翌朝、デイヴィッドは早く目が覚めた。客室の窓を開けてみると、少し小雨が降っていた。窓の下で水を汲んでいた屋敷の従僕が、あわててお湯を持っていくと言う。
 「いいよ、水で。悪いね。」
デイヴィッドが言うと、従僕は晴れやかに微笑んだ。
「大丈夫です、たっぷり沸いていますから。」
 なるほど、とデイヴィッドは思った。この屋敷では常時大量に湯を沸かしておくのだろう。ウィッティントンほどの富豪でなければ、中々出来る事ではない。
 デイヴィッドが着替え終えた頃、湯が運ばれてきた。それで身支度を終えると、食堂に向かった。普段はしない事だが、一応となりの寝室を覗くと、例によってハルがぐうぐう寝ていた。しかし良く見ると、上掛けの端から、尻尾が出ている。
(とうとう尻尾が生えたか。)
 デイヴィッドはハルをそのままにして、扉を閉めた。無論、この屋敷の猫がハルの寝床に潜り込んだのだ。

 デイヴィッドが階下に降りてみると、屋敷の従僕や女中達が笑顔で挨拶をし、もう朝食は出来ているので食堂へどうぞと言う。ウィッティントンも間もなく来るだろうという事だった。
 一番乗りか、と思ってデイヴィッドが食堂に入ると、意外にもそこには先客が居た。しかも、見慣れた顔である。
 「やぁ、エリザベス。おはよう。」
 デイヴィッドの顔をみるなり、彼が生れる前に用意されていた名前を口にしたのは、テーブルについて朝食をぱくついている、若い男だった。正確には十六歳である。
「ハンフリー様…」
 そこに居たのは、他でもない国王ヘンリー四世の四男,ハルの末弟ハンフリー王子だった。膝にはこれまた猫が丸くなっている。夕べ到着した客人は、どうやらこの王子だったらしい。
「おはようございます、ハンフリー様。オックスフォードにいらしたのではありませんか?確かクリスマス直前まで帰らないと聞きましたけど。」
デイヴィッドが自分の椅子を引きながら尋ねると、ハンフリーは肩をすくめてみせた。
「そりゃ、居られるのならずっと居たかったけどさ。居られなくなった。」
「また女友達を連れ込んだのですか?」
 デイヴィッドが腰掛けようとして、ニギャーッ、と悲鳴が上がった。やっぱり猫が椅子の上で寝ていたらしい。
 ハンフリーは年齢こそまだ少年の域にあるが、女好きという点においては既に立派な大人であり、兄弟はおろか宮廷においても抜きんでていた。彼の相手となると今の所大抵年上なのだが、その対象は貴族の娘やら、侍女やら、騎士の娘やら、裕福な商人の娘やら、とにかく数が多いらしい。
 デイヴィッドは、同じ兄弟でも随分違うものだと思った。これはやはり健康そのものの兄が三人もおり、王位には遠い王子という気楽な立場が、ハンフリーを女性との楽しみに誘うのだと解釈すべきなのだろうか。
 ハンフリーはこのところずっと、オックスフォード大学に滞在していたのだが、大学側からは女性を連れ込むのは厳禁と言われている。つまり、彼には前科があると言う事だった。
 「違うよ。」
ハンフリーは鼻でも鳴らしそうな表情で言った。
「女の子よりも、もっとまずい人が来たのさ。」
「ああ…」
 デイヴィッドは飲み込み顔で頷いた。ハンフリーの言う「まずい人」と言うのは、国王の義弟で、ハルやハンフリーにとっては叔父にあたるウィンチェスター司教である。司教は、随分昔からオックスフォード大学の総長職にあり、彼が大学に来るのはごく当り前の事だった。しかし、ハンフリーはどうもこの叔父と馬が合わない。甥が叔父を一方的に嫌っているようだが、当然叔父にとっても、決して可愛い甥ではないだろう。
 ハンフリーは本が好きで、立派な図書館のあるオックスフォードにいつまでも居たいのだが、苦手な司教が来たのでは、居心地が悪い。それでオックスフォードを後にしたという事らしい。分かり易いハンフリーの行動に、デイヴィッドは笑いを隠せなかった。
 それにしても、ウィンチェスター司教はここ数日で、ウィンザーからサウザンプトンで一仕事をして、ロンドン塔に兄の病床を見舞い、今度はオックスフォードに向かったという事になる。忙しい男だ。
 「どうせならウィンザーに行かれればよかったのに。陛下も今、ウィンザーにいらっしゃいますよ。」
「知ってるよ。母上やトマスもジョンも一緒だろう?僕が行った所で特に歓迎もされないさ。」
「そんな事…」
「それに、商談がある。」
「市長と知り合いですか?」
デイヴィッドは目の前に出された温かい朝食を食べ始めながら、王子に尋ねた。
「知り合いも何も。取引相手だもの。デイヴィッドや兄上よりだいぶ前から、顔見知りさ。…もういいよ。」
 ハンフリーは自分の食事を平らげると、従僕に食器を下げるように命じた。その様子も慣れたもので、どうもこの屋敷の常連らしい。
「ハンフリー様には、私やハルの知らない友達が多いですね。」
「ジョンみたいに、なにもかも知られているっていう方がおかしいのさ。」
「おっしゃる通り。」
 デイヴィッドはまた含み笑いをして、手を動かした。
 ハンフリーという王子は、女好きで大人びた所がある一方、まだまだ子供っぽい意地が張っている。ハルにしてみれば、ハンフリーのそういう所が末っ子らしい可愛らしさだそうだ。もっとも彼の場合、下に二人の妹が居るので、本当の末っ子ではないのだが…。
 「商談というのは、これさ。見ろよデイヴィッド。」
 ハンフリーは言いながら、足元から大きな本を取り出し、空間の空いた自分の前のテーブルにドンと乗せた。余程立派なカタログ本なのか、かなり重いらしくデイヴィッドの食器がガタガタ言った。
「今度仕入れるのは、待ちに待った最高級品。ええと…これだ。」
 ハンフリーは嬉しそうにページを繰ると、ある場所で手を止めて紙面を指差した。デイヴィッドは腰を浮かせてそのページに見入った。しかし、そこには何も書いていない羊皮紙の紙面があるだけである。デイヴィッドは暫らく黙って考え込んだ。
「…紙を買うのですか?」
「その通り。」
ハンフリーは唇の右端を上げて、ニヤリと笑った。
「フランドルの紙は、手に入る時に買わないとね。」
「フランドル製ですか?」
デイヴィッドが思わず真面目な顔になって、ハンフリーに聞き返した。
「だって、断然品質が良いんだぜ。多少値が張ったって、良い物を買ったほうが良いに決まってる。」
「そりゃ、そうですが…」
 デイヴィッドは見本帳の紙を人差し指と親指ではさみ、すこし擦ってみた。紙としては極めて丈夫そうだが、表面が滑らかで、インクの乗りが良いだろう。
「ハンフリー様の名前で、これだけの高級品を買い付けるのだから、大法官(ウィンチェスター司教)や、財務方に話を通しているのでしょうね。一枚や二枚ではないでしょう?」
「三千枚だよ。」
デイヴィッドは口をつぐんで、ハンフリーの顔に見入った。するとハンフリーは肩をすくめた。
「安心しろよ、デイヴィッド。購入者の名義はリチャード・ウィッティントン。この屋敷の主人さ。」
「なるほど、フランドルに独自の買い付けルートを持っている。」
 夕べ市長が言っていた、「高貴な方の代理」というのは、つまりこのハンフリーの代理と言う事らしい。デイヴィッドは席に戻って、食事を再開しながらまた尋ねた。
「それで、その資金はどこから出るのですか?」
「勿論、僕への給付金さ。」
「ハンフリー様 … たしか先月、甲冑と馬の新調予算が組まれたような気がしますが、まさかそれを…」
「固い事言うなよ、デイヴィッド。甲冑なんて兄上かトマスのお古を貰えば良いんだし、馬もお前が適当に安いのを見繕ってくれるだろう?」
 デイヴィッドは呆れて押し黙ってしまった。このハンフリー王子は、いかにも王子様らしい呑気な気質なのだ。別に金遣いが荒い訳ではないが、「必要経費」という概念がなく、欲しい物を欲しがる。王子にみすぼらしい甲冑や老いぼれの馬をあてがう訳にはいかない、大人の事情に漬け込んだそのやり口は、ある意味いかにもハンフリーらしかった。
 「それにデイヴィッド、資金はそれだけじゃない。オックスフォード大学図書館もかなり出すし、それから、セグゼスター伯爵も援助を…」
 ハンフリーとしてみれば、自分と大学が買うのだと強調したかったらしいが、デイヴィッドが食いついたのは最後の一人だった。
「父が?本当ですか?」
「本当さ。お前の親父さんも、本という最高の文化的財産の意義を分かってきたと見える。」
「デズモンドに唆されたんでしょう。」
 デイヴィッドは無愛想に言って、小麦の粥を飲み込んだ。
 デズモンド・ギブスンは、セグゼスター伯爵の四男で、デイヴィッドにとっては十三歳上の兄である。僧籍に入っている訳ではないが、早くから学問に打ち込み、ずっとオックスフォードに住んでいた。主に古代ギリシャ哲学を研究しており、二言目には「アリストテレス」と言い出す。そして、イングランドの蔵書の貧弱さを嘆き、本の購入と写本製作に金を出すべきだと力説していた。
 恐らくデズモンドは、ハンフリーと意気投合し、フランドルからの紙の購入に一役買う事にしたのだろう。もちろん、父親であるセグゼスター伯爵に資金を出すよう、説得したのだ。
「まったく、甘いのだから…」
 デイヴィッドは食事を咀嚼しながら、小さく呟いた。それを聞いたハンフリーは噴き出した。

 実際、セグゼスター伯爵は有名な頑固親父だが、息子や孫達のお願いというものには滅法弱かった。要するに子煩悩なのである。六人の息子の内五人がすでに三十代だが、その事に変りはなかった。
 ハンフリーにとって可笑しいのは、その父親の事を「甘い」というデイヴィッドである。この六男デイヴィッドこそ、実は父親の溺愛の的だった。上の五人よりもずっと年下なのだから無理もない。伯爵はデイヴィッドの顔を見る度に、「お前はどうして男なのだ」などと無茶な事を言って大喧嘩になるが、その実この「女に産まれてエリザベスになるはずだった」六男を、無類に可愛がっているのだ。伯爵夫人に言わせると、「二言目には『デイヴィッド』と言う」らしい。
 一方デイヴィッドは、あれやこれやとうるさい父親とは言い合いばかりしているので、あまり甘え上手ではないし、時として避けていた。側で見ている人間にしてみると、そういう親子関係は、一方的に「伯爵が可哀相」に見えるらしい。ハルがデイヴィッドにそれを言うと、
「いちいち『どうしてお前は女じゃないんだ』と言われる俺のほうが可哀相だ。」
と、渋い顔をした。
 「やっぱりデイヴィッドは末っ子だな。基本的な親に対する感覚として、愛情に甘えている。当人は全然分かっていないだろうけど。」
と、ハルはハンフリーにいった事がある。それは、ハンフリーにも共通した事だった。

 ハンフリーがそんな事を思いながらにやにやしているうちに、デイヴィッドは朝食を食べ終わった。
「それで、ハンフリー様。」
デイヴィッドは出されたハーブ茶を口に運びながら、王子に尋ねた。
「オックスフォードからロンドンに戻って、市長の屋敷に泊まった以上は、何か商談上の用事があるのですか?」
「うん。先週末、荷物を乗せた船がポーツマスに入ったらしくて。上手くすると、今日にもロンドンに到着しそうだと言うので、早速見に来たんだ。」
 女好きだったり、図書館の蔵書充実に務めようとしたり、年齢の割には大人びたハンフリーも、心待ちにしていた品物の到着には子供のような期待感を隠せないらしい。
 デイヴィッドが少し微笑んだ時、食堂にウィッティントンが入ってきた。
「おはようございます、ハンフリー王子。サー・デイヴィッド。ゆっくりお休みになれましたか?」
従僕が引く椅子に腰掛けながら、ウィッティントンがにこやかに尋ねた。
「おかげ様で。ハンフリー様と、あなたの意外な接点も今、教えてもらいましたよ。」
「それは良かったですね。ああ、サー・デイヴィッド。うちの者が皇太子殿下のお部屋で難儀しているのです。一体、どうしたら皇太子殿下は起きて下さるのですか?」
デイヴィッドは肩をすくめた。
「起きないのが普通ですから、起こさなくて良いですよ。腹が減ったら自分で起きます。」
 ハンフリーはクスクス笑ったが、ウィッティントンはそんなとでも言いたそうな表情になった。その時、ウィッティントンの食事を運ぶ従僕達たちを押しのけて、スプリングが足早に食堂に入って来た。そして王子とデイヴィッドに軽く会釈をすると、腰をかがめてウィッティントンの耳元で何事か囁いた。最初はいつもの穏やかな顔付きで聞いていたウィッティントンだが、最後のほうには引き締まった顔つきになって、一瞬ハンフリーを見遣った。
「ハンフリー王子、サー・デイヴィッド、ちょっと失礼しますよ。」
 ウィッティントンは席を立つと、スプリングを連れて食堂を出て行く。ハンフリーとデイヴィッドは顔を見合わせた。
「何だろう。一瞬、僕の顔を見なかったか?」
「見ましたね。朝食も後回しと言う事は、余程…」
 デイヴィッドが言いかけた時、廊下をドタドタと駆ける音がしたかと思うと、バン!と、扉を跳ね飛ばして、ハルが飛び込んできた。
「テムズ川で、ウィッティントンの船が賊に乗っ取られたって?!」
 ハルの背後では、ウィッティントンとスプリングがあんぐりと口を開けていた。ハルはチュニックの上に上着を引っ掛け、靴を履いていない。そして小脇に、猫を抱えていた。デイヴィッドは黙ってハーブ茶の残りを口に運んだ。ハンフリーは立ち上がると、呆れ顔でハルに言った。
「兄上、市長が泣きそうですよ。」
「困難には、皆で立ち向った方が良いじゃないか。…おはよう、ハンフリー。」
 ハルはさっきまで死体の如く寝ていたのが嘘のように、晴れやかな顔で弟の顔をしばらく見詰めていた。
 「所でお前、どうしてこんな所に居るんだ?」


 → 5.輸送船セント・メアリーの事件と、テムズ河岸の騒動の事
4.朝食の席にて、王子が王子の買い物について解説し、末子に関する事項に思いを馳せる事
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  戻れば三度市長になれる
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