリーのブーツに気付いたのはデイヴィッドだからな。」
 すると、デイヴィッドは今の弦を諦めて、武器庫の中を適当な弦を捜しに歩き始め、歩きながら言った。
 「ここで疑問なのは、賊に乗っ取られた輸送船がなぜロンドン塔なんて王城に逃げ込めたのかと言う事だ。答えは簡単。ロンドン塔内に仲間が居たんだ。それがリンドレイ、お前と言う訳。仲間と言えば、やたらに多いようだ。まず、港湾警備。小隊長のチェリーは、履きふるしたお仕着せのブーツを履いていたが、あれはボーフォート家の物で、お前が今履いているのと同じだ。」
 デイヴィッドはがらくたが詰まった箱を探る手を止め、リンドレイの方へ振り向いてその足元を指差した。
「チェリーは半年前までサウザンプトンの港湾警備をしていたが、それはボーフォート家の配下としてだ。今の同僚達も然りと言う事は、港湾警備たちにはボーフォート家の息がかかっている。更に、セント・メアリーの船員だ。彼女が半年前に前の船主からカプソン兄弟水運に所属か変った時、船員の半分が入れ替わっている。新規の船員には『サマーセット伯爵の紹介状』がついていたとカプソン達は言っていたが、そのサマーセット伯爵こそ、ジョン・ボーフォート…今ロンドン塔で病気療養中のボーフォート家の当主だ。
 最後に、船が逃げ込んだロンドン塔には、古くからボーフォート家に仕えるリンドレイ、お前がいる。ついさっきも、お前はセント・メアリーのピットという男と話していた。『大丈夫、万事うまく行くさ』…とな。更に、ピットはこうも言った。『危なっかしい密輸稼業とは、今日でおさらばできる。王様の弟君からせしめた大金で、優雅な逃避行さ。』」
 デイヴィッドが説明し終えたと同時に、彼は捜し求めていたような弦を小さな紙袋の中から発見していた。それを持って、元の席に戻る。
「それでお二人の結論は?」
 リンドレイの表情が強張ってきた。ハルが唇の前で手の指を組み合わせて答えた。
「そうだな。一見ウェイルズ戦線への人員と物資補給手配をしているお前が、その立場を利用して悪事を働いているように見えるな。ピットのあの言葉によると、セント・メアリーは密輸を行っていた事になる。カプソン達は知らないだろうな。セント・メアリーは半年前に買い取ったばかりだから。
 前の持ち主が手放した事により、テムズ川輸送になったセント・メアリーの密輸グループは、内陸輸送の危険性を感じ、うまく密輸稼業から抜け出し、更に利益を得る方法を考えた。
 そこでリンドレイ、お前が登場したんだ。お前はボーフォート家の家臣である事を利用し、密輸グループと結託した。セント・メアリーの船員の不足分をお前の息の掛かった人間で補い、更にロンドン港のチェリーをはじめとする港湾警備も、ボーフォート家に仕えていた仲間だ。
 そして今日が計画の決行日となった。やはり仲間である賊を仕立て上げ、予定通り今朝ロンドン港に接岸したセント・メアリー号を乗っ取らせた。そして主尾良くセント・メアリーはこのロンドン塔に隠れた。港湾警備も仲間なのだから、彼らが船は行方不明と報告すれば、誰も彼女がロンドン塔に身を寄せているとは思わないからな。
 そしてさっきの会話だ。もうすぐ『逃亡用の船』が来る事になっている。つまり、お前はセント・メアリーの積み荷を横流しし、利益を得る。船員と実は仲間だった賊はこれまでに密輸で上げた利益と、お前が戦線物資調達用に国費から託された金を山分けし、小船で逃走するんだ。ついでにセント・メアリーを始末すれば、彼女は地上から、テムズ川からも海からも姿を消す ―。そういう手筈だろう?どうだ?」
 リンドレイは、注意深く瞳をハルから、デイヴィッドへとめぐらした。ハルは手を組みあわせたまま黙っている。デイヴィッドも黙って弦を弓に調整していた。やがてそれが終わると、彼は弦をビィーン、と鳴らした。
 その音が合図のように、リンドレイが顔を上げて声を発した。
「お二人にそこまで知られているのでは、致し方がありませんね。」
「そうさ。だから、時間を無駄にするのはここまでだ。さぁ、早く合図を送って来いよ。」
 覚悟を決めていたらしいリンドレイは、ハルの言葉にポカンとして口を開け、目を丸くしてしまった。
「あの、いや、合図って…」
「早くしないと、ピット達に怪しまれるぜ。」
 慌てたリンドレイがデイヴィッドの方を見遣ると、こちらは席を立って、武器庫から登る階段への扉を開いている。
「さあ、早く行けよ。」
もう一度ハルが促すと、
「行け。リンドレイ。」
と、もう一人の声がした。
 下からの階段から入ってきたその声の主は、他でもないハルの叔父トマス・ボーフォートだった。勿論、リンドレイにとっては直接の主人にあたる。
 ハルとデイヴィッドはボーフォートの登場に別段驚く様子もない。ボーフォートはリンドレイに頷いてみせると、リンドレイも今度は躊躇せずにデイヴィッドが開いた扉から階段を駆け上がっていった。その背中に、デイヴィッドが怒鳴った。
「その部屋に、食事をした跡があるだろうけど、それは俺とハルだからな!」
 リンドレイの反応は分からない。

 デイヴィッドが扉を閉めると、ボーフォートも下からの扉を閉めた所だった。
「やぁ、叔父上。」
ハルが立ち上がって言うと、ボーフォートは呆れたように大きな溜息をついた。
「何です、食事の跡って。この上の部屋から、船を見張っていたのですか?」
「まぁね、ついさっきまで。」
「やれやれ。」
 ボーフォートは腕組みをすると、先ほどリンドレイが燭台を置いたテーブルによりかかった。
「『見張り塔からずっと、王子たちが見ていた』…ですか。」
「そんな所だ。『馬上の人が二人やってくる』その後は何だっけ?」
 ハルの質問にボーフォートが黙っているので、デイヴィッドがハルに並んで立ちながら低い声で言った。
「『風がうなり始めた』…」
「はい、良くできました。詩の暗唱はおしまいです!」(*注)
ボーフォートがピシャリと言った。
「何です、二人とも。昨日ウェストミンスターに戻って、今日はウィンザーではなかったのですか?どうしてロンドン塔なんかに居るんです?」
 ボーフォートはいささか立腹しているらしい。ハルが叔父を宥めるように、とぼけた口調で応えた。
「『ロンドン塔なんかに』ってのはご挨拶じゃありませんか。王城なんだから居たって構わないでしょう?」
「構いませんけど、理由があるでしょう。」
「説明すると長くなりまして…」
 更にハルがとぼけようとするので、ボーフォートは凄い勢いで首をデイヴィッドの方に方向転換した。こういう仕種が、兄のウィンチェスター司教に良く似ているなどと思いながら、デイヴィッドが代わりに口を開いた。
「夕べ、リチャード・ウィッティントンの屋敷に宿泊したので、今朝の騒ぎを知ったのですよ。セント・メアリーの荷物の中に、ハンフリー様の大事な物が含まれていましたから、ちょっと首を突っ込んだ訳です。」
「さっき、リンドレイとあのピットとか言う船乗りの話を聞かせてもらった所だから、どうせなら最後まで見物したいのですが、叔父上は構いませんか?」
 ハルがにこにこしながら言うので、ボーフォートは呆れた口調で言うしかない。
「私がどう言おうと、見物するおつもりでしょう?邪魔しないで下さいよ。」
「邪魔なんてそんな。加勢こそすれ、邪魔なんてしないよ。そんなことしたら司教に後で何をされるか…」
「さぁ、もう行きましょう。リンドレイが戻ってきました。」
 ボーフォートの言う通り、リンドレイが凄い勢いで駆け戻ってきた。肩で息をして声も出せない。
「合図は間に合ったか?」
ボーフォートの質問に、リンドレイは行きも絶え絶えになりながら頷いた。
「では、行きましょう。リンドレイ、頼んだぞ。殿下とデイヴィッドは私と一緒に。」
 ボーフォートが指示すると、リンドレイはまたさっきの下り階段を駆け降りていった。


 → 10.ネズミも追い詰められれば猫を噛むという例え話の場面



注釈:ここで暗唱した詩は、ボブ・ディランの「見張り塔からずっと」からの引用。
   Bob Dylan : All Along the Watchtower (Album:John Wesley Harding / 1968)

         All along the watchtower, princes kept the view
         While all the women came and went, barefoot servants, too.
         Outside in the distance a wildcat did growl,
         Two riders were approaching, the wind began to howl.

  ジミ・ヘンドリクスのカバーなどでも有名な名曲。



9.事件の仕掛け人との面会と詩の暗唱
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  戻れば三度市長になれる
「戻れば三度市長になれる」目次へ ハル&デイヴィッド トップへ 掲示板,もしくはメールにて
ご感想などお寄せください。

No reproduction or republication without permission.無許可転載・再利用禁止
Copyright(c)2003-2006 Kei Yamakawa All Rights Reserved.