ホワイト・ウィージルには「王の間」と呼ばれる部屋がある。その名とは対照的に、小さく粗末な部屋で、二段ベッド一つだけでいっぱいになっていた。皇太子ハルがホワイト・ウィージルに泊まる時は必ずこの部屋で眠るので、将来の国王の部屋という意味でこの名がある。この部屋に泊まるのは決まっているが、ハルとデイヴィッドが二段ベッドの上下どちらに眠るのかは、特に決まっていない。皇太子の暗殺を企てる人間は、目指す部屋を迷うことこそないが、どちらのベッドに剣を突き立てるべきかは、五分の賭けである。
 この賭けにいつも負ける人物がいる。もっとも、それは暗殺者などと言うけしからぬ人間どころか、皇太子のためなら死んでも良いと思っている男だ。国王ヘンリー四世の三男、ジョンである。四人兄弟のなかで一番背が低い事を気に病み、一方で顔立ちがもっとも長兄に似ていることを誇りにしているこの王子は、宮殿を抜け出す皇太子を連れ戻す役割を、嬉々として果たすのが常であった。どういう訳か、ジョン王子は必ずデイヴィッドの寝ているベッドから先に起こしてしまう。この日の朝もそうだった。
 「兄上、起きてください!叔父上がお呼びです。」
デイヴィッドはむっくり起きるとまず、
「はずれ。」
と言って、ベッドを降りた。この男は本当に今まで寝ていたのかどうか心配になるほど、寝起きが良い。
「おはようございます、ジョン様。」
王子に言いながらデイヴィッドは服を着始めた。
「おはよう、デイヴィッド。兄上!兄上、起きてください!」
ジョンは上のベッドの兄を怒鳴りつけ、揺すり、殴ったり、引っ張ったり、ひっくり返したりして起こそうとするが、こちらはやや寝起きが悪い。戦や緊急事態となるとデイヴィッドを同じくらい寝起きの良い男だが、普段はそうではなく、要するに寝起きを使い分けている。ハルにとってジョンの言う「誰々がお呼びです」は緊急事態にあてはまらず、従って睡眠を延長するほうに傾いた。
 ジョンが悪戦苦闘する間に、デイヴィッドはすっかり身支度を終えて外に出た。そろそろ空が白んできそうな時刻だが、どんよりと曇っている。ジョンに「叔父」と呼ばれる人物は三人いるが、こんな朝まだきに皇太子を呼び出すのは大体一人に決まっている。ジョンに従って来たらしい男が、出てきたデイヴィッドを見て挨拶をすると、その「叔父」の従者であることが分かった。すなわち呼び出しの主は、国王ヘンリー四世の異母弟・ウィンチェスター司教にして、大法官のヘンリー・ボーフォートである。

 ウェストミンスター宮殿の部屋で待っていたウィンチェスター司教は、泥で靴を汚していた。まさか夜通しで馬に乗ってきたのかと言うとそうはなく、ロンドンには昨夜到着し、ロンドン塔に宿泊したらしい。31歳という若さにもかかわらず、この高位の聖職者はその地位にふさわしい威厳と品格とを備え、同時に奸智に長け、油断のならない人物であることがその容貌に表れていた。
 ジョンは律儀に部屋から出て行き、ハルは椅子に座り込んで大あくびをかくので、ウィンチェスター司教の前に立ったのはデイヴィッドだけだった。
「話というのは他でもない。ナヴァールの件だ。」
挨拶もそこそこに司教がそう言うと、ハルはずるずると椅子から崩れ落ち、床に突っ伏しながら呻いた。
「ナヴァールはもう沢山だ…」
「何だ、知っているのか。」
司教は少し顔をしかめてデイヴィッドに確かめる。デイヴィッドはいささか呆れて答えた。
「知っているも何も。宮廷じゅうで知らない者はありませんよ。」
「そんなはずはない。誰が言っているのだ?」
「さあ。宮内長官秘書のテラーズとかでしょうね。」
「宮内省は知らないはずだ。」
「ナヴァールの件は、彼らが率先して進めているのでしょう?」
「失踪の事まで知っているはずがない。」
するとハルが相変わらず突っ伏したまま、再度うめき声を上げた。
「失踪も、もう沢山だ…」
「やっぱり知っているのか、デイヴィッド。それともこれは寝言か?」
「どうやら、話が全くかみ合っていないようです。」
デイヴィッドが肩をすくめて見せた。

 ナヴァール王国は、フランス・ガスコーニュ地方の南、つまりピレネー山脈付近にある小さな王国である。現国王カルロス三世には7歳下の妹ジョアンがおり、彼女は18歳の時フランスのブルターニュ公爵と結婚した(公爵にとっては三回目の結婚であった)。ジョアンは公爵との間に男子を一人もうけたが、結婚から11年目に公爵が病死して未亡人になった。丁度その頃、ブルターニュ公の宮廷にはイングランドからの亡命貴族が滞在していた。正確には追放されていたその貴族こそ、当時のダービー伯爵ヘンリー・オブ・ボリンブルクである。ダービー伯爵はブルターニュに来る数年前に夫人を亡くしており、この独身貴族と未亡人の間に何らかの感情が存在したらしい。ところが、ダービー伯爵はブルターニュに長居はしなかった。あっという間にイングランドに帰国したかと思うと、未亡人ジョアンへ次にもたらされた知らせは、彼がイングランド国王ヘンリー四世として即位したという、やや突飛なものだった。
 ヘンリー四世の即位後は国内の混乱が続き、ジョアンを妻として迎えるのは約3年後の1403年であった。イングランドへ嫁ぐに際して、ジョアンはブルターニュ公爵との息子をフランスへ残してきた。息子はブルターニュ公領を相続する権利を有していたし、再婚相手であるヘンリーには既に前妻との間に四男二女があったのだから、妥当な措置であろう。このハルを筆頭とする四男二女は王妃となったジョアンを「母上」と呼んでいるが、もちろん血のつながりはない。ともあれこういった経緯で、ナヴァール国王カルロスと、イングランド国王ヘンリーは義理の兄弟ということになった。
 政略的な必然ではなく、感情的な偶然でナヴァールとイングランドは、ある程度の友好関係を保つことになる。ナヴァールはフランスにも、スペインにも飲み込まれないために、第三の友好国を必要としていたし、イングランドにとっては、永きに渡る不和の相手であるフランス(イングランドの主張では『領地』でもある。が、ヘンリー四世統治の現時点では、あまり堂々と主張できたものではない)の南方に友好国があるのは、事に挑んで有利な状況となる。双方にとって良い関係であった。
 さて、最近ナヴァール側から、この友好関係をより強固なものにしようという申し入れがあった。すなわち、カルロスの一人娘ブランカと皇太子ハルの結婚の提案である。そもそもナヴァールは、フランス・カペー王家との縁組を盛んに行ってきた。しかし前世紀の初頭に、フランスが女系への王位継承を排しヴァロア王朝が始まってから、やや距離を置くようになった。さらに現在フランスの国情も安定しているとは言えない。そこでカルロスは妹が嫁いだイングランドの王子との縁組という、冒険に出たらしい。
 イングランド国王ヘンリー四世はこの件について、今のところ明確な意見を出していないが、宮内庁は乗り気である。彼らは何かというと、宮殿を抜け出してロンドンの街もしくはもっと遠くへ飛んで行ってしまう皇太子に、早く嫁をあてがって宮廷に固定したいのである。しかし当のハルや、ウィンチェスター司教、その他多くの有力貴族たちは、この結婚に消極的だった。ナヴァールは基本的に女王を認めており、その婿は共同統治者という名前を与えられるのみである。第一、ブランカに弟が生まれれば(現にその可能性は大きい)、政略的にイングランドが得るものは少なく、ナヴァールにのみ多くなる。しかも表立っては言わないが、ハルはもっと大きなものを得られる結婚をするべきだという、共通認識が存在する。とはいえナヴァールはイングランド王妃の実家である。無下に断るわけにも行かず、この件に関しては保留しているのが現状である。

 こういった状況下で、ウィンチェスター司教が切り出したのが「ナヴァールの件」である。目を覚ましている司教とデイヴィッドは椅子を取り寄せ、めいめい腰掛けて改めて会談を再開した。ハルは相変わらず床にうつ伏せになったまま、いびきをかき始めている。
 「先月の上旬、パンプロナをある使節団が出発した。」
司教のこの話し始めは、別の事実を内包していた。パンプロナはナヴァールの首都である。その町を「ある使節が出発した」と言うことは、その使節は今のところ公式のものではなく、しかも司教が遠いナヴァールに密偵を潜ませてその動きを感知したことを表していた。もっとも、この手の情報収集は司教にとっては日常茶飯事であり、特に驚くに値しない。デイヴィッドは黙ってうなずくと、司教は続けた。
 「貴族が二名、従者は四名という小規模なその旅団は、ベアルンからラ・ロシェルに出て、そこから船に乗っている。サンネザール、ブレスト、シェルブールを経由して、先週ポーツマスに上陸したはずだ。」
「はず?」
デイヴィッドが眉を上げて聞き返した。
「そうだ。船が港に入ったのは確認できている。しかし税関での入国審査にこの六名が通らなかった。」
「密入国ですか。」
「よくは分からん。しかしナヴァールの貴族一行が、密入国しなければならない理由が思い当たらない。とにかく、それから一行は行方不明なのだ。」
「巻かれましたね?」
デイヴィッドが少し笑いを含めて言うと、司教は不機嫌そうにそうだと認めた。
「八方尽くして探させているが、まだ居所がつかめない。ナヴァールの使節がこちらの政府に会見を求めるとしたら、ポーツマスでそれを表明すれば良い訳で、居なくなるのは何か事情があるらしい。」
「事情ねえ。」
ハルがのそのそと起き上がった。この男は半分寝ながら話はちゃんと聴いているのである。
 「それで、叔父上はナヴァール貴族の失踪をどうお考えなのです?」
「普通に考えれば、今回の縁組の下準備だろう。」
「結婚の申し出は誰でも知っていますよ。それがどうしてポーツマスで姿を消さねばなりません?」
「お前に直接交渉するためではないのか?ハリー。」
司教は、皇太子が子供の頃から呼んでいる愛称で言った。
「つまり叔父上は、ナヴァールの密使が私に直接、結婚の交渉をするために、姿を消したと仰るのですか?」
「ありえる。」
「どこで?」
「ウェストミンスターではないだろうな。どうせお前はシティだのイーストチープだのにフラフラ出かけるのだから、そこを狙ってくるのだろう。」
「カンタベリーを狙っているのかもしれませんよ。」
ハルは笑いながら言ったが、司教はわずかに苦い顔をした。ウィンチェスター司教とカンタベリー大司教の不和は、イングランドで知らぬものがない。
「だとしたら、お前に釘を刺しておく必要性が更に増すと言うわけだ。」
やや調子が厳しくなった叔父に、ハルがまた何か言おうとしたが、デイヴィッドが手でハルの顔を押しのけた。
「それで、陛下にはご報告したのですか?」
「いや、これからだ。とにかくあちらに先手を打たれないよう、気をつけろ。」
 今のところ、ナヴァールの失踪貴族一行の探索は司教の密偵の報告待ちで、司教も皇太子も具体的な行動は起こさないという打ち合わせになった。相手は王妃の実家からの「客人」である。何か事が起こるとしたら、やや繊細な問題が持ちあがるだろうというのが、叔父と甥、その親友の共通認識であった。
 ウィンチェスター司教は席を立ち、まだウェストミンスター・アベイでの朝の典礼に間に合う時刻だというので、そちらに向かった。ハルは眠気を払おうと、伸びをしながら深呼吸をすると、デイヴィッドに向き直った。
「どう思う?デイヴィッド。叔父上は少し大げさに考えていやしないだろうか。ナヴァール王がカンタベリー大司教と通じるなんて、あまり現実味がないだろう。」
「司教もそこまでは考えていないさ。ただ…」
デイヴィッドは窓を開けながら、少し黙った。雲の間から朝日が差し始めている。
「ただ?」
「司教は重大事とそうでない事を嗅ぎ分ける鼻を持っている。」
「なるほど。」
ハルも窓のそばにやってくると、大きく朝の空気を吸い込んだ。

 ハルとデイヴィッドも、宮殿内のチャペルでの朝の礼拝に参加しようということになり、会見の間から廊下に出た。するとジョン王子が、さっき一緒にホワイト・ウィージルに来たウィンチェスター司教の従者と話しこんでいるところで、兄とその親友を認めると、目を丸くしながら言った。
「兄上、追い剥ぎが出たそうですよ。」
「どこに?」
「オールド・ゲイトのすぐ外の街道沿いですって。」
「遭ったのか?」
ハルが従者に尋ねると、彼は真面目な表情でうなずいた。
「そうなんです、殿下。夕べ、日が暮れてから司教様と私たちは街道をロンドンへ向かっていたのですが、もうすぐオールド・ゲイトだという所で、わらわらと…そう、五,六人いや、十人ばかり居ましたかね。手に手に剣を持って、『命が惜しければ、財布を置いてゆけ!』と脅すんです。私たちは縮み上がってしまいましたが、まず司教様が落ち着いて『くれてやるものは無い』と言いますと、追い剥ぎどもが襲い掛かってきました。でも司教様は騒がずに剣を抜き去ると・・・旅の時はいつも帯びていらっしゃいます…あっという間に一人を倒してしまわれて。私たちも応戦したので、奴らはすぐに逃げてしまいました。」
「相手が悪かったな。」
 ハルも、デイヴィッドも苦笑を禁じ得なかった。いつもは二人きりで従者も連れずに夜歩きをするなど、危険だからやめろと口うるさく言う司教だが、当の本人がすることもかなり豪胆である。

 ウェストミンスター宮殿内のチャペルでの礼拝が終われば、すぐにでもレッド・ホロウに戻るつもりのハルだったが、どだいそれは無理な話だった。皇太子が宮殿に戻っていることを察知した行政官だの法官だの議会代表だのが、てぐすね引いてハルを待っていたのである。かれらは紙だの羊皮紙だの、人によっては蝋やリボンまで持って皇太子を追い回し、署名とシール(印璽)を求めてくる。ハルにしてみれば暫く体調不良の国王に代わって公務を行ってはいたが、国王が復帰した以上はゆっくり朝食を食べたい。しかし、彼らにしてみれば草案に目を通し、改善を命じたのが皇太子である以上、その承認も皇太子であるほうが余程仕事が速いし、第一国王は朝のお勤めが長い。そういう訳で、ハルは朝の食卓から公務に就かされるはめとなった。もっとも、彼は大法官であるウィンチェスター司教がロンドンに到着していることを、知らしめるにおいては抜かりがなかった。ウェストミンスター・アベイから出てきた司教が、これまた手に手に紙を持った男達に拉致されたのは言うまでもない。お陰でハルは昼までには宮殿を再度抜け出す算段をつけられた。
 一方デイヴィッド・ギブスンはと言えば、どういう訳か彼も宮殿に居ると様々な人に引き止められ、無位無官ながら多忙であった。この日の場合、ハルと一緒に朝食にとり掛かろうとした矢先に、近衛師団隊長に引っ張られていってしまったのである。彼は爵位も領地も持たない、かなり自由な身分の騎士でありながら、宮廷の中枢という複雑な社会を直接的,時として間接的に観察する環境に身を置いている。それゆえに宮廷内外の様々な方面から客観的かつ、効果的な「若い相談役」と認識をされていた。近衛師団の場合、四人の王子が成長するに伴って徐々に公務に携わるようになったため、それに合った仕事の見直しが必要となり、意見を聞くためにデイヴィッドを引っ張って行ったというわけである。
 デイヴィッドは、王の体調不良時に次男トマス王子の公務が多くなる点を強調し、彼専属の近衛師団設立を提言した。三男ジョンと四男ハンフリーはまだ公務と言うほどのものには就いていないので、従来どおりの方針を採るべきであり、一方で皇太子ハルに関しては常駐人員は変更せず、交代要員の増強を提言した。もっとも、皇太子の場合宮殿を抜け出してしまう事が、近衛師団の悩みの種である。この点に関しては、デイヴィッドは自分が責任を負う事を何度も言った。自分はその為に存在している騎士であり、ハルはもちろん、国王も、ウィンチェスター司教も、宮廷内の貴族達も、デイヴィッドの父・セグゼスター伯爵も保障している。当初デイヴィッドは近衛師団にアドバイスのために引っ張られたのだが、結局はハルがう受けるべき説教を食らうことになってしまった。しかも、その説教から逃がれるや、またも皇太子と一緒に宮殿から抜け出してしまったのだから、近衛師団長の怒りといったらかなりのものだった。


→ 4. レッド・ホロウのささやかな宮廷と、
   そこに集まる人々および、喧嘩騒ぎと最後に大将がお出ましの事

3.安眠を破る王子と王弟の登場、および西ヨーロッパ数ヶ国における婚姻関係などくさぐさ

Origina; Novel,  Hal & David  オリジナル小説  ハル&デイヴィッド


  甲冑職人の失踪
  
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