イングランドのプランタジニット王家は、他国の王家もそうであるように、幾つかの城や宮殿を持っていた。主たる王宮は当然、ロンドン,ウェストミンスター大聖堂に隣接したウェストミンスター宮殿で、議会もここで開かれた。しかし、この宮殿は必ずしも快適とは言いかねた。どちらかと言うと、居住性についてはロンドンの西方に位置するウィンザー城の方が優れており、かねてから持病のある国王ヘンリー四世はしばしばこのウィンザー城に長期滞在した。
 1406年の冬の始まりも、国王はウィンザーにあり、体調も良く大抵の執務は問題なく行っていた。王妃や多くの側近なども同じくウィンザーに滞在し、クリスマスまではロンドンへ戻らない情勢だ。
 皇太子ハルもしばらくはウィンザーに滞在したが、十二月の頭に叔父のサー・トマス・ボーフォートと共にロンドンに戻った。ウェイルズ方面への前線派兵の引継ぎを、サマーセット伯爵との間で行うためである。
 秋のモンマス視察後、サマーセット伯爵はしばらくウェイルズ方面の戦線にとどまったが、寒さが増すにつれて体調を崩したため、ハルがロンドンに呼び戻したのだ。伯爵は師団の殆どを現地に残し、僅かな随身と共にロンドン塔に入った。ロンドン塔もまた、王家の城の一つである。
 ハルは、トマス・ボーフォートとその従者達、そして勿論、デイヴィッド・ギブスンと共にウィンザーを立ち、ロンドンに入った。ウェストミンスターには寄らず、ロンドンの北をぐるりと回って、ロンドン塔に入城した。

 もう日が暮れようとしており、石造りのロンドン塔は冷え冷えとしていた。しかし広大な敷地の中央に建つ巨大なホワイト・タワーの居室には、それぞれ火が焚かれた。サマーセット伯爵がハルらを迎えた部屋にも、赤々と暖炉の火が燃え、暖かかくなっていた。
 「叔父上、お休みになって下さって良かったのに。」
ハルは面会の間に入ると、挨拶をするサマーセット伯爵を椅子に座らせた。
「家人が言い騒ぐほど、悪くはないのですよ。」
サマーセット伯爵は穏やかに笑いながら言った。
(でも、痩せたな。)
 デイヴィッドは面会の間に最後に入ると、サマーセット伯爵の様子を見て思った。ハルもそれに気付いているのか、黙ってデイヴィッドと視線を合わせる。ボーフォートは手短かに伯爵から大まかな現場の様子を伯爵から説明された。このサマーセット伯爵と、トマス・ボーフォートは実の兄弟である。
 ハルの祖父,先代ランカスター公爵ジョン・オブ・ゴーントは三回結婚し、最初の結婚で設けた男子が現在の国王ヘンリー四世,ハルの父親である。ジョン・オブ・ゴーントは三回目の結婚で三人の男子を設け、これがいわゆる「ボーフォート三兄弟」と言われている。
長男ジョン・ボーフォートがサマーセット伯爵であり、次男ヘンリーはウィンチェスター司教,そして三男がこのトマスという訳である。
 従兄のリチャード二世を退位させて即位したヘンリー四世にとって、この異母兄弟たちは大事な身内だった。即位の経緯のせいで不安に晒されるその地位を確かな物にするために、ボーフォート三兄弟は何かと重用された。好都合な事に、この三兄弟はそれに応えるだけの能力の持ち主が揃っていた。
 そんな訳で、ハルや彼と行動を共にするデイヴィッドにとって、ボーフォート三兄弟は非常に身近な存在だった。特に身近なのは、十歳から彼らの教育を担当した大法官にしてウィンチェスター司教の次男ヘンリーである事は、言うまでもない。
 大法官のウィンチェスター司教は十二月のはじめにはウィンザーに居たが、六日ほど前にサウザンプトンへ赴いた。しかしサマーセット伯爵が言うには一昨日、司教はロンドン塔に現れて兄の病床を見舞ったらしい。
 「司教は最近、密輸の摘発に躍起になっているとかで、それでサウザンプトンに行ったはずですが…。何でも、船が乗組員ごと密輸を行っているとか言う、大掛かりな密輸だそうです。」
ハルがサマーセット伯爵に言うと、伯爵は穏やかに微笑んだ。
「弟は仕事の虫でして。殿下には色々勝手を申して、ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。」
「まぁ、振り回されてはいますが、色々助かっていますよ。なぁ。」
 ハルが笑いながらトマス・ボーフォートとデイヴィッドに振り返った。ボーフォートはクスクス笑ったが、デイヴィッドが皮肉っぽく付け加えた。
 「ウィンザーからサウザンプトンへ、一昨日はロンドン塔、今日は何処へいらしたやら。ハルの脱走癖は司教譲りですね。」
 サマーセット伯爵も笑い出した。同感らしい。トマス・ボーフォートは、従者に命じて伯爵を休ませるように指示した。

 「伯爵は、しばらくここで静養すれば、良くなるでしょう。」
 トマス・ボーフォートは兄が部屋から退くと、大きなテーブルに地図を広げながら言った。ボーフォートは二十九歳。ハルにとっては叔父というより、兄に近かった。デイヴィッドはセグゼスター伯爵の六男だが、五男のハロルドの方がボーフォートより一つ年上だ。
「クリスマスだというのに、出陣をお願いして申しわけありません、叔父上。」
ハルも地図を覗き込みながら言った。すると、ボーフォートは何でもなさそうな顔で、
「とんでもない。大事な仕事ですよ、殿下。」
と、笑ってみせた。
 三兄弟の長男サマーセット伯爵は、穏やかで柔らかい人物だが、次男のウィンチェスター司教は怜悧で、野心家っぽく、油断のならないタイプの人間だった。一方、この三男は兄二人の特徴を程よく兼ね備え、しかも気さくさがある。宮廷を取り巻く貴族達の中には、ボーフォート一族の台頭を快く思わない者も居るが、この三男に関しては「悪い男ではない」というのがもっぱらの評判だった。
 「父上は、前線の後退を検討しろとおっしゃったが、どう思う?」
ハルがデイヴィッドの方を見遣って尋ねるので、デイヴィッドも地図を覗き込んで、少し考えた。
「そう…だな。下げても構わないだろう。クリスマスだし、天候も良くないから春まではあまり派手な戦闘も起きないだろう。人員はどうします?」
デイヴィッドがボーフォートに尋ねると、彼は手元の覚え書きに目を落とした。
「特には変更なし。後退した上に、手薄になったのでは、まずいからな。…リンドレイ!」
ボーフォートは、面会の間に入ってきたボーフォート家の家人を呼んだ。
「やっぱり、少し防衛線を後退させる事にした。欠員の補充だけは、手配してくれ。」
ずいぶん昔からボーフォート家に仕えているリンドレイは、のっぽの中年男だ。彼は、ハルとデイヴィッドに向かって礼をしながら、ボーフォートに尋ねた。
「分かりました。物資はどうします?」
「そうだな、一応補給分と…出来れば余計に輸送したいが…」
「クリスマスだ。前線の兵士達には苦労をかけるから、思い切って大盤振る舞いしてくれ。」
ハルが笑いながら言った。
「食料もそうだが、ワイン、エール…果物の糖蜜漬けが手に入ると良いな。それから、衣服も。リンドレイ、お前のブーツも大分くたびれているな。そろそろ新調したらどうだ?」
 ハルの指摘に、リンドレイは自分の足元に視線を落としてから笑った。
 「ああ、たしかに古くなりましたね。でもこれは若い時分に、ボーフォート家からいただいたお仕着せでして。中々良い品なのですよ。それに新しいブーツというのは、慣れるまで時間がかかっていけません。ところで、香辛料や酒などは手配しても構いませんでしょうか。」
リンドレイが尋ねると、ハルは笑って頷いた。
「もちろん。その辺りの選択は、お前に任せるよ。」
「分かりました。他には…何か手配しますか?」
リンドレイはドアを開けながら主人を見遣った。
「いや、細かい事は後で打ち合わせよう。まず、人員から確保してくれ。」
「分かりました。」
リンドレイはまた一礼して、出ていった。
 「大丈夫ですか?殿下。」
ボーフォートがハルに含み笑いをしながら尋ねた。
「なにがです?」
「予算ですよ。クリスマスだからってあまり使うと、兄がうるさいですよ。もちろん、司教ですが。二言目には『大法官の身にもなってみろ』と言います。」
 ハルは笑いながらデイヴィッドと顔を見合わせる。
「しょうがないよ。せっかくのクリスマスを、ウェイルズで過ごさせるんだ。少しは報いてやらないと、士気に関わる。司教には、適当に怒られておきますよ。」
それはそれはと言いながら、ボーフォートは地図をまるめ、デイヴィッドに言った。
「デイヴィッドはこのクリスマス、どうするんだ?去年はセグゼスターに帰ったんだろう?」
「今年はどうしようか、考えている所です。ロンドンにとどまっても構わないかなと…」
「ウィンザーで聞いたのだが、今年はセグゼスター伯爵も夫婦揃ってロンドンで過ごすらしいぞ。領地の方は、お前の兄さんに任せて。」
「本当ですか?セグゼスターに戻ろうかな…。」
 ボーフォートが声を上げて笑い出すと、ロンドン塔の従僕が扉から顔を出し、夕食の準備が出来たと告げた。そこで、三人は連れ立って食堂へ向かった。
 その道すがら、ハルが叔父に言った。
「叔父上こそ、クリスマスはどうするおつもりだったのです?」
「特に決めていませんでしたよ、殿下。しかしクリスマスよりも、惜しい約束がありましてね。」
「何です?」
「明日ロンドン市長に招待されていたんです。」
「ロンドン市長?」
ハルが聞き返しながらデイヴィッドの顔を見た。
「今、誰だっけ?」
「確か…ウィッティントンだろう。」
デイヴィッドの返答に、ボーフォートが頷いた。
「そう。リチャード・ウィッティントン。シティでも中々の名士ですよ。つながりを作っておいた方が良いかと思ったのですが。まぁ、次の機会にでも。」
「なるほど。」
 ハルとデイヴィッドが同時に呟いた。豪商が居並ぶシティの名士とのつながりを作っておこうというのは、恐らくウィンチェスター司教辺りの考えだろう。
「デイヴィッド、明日ウェストミンスターに戻らないか?シティを通って。」
 ハルがそう提案すると、デイヴィッドは黙って頷いた。

 翌日は、ロンドンに残っていた貴族達,行政官,もしくは議員たちが、ロンドン塔に皇太子が居る事をかぎつけ、それっとばかりに駆けつけてきた。ハルは一応執務にはついたが、多くの場合ウィンザー行きを指示した。
 一方、デイヴィッドはロンドン塔内の厩舎と、武器庫方から呼び出され、その上ボーフォートの出発準備にも立ち会ったため、午後までは忙しく過ごしていた。
 二人ともやっと体が空くと、ロンドン塔を立った。立つ前に病床のサマーセット伯爵を見舞い、そして自分達がシティを通る旨を知らせるべく、使者を送った。
 シティは、ハルが勝手に立ち入れない場所なのだ。

 ロンドンでシティと言えば、ザ・シティの事で、テムズ川の北岸半マイル,ロンドン塔から,セント・ポール大聖堂の辺りまでぐるりと古い城壁が囲んでいる地域を指す。昔、ローマ帝国軍がブリテン島にやってきた頃から、ロンドンには既に人が集まっており、最初に町として成立したのが、シティの辺りと言われている。シティを囲む城壁はその頃から建設され、未だに残っているという訳だ。
 シティは古くから商人達の溜まり場だった。そもそも、ロンドンは王都としてより先に、商業の町として栄えた所だった。イングランドの王家がその主たる王宮をロンドンに定めてからも、シティは自治権を与えられ、独自の議会を持った。ロンドン市長といわれるのは、このシティの市長の事で、正しくはロード・メイヤー・オブ・ロンドン。シティに拠点を持つギルド(同業者協会)の有力者の間から、選出されるのが常だった。任期は一年だが、例外もある。
 シティが自治権を持っている以上、王権もおいそれとはシティに干渉する事は出来ない。そしてイングランドの国王と言えども、通達とロンドン市長の許可無しにシティに立ち入る事は許されなかった。
 ハルは王子であって、国王ではない。厳密には前もって知らせなくてもシティには入れるのだが、一応シティの尊厳に対して敬意を払い、使者を立てるのが慣例だった。
 ただし、この不良王子の場合、レッド・ホロウで遊んだついでにシティ内のチープサイド界隈を、のさのさしている事などしょっちゅうなのだが。

 ハルとデイヴィッドはロンドン塔を立つ前にトマス・ボーフォートに一声挨拶していこうと思ったが、ウェイルズ出陣の準備に忙しいらしく、つかまえられなかった。
 いつもの習慣どおり、二人は従者も連れずに出発した。それぞれ厩から馬を引き出してもらい、ロンドン塔の南西端の城門を出た。今日もひどく冷えている。低い雲がたれこめ、今にも雪がちらつきそうだ。
 二人が城門を出て行く代わりに、荷馬車を引いた商人たちが塔内へ入っていった。中庭で軍勢の輸送する物資や兵士の装備品を売り込むのだろう。その姿を、デイヴィッドが馬上から振り返って見つめた。
 「クリスマス前の特需だな。」
 そう呟くデイヴィッドの方に、ハルも振り返った。クリスマスが近い上に軍需とあれば、商人たちの表情も明るい。
 馬上の二人からは巨大な四角の城壁を成すロンドン塔の、南辺が見渡せた。複数の塔で構成される南壁は、テムズ川に面している。最近はこちら側の手入れが行き届いていないのか、狭い濠とテムズ川の間の船着場は閑散としていた。
 「行こう、デイヴィッド。こんな所に突っ立っていると凍え死ぬか、連中に売り飛ばされるかどちらかだ。」
 ハルの声に促され、デイヴィッドも拍車を馬の腹に当ててシティに向かって出発した。

 ハルとデイヴィッドはまずロンドン塔から少し北へ進み、オールド・ゲイトからシティへ入ろうとした。驚いたとこに、オールド・ゲイトには迎えが出ていた。一応使者を送ってはあったのだが、まさか迎えが来ているとは思わなかったのである。
 徒歩で二人に近づいてきたのは、商店の丁稚と思しき少年だった。中々良い身なりで、洒落た上着を着ている。彼はハルとデイヴィッドがゲイトに来たところで二人の馬の前に立ち、まず深々と礼をし、よく通る声で愛想良く言った。
 「ようこそ、シティにいらして下さいまいた。皇太子殿下と、サー・デイヴィッドをお迎えに上がりました。ロンドン市長リチャード・ウィッティントンがお二人をおもてなししたいと申しております。」
 ハルとデイヴィッドは顔を見合わせた。少年はもう一人居て、それぞれ馬の轡を取ると静かに二人をリーデン・ホール・ストリートに導いた。シティの住民たち ―主に商人や行商人相手の宿屋、運送業者や金貸し、様々な小売業者たちが、通りをしずしずと進む皇太子とその親友に向かって愛想良く微笑み、手を振ったりする。
 「仰々しく迎えてくれるなら、従者の一人や二人、連れて来ればよかったなぁ…」
 ハルが珍しく気恥ずかしそうに呟くと、ギルドホールが見えてきた。古いギルドホールの前に、人だかりが出来ている。ギルドホールに集う、豪商たちの姿も見える。彼らはハルとデイヴィッドが姿を見せると、一斉に帽子を取り、丁寧に礼をした。
 広場の中央で少年たちが足を止める。ハルとデイヴィッドが馬から下りると、豪商たちの列の真ん中からひと際美しいローブを纏い、立派な頸章を首から掛けた中年の男が進み出て来た。顔つきは元来威厳に満ちた容貌のようだが、瞳と口元に笑みを浮かべた、中肉中背の男だ。
 「皇太子殿下、サー・デイヴィッド。ようこそいらしてくださいました。ロンドン市長のリチャード・ウィッティントンです。シティを代表して歓迎いたします。」
 そう言って、彼は腰を落として礼をする。背後にデイヴィッドを従えたハルは、それに答えた。
 「ありがとう、市長。今日は急に来訪の意向を告げたばかりなのですが、このような歓迎をいただき、嬉しい限りです。」
 するとロンドン市長ウィッティントンはにっこりと微笑んだ。屈託がないようで、少し油断のならない感じもする。
 「いかがでしょうか、皇太子殿下。もしご都合さえ良ければ、私の館にてささやかながらおもてなしの席を設けたいと思うのですが。」
 ハルとデイヴィッドは顔を見合わせた。そもそもボーフォートがウィッティントンと約束があったのだ。それを聞いて何気なくシティに行く気になった二人には、特に急ぎの用もなかった。デイヴィッドも黙って頷くので、ハルはウィッティントンに向き直った。
 「ありがとう、市長。それでは、ご好意に甘えることにしましょう。確か、さっき私の使者がこちらに来たと思いますが、彼をウェストミンスター宮殿への使者として走らせましょう。なに、私とデイヴィッドが脱走するのはいつものことですからね。」
 するとウィッティントンはまた微笑み、
「それではどうぞ、こちらです。」
と言いながら自らハルとデイヴィッドを屋敷に案内した。
ギルドホールに近いウィッティントンの屋敷は、彼の稼業である織物商の豪壮な店構えの隣だった。家人や商店の使用人たちがずらりと表にならび、皇太子と騎士の到着を迎える。屋敷のホールに入る前に、ハルとデイヴィッドはいったん足を止めて建物を見上げた。新しい石造りの立派な屋敷だ。ちょっとした宮殿よりも上等に見える。もちろん、二人ともそんなことは声には出さなかった。
 屋内に入る時、扉の両側に猫がニ,三匹うろついているのが見えた。


 → 2.皇太子 対 猫 第一回戦と、ロンドン市長リチャード・ウィッティントンが身の上話をすること
1.ロンドン塔におけるウェイルズ戦線に関する打ち合わせと、ニ騎士がシティで歓迎を受ける事
Origina Novel   Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


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