市長に導かれ、ハルとデイヴィッドが彼の屋敷に入ると、そこでも整然と居並んだ召し使い達が、明るい笑顔で迎えた。屋敷の使用人はもちろんだが、ウィッティントンの織物商店で働く人間も多数居るようで、一族郎党うち揃って皇太子を歓迎した。
 ウィッティントンは二人を重厚な玄関からホールを通り、大きく開けた中庭に面したテラスに案内した。そこには外国製と思しき調度品が並び、所々にストーブが置かれている。ハルとデイヴィッドが上座の椅子に腰掛けると、機敏な動きの従僕が手水盥に湯を入れて持ってきた。
 湯が下げられると、そこに背が低く、広々とした額と頑丈そうな顎をした金髪の男が近付いてきて、ハルとデイヴィッドに深々と礼をする。ウィッティントンが立ち上がって言った。
 「ああ、ご紹介いたします。これがスプリング。この屋敷の事を一切取り仕切り、私の商店の番頭も兼ねております。」
「はじめまして、皇太子殿下。サー・デイヴィッド。ようこそいらっしゃいました。スプリングです。今後お見知り置き下さい。」
 スプリングは、いかにも商人らしい早口で言いながら、もう一度頭を下げる。そして背後に居た女達に合図して、客と主人の前にハムとチーズ、高級そうなワインを並べるように指示した。
「それでは、皇太子殿下、サー・デイヴィッド。お目にかかれた事を神に感謝しつつ、杯を上げましょう。」
 晴れやかな声で言ったウィッティントンにつられて、ハルとデイヴィッドも立ちあがり、グラスを上げると、ワインを口へ運んだ。一口飲むなり、ハルとデイヴィッドは顔を見合わせた。ひどく上等な味がしたからだ。この手のワインは、宮廷でもなかなか飲める物ではない。
 シティの豪商というものは、桁違いの財力を持っているものだ ― 二人のそんな感想を察知してか、ウィッティントンは満足そうな笑顔で小さく頷いた。

 三人が改めて腰掛けると、ウィッティントンは中庭の説明を始めた。
「このような様式の庭園は、まだなかなかお目にかかれません。当家では、イタリアはフィレンツェエから庭師と建築士を呼び寄せまして…これがまた中々の苦労なのです。人材や建材は揃っても、肝心の植物が手に入りませんのでね。イタリア人庭師ときたら、温かい国の植物ばかり所望するのですから、それはもう大変です。」
 市長は誇らしげに説明しているが、実の所ハルもデイヴィッドも優雅な庭園にはあまり興味がない。二人とも話を軽く聞き流しながら、ワインを口に運び、ある事に気付き始めた。
猫が多いのだ。
 この豪壮な屋敷には、やたらと猫がうろついている。
 さっき通った玄関やホールでは家人が勢揃いしていて数匹チラリと見えた程度だったが、この中庭に面した回廊には、様々な毛色,様々な大きさ,事によっては外国から来たような見慣れない容貌の猫が何匹もウロウロしては、ハルとデイヴィッドをジロジロ見たり、無視したり、テーブルのハムを狙ったりしているのだ。
 客のために小さなストーブを幾つか並べているので、暖を取るために集まっている猫も居る。そのうち、ニャーだの、ギャーだのと喚きながら、喧嘩をしたり、追いかけまわったり、取っ組み合ったりと、とにかく猫の天国と化してきた。
 ウィッティントンの庭自慢は続いているが、もはやハルもデイヴィッドも猫の大活躍に目を奪われていた。
 そうしている間も、給仕をする女が二人の前に高級なワインを切らさずに差し出してくる。しかも、一緒に出されるハムも、これまた最高級品と思われた。
 人間にとって高級なハムは、即ち猫にとっても然りである。大勢の猫たちのうち、飛び切り体が大きく、目つきの悪い一匹が、客人のテーブルの足元に座って、じっと見上げている。デイヴィッドの心にいやな予感がよぎった時には、その猫は数歩後ずさっている。助走をつけるつもりだ。
 咄嗟に、デイヴィッドはワインのコップと、ハムの皿を取り上げると、椅子から立ちあがった。テーブルに猫が飛び上がったのはほぼ同時だ。デイヴィッドの陰で、大きな猫の企みに気付かなかったハルは、ものの見事にハムの塊を猫にさらわれ、ご丁寧に口に運ぼうとしていたワインを取り落とした。
 「おや、皇太子殿下!」
 ウィッティントンが庭自慢を中断して、ハルをみやると頓狂な声をあげた。
「我が家のいたずら坊主どもに、してやられましたな。油断大敵ですぞ。」
ハルはワインまみれになった服を摘み上げ、ハムを獲得した猫の走り去る方を見つめながら、にこやかにウィッティントンへ尋ねた。
「あの猫は、なんて名前です?」
「あれは、うちの中でも一番のボス猫で、名前はフッカー。それこそ鈎針を使うように、人間の食料を掠め取るのが得意で…」
「フッカーッ!!!」
ウィッティントンの言う事などそっちのけで、ハルは叫ぶなり席を立ち、全速力でボス猫を追いかけ始めた。
「この野郎、ハムかえせ!」
 しかし、相手は猫である。素早くハルの追撃をかわし、身軽に逃げてしまった。イングランドの皇太子とボス猫は、広い中庭を縦横無尽に駆け回り、他の大勢の猫たちも加わって、ニャーニャー、ギャーギャーと、あらぬ騒ぎとなった。
 みっともないから、猫を相手に本気になるなと、デイヴィッドは言いたかったが、面倒なのでやめた。
「皇太子殿下は猫がお好きですなぁ…」
 ウィッティントンは目を細めて、ハルと猫達の乱闘を微笑ましげに眺めている。呆れて何も言わないデイヴィッドに、ウィッティントンがニコニコしながら言った。
「そろそろ、晩餐会の準備が出来た頃です。どうしてこの屋敷にあれほどの猫が溢れているのか、晩餐の席でご説明しましょう。」
「その前に、ハルにまともな服を貸してやって下さい。」
 デイヴィッドが言うまでもなく、屋敷の従僕達が、上等なシャツとチュニックを持って、控えていた。

 ハルと猫たちの乱闘が、どちらの勝利に終わったのかは分からない。ともあれ、ハルは顔や腕に無数の引っ掻き傷を作り、服も猫の毛と泥にまみれてしまった。それでも差し出されたものに着替え、手と顔を洗って、晩餐の席につくと、端然とした皇太子に戻っていた。
 客人はハルとデイヴィッドである上、急な訪問だったせいかシティの名士達は居並ぶ事無く、市長と客だけの晩餐となった。
 相変わらずきびきびと動く従僕や、給仕達が次から次へとご馳走をテーブルに並べ、高級なワインが供される。食器の類も、おそらくフランスからの輸入品と思しきものばかりだった。実の所、王族のクリスマスの正餐でさえ、これほどの物が供されるかどうか、やや不安なものがある。
 これは、ウィッティントンの、そしてシティ自治区の示威行為なのだろう。
 ウィッティントンは、キジの肉を切り分けると、自分の身の上話を始めた。

 「私は、グロースターの地主の家に、三男坊として生れました。地主の家といえば聞こえは良いですがね、まぁ大した財力がある訳でなし、貧乏暮らしです。私は口減らしのために、十二歳の時にロンドンへ奉公に出されました。
 あの頃…まぁ、今でもそうですが、田舎では『ロンドンの都では、道が黄金で舗装されている』などと信じられていました。お二人とも、そんな馬鹿なという御顔をなさいますが、実際そう信じられているのですよ。
 当然、十二歳の私もそう思い込んで、ロンドンに夢を抱いて故郷を後にしました。実際に目にしたロンドンの町は、黄金で舗装されていません。がっかりしましたねぇ。それこそ、だれもが飲み食い、歌い踊り暮らしていると思い込んでいたのですから。すぐにでも王様や王子様とお友達になって、騎士になれたりするに違いないと…。
 ともあれ、夢を見ていても仕方がありません。私は当初の約束通り、ここシティに店を構える、親の知り合いの織物商の家に奉公する事になりました。これが辛いのなんの!毎日朝から晩まで働き詰めに、お給金も無い。故郷で多少身につけた読み書きを伸ばしたいと思っても、勉強する時間なんてありゃしません。
 使用人の食事は粗末だし、なんと言っても辛かったのは、先輩奉公人達の意地悪です。まぁ、どんな所だって新入りは苛められる物かもしれませんがね。
 夢が大きかっただけに、失望も大きかった。結局、私は二,三ヶ月経った所で、勤め先から逃げ出しました。故郷に帰る訳にも行きませんから、とりあえず海でも目指そうかと。夜明け前に店を抜け出し、日の出頃に、ロンドンの町を見下ろす丘にたどりつきました。
 私は一度足を止め、辛い思い出しか無いロンドンの町を見下ろしました。その時です。夜明けを告げる教会の鐘の音が、私の耳に届いたのです。その鐘の音は、私に語り掛けていたのです。

 戻れ、戻れ、ディック・ウィッティントン
 戻れば 三度 市長になれる…」

 「語り掛けていた?」
ハルが、手を止めてウィッティントンに聞き返した。
「そうなのです。」
彼は力強く頷いた。
「確かに、あの鐘の音は私にはっきりと歌い、呼びかけていたのです。そこで私は、ロンドンに戻る決心をしました。」
 ハルとデイヴィッドは顔を見合わせたが、ウィッティントンは構わずに身の上話を続けた。

 「鐘の音に促されてシティに戻った私ですが、状況はさほど変りません。相変わらず働き詰めに、辛い毎日でした。数少ない心の安らぎといえば、優しく声を掛けて下さる、大旦那の娘アリスお嬢様と、台所に出入りする仲良くなった猫たちくらいのものです。
 そんなある日、店の大旦那が、船を使って外国と大きな取り引きをする事になりました。大旦那は、奉公人達の商才を見極めようと、それぞれに何か取引きする商品を、船に託してみろと命じたのです。
 いくらかの貯えがある者や、実家からの援助のある奉公人は、それぞれに思い思いの商品を揃えて、商船に託しましたが、私にそんな事が出来るはずもありません。ところが、意地悪な先輩たちは、私にも何か出せ、出せと言って責め立てるのです。仕方なく、私は仲の良かった猫を一匹、船に乗せてもらう事にしました。
 さて、沢山の商品と私の猫を乗せた船は、テムズ川を経由して、外洋へ乗り出していきました。所が、大洋に出た所で、船は大嵐に遭ってしまったのです。操舵不能に陥った船は、風に流され、遠い、見知らぬ島国に漂着しました。
 その島国は、とても豊かな国でした。住人達はすぐに難破した船と乗組員を助けて、手厚くもてなしてくれたのです。遠くイングランドから来たと言う事で、船員達はこの国の国王の食卓に招待されました。
 国王の食卓は、それはそれは贅沢な物だったそうです。その光景に目をみはった船員たちは、この国こそ貿易相手としては打ってつけだと思い、早速国王に商談をもちかけました。
 しかし、そもそも豊かなこの国では、船に積まれていたどの商品も不要だというのです。これでは商談にはならないなと船員たちも諦めて、国王の食卓を楽しむ事にしました。
 その時、船員たちはある事に気付きました。ネズミです。国王の豪華な食卓だというのに、そこいらじゅうにネズミが駆け回り、我が物顔で食べ物を食い荒らしているのです。さすがに船員たちは驚き、これはどうした事かと、国王に尋ねました。
 すると、国王は困り顔で応えました。この国は裕福で、国民はみな幸せだが、困った事はただ一つ、このネズミだというのです。どんなに罠を仕掛けても、増えるネズミを食い止める事が出来ず、食料を食い荒らす、建物を齧る、しまいには病気を蔓延させるで、このネズミには長年苦しめられ続けているのだと。
 船員達が驚いて、猫は居ないのかと尋ねると、国王は猫とは何だと言うのです。その国は、猫がいなかったのです。そこで、船員は船に取って返すと、船内唯一の猫 ― そう、私の猫をつれて、国王の食卓にもどりました。すると、猫は目を輝かせて、瞬く間にネズミを捕らえました。
 これを見た国王は大層喜び、猫を買い取りたいと言うのです。しかも、とんでもない高額で!
 かくして、船は国王からの私への猫の代金として金銀財宝を持ち帰り、結局もっとも有益な交易を成立させたのは、私という事になったのです。
 以降、大旦那様は私に目を掛けて下さるようになりました。勉強も積極的にさせてくれましたし、出世も順調に。そして私は大旦那様の一人娘アリス嬢と結婚し、織物商の店を継ぐ事になりました。…ああ、丁度参りましたぞ。」

 ウィッティントンが語り終えると同時に、スプリングが大食堂の入り口にやってきて、
「奥様が皇太子殿下とサー・デイヴィッドへのご挨拶に参りました。」
と、告げた。ウィッティントンに続いてハルとデイヴィッドも立ち上がると、美しい衣裳で身を飾った中年の小柄な女性が、数人の侍女達を引き連れて入ってきた。
「皇太子殿下、サー・デイヴィッド。ご紹介いたします。私の妻、アリス・ウィッティントンです。」
そういってウィッティントンはアリス夫人の手を取り、ハルの前に導く。夫人が深々と腰を落とすので、ハルが手を差し出すと、彼女は厳かにその手にキスをした。
(まるで、公爵夫人だな。)
 デイヴィッドがそんな事を思っている間に、夫人は淑やかな声でハルに歓迎の挨拶をする。ハルは宮廷でいつもするような、型通りながらも優雅な言葉を返した。夫人は続いてデイヴィッドに向かって、騎士に対するに相応しい振る舞いで挨拶をする。やはりデイヴィッドもここはウェストミンスター宮殿の謁見の間かという様子で、挨拶を返した。
 「これが、先ほどお話しました、かつてのアリスお嬢様で、今や私の妻。私の幸運の女神にして、天使です…」
 ウィッティントンは誇らしげに、宝石で飾られた夫人の手を取る。衣裳も、宝飾品も、商家の奥方というよりは、まさに貴族の夫人といった風情だ。いや、下手な貴族よりもよほど贅沢な成りをしている。
「まぁ、おやめください旦那様。皇太子殿下の前で、恥ずかしゅうございます。」
 美しい声で優しく抗議する夫人は、成金女という雰囲気は微塵もない。元々大きな商家の娘だからだろう。
 ハルが一通り夫人の美しさと、聡明な物言いを褒め称えると、夫人は恐縮しきり、また深々と礼をして、大食堂から退室した。夫人と侍女たちが去ると、突然押し寄せた熱風が瞬く間に引いていったような空気が漂い、図らずもハルとデイヴィッドは同時に大きな溜息をついた。
「失礼しました。さぁ、お二人ともどうぞ席にお戻り下さい。」
 ウィッティントンは満足げに微笑みながら、二人に椅子を勧めた。

  晩餐は終りに近づき、色とりどりのフルーツが出された。しかし、また食後のワインが出され、ついでに例のハムとこれまた輸入品と思しきチーズで、皇太子と騎士,市長の会食は続いた。
「猫が私に幸運をもたらしてくれたのですから、私が猫を可愛がるのは当然です。」
 ウィッティントンはワインを口に運びながらも、またうろつき始めた猫たちにハムをやったり、喉を撫でたりしながら、続けた。
 ウィッティントンの立身出世物語は、その後順調に進んだ。婿になった織物商の主人として、その商才を遺憾無く発揮した彼は、すぐさまシティ一,イングランド一の織物商となった。財力もさる事ながら、生来の人当たりの良さから、ギルドの代表にも推され、シティの名士として名をはせる事になったのだ。

 「逃げ出したあなたをロンドンに引き戻したその鐘の音は、『三度市長になれる』と歌っていたのですよね?」
デイヴィッドが足元を気にしながら尋ねた。側に、また例のフッカーがうろつき始めている。
「今の市長就任は、何回目です?」
「二回目です。」
ウィッティントンは答えた。
「1397年に、当時の市長が病気で亡くなり、私が臨時に市長職に就いたのが最初ですが、正式な選挙で任命されたのが、1399年。これが一回目です。」
「1399年…」
 ハルが呟くように言って、ウィッティントンを見遣った。


 → 3.七年前のシティの対応と皇太子対 猫 第二回戦 そして宿命に関するデイヴィッド・ギブスンの考察


章注:この章に登場したウィッティントンの立身出世物語は、イギリスの子供なら誰でも知っている昔話です。細部については諸説あり、多くの児童書や絵本になっています。鐘の音が歌っていた「ディック」という名前は、リチャードの愛称です。

2.皇太子 対 猫 第一回戦と、ロンドン市長リチャード・ウィッティントンが身の上話をすること
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  戻れば三度市長になれる
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